第2話
そうして、亡者の気配の正体が掴めぬまま、数日。
その日もヨサリは、ざらついたコンクリートの上に胡座をかいて、一番高いところから大学の敷地を一望していた。
ヒュ、と小さな音を立てて風が吹く。視界の端に、黒く長い毛束がサラリと落ちてくる。はだけた着物の隙間を通り抜けていった冷たさに、少し肌寒くなってきたか、と足を組み直した時。
キーン、コーン、カーン……。
無機質な鐘の音が響いた。途端、辺りが騒がしくなり、耳元で鳴っていた風の音がかき消される。ざわめきは徐々に大きくなり、やがて、立ち並ぶ建物の玄関から学生たちが続々と出てきた。どこか晴れやかな顔をした彼らは、口々に何かを言いながら、思い思いに散っていく。今日の講義も無事に終わったようだ。
その中に、見慣れた姿を見つけた。
大きな瞳のせいで幼く見える顔。ふわふわと風に揺れる白茶色の髪。他の学生たちより頭半分は大きい体格と、それよりもさらに大きな苔色のジャケット。
友人たちと楽しげに言葉を交わしていたハルは、彼らに手を振ると、一人別方向へと歩き出した。いつも向かうバス停とは、反対へ。花壇と街灯が並んだ、綺麗に舗装されたブロックの道を進んでいく背中を、視線だけで追いかける。
その肩に、色とりどりの汚れが目立つくすんだトートバッグが掛かっているのを見つけて、はたと思い至る。
そういえば、今日は火曜日だったな。
あの中身は、水彩絵の具。
であれば、行く先にあるのは、「クラブハウス」と呼ばれる美術部の活動場所がある建物だ。
クラブハウスは、二つのトンガリ屋根が特徴的な、西洋風の建物である。暗くすすけた色の木材がふんだんに使われていて、一見すると別荘地に建つ広いお屋敷のような外観をしている。
コの字になった二階建ての建物の中にはあるのは、広い談話室と舞台、それからいくつかの個室。各部屋は、「クラブルーム」としてそれぞれ文化系の部活動や同好会にあてがわれていて、彼らの活動拠点になっている。
中央にはタイル張りの中庭があって、一本だけ植えられた
そんなクラブハウスの、中庭から二階へ上がる階段を登って、すぐ目の前の一室。そこが、ハルの所属する美術部のクラブルームだった。
ハルは毎週二度、決まってこの部屋に訪れる。
なんでも、毎週火曜日と金曜日が美術部の活動日なのだそうだ。そう教えてくれたハルは、ここぞとばかりに「ヨサリも一緒に何か描くか?」と誘ってきたが、にべもなく断ってやった。獄卒に絵心を求めてくれるな。
立ち並ぶ角張った建物の間を抜け、どこか弾むような足取りで歩いていくハル。その足が、クラブハウスへと上がっていく広い階段へさしかかる。
それを見て、ヨサリは立ち上がった。
クラブハウスは、講義が行われている建物の向こう、敷地の一段高いところに位置している。ここからでも十分気配を探ることは出来るが、様子を
さて、移動するか。
腰に下げた刀の位置をしっかりと直して、それから着物の裾もおざなりに直して。そうして身なりを整えてから、屋上を真っ直ぐに進み、建物の間は街灯を足場にしながら飛び越え、連なる建物の上を走り抜ける。
また一つ屋上の縁を蹴った、その直後。
「――きゃぁぁぁあ!!」
遠くから、甲高い悲鳴が聞こえた。
反射的に声がした方へ向ける。そこには、二つのトンガリ屋根。クラブハウスからか。
当然、ハルの耳にも届いたのだろう。階段を登っていた足が一瞬ピタッと止まったかと思えば、一目散に一段飛ばしで駆け上がっていく。
後に続くように、ヨサリも駆け出した。地上に降り、
「ヨサリ! 聞こえたか? 今の」
「あぁ」
こちらを振り返った大きな瞳に、うなずきだけを返す。早く行くぞ、と階段の先に向かって
その肩越しに、不安げに揺れた声が聞こえてきた。
「多分、柚木先輩だ」
クラブハウスの前までやってくると、中庭に面した二階の回廊に、数人の学生が集まっているのが見えてくる。
丁度、中庭から二階へ上がる階段を上って、すぐ目の前の部屋のあたり。……美術部のクラブルームじゃないか。
ハルは脇目も振らず中庭を抜け、その人だかりへ近付いていく。
ヨサリはそれに着いていくことはせず、回廊の屋根の軒先に腰かけて、駆け寄っていくハルを見守ることにした。
集まっている学生は、五人。部屋の前にうずくまるものが一人。その背中を撫でさする、青ざめた顔のものが一人。どちらも見覚えがある。確か、美術部の部員だったはずだ。
それから、不思議そうに、あるいは戸惑ったように部屋のガラス窓を覗き込むものが三人。一体何を見ているのか。そう思って気配を探ってみるが、どうやら部屋は無人らしく、人の気配はまるで無かった。……人の気配は。
そこへ、駆けつけたハルが顔を出す。
「
「あっ! 相楽くん!」
途端、背を撫でていた学生が振り返る。長谷川と呼ばれたジーパン姿の学生は、下がった眼鏡を戻すことも、乱れた長髪を直すこともせず、うずくまって丸くなった背中を撫で続けていた。
その足元へと視線を下ろして、ハルはギョッとして大きな声を出す。
「ど、どうしたんスか、柚木先輩」
それに答えるかのように、柚木と呼ばれた学生が顔を上げた。が、その顔は蒼白で、ギュッと閉じられた目からは絶えず涙があふれ、白いロングスカートの膝元を色が変わるまでびっしょり濡らしている。震える唇から出るのは「あ」や「うぅ」といった吐息ばかりで、何一つ言葉にならない。
見かねたのか、長谷川が代わりに口を開いた。
「それが……出たらしくて」
「! ま、まさか?! ゴ――ウ゛ッ」
言い終えることなく、ハルが
「あ~っ、言わないで言わないで! そいつも出たら最悪だけど! 幽霊よ、幽霊!」
「……えっ、幽霊?」
話はこうだ。
その時、美術部のクラブルームには、柚木と長谷川がいた。一足先に講義を終えてやってきた二人は、互いに製作に没頭し、言葉を交わすこともなく。部屋には、外から聞こえてくる喧噪――演劇部のよく通る声や、軽音楽部の賑やかな楽器の音だけがしていたという。
すると、唐突に柚木が顔を上げた。しばし辺りを見渡して、たずねる。
「ねぇ、今何か言った?」
「……いや?」
長谷川は先に口だけで答え、一拍遅れてから、手を止めて顔を上げる。
柚木は首を傾げ、なおも視線を彷徨わせていた。その様子に、長谷川も辺りに視線を向ける。
そうして、何の気なしに窓の向こうを見た時だった。
何かが揺れている。
下から伸びる、黒い影のような棒状の何か。
真っ先に思い浮かんだのは、人間の腕だった。
その先端にあるもの――手のひらが、ゆらり、ゆらりと揺れている。
気付いた瞬間、長谷川の耳にもかすかな声が聞こえてきた。
――……きぃぇ。
――き、きぃ……。
力なく呼びかけてくる、
先に悲鳴を上げたのは、柚木だった。柚木は倒れそうになりながら部屋から転がり出て、長谷川も何が何だか分からぬままそれを追いかけ、近くの部屋にいた学生たちも何事かと様子を見にやってきて……というのが事の
「相楽くんは四月に入ってきたばっかだから、知らなくて当然なんだけど……。実は、春休みぐらいから出るって噂になってるのよ、ここ」
長谷川の言葉に、部屋の中を眺めていた学生が振り返って、思い出したかのように言う。
「あー、ね。『誰もいないクラブルームに人影が見えた』とか、『夕方になると誰かを呼ぶ女の子の声が聞こえる』とか」
「『演劇部のリハーサル中、いつの間にか白い服の女の子が現れるけど、終わる頃には消えている』とかね……」
噂こそ耳にしていたが、実際に遭遇した現場を目にした初めてだ、と。
そんな、いかにも怪談のような声を潜めた会話に、ハルが「へぇ」と世間話でもしているかのような相づちを打つ。
が、知らなかったのは、ハルだけではなかったらしい。
「そうなのぉ?! 言ってよぉ?!」
「ご、ごめん、柚木。怖がるかと思って……」
「えぇん、優しさ~! でも裏目ぇ~!」
長谷川のシャツをひしと掴んで、また泣きじゃくる柚木。今度はその頭が、優しく撫でられる。
そうして柚木をなだめながら、長谷川は眉を下げて首を小さく傾けた。
「しっかしなぁ、これからどうしよっか。……これじゃあ、部活どころじゃないよね」
「んー……あ。じゃあ、確かめてみましょうか? 本当に幽霊だったのかどうか」
「えっ?」
名案だ、と言わんばかりにハルが手を叩く。
思いがけない提案だったのだろう。長谷川は目をパチクリとさせると、一呼吸置いてから「もしかして」と前置きしてたずねる。
「相楽くん、幽霊平気な人?」
「ッスね。全っ然信じてないんで」
……何だって?
「さっきの噂だって、全然。教えてくださっても良かったのに、って思いましたよ」
「良い訳ないでしょ……柚木、ホンットにこういうの苦手なんだから。それに、ただでさえ貴重な新入部員が、幽霊のせいで辞めちゃったらどうするのよ。……まぁ、そっちは無駄な心配だったみたいだけど」
「へへ~」
「褒めてない褒めてない」
自慢げに人差し指と中指を立てるハルに、長谷川は苦笑いを浮かべる。
いや、ちょっと待て。信じていない、だって?
……お前、見えているんじゃないのか?
そんなヨサリの内心など
「俺、この後クラブルームに残って、普段通り絵描いていきますよ。まぁ、元からその予定でしたし。……それでもし、先輩たちが見た幽霊が現われたら、何だったのか正体を確かめる。それで、幽霊じゃないって分かれば安心ッスよね?」
「そ、そうだけどぉ……でも、ほ、本当に幽霊だったら……?」
「まっかせてくださいよ、柚木先輩! その時は、全力で逃げますんで! 今なら用心棒もついてるんで!」
あぁ、くそ、本当に待ってくれ。頼むから。口を滑らせるな。こっちを見るな。あてにするんじゃない。
嫌な汗が背中を流れた。二人から目が離せないまま、ゴクリと唾を飲み込む。
柚木と長谷川は、どちらともなく顔を見合わせると。
「じゃあ、お願いしようかな」
「あ゛りがとぉ相楽ぐん゛~!」
それを見て、ヨサリは詰めていた息を思いきり吐き出した。
全くこいつは。「用心棒って?」などと追及されたらどうするつもりだったんだ。
……それにしても、柚木の顔は、涙やら何やらでもう滅茶苦茶である。一度鼻をかんだらどうだ。
そう思ったのは長谷川も同じだったらしい。ポケットから取り出したティッシュが差し出されると、受け取った柚木は勢い良く鼻をかんだ。
幾分か綺麗になった顔に、控えめな笑窪が出来る。
「今度売店のパンおごったげるからねぇ! おすすめのやつ!」
「よっしゃ! あざーっす!」
心底嬉しそうにフニャリと微笑んだハルは、両の拳をぐっと握り、天へと掲げてみせた。
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