第12話【第三章】

【第三章】


 僕とジュリは、誰かの目に触れないように急いで階段を駆け上がり、自室に引っ込んだ。

 僕は血飛沫を浴びたせいか、それとも興奮で目が血走っているからなのか、とにかく視界が真っ赤に染まっている。少なくとも、平常心でいられたわけではないだろう。


 僕はぐいぐいとジュリの背中を押して、ひたすらに急がせた。ジュリも徐々に事態の重要さを理解し始めた様子で、二段飛ばしで階段を駆け上がり、僕の部屋の前でぴょこぴょこと跳ね始める。


「ジュリ、鍵を開けてくれ」


 部屋の鍵を放り投げると、ジュリはぱっと受け取ってすぐさま開錠した。

 もうなんでも知ってるんだな。教えた覚えはないけれど。

 ジュリはどんどんと部屋に踏み入り、中央で立ち止まる。僕が入室した時には既にエアコンが稼働していた。これもジュリが気を遣ってくれたためか。


「よく聞いてくれ、ジュリ。僕たちは一旦、ここを離れることになった」

「えーーーっ? せっかく慣れてきたのに……」


 うむ、ジュリの言うことはもっともだ。しかし、僕たちの状況が切羽詰まっていることも動かしようのない事実。

 慌てていたためか、その場で地団太を踏んでいた僕は、ようやく扉を閉じて施錠、フローリングの部屋に上がり込んだ。


「ねえ凪人、どうするの? やっぱり私が、外で悪い人を三人も傷つけたから……」

「傷つけたんじゃない、殺したんだ!」


 僕はぴしゃりと言い切った。

 今更になって、だんだんとさっきの情景が浮かんでくる。鮮烈な色の血飛沫とその鉄臭さ、加えてその生暖かさは、僕の五感を否応なしに刺激し続けている。


「ぐぶっ! がはっ!」

「どうしたの、凪人!」


 急激に湧き上がってきた吐き気に耐えきれず、僕は急いで脱衣所わきのトイレに駆け込んだ。昨日から食欲がなく、吐くものがなかったのは不幸中の幸いだ。


「あれが……、人が死ぬ、ってことか……」


 ぽたぽたと洗面台に液体が滴っている。それが自分の汗とよだれなのだと気づくのに、これまたしばしの時間がかかった。

 僕は顔を拭いたかった。しかし、手が洗面台にくっついて離れない。いや、離せない。

 今自分の手中にあるもの以外は、全てが砂山のように吹き飛んでしまうように思われてならないのだ。


 このタイミングで正気に戻れたのは、まさしくジュリのお陰だった。


「どうするの? 凪人、ここから逃げようか? それともじっとしていようか?」

「……そうだな。僕もそのどちらにしようか、考えていたんだ」


 ジュリの糸でうなじを刺されたような感覚はない。きっと彼女も、状況を読む技術を高めてきたのだろう。直接相手の脳から情報を抜き取る技能がなくとも。


 僕が顔を上げてすっと目を上げると、ジュリが僕の肩に手を載せていた。

 僕は心強くは思えたものの、かといって安心材料の枯渇に喘ぐ状況は変わらない。このアパートが警察に包囲されるのも時間の問題だ。

 どうしたらいい……?


 僕が額に手を当てた、その時だった。

 携帯の着信音が鳴り響いた。初期設定から変えていない、素っ気ない電子音だ。

 ここで誰かから連絡があるなどと、思いもしなかった。しかしこれは、まさに窮地を脱するチャンスになるかもしれない。

 この電話の主が警察とは別な機関の人間だとしたら、ジュリを受け入れて平和裏な交渉なりなんなりをして安全を確保してくれるかもしれない。


 僕は半ば這うようにして、洗面所から飛び出した。全身の筋肉を総動員して、僅かでも早くと念じながら携帯を取り上げる。発信元の欄には、『谷木耕助』とあった。


「も、もしもし?」

《あ、ナギ先輩! 聞こえますか?》

「ああ、大丈夫だ!」


 すると、俄かに電話の向こう側がざわついた。僕が電話に出られるかどうか、数名の人間が固唾を飲んで待っていたらしい。


「あの、先輩の友人に相良優太郎さんって方、いますか?」

「うん。同じ研究棟にいたから……」


 再びのざわめき。こちらの静けさとは大違いだ。

 しかし、どうして優太郎が関係してくるんだ? 確かに彼は、僕の数少ない友人であるのだけれど。


 僕が怪訝に思っていると、ザザッ、という砂嵐のような音が鳴り響いた。


「うっく!」


 慌てて携帯を耳から離す。しかし、そこから聞こえてきた声には確かに聞き覚えがあった。というか、聞き慣れている。

 やがて砂嵐は沈静化したのだろう、代わりに優太郎の声がクリアに聞こえてきた。もう一度口頭で伝える、という意味の言葉が聞き取れる。


《久しぶりだね、凪人!》

「どうしたんだ優太郎、僕は今大変な目に――」

《把握している。ジュリちゃんのことだろう?》


 携帯を握っている手に、思わず力が入る。


「誰に聞いた? 水族館の誰かからなのか?」

《まさか! 君の同僚をむやみにトラブルに巻き込むほど、僕は悪趣味じゃないよ》

「じゃ、じゃあ――」

《今はこれからのことだけを考えてくれ。今から二分前に、ジュリちゃんに殺害された若者三名の遺体がアパート前で発見された。現在、所轄の警察官と隣町の鑑識が出動して、そのアパートを包囲しようとしている》


 警察? 鑑識? 何を言っているんだ、お前は?

 そう尋ねられればよかったのだが、当然ながらその余裕はない。

 かといって、冗談はやめろというだけのゆとりもない。僕の緊張もその一因だろう。

 だが友人として、優太郎からこれほどの差し迫った感覚を受けたことはなかった。

 僕の心臓に掴みかかってくるような、不気味な強迫性が高速で迫ってくる。


《凪人、凪人? 聞こえてるか?》

「あ、うあ」


 僕の頭の中では、いつの間にかパトランプが明滅し、サイレンが鼓膜を連続でぶっ叩いている。


《落ち着けよ、凪人。アパートの裏口に、こちらの特注防弾車が到着する。黒の高級車だ。それに乗ってくれ。僕は君の味方なんだ。あと三十秒で助けにいく。だから急いで向かってくれ!》

「分かったよ、優太郎さん! すぐに向かうから!」

《あ、ああ、よろしく頼む!》


 優太郎に返答したのはジュリだった。

 優太郎は違和感を覚えたようだが、すぐに情報を取捨選択した模様。僕とジュリに脱出の手続きを教えてから、優太郎からの言葉は途切れた。


         ※


 何を持って行くべきか。

 ひとまず財布とカード入れ、それに携帯をリュックサックに放り込み、ジッパーを閉めた。

 おおっと、水分も忘れてはいけない。僕は昨日買ってきたスポーツドリンクをあるだけリュックサックに搭載。数本はジュリに手渡しておいた。

 なお、ジュリに僕が宛がったのは、僕が以前使っていたショルダーバッグだ。やや大きめだったことが幸いした。


 恐らくもう一分は経過してしまった。逃走経路は頭に入っているから、後は走るだけ。――と、思いきや。


「ジュリ? おいジュリ! 行くぞ!」

「あと少し、十秒待って……!」

「何をやってるんだ、立ちっぱなしで……」


 僕がジュリの上腕を掴み、引っ張ろうとしたまさにその時。


「凪人、伏せて!」

「うおっ!?」


 ジャンプからの押し倒しという二段攻撃で、僕は呆気なく伏せる姿勢を強制させた。

 今までだったら、何をするのかとジュリに問い詰めていたところ。

 だが今は違う。彼女は彼女なりに、僕を守ってくれたのだ。


 僕がジュリの考えを理解しようと試みた、まさにその瞬間のこと。

 バンバンバンバン、と爆発音が連続し、何かがぐしゃぐしゃと崩壊する。


「こ、れは……?」

「外階段を破壊しておいたの。凪人の足跡から、行方がバレるのを防ぐために」


 そうか。血の海に突っ立っていた僕は、確かに靴跡を残してしまった可能性が高い。

 それをジュリは、危険と判断して証拠隠滅を図ってくれたのだ。


「これでも、凪人の足跡を隠滅しておけるのは、精々五、六時間だと思う」

「つまり、僕たちは宿探しをしなくちゃならない、ってことだね?」


 僕の問いに、ぐっと顎を引いて応じるジュリ。

 僕の予想が正しければ、優太郎がそのへんも手配してくれていると思うのだが……。

 さて、どうだろうか。

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