外典 1-4 睦み合ってなんか居ない

「先生も実は独り身でね。相性の問題というか何と云うか。だがきみには他の女性とは異なる某かを感じる。正直に言えば惹かれて興味を持った」


 待て、何の話だ。


「しかし教師と生徒という間柄でそのような関係は望ましくない。故に卒業後、改めてと考えて居る。どうだろうか」


「どうだろうもこうだろうも在りません。そのような申し出、お断りいたします」


 冗談じゃ無い、ふざけるな。わざわざ廊下で呼び止めて切り出す話がソレか。


 考えたくもない状況が脳裏に浮かんで、手足や首筋が泡立った。


「今すぐという話ではない。時間はタップリある。即断せずともいま少し考えてからでも」


 イヤだ、やめろ、そんな台詞を口にするんじゃない。


「考える必要なんて微塵もありません」


 拒絶の言葉を口にしたが、ずいと一歩踏み出されてあたしは後退った。でも直ぐに背中に壁が突き当たってそれ以上下がれなかった。


「うわべだけでは人の相性は計れないぞ。付き合ってこそ見えてくるのが人の嗜好と感情の機微だ。考えてみたまえ、卒業後の光景だ。きみとわたしが其処に居る」


 間違ってもそんなコト、在り得ないし考えたくもなかった。


 あたしは追い詰められたまま、限界まで頭と背中を壁に押し付けた。数学教師は更ににじり寄ってくる。来るな、それ以上コッチに来るんじゃない。


「ざけんじゃねぇよぉ」


 怖気が走るなんてもんじゃなかった。


 こんなシチュエーション、あたしには初めてだ。頭の中がひっくり返っていた。力尽くの相手なら蹴倒せば済む。だが手も触れず、言葉だけで迫る相手に何をどうすれば良い?


「大きな声を出すな。お互い衆目は集めたくなかろう。それに」


 それにって何だ、もう辛抱たまらん。咄嗟とっさにぶん殴って逃げだそうとした次の瞬間である。


「廊下の真ん中で何のお話をしているのです、三宅先生」


 いつの間に現われたのだろう。ジャージ姿の女教師が数学教師の後ろに立っていた。


「何やら不埒な台詞が聞こえたような気がしたのですけれど」


「き、気のせいでしょう。授業中にうろうろしていた生徒が居たので注意していただけです」


「そうですか。その女生徒を少しお借りして宜しいですか」


 数学教師は一瞬口籠もった後に「どうぞ」と言い、あたしはジャージ教師に連れ添われ何とかその場を脱出するコトが出来たのである。


「助かりました」とジャージ教師に礼を言い「どういたしまして」と彼女は笑んだ。


 助かったという単語がこれ程相応しい瞬間も在るまいと思った。今まで体験した事も無い危機だった。肉体的にどうこうされる訳ではない。だが精神的な追い詰められ感があった。


 そして少し落ち着いて考えれば、些か取り乱しすぎだったのではなかろうかとも思うのだ。


「あの先生も悪い人じゃないけれど、視野が狭いというか何と云うか。目標物が在るとそれ以外が見えないタイプよね」


「惹かれるだの意中の人は居るか居ないかと尋ねられました。教師が生徒にしてよい話じゃないですよね」


「あら、そうかしら」


「え」


「惹かれるという部分においては同意するわ。年齢や性別は関係無いと思うの」


「あの、先生?」


 数瞬前とは何だか雰囲気が違う。それに距離が異様に近い。階段の踊り場でおもむろに身体をすり寄せて、うなじの近くにまで顔を持ってくるのである。


 吐息が首筋にかかった。随分と熱い。


「少し前に五〇メートル走をやったわよね。あのタイム、本当に驚いたわ。素晴らしいバネをしている。切れの良い足運びにあの腕の振り、ブレない体幹、座りの良い首筋、天性のスプリンターだわ」


 少し距離を離そうと身を逸らすのだが、そのぶん身を詰められた。


「その件はキッパリとお断りした筈ですが」


「諦めきれないのよ。あなた程の逸材、そうそう居ないわ」


 そう言ってジャージ教師はピタリとあたしの身体に貼り付くと、滑らかな指先でスカートの上から腰を撫で、そのまま太股へと掌を滑らせてゆくのである。


 首筋の産毛が逆立った。先程とは全く別種の危機感だ。得体の知れない焦燥感と言い換えてもいい。


「ちょ、ちょっと待って下さい」


「ああ、このバランス良く発達した大腿四頭筋、膝へと続く内側広筋。縫工筋から内側を経て大臀筋へと繋がる部分もまるで鍛え残しがない。ステキ」


「止めて下さいよ。足の付け根からお尻までまで回さないで下さい」


「あら、臀部位は走る上でとても重要な筋肉なのよ」


「そう言う意味じゃ無くて」


 女性をぶん殴ったり蹴飛ばしたりするのは気が引ける。振り払おうとする度に耳朶や首筋に吐息がかかって怖気が走り力も抜けた。躊躇を見透かしているのかそれとも何も考えていないのか、指先は傍若無人に下半身のあらゆる所を撫で回し始めるのである。


「あなたはステキよ、邑﨑さん」


「あ、ブラウスのボタン、いつの間に外して」


「上半身も引き締まって居るのね。形の良い胸も程よい感じで」


「や、やめろぉ」


「四谷先生、邑﨑さん嫌がっているじゃないですか」


「あら五条くん、無粋よ。わたし達は睦み合っている最中なのだもの」


「睦み合ってなんか居ません」


 反論するあたしの目の前には何故か男子生徒が居た。銀縁眼鏡の大人しそうな子だ。

 いやそれよりもどうしてだ、何故此処に居る。今は授業中じゃなかったのか。

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