第8話
※
ひとまず、僕と少女は水族館に隣接する森林公園へと駆けこんだ。
まったく、今日は随分と汗をかくな……。それが運動によるものだったらまだいい。嫌なのは、冷や汗が背中や額から噴き出してくることだ。
とても健康的な汗のかき方だとは言えないだろう。森林公園に走り込むのにも、かなり時間と労力を持っていかれたし。
最早、健康なんだか不健康なんだか分からない。追手を撒くことができたというだけで上出来、だろうか。いや、追手がいたかどうかなんて分かりやしないんだけれど。
「……げほっ」
また溜息をつこうとして失敗した。肺の中の酸素が強制的に、僕の身体を圧迫しながら吐き出されてしまったのだろう。
一つ幸いなことがあるとすれば、隣に件の少女がいるということだ。
僕たち二人は、園内でも有数の巨木の下に腰かけ、ぐったりしている。
いや、ぐったりしているのは僕だけだな。少女は立ち上がり、巨木の葉や枝、幹に手で触れたり、頬をくっつけたり、挙句、直に舐めてみたりしている。
その合間に、きちんと水分補給をしているところを見るに、どうやら知的レベルは高いようだ。
「もう何が起こっても驚かないよ……」
僕は目を逸らしながらも、そっと少女の姿を視野の中央に収めた。
そのまま、そっと自分の胸に手を当てる。この確認作業が、今日何度目になるかは分からない。だが、やはり平静ではいられないのは確かだ。
「あ、あの……」
意思疎通ができるようにはしておきたい。
そう思って声をかけたのだが、話題がない。つまり会話のしようがない。
いや、聞こえていないだけなのか? 僕は立ち上がり、できるだけ少女と目線が合うように調整する。
「き、君、君は、いったい何者なんだ? どっ、どうしてベニクラゲの水槽にいた? どうやって出入りしていた? いや、それよりも、あー……」
「ジュリ」
「え?」
突然少女の口から発せられた、短い一言。彼女が話している姿はさっきも見たから、彼女が会話するのは驚くようなことではない。それにもかかわらず、何故か僕はドキリと跳ね上がりそうになった。
暑さにやられたのだと思いたい。だが、理由がそれだけでないことは、あまりにも明白だった。
頭がぼんやりしてきた。いかんいかん、今の言葉を認識しなければ。
「ジュ、ジュリ……?」
「うん?」
背中で手を組みながら、少女はこちらに振り返った。さらり、と漆のように艶やかな長髪が流れ、僅かに青みを帯びた光彩が眼窩で輝いている。
改めて、僕は思った。彼女は可愛らしいだけではない。美しいのだと。
そして認識した。彼女の名は『ジュリ』というらしい。
僕が二の句を継げないでいると、ジュリはこう言った。
「綺麗な星だね、ここは」
「綺麗な……?」
ふぅっと、一瞬だけ強い風が吹いた。
咄嗟に僕は、腕を翳して自分の頭を守る。しかし、ジュリは『風』というものに対する経験がなかった。短い悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込もうとする。
しかし、風はそんなことにはお構いなしだ。ジュリが自分を抱きしめるように腕を回した時、狙いすましたかのように、風は麦藁帽子を吹き飛ばそうとした。
「おっと!」
僕は咄嗟にジュリの頭に手を遣って、なんとか麦藁帽子を守り切った。
安堵の息がゆらゆらと流れてゆく。
「大丈夫かい、ジュリ?」
手を離しながらそう尋ねると、ジュリは笑みを作って頷いた。
「今の、面白いね。『風』っていうんでしょう?」
「ん、うん」
「これが、地球の風、なんだね」
そう言うと、ジュリは隣の樹木の袂にしゃがみ込み、麦藁帽子を脱いでそっと抱きしめた。
※
気づいた時には、既に頭上に夕焼け空が展開されていた。
携帯を確認すると、午後六時半。そうか、そろそろバイトが始まる時間か。
……バイト?
「どわはあっ!」
僕を真っ先に襲ったのは、始業時刻に遅れたという焦りと罪悪感。
だが、このままジュリを放っておくわけにはいかない。
逆に言えば、今は絶好のチャンスなのではないだろうか。僕と顔見知りである三人、すなわち耕助、絵梨、嶺子は、今日の僕の動きを把握できていないはず。赤の他人ならなおさらだ。
その赤の他人が相手だったら、ジュリのことを『自分の妹だ』とでも主張することでやり過ごせる。
そう思ったのはいい。今日の僕はツイている、とでも勝手に納得していれば。
それが誤りだと気づいたのは、携帯をポケットに捻じ込む直前のことだった。おぞましい表示が目に入ってしまった。電話の着信履歴だ。
「う、うっわあ~……」
僕の背中を、冷気が吹き抜けていく。
この着信履歴上には、大川嶺子という名前が延々と連なっている。なんとも奇抜な光景だ。
げっそりしている間に、再度着信。発信元は、大川嶺子。
「……はい、蒼樹凪人で――」
《あ、繋がった! まったく手間かけさせないでくれたまえ! こちら大川嶺子、何をやっているんだ、凪人くん? この時分に無断欠勤とは、随分と呑気に――》
「す、すみません、ちょっと今日は、これから用事ができたので遅れます」
《遅れるって……。何時頃なら来られるんだ? はっきり言いたまえ! もしもし!?》
本当だったらバイトごと休みたい。しかしながら、水族館の警備員というのはそうも言っていられない。
水生生物はそのほとんどがデリケートで、人間から見たらなんともないようなことで命を落とす。
人間とは動物種が全く違うのだから、気にする必要はない。そんな意見もよく聞いた。
だが、だからといって展示されている生物たちが死んでもいいということにはならないだろう。
だからこそ、できるだけ多くの人員が配されるべきだし、僕も今日、なんとか警備任務に参加したいと思っている。
早々に事態を収束させたい。だがそのためには、ジュリを安全なところに預けておかなければならない。
「参ったな……。ああそうだ、ジュリ、これを」
「これって、ヘルメット、っていうやつ?」
「そう。最新鋭の、畳めるヘルメットだ」
素早く頷き返した僕に、ジュリは当たり前のように尋ねた。
「あなたは、いいの? これは地球人が頭部を衝撃から守るための器具なんでしょう?」
「大丈夫だよ、そんなことは。僕はジュリの身を案じているんだ。しばらくの間は従ってほしい」
ジュリは釈然としない様子で、ヘルメットをじっと見ていたが、やがてこくり、と頷いてかぶり直した。
ヘルメットはこの一つだけだが、まあいい。
「ジュリ、これから僕の家へ君を案内する。多少散らかってるけど、部屋から出てはいけない。誰に見られるか分からないからね」
その言葉に、ジュリは気を引き締めた様子で『了解』と一言。
緊急とはいえ、女性を自室に泊めるとは、我ながら大胆な作戦である。それでも、ジュリは何かに追われる可能性がある、ということは言えると思う。
住所と部屋のロックナンバーは伝えてあるから、ジュリなら上手くやってくれるだろう。
※
「凪人くん、まったくねえ……」
「す、み、っません……」
警備員詰め所にいたのは、嶺子だけだった。
デスクの向こうで足を組み、じとっとした目で僕の顔を覗き込んでくる。
「我らが使命は、不審者の発見と設備の点検。この二つだ。だが、どちらも極めて重要であることを忘れてはならない。我々は生き物を扱っているからな。ここにいる生き物たちの命、体調、健康。それらの一端を担っているんだ。気を抜いてもらっては困る」
「……はい」
なんだか、このバイトを始めた頃のことを思い出すな。当時の僕は嶺子のことを、ひたすらに怒りっぽい上司だとしか思わなかった。が、それも精々、働き始めて一ヶ月程度のこと。今は仲間意識の方が強い。
逆に言えば、今の嶺子はそれだけ真剣で、実直で、恐ろしい態度を取っている。僕も気を遣わなければ。
「君が目をつけた生物に関しては、我輩に確保命令が出ている。教えてほしい。あの少女をどこへやった?」
「そ、それは……」
ベニクラゲの水槽からジュリが出てきたという事実は、監視カメラの映像を漁ればすぐに分かること。もちろん、そこからジュリを連れ去ったのが、僕だということも。
「まあ、起こってしまったことは仕方がない。我輩が責任を持とう。それまでの間も、君はジュリのことを気にかけてくれていたからな。しばらく君の家に置かせてやってくれ」
「え、僕の部屋、ですか?」
「蒼樹凪人くん、君はこれでも我輩の立派な部下なのだ。よろしく頼む」
僕は自分にしか感じられない程度に、ゆっくりと肩を竦めた。
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