第9話
※
そのまま解放された僕は、水族館を出て駐輪場へ向かっていた。
自転車はそのまま残されている。ということは、ジュリは僕の自転車を使わずに、徒歩で帰った(というより僕のアパートへ向かった)ことになる。
僕はヘルメットを被り、海岸沿いの坂道を登っていく。立ち漕ぎで足を伸ばしながらも、街灯の光の当たる範囲からは目を離さない。万が一、そのへんでジュリが倒れていたら、取り返しのつかないことになっているかもしれないからだ。
「ん……」
だんだん坂は緩やかになり、ほぼ頂上地点で水平に。そこに僕が住んでいるアパートがある。水族館からここまで、ジュリが倒れたり、負傷したりという形跡は残されていない。
大丈夫、ってことかな。
僕は自転車を駐輪場に停めてヘルメットを固定。施錠して、ロープ状のロックもしっかり仕掛けておく。
ぶわん、と何かが眼前を横切り、少しばかり驚いた。蛾か、こいつは。人騒がせな……。
アパート入口横の自動販売機に目を遣ると、羽虫がたかっていた。真夏の夜間ともなれば、仕方のないことだ。
大学入学前までは都会暮らしだったものだから、未だに虫がたくさんいるのには苦手意識がある。一ヶ所にたかっているともなれば猶更だ。
僕はわざわざ自動販売機を大きく迂回するようにして、アパートの正面玄関へと踏み入った。
――この行動パターンは、いつもと全く変わらない。しかし僕の胸中は、普段と大きく違っていた。
「こんなところに倒れてないだろうな……」
僕は携行していた懐中電灯を取り出し、ハイパワーであたりを照らし出す。アパートを取り囲む木々の根元には、人影はない。
やはり僕の部屋に辿り着いて、鍵を外して入室したのだろう。ノブを握ると、軽々と引き開けることができた。リビングからは光が差してくる。
「なんだ、やれやれ……」
心配した僕が馬鹿だったのだろう。過保護、とでもいうのだろうか。
ほっとして僕は足を踏み入れ、施錠をし、リビングの扉も押し開けた。
「ただいま、ジュリ。帰ってくるときは大丈夫だった?」
小振りなリュックサックを床に置き、立ち上がって顔を正面に向ける。
そして、後悔した。
「うん、大丈夫だよ!」
そう答えながら、こちらに振り返ったジュリ。
……どうして素っ裸なんだ?
僕は恐怖のあまり、後ずさって背中をドアに押しつけた。床にはジュリが着用していたのであろう衣類が無造作に脱ぎ捨てられている。
この場で僕にどうしろというのだろう? 振り返って逃げ出すか? 両目を覆って釈明するか? いやここは、潔くジュリに僕の処分方法を任せるか……?
しかし、ジュリの取った行動は予想だにしないものだった。
「あっ、凪人!」
そう言って、駆け寄ってきたのだ。全裸のままで。
「ちょっ、待て! 駆け寄るな! その前に服をだな……」
などという僕の言葉は、綺麗にジュリの右耳から入り、左耳から出て行った模様。
僕はそのままジュリに押し倒され、後頭部を壁に強打。そのままジュリに圧しかかられた。
柔らかな谷間に鼻腔を塞がれ、一瞬で呼吸ができなくなる。
僕はバンバンと床を叩いた。自分が危機的状況であることを、ジュリに知らせなければならない。
すると何を勘違いしたのか、ジュリは僕の名前を連呼しながら、僕の頭部を抱きしめてきた。これはマズい。僕の人生は、大いなる苦しみと一抹の幸福の下で幕を下ろすのか。
事ここに至り、ジュリはようやく僕の異変に気づいたらしい。
壁に手をついて、ゆっくりと僕から距離を取る。
「ぷはっ! はあ、はあ、はあ、はあ……」
「凪人、大丈夫?」
「う……」
僕が呻き声をあげていると、するりと糸が伸びてきた。ジュリが周囲の動植物から情報を得るために使う、金色の糸だ。
その先端が僕の眉間に張りついた直後、ジュリは慌てて立ち上がり、バックステップで反対側の壁にくっついた。
「ごめんなさい、凪人。私がもう少し気をつけていれば……!」
「い、いや……」
咳き込みながらも、僕は言葉を繋げる。
「早く服を着てくれ、男の僕が見るには……刺激が強すぎる……」
「あっ、うん!」
そう言って頷くと、ジュリは背後に置いていた袋を手に取った。そこから出てきたのは、女性ものの衣類。流石に毎日同じ服装でいるのは非清潔的だと理解してくれたらしい。
僕はジュリに、着替えが終わったら伝えてくれるように言ってから、ゆっくりと来た道を引き返した。
※
廊下に踏み出し、リビングとの仕切りとなるドアを急いで閉める。
それだけでは飽き足らず、僕は玄関まで走って右腕をドアに押しつけた。
「一体何がどうなってるんだ……?」
心臓はバクバクと脈打ち、同時に胃袋の底が焼かれるような痛みを訴えている。汚い喩えだが、心臓から嘔吐するならこんなタイミングだろう。
何が悲しくて着替え途中の女性がいる部屋に踏み込んでしまったのか。なんだか今日は、一日でカウントするにはあまりにも刺激的な出来事が多すぎた。
思った以上に疲弊していたのか、口からよだれが垂れそうになった。慌ててすすり上げ、ハンカチで口元を拭う。
リビングからは音がしない。元々、衣擦れぐらいだったら音漏れしない構造になっているとは聞いていたが、その時の不動産斡旋業者は正直者だったということか。
僕は一旦、玄関から引き返した。玄関とリビングの間に、向かって右側に短い通路がある。その先にはトイレと風呂場、洗面所があるのだが、僕は迷わず洗面所に踏み込んだ。
「酷い顔だな……」
ぐったりしながら、鏡の向こうの自分と奇跡の対面を果たす。その後の第一声がこれだ。
元々、顔の良さで食べていこうなどとは思っていない。それを差し引いても……。
「やっぱりやつれてるな」
やつれる、という言葉は使うべきではなかったかもしれない。僕は一見したところでは、元々やつれているように見られるからだ。
これでは僕はいつも通りだ。心が何らかの『非常事態』に陥っていると分かる人間は、そうそういるまい。
水族館で警備員のバイトをしているのだから、ニート呼ばわりされるわけではないだろう。だが、僕とて生身の人間だ。それに病気である。身体ではなく心の方だが。
そうすると、自分にできること、行ける場所、確保すべき時間というものが、バラバラになって瓦解していくような気になってしまう。可能性が狭まる、とでも言うべきか。
それこそが『通常』と『非常事態』の違いだ。……確かに、外部の人からは分からないか。
それはそうと。
ジュリの裸体のせいで発生した僕の脳内の混乱は、だいぶ落ち着きを取り戻しつつあった。でなければ、いくら僕でもこんなにいろいろと考え込むことはできなかっただろう。
仕上げにと思って、僕は蛇口を捻って冷水を両手で受け止める。そのまま顔に冷水を押しつけ、ごしごしと擦ってみた。それを繰り返すこと、三~四回。
「ああ……」
溜息なのか、ただの吐息なのか。
正直よく分からないが、一応その息を継いだことで、僕は辛うじて『回復した』といえる――と思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます