第11話


         ※


 翌日。

 何かに揺すられるような感覚で、僕は目を覚ました。


「凪人! 凪人ってば!」

「ん……あ、ジュリ……」

「大丈夫? とっても深く眠ってる様子だったから、あんまり起こさないようにしたかったんだけど……」


 僕の横にちょこんと正座したジュリの姿。彼女が僕を揺すっていた犯人のようだ。

 僕は携帯を手に取り、現在時刻を確認する。

 午前十一時半、か。いつもよりずっと早起きだ。体力的・精神的な疲弊と眠気、それにほとんどネットを漁らずに布団に入ったことで、疲労回復度が高かったのだろう。


 僕のルーティンなのだが、ベッドや布団から出る前に、昨日のことをできるだけ復習することにしている。衝撃的な出来事を。そうして思い出されたのは――。


「うわあぁあ!!」

「きゃあっ!!」


 僕の絶叫に驚いたのだろう、ジュリは慌てて横転し、僕から距離を取った。


「うわ、あ……。ごめん、ジュリ。驚かせるつもりはなかったんだけど……」

「う、ん……」


 そうだ。僕はこの少女を守らなければならないのだ。

 何からだろう? 誘拐犯か? 不良グループからか? それとも国家権力からか?

 いずれにしても、僕が抵抗して追い払うには、随分とハードルが高いように思われる。


 大川嶺子は事情を知っている様子だったし、一旦彼女と合流すべきだろう。

 そのためにはまず、水族館に行くべきだと僕は判断した。水族館はとっくにオープンしているはずだし。


 ふと、ここで引っ掛かることがある。

 今更ではあるが、どうして僕はジュリを守ろうとしているのだろう?

 確かに彼女は、この環境の変化に戸惑っている様子だ。困っている人を助けたいと思うのは、人間として当然の心の働きだろう。


 だが、僕の場合はそれだけでは説明がつかない。

 確かにジュリは美少女だし、純粋でもある。しかしながら、それだけでは説明できない何かが、彼女には備わっているように思えてならない。

 僕の幼少時の記憶にも繋がるような、特別な何かが。


 その記憶の内容は、すぐに掴むことはできなかった。

 しかし単純に、そんな出来事があったのだという事実は、僕にとっては有難くもあり、恐ろしいことでもあった。


 有難いというのは、これから僕が上手く立ち回ることで、その記憶を発掘できるだろうということ。ジュリの助けになれるかもしれないという可能性がある。

 恐ろしいというのは、純粋にその記憶とやらが、僕にとってのトラウマになっているということ。今から心配しても仕方がないのだが、ジュリに記憶を覗かれた拍子に思い出し、パニックに陥る可能性がある。


「凪、人……?」

「ああ、ごめん。考え事をね」

「ふぅん、地球の人って、考えることがたくさんあるんだね」

「そういうこと、なんだろうな」


 そうか。ジュリは地球上の知的生命体ではないのだな。簡単に言えば、何らかの使命を帯びて地球に潜入した宇宙人、とでもいったところか。

 僕は髭のない顎に手を遣って、しばし考えた。


「ジュリ、僕は二人で水族館に行こうと思うんだ」

「お仕事?」

「いや、お客として。たまにはね」

「分かった。私は何か持っていく必要はある?」

「いや、大丈夫だ」


 それだけ言って、僕はパジャマから普段着へと着替えようとした。の、だが。


「ねえ、凪人」

「ん?」

「背中の傷、どうしたの?」


 ドキリ、とした。僕の背中には、醜い引っ掻き傷がある。自分自身でも忘れていることが多いのだが。

 だが、今は違う。何かがあったという実感が、ひたひたと内臓を湿らせていく。


「これは……生まれつきなんだ。何も害があるわけじゃない」

「なら、いいけど」


 ジュリはぷいっと顔を逸らし、不機嫌そうに口を尖らせた。

 なるべくそちらを見ないようにしながら、僕はばさりとシャツを羽織る。


「今日は暑いからな、ジュリも飲み物を持っていくんだ。こまめに飲んでくれ」

「分かった!」


 さっきまでとは一転し、ジュリは片手を上げて小学生のように跳びはねてみせた。


         ※


 やはり暑いな、というのが僕の率直な思いだった。

 ふざけるなとか、いい加減にしろとか、セミ連中は黙ってろとか、理不尽なことを叫びたくなる。――と、いうのは昨日までの話。

 今はとにかく、ジュリの動きに全神経を集中させている。もし、海洋生物に化けていた時間の方が長かったとしたら、直射日光は危険物になりかねない。


 僕が所有している乗り物は自転車だけなので、取り敢えずヘルメットはジュリに被せておく。


「あっ、私の麦藁帽子は……!」

「少しの間だけ我慢して。ちゃんと前のカゴに入れておくから」


 ジュリは少し頬を膨らませ、さも不機嫌そうな顔を作ってみせる。地球人のガキんちょにしか見えないな。

 それでも、僕はそれから二、三度はヘルメットの確認作業にジュリを付き合わせた。


 すべては彼女の安全を守るためだ。ここで躊躇って万が一のことがあったら、僕はきっと頭がイカれてしまうだろう。いや、ジュリが傷ついたら、その理由がなんであれ、僕は……。


「なあ、兄ちゃん」

「ああ、大丈夫だ。もう出発する」

「勘違いすんなよ、俺はあんたのそのチャリが気になってたんだ。くれねえか?」

「くれってどういう意味で――」


 そこまで言って、僕は自分の話し相手がジュリではないことに気づいた。

 僕は全身の発汗が、一瞬で静まるのを感じている。僕は今、カツアゲに遭っているのだ。


 突然のことで僕が何も言い返せないでいると、唐突に敵――そこいらの不良だろうと思うが――のジャブが僕の鼻先を捉えた。


「うぐっ!」


 血飛沫が舞った。それに合わせて僕は後ろ向きに倒れ込む。人間は身体構造上、頭部は出血しやすい。痛みはそれほどではないから、流石に殺されやしないだろう。

 

 とは思うものの、敵は三人。僕はといえば、喧嘩の経験などありもしない。絶対にボコられる。このアパートの管理人が、そのくらいのことを気にかけてくれるような人間でないことは承知している。


 僕が一人だけだったのなら問題はない。警察に届け出る。それしか手の打ちようがない。

 だが、事態はもっと悪くなるに違いない。もし、ジュリを人質に取られたら……!


 こんな時こそ、僕は戦わなければならない。ジュリを守るのだ。そして、彼女を幸せにできるように全力を尽くすのだ。


 僕は仰向けの姿勢からのっそりと立ち上がり、正面の敵の顔面目掛けて腕を振るった。

 が、そんなチャチな攻撃が通用するはずがなく、足を引っかけられて再度転倒。


「この程度でへばってじゃねえぞ、おら!」

「ッ!」


 脇腹に入った敵の爪先に、全身が痺れるような痛みを覚える。息ができない。

 まさか、僕はここで死ぬのか?

 ジュリは無事なのか? ジュリ、アパートの中へ逃げてくれ。君が助けを呼んでくれればそれで済む。

 どうにか首だけ曲げてみると、ジュリは自転車の後部座席から横に降りていた。しかし、この場を離れようとはしない。

 このままではジュリは誘拐されてしまうんじゃないか。本気でそう思った、次の瞬間。


 シュッ、とも、スパッ、とも言えそうな音がした。共通しているのは、その両方が極めて鋭く、冷たく、容赦のないものだったということだ。

 初見の人間には見えなかったかもしれないが、僕にははっきりと見えた。金色のワイヤー状の糸が、不良三人組の顎あたりを通過していったのだ。


 ぴたり、と止む暴力。いや、それだけではない。不良たちの動きが、完全に停止してしまったのだ。

 膝をつく三人。そのまま声もなく、うつ伏せにばったりと倒れていく。


 攻撃が止んだのはいい。問題は、三人の首がごとり、といってアスファルトに落下してしまったことだ。

 ばしゃり、といって着地した生首。真っ赤な鮮血が、その周囲の地面に、ぱっと広がった。


「……な……なんだ、これ……?」

「凪人、大丈夫?」

「ジュリ、これ、君が……?」


 恐る恐る立ち上がり、軽く見下ろしてジュリと目を合わせた。

 その時、ジュリは僕を見つめたままで、無造作に腕を向けた。指先が糸に変化し、アパートの共通出入口に設置された監視カメラを破壊した。真っ二つだ。


 そのままジュリは、腕を伸ばし続けた。きっと監視カメラの映像を管理しているパソコンを、電子的に破壊しているのだろう。


 そんなジュリの無感情な顔を、僕は返り血を拭うことも叶わないまま、見つめ返すことしかできなかった。

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