第4話
フランシアの生活は一変した。
修道院でのハグの後、大公子ギノ・オリセーはフランシアが記憶を失っていることをすぐに悟ったようだったが、それに怯まず彼女を説き伏せて馬車に乗せ、遠方の大公子邸へと伴った。
突然のことにとまどいを感じるフランシアではあったが、どのみち彼女には大公子の命に背くことなどできなかった。
半ば隠れ家のように、その邸は大公直轄領の山の中腹にあった。
ひっそりと、草木に護られるように。
大公子たっての希望で、フランシアはそこで暮らすことになった。
邸は広かったが、住人はギノとフランシア、それにリネットという妙齢の侍女の三人きり。
邸に到着した初日、リネットはフランシアを見るなりその温和そうな顔をくしゃくしゃにして、ややふくよかな腕を優しくまわしてきた。そしてさめざめと泣いた。
「……お嬢様……、本当に、よくぞご無事で……」
リネットの泣き声はそれ以上、とても言葉にはならないようだった。
翌日からはじまった大公子邸での暮らしは、穏やかそのものだった。
山林の静寂。
身に染みついた癖でフランシアは早起きし、柔らかな寝台を抜けるとすぐに荷物から修道服を引っぱり出し、使用人としてたち働こうとする。そうしないことには落ち着かないのだ。
邸の主要な箇所を清掃し、昨日たしかめておいた炊事場で朝食の支度にとりかかる。庭敷地の草木にはすでに水を撒いておいた。まだ花はつぼみだったが、美しい生け垣があった。
鍋を火にくべてスープの味を調えているところに、リネットが慌ててやって来た。
「お嬢様、そのようなこと、私がいたしますのに。長旅で御疲れでしょう、どうかご無理なさらず」
「おはようございます、リネット。お気遣いありがとう。あの……、良ければ味をみてくださらない? あなたや殿下のお口に合いますかどうか……」
リネットは一瞬いじらしさに感極まったような表情でフランシアを見たが、「ええ、そうね。そういたしましょう」と相好を崩した。
作った朝食をフランシアがリネットと協力してダイニングルームの卓上に並べていると、今度は寝衣のままあくびを嚙み殺して大公子殿下が姿を見せた。
「ふあ……、おはよう。良い匂いだな」
「まあギノ様、なんですか大公子殿下がはしたない。ちゃんと身支度を整えてからいらっしゃいまし。今日のモーニングは特別なんですからね」
「そうこだわるなよ、リネット。どうせ僕と君しかいない……」
そう言いかけてフランシアと目が合い、大公子殿下の端正な顔がサッと赤らむ。
「……着替えてくる」
「はい、殿下」
「そうなさいまし。まったく、朝から襟をはだけて戦場の傷をレディーに垣間見せるなんて、隙だらけにもほどというものがあります。それで異例の武勲を立てつづけている特竜級名誉聖騎士長だというのだから、驚くやらあきれるやら」
わかったよ、悪かったってとボヤきながら消えていく肩幅の広い後ろ姿を見送ると、リネットはいたずらっぽく舌を出し、それからフランシアにこう言った。
「照れていらっしゃるのよ、あの人ったら。フランシア様がとっても素敵だから」
「……私が……素敵?」
「ええ、でもその修道服はいただけないわ。さあお嬢様、あなたもお着替えを。このリネットが、ドレス選びも御髪の手入れも、腕によりをかけて差しあげますわ」
それは、夢のような日々。
幸せな時間。
頼もしいギノと優しいリネットにあたたかく迎え入れられて、フランシアは心の傷をいやしていく。
公務に追われ自ら戦地へ赴くことも少なくないギノに比べ、フランシアにできることはかぎられていた。
彼女になせることと言えば、庭の生け垣に美しい花を咲かせ、邸を清潔に保ち、心を込めて食事を作ることだけだ。その都度ギノとリネットが告げてくれる感謝の言葉を、フランシアは宝物にした。
こんな日々がいつまでも続いてくれたなら。
しかしあるとき、フランシアは思いがけず聞いてしまったのだ。
閉じた扉の向こうの執務室で、ギノとリネットがこう話し合うのを――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます