第4話: プレッシャーの影と過去の傷跡
田中誠司は、応援勤務から解放されて、物流センターの朝はいつも通りに始まったが、心は重たかった。
朝の冷たい空気を吸い込みながら、彼の胸には漠然とした不安と疲労感が渦巻いていた。
仕事に対する責任感と、終わりの見えない厳しい現場の現実が彼の思考を支配していた。
「再び、このままでいいのか…?」
田中の心には、ふとそんな疑問がよぎった。
家族との時間を犠牲にし、疲れ果てて帰宅する毎日に、自分自身の人生が薄れていくような感覚を覚えていた。
だが、その一方で、現場を支えなければならないという使命感も彼を突き動かしていた。
彼の頭には、上司から繰り返し求められる厳しい生産性のノルマと、現場での限界を超えた作業量が頭から離れない。
責任者である課長の声が耳に残る。
「もっと作業を効率化しろ。無駄をなくせ。」
課長の要求は現場の現実とかけ離れていることが多かった。
例えば、既に限界まで詰め込まれた作業量に対し、「あと30分短縮しろ」と求められることがあった。
現場では人手が足りない中での無理な仕分け作業が続いており、設備も老朽化して頻繁にトラブルを起こしていた。
それでも課長は「新しい設備を導入する余裕はない」と導入を後回しにし、現場の負担をさらに増やしていた。
田中を含めた作業員たちはその板挟みに苦しみ、苛立ちや疲労が募るばかりだった。
だが、田中は現場のベテランとして、常にそのプレッシャーを黙って受け入れてきた。
現場に広がる不安
フォークリフトの音が鳴り響く中、田中は新人の指導をしながらも、自分が抱える責任の重さに押しつぶされそうだった。
新人の一人が手元を誤り、商品の入った段ボールケースを落としてしまった。
「す、すみません!」
新人は慌ててしゃがみ込み、落とした段ボールケースを拾い上げようとしたが、手が震えて上手く持ち上げられない。
顔には明らかに焦りと緊張の色が浮かび、田中を見上げるその目には不安が滲んでいた。
「大丈夫か?」
田中が声をかけると、新人は申し訳なさそうに頷き、手を震わせながら段ボールケースを持ち上げた。
田中はそれ以上叱ることはせず、一緒に作業を手伝った。
しかし、新人の焦りや不安は明らかで、それを感じ取った田中は胸が重くなるのを抑えられなかった。
作業を再開しながら、田中は新人たちの動きを見守り続けた。
ふと、一人の若手が疲れ切った表情で手を止めているのに気づく。田中はそっと近づき、軽く肩を叩いて励ました。
「無理するな。休憩を取ってもいいから。」
その言葉に若手は一瞬戸惑ったが、小さく頷いて作業を続けた。
田中の優しい声掛けは、現場の緊張を少しだけ和らげることができた。
鬱病で辞めた先輩
作業を続ける田中の脳裏に、数年前に辞めていった先輩の姿が浮かんだ。
その先輩は、田中がこの業界に入ったばかりの頃に多くのことを教えてくれた人だった。
厳しいけれど面倒見の良い先輩で、現場の柱のような存在だった。
その先輩は、毎日長時間の労働をこなしながらも、現場のトラブルに対処し、後輩たちに的確な指導をしていた。
特に、田中が失敗したときには優しくフォローしながらも、「次はこうした方がいい」と具体的なアドバイスをくれる人だった。
しかし、上司からの過剰な指示と無理難題が続き、次第にその表情には疲労の色が濃くなっていった。
無理なスケジュールや、不効率なな設備を改善するよう掛け合ったものの、その声は経営陣には届かず、むしろ叱責されることもあったという。
例えば、設備の不具合で作業効率が下がった際、先輩が改善案を提出したにもかかわらず、「そんなことは、現場でどうにか対応をすれば済むことだろう。」と一蹴された。
その後も何度か改善を求めたが、経営陣はコスト削減を優先し、対応は後回しにされた。
その結果、現場の作業員たちは疲弊し、先輩自身も無理を重ねる日々が続いた。
次第に体調を崩し、ついには笑顔を見せることもなくなった先輩の姿を、田中は今でも忘れることができない。
最後に田中が先輩と話をした日のことが、今でも鮮明に思い出される。
「田中くん、お前も無理するなよ。体を壊したら意味がないからな。」
その時の先輩の疲れ切った表情と力を失った声が、田中の心に深く刻み込まれていた。
ほどなくして先輩は鬱病と診断され、退職を余儀なくされた。その後の消息は聞いていない。
辞める直前に先輩がかけたその言葉は、今でも田中の心に残っている。
「あの時、もっと何かできたのではないか」と思うたびに、今の自分も同じ道を辿っているのではないかという不安が胸を締め付けるのだった。
課長との対話
昼休み、田中は課長に呼び止められた。
「田中、お前はもう少し若手を上手く指導できないのか?あの程度の作業量で、今の作業時間では話にならないぞ。」
課長の言葉は、現場の現実を理解していない者の典型的な意見だった。
課長の目には苛立ちと、どこか無関心な光が宿り、田中に一方的な非難を浴びせるその口調は、田中の中にじわじわと怒りを燃え上がらせた。
「分かりました。」
田中は短く答えただけで、その言葉を心の奥に押し込んだ。
だが、その場を離れた瞬間、肩の力が抜け、深い息を吐かざるを得なかった。
課長の要求は机上の空論で、現場の実態からかけ離れていることを誰よりも知っている。
田中の頭には、次々と現場の厳しい現実が浮かんだ。
疲弊した若手作業員の姿、限界まで酷使される古びた設備やフォークリフト、作業効率を削ぐ効率な動線。
「この状況で、さらに効率を求めろって?」
田中の拳は無意識に固く握り締められていた。
どうにかして現場の現実を改善できないかと頭を巡らせたが、同時に課長や経営陣の理解を得られる可能性の低さに絶望感も湧き上がる。
ふと、廊下を横切る若手作業員たちの姿が目に入った。
彼らの疲れ切った表情が胸に刺さる。
休憩室での独り言
休憩室に入った田中は、缶コーヒーを開けて一口飲み、椅子に深く腰を下ろした。
古びた机の上には他の作業員たちが置いていった空の弁当箱が並び、疲れた空気が漂っていた。
部屋の片隅に置かれたテレビからは天気予報が流れているが、誰も見ていない。
壁に貼られた業務連絡の紙には、達成困難なノルマが赤字で書かれている。
周囲では数人の作業員が談笑している。彼らの会話が耳に入る。
「この間のフォークリフト、また調子悪くなったらしいよ。もう限界だな。」
「そうだよな。修理依頼出しても、『しばらく使い続けてください』って返事ばっかりだし。」
「まったくさ、現場のことなんか全然考えてないんだから。」
田中はその声を聞きながら、疲れ切った表情を浮かべ、誰にともなく独り言を呟いた。
「これがずっと続くのか…。俺もいつか、あの先輩みたいになるのかもしれない。」
田中は缶コーヒーを握りしめ、目を閉じた。
頭の中には、力なくうな垂れた先輩の背中を見送った日の光景が浮かぶ。
無理を重ね、疲労に押しつぶされた表情の先輩が「もう限界だ」と呟いた瞬間。
その姿が、今の自分と重なる気がして仕方なかった。
「俺も、こんなふうに壊れていくのか…。」
思い詰める田中の心には、現場を離れるという選択肢が一瞬よぎった。
しかし、それと同時に、仲間たちや家族の顔が浮かび、さらに深い葛藤に陥るのだった。
その時、休憩室に入ってきた佐藤智美が声をかけた。
「田中さん、大丈夫ですか?最近お疲れのようですけど…。」
田中は一瞬驚いたが、すぐにいつものように微笑んで答えた。
「大丈夫ですよ。佐藤さんこそ、足の具合はどうですか?」
佐藤は「だいぶ良くなりました」と答えたが、その目には田中を心配する色が浮かんでいた。
彼女の真剣な視線に、田中は少しだけ救われた気がした。
「無理しないでくださいね。田中さんが倒れたら、現場はもっと大変になりますから。」
その言葉に田中は一瞬言葉を失ったが、優しい笑顔で「ありがとう」と答えた。
小さな願い
その日の帰り道、田中はふと空を見上げた。
淡い夕焼けが広がる空を見ながら、心の中で問いかけた。
「俺は何のために働いているんだろう…?」
胸の奥には二つの思いが交錯していた。
ひとつは、このまま疲弊し続けていては家族にも仲間にも迷惑をかけてしまうという強い不安。
もうひとつは、少しずつでも状況を良くし、安心して働ける現場を作りたいという願望だった。
その葛藤に揺れながら、田中の目は徐々に鋭さを取り戻していった。
家に帰ると、玄関で娘が笑顔で出迎えてくれた。
「お父さん、おかえり!今日は少し顔色いいみたいだね。」
その一言に田中は驚きながらも、思わず微笑み返した。
「そうか?少しだけ気持ちが軽くなったのかもな。」
「無理しないでね。お父さんが元気じゃないと困るから。」
娘の言葉には、純粋な心配と深い愛情が込められていた。
田中は一瞬胸が詰まり、目を伏せながら「ありがとう」と答えた。
その目には、父親としての責任感と、彼女のためにもう一度立ち上がろうという決意が浮かんでいた。
「家族のために、少しでも安定した生活を取り戻したい。」
田中の中で、具体的な目標が浮かび上がってきた。
娘ともっと夕食の時間を楽しみたい。久しぶりに妻と休日に散歩へ出かけ、ゆっくりとした時間を過ごしたいという意欲が芽生えていた。
暗くなり始めた空に一筋の星が輝いていた。
それを見て、「もう少しだけ、頑張ってみよう」と静かに呟いた。
その時、彼の目には確かな光が宿っていた。
その光は、田中が新たな一歩を踏み出す力となる予感を彼自身に与えていた。
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