第3話:応援勤務の過酷な現実
物流センター内での作業が忙しい日々の中、田中誠司はある日、課長から呼び出された。
「田中さん、頼みがあります。他の営業所で人手が足りなくてな、来週からそっちに応援に行ってもらいたい。」
課長の言葉に、田中は戸惑いを隠せなかった。
「応援ですか?どのくらいの期間でしょうか?」
「とりあえず1週間のうち3日間だ。ただ、向こうが落ち着くまで続けるかもしれない。」
田中は無言で頷いたものの、心の中では大きな不安が渦巻いていた。
数年前、似たような状況で応援勤務を任された同僚がいた。
その同僚は責任感から無理を重ね、結果的に体調を崩して休職を余儀なくされた。その後、彼が現場に戻ることはなかった。
"自分もあの時のように体を壊すのではないか?" という思いが頭をよぎり、心が重くなった。
加えて、慣れない環境での仕事や長時間の通勤が、どれだけ自分の体力と精神に負担をかけるのか考えるだけで息苦しさを覚えた。
聞けばその営業所までは片道1時間以上の通勤が必要で、朝の出勤時間も通常より1時間早く、残業も2時間はあるとのこと。
その現実に、田中の気持ちはさらに重くなった。
長時間の通勤に加え、慣れない環境での業務が待っている。
"今の自分に、そ耐える事ができるか…?"という疑問とプレッシャーが、彼の肩にのしかかっていた。
始まった応援勤務
応援勤務の初日、田中は朝5時に起床した。
まだ真っ暗な中、眠い目をこすりながら身支度を整え、家を出た。
営業所に到着するまでの1時間半、電車とバスを乗り継ぎ、ようやく現場にたどり着いた。
現地の物流センターは田中の職場とはまるで雰囲気が違っていた。
棚の通路は狭く複雑で、一度通路に入ると袋小路になることもしばしばで、田中は何度も作業を中断せざるを得なかった。
さらに、通路が狭いため、他の作業員と肩をぶつけそうになることもあり、常に注意を払いながら動く必要があった。
さらに倉庫内は薄暗く、照明が十分ではない上に湿気がこもり、独特のカビ臭さが漂っていた。
エアコンも効きが悪く、夏場のような蒸し暑さに田中は額に汗を浮かべながら作業を続けた。
また、フォークリフトのバック音が絶え間なく響き、田中はそのたびに身を縮めて道を譲るなど、緊張を強いられる場面が多かった。
明確なルールや手順が徹底されておらず、作業員たちがそれぞれのやり方で動いているため混乱が目立った。
例えば、荷物の送り状の貼り方が統一されていないため、田中はたびに先輩作業員に確認しなければならなかった。
作業員の中には、田中に冷たい視線を向ける者もおり、「応援が来ても、作業が早くなるわけでもなく、猫の手程度だな。」と小声で呟く者もいた。
その一言が田中に重くのしかかり、彼は心の中で必死に耐え続けた。
現場リーダーが次々と指示を飛ばし、田中は慣れないレイアウトの中で荷物の仕分けやピッキング作業を行った。
指示が曖昧なことも多く、田中はその都度周囲に確認を取りながら作業を進めたが、効率の悪さに苛立ちを覚える瞬間も多かった。
いつもの現場と違い、効率化が進んでおらず、田中は終始気を張り詰めた状態だった。
「これが3日間も続くのか…。しかも、また来週もかもしれない。」
田中は作業中にそう呟き、重い気持ちで手を動かし続けた。
作業中、田中は現地スタッフの様子を観察した。
ある者は疲れた顔で無言で作業をこなす一方、他の者は雑談を交えながら仕事をしている。
応援の立場である田中は、どのように溶け込むべきか悩みつつも、黙々と指示に従うしかなかった。
応援勤務中の人間関係もまた、田中の負担を増幅させた。
営業所の作業員は田中を快く迎え入れたものの、彼らの仕事の進め方や暗黙のルールに慣れるのは容易ではなかった。
例えば、ある日作業中に段ボールの仕分けを間違えた田中が謝罪すると、現場リーダーから冷たい視線を向けられた。
「まあ、応援だから仕方ないけど、早く覚えてくれよな」と皮肉交じりに言われたその一言が、田中の胸に刺さった。
その日の昼休憩中、田中は弁当を広げるも、周囲の雑談に加わる勇気が出なかった。
すると、一人の若い作業員が近づいてきた。
彼は20代半ばくらいで、背が高く、動きが俊敏な印象を与える青年だった。
「初めての現場だと大変ですよね」
と声をかけてくれた。
彼の口調は明るく、どこか気遣いが感じられた。
田中は少し驚きながらも、
「そうだな、慣れるまでが一番きついよ」
と答えた。
その若い作業員は自身も数年前に別の現場から応援に来た経験があると語り、
「最初は同じように戸惑いました。でも、慣れればなんとかなりますよ」
と励ましてくれた。
その一言に田中は少し救われた気がしたが、同時にその後すぐに作業に戻る若手の姿を見て、彼の自信や余裕と自分の境遇を比べてしまい、孤独感を改めて感じた。
その後も、昼休憩中には輪に入ることができず、一人で弁当を広げることが多かった。
作業員たちは雑談をしながら笑い合っていたが、田中には声をかける余裕も勇気もなかった。
「自分はここではよそ者なんだ」という孤独感が胸を締め付け、黙々と作業を続けるしかなかった。
生活リズムの崩壊
通勤時間と早朝勤務の影響は、田中の生活に大きな負担をもたらした。
帰宅すると夜10時を過ぎていることも多く、夕食を急いで済ませるとそのままベッドに倒れ込む日々が続いた。
休日も体を休めるだけで終わり、趣味や家族との時間はほとんど取れなくなっていった。
朝の早い出勤と長時間の通勤による睡眠不足が原因で、田中の体調にも異変が現れ始めた。
頭痛や倦怠感が常に付きまとい、作業中にふと立ち眩みを覚えることもあった。
田中は自分の体が限界に近づいているのを感じながらも、会社の命令に逆らうことはできなかった。
応援勤務中、家族との会話も減少していった。
ある日、夕食の席で娘が
「最近お父さん、元気ないね」
と心配そうに声をかけてきた。
その言葉に田中は一瞬箸を止め、思わず視線を伏せた。
「そうかな?仕事がちょっと忙しいだけだよ。」
無理に笑顔を作った田中だったが、その声には力がなかった。
妻はじっと田中を見つめ、「体には気をつけてね」と静かに言った。
その言葉には、田中への深い心配と、何もできないことへの無力感が込められていた。
娘はさらに、「お父さん、たまには休んだほうがいいよ。無理しすぎないでね」と真剣な表情で続けた。
その目を見て、田中は胸が締め付けられる思いだった。
「家族にこれ以上心配をかけられない」という思いが一層彼を追い詰めたが、同時に「頑張らなければ」という気持ちを奮い立たせた。
「大丈夫だよ。ただちょっと忙しいだけだから。」
そう言いながら田中は無理に笑顔を作ったが、その声には明らかに力がなかった。
妻も横で黙ったまま心配そうに見つめていた。
「でもね、お父さん。無理しないでね。お父さんが倒れたら、私たち困っちゃうよ。」
娘の言葉に田中の胸は締め付けられるような思いがした。
彼は箸を置き、娘の頭を軽く撫でながらこう言った。
「心配かけてごめんな。でも、お父さんは大丈夫だから。」
その笑顔の裏には、「家族に心配をかけたくない」という必死の思いと、なんとか現状を乗り越えなければという葛藤が隠れていた。
夜、田中はベッドの中で思い悩んでいた。
「このままじゃいけない…。でも、どうしたらいいんだ?」
生活リズムが崩れる中で、田中の心には疲労と共に自分の存在意義への疑問が膨らんでいった。
3ヶ月後の変化
応援勤務が始まってから3ヶ月が経過した頃、田中の限界は明らかだった。
ある日、体調不良でやむを得ず欠勤を申し出た田中に対し、課長が電話越しにこう言った。
「そろそろ応援勤務は終わりにする方向で調整している。今週で元の勤務に戻れるようにするから、もう少しだけ頼む。」
田中はその言葉を聞き、ようやく胸の中の重しが少しだけ取れた気がした。
応援勤務が終了した週末、田中は久しぶりに家族とゆっくりと食卓を囲んだ。
娘が嬉しそうに「お父さん、最近ちょっと元気になったみたいだね」と微笑みながら話しかけてくる。
その言葉に田中はほっとした表情を浮かべ、
「やっと、少しは自分らしい生活に戻れそうだな」
と心の中で呟いた。
翌週から通常勤務に戻った田中は、改めて自分の生活リズムを立て直すことに集中した。
朝の時間に余裕ができ、家族と朝食をとることができるようになり、少しずつ元気を取り戻していった。
体調も改善し、休日には家族と散歩に出かける余裕が生まれた。
応援勤務の経験を振り返りながら、田中は自身の体調管理の大切さを痛感していた。
仕事に追われる日々の中でも、自分の健康を守ることが最優先であると気づいたのだ。
まず、田中は毎晩の就寝時間を固定することを心がけた。
夜更かしを避け、最低6時間の睡眠を確保するよう努めた。
また、スマートフォンを寝室に持ち込まないことで、寝る前の余計な刺激を減らすことも実践した。
朝は早めに起きて、軽いストレッチを取り入れるようになった。
これによって体がほぐれ、通勤中の緊張感が緩和された。
通勤電車の中では、スマートフォンを見る代わりに呼吸を整え、心を落ち着ける時間を意識的に作った。
さらに、田中は食生活の見直しにも力を入れた。
妻に頼んで栄養バランスの良い弁当を用意してもらい、コンビニ食に頼る頻度を減らした。
特に野菜やタンパク質を意識して摂取することで、午後の倦怠感が和らぐのを実感した。
「小さなことの積み重ねが、自分の体を守るんだな。」
田中はそう実感しながら、少しずつ心身のバランスを取り戻していった。
田中はまず、毎日の睡眠時間を確保することを意識し始めた。
早寝を心がけ、睡眠不足にならないようにスケジュールを見直した。
また、通勤時間を有効活用し、電車内でのストレッチや深呼吸を取り入れることで、リラックスする時間を作るようにした。
「小さなことの積み重ねが、結局は自分を守るんだな。」
田中はそう実感しながら、少しずつ自分のペースを取り戻していった。
「将来のことを考えて、自分の体と向き合っていかないとな。」
その翌日、田中は朝の通勤中、車窓から見える景色を眺めながらふと思った。
「自分が健康でいれば、家族も安心するし、職場でももっと貢献できるはずだ。でも、それ以上に、自分の人生をもっと大切にしなければならない。仕事に追われるだけの日々では、きっと後悔する日が来る。」
田中は深呼吸をしながら、自分の時間をどう充実させるかを考えた。
家族との時間をもっと増やしたい。
趣味も再開したい。そんな思いが湧き上がり、彼の表情にはわずかながら希望が宿った。
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