第5話

「――……それではやはり、フランシアの記憶は戻らない?」

「ええ、ギノ様。無理もないことでしょう。あれほどの経験をなさったのです、ショックでお嬢様が記憶を失われたとしても、なんら不思議はない。あのとき、私にもっと力があれば……」

「そう自分を責めるな、リネット。あの場所に駆けつけるのが遅すぎた僕のせいでもある。悔やんでも悔やみきれない」

「……はい、あれは本当に、辛い出来事でした――」


 密やかな声音で、室内の侍女リネットと大公子ギノは語らう。

 それは執務室の外から扉をへだてて聞いているフランシアの、失われた過去の記憶だ。


 フランシア・マリエス。

 大公子ギノ・オリセーの許婚にして、あの当時は軍功名高かったマリエス辺境伯の幼き一人娘。

 差し迫る戦火から娘を守ろうと、マリエス辺境伯はフランシアを数人の従者と乳母リネットとともに懇意のオリセー大公直轄領へ避難させることにした。

 しかし道中に滞在した地で、一行はクーデターを目論む暗殺者集団に襲われてしまう。話としては陳腐だが、なればこその残虐極まる裏切り。

 まだ少年の面影も色濃い大公子ギノが虫の知らせで馳せ参じ輩を一掃したが、時すでに遅く、従者たちの血の海のほとりでは若き日の乳母リネットが身を震わせているきりだった。

 そしてリネットはすでに、惨事の血飛沫を浴びて泣きじゃくる幼きフランシアのみを、どうにか夜闇へと逃がした後だった。


 おそらくそれから迷いついたモペック子爵領の外れの、戦禍に荒れ果てた見知らぬ小村で途方に暮れているところを、フランシアは修道院に保護されたのだろう。

 逃亡直前に見た凄惨な光景と、ひとりはぐれた絶望と、暴力に蹂躙された土地の荒廃ぶりと。

 いくつものショックが重なって、その記憶は永遠に失われてしまった。


 彼女がおぼえているのは自分の名フランシアだけだったが、一帯ではありふれた名であったし、血に染まる身なりは明らかに粗末なもの。もちろんそれは本来、辺境伯領から大公直轄領までの安全な避難のために身分を隠す仮の装いに過ぎなかったが。とまれ、社交デビューもまだの年頃ではフランシアの素性に気付ける市井の者など皆無。フランシア・マリエスの存在は、その頃まだマリエス辺境伯家・オリセー大公家内にのみ明かされているばかりだったのだ。

 まもなく魔物たちと結託した一派のクーデターによってマリエス家が滅ぼされてしまったことなど、フランシア自身、まわりの誰から知るよしもなかったに違いない。


「――それだけではありません。幼くして修女の洗礼を受けることで、フランシア様の天賦の才は歪められてしまった。数百年に一度の、聖女となられるはずだったのに」


 嗚咽で途切れかかる声を、リネットが一呼吸おいて再開する。


「ギノ様もご存じの通り、フランシア様には生まれつき聖女としての才能がおありでした。杓子定規な修女の洗礼など、閉じた体となるのと引きかえに幾ばくかの治癒魔法を使えるようになる安易な施術など、お嬢様には必要なかった。むしろせっかくの才をねじ曲げてしまう」

「ゆえに」


 憤るリネットを助けるように、大公子ギノ・オリセーが冷静な声色でその続きを引きとる。


「それゆえに、いまのフランシアは聖女じゃない。修女の洗礼という間違った施術によって、その天賦の才は歪め封じられてしまった。もとより人知を超えた力だ、はたして彼女が封印から覚醒し、真の聖女となれる日が来るものかどうかは誰にもわからない。もっとも基礎系の治癒魔法や育成魔法程度なら、いまだってどんな魔法師より巧みにこなすだろうが、いずれにせよ」


 修道院に保護され修女となって後、フランシアはモペック子爵家次男に嫁いだが、そこでも不幸は重なる。


 地方政教の独断癒着を遠方の中央君主に勘繰られることを警戒してか、教会勢力・子爵家双方とも父大公への上申書には新婦フランシアが戦災孤児であることも修女であることも明記せず、その名前すら別名にすげ替えていた。

 挙式は来賓を地元の利害関係者に絞って対外的には内容を秘匿。

 一方では戦災孤児にして修女フランシアの子爵家入りという美談をネタに、地元住民の支持を未来永劫に渡り踏み固めておく。あわせて十分に沸き立たせた領民へは宗教上の理由を盾に他領地への口外を重い罰則付きで禁じ、上と下への舌策を巧妙に使い分けていたのである。

 

 むろん、そのつまらぬ奸計を見抜けなかった大公家にも多大な落ち度がある。間抜けもいいところだ。

 フランシア・マリエスの捜索は秘密裏に継続されていたが、万が一にも聖女の力が略奪誤用されることを案じ、公に大々的捜査網を敷かなかったことも、さて、いまとなっては正しかったものかどうか。


 いずれにせよ――。

 

 扉とは反対側の、窓辺へゆっくり数歩を刻むようなブーツの足音。

 軽いため息に続いて、大公子が言う。


「ただ変わらないのは、僕が彼女を愛しているということだけだ」


 だがその言葉がつぶやかれる寸前、フランシアは扉の前から去ってしまう。

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