diorama complex
クロマグロ
第1話
#
ビチャ、と。生暖かさが顔に飛び散った。
手の甲で頬を拭うとべったりと黒い汚れが付着した。一瞬の逡巡の後にそれを自身のパーカーにごしごしと押し付けた。
「黒崎さん、終わりましたよ」
廃ビルの
約五秒間。静寂が確かにそこに在る。しかし、その中から拾い上げた嫌な予感が
直後、鈍い轟音と共に天井が瓦礫と化して落下してきた。
瓦礫は丁度、先程まで紫久丸が立っていた場所を占拠し、その周りを砂埃がぶわりと覆った。
「はぁ……洒落になんない悪戯は止めろって言いましたよね、黒崎さん」
砂埃が舞う中、瓦礫の上に人影が立っていた。
「あぁそういえば言ってた気がしますね。でもまあ、紫久丸さんなら避けられるでしょう?」
故意を隠しもしない図太さ、いっそ清々しくすらある。そもそも悪戯なぞ無いに越した事はないものを注意で妥協してやってこれなので、最早何も言うまい。
徐に煙が晴れ、その姿が
柄の一つもない真っ黒なトレンチコートや柔らかで真っ白なマフラーには塵の一つも付いていない。
結ばれた黒髪とインナーの白がひらひらと揺れる。そこから覗く表情はいつもと変わらない喰えない笑み。
紫久丸のブロンドの髪やお気に入りの紫色のパーカーに埃を被せるだけ被せておきながら、当の本人は涼しい顔をしているのが癪に障った。
「避けられますけど、嫌だって言ってんです。分かりますか?」
「分かってますよ」
笑みを深めるその表情が紫久丸には、「だから止めないんですよ?」という意味に見えた。
「はー、嫌いです」
長居する理由もないので早いところ帰ろうと出口に続く階段へと踵を返す。
「それは恐縮です。わたし、この後に用事があるので此処で失礼します、紫久丸さん」
黒崎が口元で小さく何かを呟くと、彼の姿が瞬く間に消える——と同時に紫久丸の左耳の真横を鋭い風がヒュ、と通過し、前方の混凝土の壁を砕いて穴を開けた。
遅れて左耳がキーンと耳鳴りを起こし、少し聞こえにくくなった。天井といい、壁といい、あの男は階段を知らないのだろうか。
人一人分程の丸い穴が空けられた壁から青い空をぼんやりと眺めた。しっとりと目を閉じて溜息を吐いた。
「……嫌いです」
ぶち開けられた天井と壁を風が吹き抜けていった。
#
最寄りの駅より二つも前の駅で下車し、向かったのは駅から徒歩六分のスーパー。最寄り駅周辺よりも物価が安めなので、多少遠い寄り道をしてでも買いに行く価値があった。
下校するジャージ姿の学生や、母親に手を引かれながら縁石に乗る子供など、夕方の営みとすれ違う。
日が西に傾き、電熱線のような色の空を
ふと、ヘルツの高く、小さな雑音が耳に入る。
「『——♪……良い子の皆さん、車等に気を付けて——……』」
児童に帰宅を促す防災無線が辺りに響く。
穏やかなメロディがどことなく懐かしく安心するようで、物悲しいような気分にさせた。
自宅までの道は街灯が数十
今日はあのにこにこオセロ野郎——もとい黒崎が居ないので気が楽だ。
あの男は姑よろしく、「醤油入れ過ぎですね」だの「それだと煮崩れしますよ」だのと口を挟んで気を散らさせる。文句があるなら自分で作れというものだ。
レジ袋の振り子が大きくなったことに気づいて、少し歩く速度を落とす。
——と、考えていると、ゴト、と下の方で音が鳴る。
何かにぶつかったらしい、と下を向くと段ボール箱に膨らんだ毛布が詰まっているのが見えた。思わず顔を顰めた。
「うわ……」
街灯に照らされてこれ見よがしに何か面倒事が布に包まれて転がっている。
もし捨て犬だったとしても保健所に連絡くらいはすれど、情で連れて帰るほどの無責任な優しさと心の余裕は持ち合わせていない。
——だが、何か騒つく。緊張のような、心臓が締め付けられる感覚。
このまま無視を決め込むことも出来るが、紫久丸の勘がそれを許さなかった。
意を決してレジ袋を肩に掛け直し、指先で摘むようにして布をぺろんと捲る。
「……っ!?」
犬ではない。しかしイヌ科の生き物だ。
柔らかそうな毛並みに立派な尻尾、三角の耳に細めのマズル。動物知識に明るくなくとも判る程度にメジャーな生き物、狐だ。ただし、
「青い……!」
毛が青い。揚げ物がこんな狐色で出てきたら目をひん剥くだろう。幾ら田舎とはいえ、山から離れた住宅街の一角で青い狐を見つけた衝撃は並大抵ではない。しかし、それを塗りつぶすかのように、焦燥感に駆られる。
その青色を汚す暗い
呼吸が浅く、息を吐く度に唸るような声が聞こえる。
狐がどの程度の怪我で死ぬのかは知らないが、このまま放っておけば傷が膿んで具合が悪化することには間違いなかった。
逡巡して立ち止まっていると、紫久丸の右耳の端がぴくりと反応する。
「そ、ォれッ」
がらがらとして聞き取りにくい発声。その発声源である
——
「ほしっ、しいィイ」
「……」
蝦蟇の横に大きく裂けた口から溢れた唾液がするすると岩肌のような皮膚を伝っていく。
非日常的な光景、被食の予感。
その何方も紫久丸には特異なことではなかった。
帽子の鍔を摘んで、少し目線を空ける。
「悪いが、コイツを渡すのは無理だ。おれも用があってな……腹減ってんなら北東の方に良い溜まり場があるから、そっち行ってくれないか」
「ヤあぁァッ、これッ!レ、ほシィイぃぃい」
脚の筋肉に力が入っているのを見て、瞬時に狐を抱えて右へ跳んで回避する。ほぼ同時、だすん、と音が鳴った。地面が震動する程の重量の蛙が先程紫久丸が居た所に飛び掛かっていた。
「潰す気かよ、中身飛び散ったら喰い
何故蝦蟇がこの狐を狙うのかは不明だ。単に腹が減っているだけなのか、紫久丸のように用があるのか。
しかし一つ確かなのはこの蝦蟇がおれを攻撃してきたということだ。
「譲歩は無理か……已むを得ない、
右腕の中で狐が身じろぎ、低く唸った。険しい表情から青い双眸が覗いていた。生きているらしいが、弱っている所為か、紫久丸の腕から逃げる様子は見せない。
そのまま大人しくしていてくれ、と背中をそっと撫でた。
反対の手で袖の内側に仕込んである紙を取り出し、指の間にそれを挟む。
「『折神・
蛇の形を模して折られた紙から白い液状のものが湧き
形が完全に蛇に成ったそれ——巳は鮮やかな若草色に染まると蝦蟇に対してシーッと威嚇した。
数秒の間。蝦蟇が口を開いた瞬間、飛び掛かる。同時に舌をびゅるんと伸ばした蝦蟇は舌先を鋭い歯に咬みつかれ苦悶の声をあげる。
必死の抵抗で巳を振り落とし、紫久丸目掛けて突進してきた。紫久丸はその場からは動かず、顔だけ残して身体を横に向ける。
そして大きく振りかぶり、手に持っていた鶏卵を蝦蟇の眼球に投げ付けた。命中した鶏卵は中身や殻が顔に広く飛び散る。
「ごぉおおおっ」
「あ、結構効いてる。流石に鶏卵に呪力込めたのは初めてだけど」
蝦蟇は突進しきれずに
「お前が先に攻撃してきたんだ。悪く思うな」
強くなる締め付けに身体の形を保てなくなり、蛙の潰れる声と内臓が破裂し肉と混ぜこぜになる音が辺りに響き、遂に巳は蝦蟇の身体を爆ぜ砕いた。
再生する余地なく身体を砕かれた蝦蟇の肉片は黒く液化し、揮発するように消えていく。
庇った右半身についた汚れを乱暴に服で拭ってから、そういえば昼間にもこんなことをしたなと肩を落とす。いくら揮発するとはいえ、元が潰れた蛙の体液だと思うとナーバスにもなる。
腕の中で、もぞり、と動いた。狐は唸りながらも腕から脱出しようと試みているらしかった。
「怪我してるんだから、大人しくしとけって」
少々強引に身体を押さえつけると、狐はくうと鳴いて痛がる素振りを見せた。
慌てて腕の力を緩める。途端、狐は牙を剥いて腕に噛み付いた。
「
思わず腕を
ほんの数秒の出来事に、たっぷり十秒間を空けてから、溜息を吐いた。
蝦蟇も青い狐もいない。戦いの跡も消え去った。指先に付いた狐の血液と青い毛だけが此処であった出来事の残滓。
「でも
漸く始まる。今まで費やしてきた
三月の夜風が紫久丸の頬を冷やすように撫ぜていく。だが逸る心臓の熱はいつまでも冷めなかった。
#
塗装が所々剥がれており、雨に依る雨筋の黒ずんだ跡が時間の経過を感じさせる
建物の隣に造られた広場や別棟から一定間隔で鳴らされるホイッスル、金管楽器のチューニング、若人の掛け声等が聞こえる。
敷地をぐるりと囲んだ
建物の端、部屋の一角が少し迫り出した事務所。部外者である
「はい」
「おはようございます。六角先生に用がありまして、入校許可頂いてもいいですか」
「はいはい。これ書いて下さいね」
来校者名簿のバインダーと許可証のついたストラップが一つ用意され、記入した名簿を手渡してしまえば、あっさりと校内での自由を手にした。
私立
髪がブロンドで、仕事で日中不在になることも少なくない紫久丸にとって、これらに寛容な胡桃高校は魅力的だった。
易しくない試験を通過し、通うことが叶ったのは来月、四月からの話である。
だが、今日此処に居るのはその下見や準備等のためではない。
「青い狐のところに案内してくれ」
腕を伝って服の袖から降りた“
砂利道を通り、草木の茂った第二体育館の裏近くまでやってきた所で子が止まった。
「此処か」
通行証を持っていようが、覗きをするような真似がバレればただの不審者だ。細心の注意を払って辺りに
中からは乾いた打撃音と気勢の入った声、床と空気を震わせる衝撃が響いてくる。どうやら剣道部がいるらしい。
中から見えないように慎重に覗く。中には五人おり、二人二組ずつ向かい合って打ち合っている。一人は
全員面を着けているので顔は判らない上、どこに潜んでいるかも判らない。
子が指し示してくれやしないか、と足元の子を探したが、見当たらない。
「探してるのはコレ?」
冷たい女の声がして、反射的に振り返る。
白。
脳が処理した最初の情報はそれだった。
振り返った先に居たのはさらりと髪の長く、キリッとした目で、制服をきっちりと着た、有り体に言えば美人な女子生徒。
ただし、髪も肌も異様な程に白かった。唯一赤い虹彩が鋭く紫久丸を見据えており、その手は子の尻尾を握って吊るし上げていた。
「漸く尻尾を出したか。……お前があの子を尾けているの?」
彼女は尾を握る手に力を込めた。身体を握り潰された訳ではないのにも関わらず、子の身体は筋力を失ったかのように弛緩して生気を失った。
「あなたは誰です?」
彼女は子を捨て、手を拭うように払った。
「シラを切る気?立場を弁えなさい」
彼女は足を前後に軽く開き、拳を構えた。
それに思わず頬の筋肉が引き攣った。
「ちょ、ちょっと、先ず対話しましょう。おれには争う理由がない」
「ふん、随分と面の皮が厚いことで!」
砂利が跳ねた。迫った彼女は紫久丸の顔を目掛けて拳を振り抜く。
それを軽く避けて距離を空ける。攻撃された以上、相対しない訳にはいかないので、袖の中にある折神に触れた。
矢継ぎ早に迫る殴撃と蹴撃を全てを避けるのは厳しく、数発は防御しながら受けた。
「ぐっ……」
受けた打撃は重さは
一方的にやられたままでは事態は好転しようがない。手の中にある猫の形の折られた折り紙に呪力を込めた。
「『折神・猫』」
顕現した式神の黒猫はシャァと威嚇し、彼女の手に鋭い爪を滑らせた。
彼女は舌打ちをして後退する。
「
目を見開き、
当たってはいけない、と紫久丸の経験値が回避に神経を集中させた。
真っ直ぐに振り抜かれた拳を半身で避け、横に薙ぐ腕に身を屈める。掠るだけでも放電の痛みが肌を走った。
低い体勢のまま脚を回して彼女の膝裏に一撃を喰らわせる。
膝を着き、右手を着いた。鬼気迫る表情が崩れた。瞬間、猫が姿を変えて符と成りその右腕に巻き付く。
帯電していた腕は静電気程へと抑えられ、彼女は力が上手く練れないことに苛立ってか符を剥がそうと乱暴に引っ掻いた。
彼女の気が逸れ、僅かに出来た隙に紫久丸は袖から本物の符を取り出し、彼女の背中に貼り付けた。印を結んだ。
「『縫うは陰を、留めるは影に』」
一瞬の緊張。それから錆び付いた機械が軋むかのように白髪の彼女の身体は動けなくなる。
「……、クソっ」
身動きが取れなくなったことに観念したのか、彼女は恨めしそうに紫久丸を睨んだ。
大きく一息吐いて、頭を掻いた。
「争いたくないのでこのまま話を聞かせてもらいますよ……」
びり。
肌の表面を頭から足まで駆け抜ける刹那の緊張。
目の前の彼女からではない。
直感のままに振り向く。
「あれ、アカバ?」
通りの良い声と体育館の角から覗く一人の影。
紺色の道着と袴。そしてその髪と虹彩——。
直ぐにその人物の正体を悟る。
「青い狐……」
青い双眸が静かに紫久丸を見ていた。
#
剣道着を纏った青い髪に青い虹彩のその人。
青い双眸には覚えがあった。昨夜見たあの青い狐のその色。
「青い狐……」
心臓が逸る。全身に緊張が纏わり付く。
物言えずに黙り込んでいると、その人は紫久丸の姿を見留めて顎に手を当てた。
「君、
見定めるような眼差しのままゆっくりと歩み寄り、近づいてくる。
「ねえ君、今日此処に来たのは俺に『ご用』があるから?」
好意的でもなければ敵意もない。そう思わせるような表情が却って不気味に感じられて、息を呑む。こくりと首を縦に振ったのは肯定と頷いたからか、固唾を飲んだからか。
「そこの子……
「……攻撃されたので、動きを止める為に」
「あーそれはなんかゴメン……。君のご用のお話は聞こう。けど、その前に紅葉の動きを開放してくれ。攻撃はしない、ね?」
紫久丸の前でぴたりと立ち止まり、言い聞かせるように紅葉に目配せをした。紅葉は訝しげに紫久丸を見上げたが、渋々といった様子で頷いた。
紫久丸は呪文を唱えながら符を剥がす。よもや飛びかかってこないだろうなと一抹の不安を抱いたが、立ち上がった紅葉は仏頂面で腕を組むだけだった。
「先ずは自己紹介でも……俺は水瀬湊。君が思うように、青い狐ってのは俺のことだ、と思うよ」
水瀬はニコリと柔らかい笑みを浮かべる。
「……紅葉。まだお前のことは信用してない。妙な気は起こすなよ」
一方で紅葉は依然、一貫として紫久丸を疑い警戒する表情を崩さない。
「おれは杉野紫久丸です。訳あって青い狐を探していまして、つい昨夜、偶然見かけたものですから追ってきたんです」
「湊下がって。やっぱり話を聞くまでもなく危険人物だと思うわ」
紅葉が再び手を帯電させる構えをとった。対抗しようかと袖の中の折神を意識したが、下手な行動をすると本当に戦いの火蓋を切ることになるのでぐっと堪えた。
「落ち着けって。話を聞こうと判断したのにはちゃんと理由がある」
水瀬が制したのを受けて紅葉は纏う妖気を少し抑えた。
「まず、君は昨夜、俺を庇ってまでして守ってくれた。ありがとうね。で、暴れる俺を怪我をしているから大人しくしろと諌めた。少なくとも君は俺を直接傷付ける事が目的ではないだろうと推測。そして紅葉のことも動きを抑えるだけで傷付けて消耗させるようなことはしなかったんじゃない?杉野君が穏便に事を運びたいってのは予想がついた。だから話を聞く気になった」
「まあ……確かにコイツは話し合いを望んではいたけど……」
紅葉は少し居心地が悪そうに目を逸らしながら申告した。すると水瀬がやはり、というような呆れたように笑った。
「紅葉の警戒心が強いのは俺が昨夜みたいなヤツにちょいちょい追われやすいからなんだ、ごめんね。さて、君が相手の懐に入ってから騙す詐欺師じゃないと信じて、ご用件を聞こうか?」
さあ来いといった様子で腕を組んで仁王立ちをした。咄嗟に動ける構えではないので、少なくとも水瀬は話を聞く気があるらしかった。
ふぅ、と息を吐いてから意を決して答えた。
「結論を言えば、おれは青い狐を守るために来ました」
「はあ……?」
「……へえ?なんだか結論までが長そうな話を聞く必要がありそうだね」
水瀬が冗長的に肩を竦めて見せた。
diorama complex クロマグロ @kuro_maguro
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