第10話
※
「そろそろ大丈夫かな……」
歯ブラシを口に突っ込みながら、僕はそっと廊下に顔を出した。
「ジュリ、着替えは終わったかい?」
「……」
きちんとした応答はない。そのまま耳を澄ましていると、なにやら『むーむー!』だか『ぐーぐー!』だか、よく分からない声が聞こえてくる。何かあったのか?
「大丈夫か、ジュリ!」
僕は速足で廊下を通過。そのままリビングのドアを押し開ける。
相手が全裸だろうが何だろうが、トラブルに巻き込まれたなら助けてやらなければなるまい。
僕が勢いよく踏み込むと、しかし、そんな考えは杞憂であることが分かった。
ジュリがもがもが言っていたのは、パジャマ用のシャツで腕と頭をどこに通せばいいのかが分からないでいたからだ。呼吸に支障はないようだが、一人で脱出するのは難しい様子。
一応、ノースリーブシャツとボクサーパンツ(購入時、どうやって選んだのだろう?)、それにズボンは着用できたようなので、僕はジュリの半袖パジャマを着させてやることにする。
パステルグリーンの生地が裏返って、頭を出せないでいる。しかも同じ穴から左腕を出そうとしている。右腕は通っているが、前後逆向きになっているので意味がない。
「ちょっと待つんだ、ジュリ!」
「むーーー!」
僕が引っ張ったお陰で、ジュリはようやく頭を出した。
さて、どこから説明すればいいものか。自分がどんなふうにパジャマの着方を覚えたかなんて、とっくに忘れている。
ふと、母親の顔が一瞬だけ思い出された。そうだ。パジャマの着方は母親に教わったのだ。
だが、久しく思い出していなかった母親の顔は、すぐさま真っ黒に塗りつぶされてしまった。
今回も、父親や母親の顔を思い出すのに失敗した。やはり僕にとって、家族というものはその程度の存在価値しかないらしい。まあ、無理もないことだ。僕にとっても、両親にとっても。
僕は眉間に手をやったり、ジュリのパジャマの脱着を手伝ったりで、眠るどころではない。
確かに今日いろいろありすぎたせいで、端から眠れなかったかもしれないが。
「地球の人って、こんなに面倒なものを身につけているんだね……」
「どうして泣きそうになってるんだ、君は。悪いけど、こればっかりは慣れてもらうしかないんだ」
「それは分かってるけど……」
ぺたん、とフローリングに尻をつけて、眼球を斜め上に。そうして僕を、じぃっ、と見つめてくる。って、これじゃあまた胸の谷間による窒息作戦を喰らってしまいそうだ。
僕はぶんぶんと頭を振って、最低限の動作でジュリにパジャマの着用方法を教えた。
するとジュリは、こんなことを言い出した。
「ありがとう、凪人! これで私はまた一つ、地球の文明を知ることができたよ!」
「そんな大袈裟なもんじゃないよ。これは……そうだな、少し早いけど、ジュリの誕生日祝いってことで」
「あれ? 凪人、あなたは何を根拠に私の誕生日を推定したの?」
僕は自分の口にしていたスポーツドリンクを吹き出しそうになった。
根拠? 推定? ううむ、誕生日祝いには似つかわしくない言葉だな。
「ジュリ、君の水槽の清掃係の人から聞いたんだ。君がこの水族館に来てから、もうじき一年になるって。だからその日を基準に、今日の日付を照合したんだ」
「ふぅん……?」
座り込んだまま上目遣いを続けるジュリ。目線といい、服装といい、今の彼女は無防備すぎる。僕はさり気なく首を回し、ジュリを視野の外へと追いやった。
しかし、ジュリは今の説明では納得できなかった様子。僕とてそう詳しいわけではないけれど……。もう少し、ジュリと一緒に考えることはできる。
「たぶん、君はベニクラゲの姿であの水槽の中にいたんだろう?」
「うーん……」
「あの水槽の中にいるベニクラゲたちは、研究のために水族館から研究施設に送り出されたんだ。閉所での海洋生物の飼育に関する調査だったらしい」
「ふむ……」
「そこで急遽、今水族館にいるベニクラゲたちが、ここへ輸送されてきたんだ。そこに紛れ込んで、ここにやって来たんだろう? ジュリ、分かるかい?」
右に左にと首を傾げるジュリ。なんだかはっきりしないな。今の会話で、人間と同じくらいの知性を有していると思ったのだけれど。そう上手くはいかない、ということか。
などというのは僕の勘違いだった。僕の質問に対して、ジュリはこう言ったのだ。
「私、その頃からの記憶がないの。凪人のいうことが本当なら、きっとそうなんだと思うんだけれど」
「記憶が、ない……?」
こくり、と頷くジュリ。人差し指を顎に当て、上目遣いのまま補足説明をする。
「気づいたらあの水族館の水槽にいた、っていうだけなんだよ。自分がどこの生まれで、何をしようとしているのか、やっぱりよく理解できない」
「ああ、そういうことだったのか……」
記憶喪失なら仕方がない。
きっとその記憶は、ジュリの頭の中には現存しているのだろう。だか、そこまでも神経的な経路がごちゃごちゃでは、意識上にその記憶を引っ張り上げることはできない。
「ふむ」
僕は一息ついて、自分が右手に握っていたものをもう一度見つめてみた。
そっと握り込み、背後で両手の指を組む。
「協力するよ、ジュリ。君が記憶を取り戻して、平和裏に過ごしていけるように」
「えっ?」
「だってそうだろう? 人間は助け合いながら生きているんだ。君だって人間の姿に変身することができる。それでいて困っているのなら、僕には君を助ける義務がある」
「凪人……」
ううむ、我ながら吐き気を催すような言葉だ。
だがここで、自分が救いたいのはジュリだけだ、などと本音を出すわけにはいかない。僕の感覚にすぎないけれど、ジュリにはしっかりとした義務感や倫理観が備わっている様子。
自分の目的を思い出した時に、他者を踏みつけて自分が援助を受けていると思ってしまっては、きっと傷つくだろう。
それに関しては、ゆっくりと二人三脚で歩んでいくしかあるまい。
「あー、えっと、ジュリ?」
考えを纏めていた僕が目を開けると、ジュリは体育座りの要領で眠りこけていた。
っていうか、まだパジャマの上半身部分が結構はだけてしまっているのだが。
仕方がないので、僕は抗菌防臭剤をベッドに撃ちまくり、枕を交換して、ジュリをベッドに寝かせてやることにした。
「……!」
一瞬、ぞっとするのが自分でも分かった。ジュリの身体はあまりにも軽かったのだ。少なくとも、普通の人間の体重ではない。
女性の体重を気に掛けるのは、随分失礼なことだと思う。だが、そんな考えが吹き飛ぶほどジュリには重さがなかった。
普通に考えてみれば、拒食症だとか栄養失調だとか、考えるところではある。
だがジュリは、普通ではない。人間でもなければ、ベニクラゲでもない。
何者なのかが分からないのだ。
そう考えると、僕はジュリをお姫様抱っこしながら、自分の身体中の筋肉が凝り固まっていくように思われた。
もしジュリが、何かの理由で僕を狙っているとしたら? 僕でなくとも誰かを襲う気だったら? まさかとは思うが……ジュリはどこか地球外からやって来た侵略者の尖兵だったとしたら?
「……まさかな」
と、口に出して言ってみる。それでも僕は、自分の頬が引き攣るのを止められなかった。
ぎゅっと目を閉じて、深呼吸を試みる。ジュリの体重が軽かったお陰だろう、僕は両腕にさしたる力を入れることもなく、自分を落ち着かせるのに集中することができた。
ふと、誰かに呼ばれた気がした。当然ながら、この部屋には僕とジュリしかいないはず。
幻聴、だろうか。
僕はジュリをそっとベッドに寝かせ、その声のする方を漠然と見渡した。
台所がある。シンクがある。そして、昼食を作る際に使った包丁がある。
ここで僕が殺人の罪を被り、ジュリを殺してしまえば、地球人類は救われるかもしれない――。
「いや、待て……」
僕は振り返り、壁に向かって軽く拳をつけた。続けて額を。
もしジュリが敵意や悪意を持っていて、地球にやって来たとしたら。
そうしたら、できるだけ早く行動を開始したいはずだ。僕を仕留めた後なら、十分時間もあるだろうし……。
僕はさっさとシャワーを浴びてパジャマに着替え、さっさと寝込むことにした。
早く寝つけたのか、なかなか寝つけなかったのか。
そんな些末なことは、僕の記憶には残らなかった。
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