第6話

 離れがたいあたたかな大公子邸を去る。

 記憶の混乱を抱えたまま、フランシアは木立ちをあてもなくさまよう。

 どうすればよいのかわからなかった。

 もうここにはいられない、この人たちを苦しめたくないという気持ちをただ抑えきれずに、飛びだしてきたのだ。


 世界とか時代とか運命とか、そういうものの前で、彼女はいつもただただ無力だった。

 そんなものに抗う気力は、自分にないと思っていた。

 あきらめること。

 つまるところ、彼女が人生から学べるのはそれだけだ。

 

 だから愛おしいブーツの足音が背後から追い迫ってくると、彼女は泣いた。

 涙を隠さず振り返って、その人の美しい顔を見上げた。


「なぜ……、なぜいらしたのです、大公子殿下? どうぞお見逃しください。私は……、私はもう、聖女ではないのですから」


 フランシアはおそらく、生まれて初めて腹を立てていた。

 あるいは、恋に落ちていた。

 その相手がいま、目の前にいる。

 傷つけたくない、傷つきたくない。

 幻滅させたくも、したくもない。

 嘘だ、本当は全部、あなたとしたい。


「それに、私は閉じた体です。だから殿下、どうぞお諦めください。――お詫びいたします、あなたに私は愛せません」


 なんと不躾で、滑稽で、かつ恥辱に満ちた言葉だろう。


 しかし大公子ギノ・オリセーは、浴びたその台詞にゆっくり首を横に振ると、土に膝を汚してフランシアの眼前に跪いた。

 

「……どうだっていい……」


 端正な顔立ちが、すでに決意した強さと優しさでこちらを見上げる。

 そして告げる。


「どうだっていいよ、フランシア。君が聖女だろうとなかろうと、子をなすことがあろうとなかろうと、そんなのはどっちだっていい」 


 世界とか時代とか運命とか、そういうものの前で――。


「ただ変わらないのは、僕が君を愛しているということだけだ」


 いつもただただ無力だった――。


「結婚しよう、フランシア」


 どうしてだろう。

 どうして思い出せないのに、こんなにもあなたが好きなんだろう。


 フランシアはとうとう、そのくちびるを落とす。


 愛する者の差しのべる手に。


 失われ続けるままの、彼女の記憶に。


 そして愛を、探しあてるように。

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