第7話【第二章】

【第二章】


 翌日。

 僕は息を切らしながら、自分の胸に手を当てた。少しばかり走ったからだとか、日頃の運動不足がたたったのだとか、言い様はたくさんあるだろう。

 だが、今の僕に自分自身のことを案じている余裕はなかった。人……ではないかもしれないが、とにかく『人らしき者』の手を引いて、とにかく足を動かしていた。

 前へ。さらに前へ。


 この日こそ、僕が初めて彼女との邂逅を果たした日だ。

 僕は昨日と同様に、早めに水族館に入った。今日も私服だったが、昨日と比べるとだいぶくたびれている。よりにもよって遅刻し、慌ててシャツとズボンを引っ掴んできたからか。


 ここで『遅刻』というのは、あの少女が目を覚ましたり、僕以外の人間に見つかったりすること。一種のタイムリミットだ。

 そんな僕の焦りなど気にも留めず、少女はベニクラゲの水槽からするりと抜け出てきた。幽霊がそうするかのように、僅かに艶めかしく。今日はきちんと、人間らしい服装をしている。僕の脳から情報を得ている、という推測は当たっていたようだ。


 淡いパステルブルーのワンピースに、深い青みのある夏用シューズ。少しだけ大きめの麦藁帽子といういで立ちだ。

 少女の手を取り、後輩二人に追われながらも、どうにかひとけのない裏側の廊下へと辿り着いた。


 少女は麦藁帽子を押さえながら、ゆっくりと僕を見上げた。

 しかしながら、僕といったら情けない。壁に背をつけ、胸を押さえながら汗をだらだらと流している。


 ……待てよ。

 この少女からどう見られるか、ということを、僕は大いに気にしている。

 つまり僕は、彼女によく見られたいと思っている。

 したがって、僕は彼女のことを――。


「ああっ、たく!」


 僕は壁に拳を当てながら、もう片方の手でぐいっと汗を拭った。

 惚れてどうするんだ、という、どうしようもない考えが脳内を駆け巡る。

 だが逆に、彼女に好意を持っていなかったら、ここまでして彼女の身を案ずるだろうか?

 しかも、バイトの仲間たちからも隠れながら。


 僕を自問自答の世界から現実へと引き戻したのは、少女のか細い腕だった。

 耕助や絵梨から逃れるため、咄嗟に掴んだ彼女の腕。どうやら今までずっと握りっぱなしだったようだ。


「あっ、ごめん! 痛くなかった?」


 少女は無言。自分の手首をじっと見つめ、軽く擦る。


「やっぱり痛かった……よね? ごめん、どうしても逃げなきゃならなかったから……」


 言うが早いか、僕は額に衝撃を受けた。何だこれ? 額にぺたりと張りついている、のか……?

 なんとか眼球を動かし、前方に注意を向ける。そこにいたのは、もちろん少女だ。

 しかし問題があった。彼女の無事だった方の腕の指先が、僕の額に当たっているのだ。

 その腕からは、今や関節や骨の存在を感じ得ない。柔軟なヘビや軟体動物の動きを彷彿とさせる。

 この光景には、流石に僕も恐怖を感じた。


「なっ……何を、するんだ……?」


 僕は自分の身体が動きを封じられたのだと思った。そのくらい怖かった。

 逃げ出そうと思えば、逃げられたかもしれない。しかし、僕にはそれこそ不可能だった。

 見る見るうちに見開かれ、輝きを増していく彼女の瞳の前では。


         ※


 僕の額に張りついていた少女の指は、離れる時も一瞬だった。僅かな痛みが生じたが、これもまたすぐになくなった。彼女からの、僕に対する敵意はないようだ。


 少女はしばし、首を右に倒したり、左に倒したり、両の掌で頬を挟んで、ぐるぐると首を回したりした。


「それ、なんか意味あるのかい?」


 僕が肩を竦めながらそう言うと、信じられない事態が発生した。


「うん、意味はあるよ」

「そうだよな、意味がなければ誰も――って、え?」


 少女が、喋った……?

 正直、ビビった。僕の脳から、日本語の記憶や記録をコピペしたかのようだ。

 すると少女は、今度は腕を組んで眉を上下させた。


「えーっと……。こういう時は……。何て言うといいのかな……」


 いやいや、良いも悪いも、あなたの日本語はかなり巧いと思うのですけれど。

 とても今の僅かな時間で学習しきれるものではない。


「あの、ご迷惑、でしたか?」

「あーーー……。迷惑、とかじゃないんだ。ただ、僕はこの世界のことを君よりは知っている。そんな僕は、今は君を連れてここから逃げ出すべき、と考えたんだ」


 少女は一瞬俯いて、すぐさま顔を上げた。


「なるほど。ベニクラゲに化けてこの星の発展を観測するよりも、母星に帰った方が、私の身の安全が保証されやすい、ということですね?」

「は、えっ? ごめん、もう一度言ってもらっても……?」

「はい。えっと――」


 僕が言い直してもらった理由は二つ。

 一つは、純粋に意味が分からなかったということ。『この星の発展を観測する』って、いったい何をするんだよ。

 もう一つは、まさか本当に地球外生命体が存在したのか、という驚きを、脳内で詳しく考え込んでみること。


 どちらの理由を掘り下げるにしても、自分一人でできることはそうそうないだろう。だったら……。

 

「聞いてくれ。今、僕の仲間たちが僕や君のことを探している」

「えっ、どうして?」


 さっきよりもぐっと感情豊かになった少女が、眉をハの字にして首を傾げる。こんな動作まで、僕の脳内から拾い上げたのか。

 それはさておき。


「僕はこの水族館で働いているんだ。昨日、一昨日には君と遭遇した。光る糸で、僕のうなじを軽く刺しただろう? そうやって情報収集をしていた。どうしてあんなことを?」

「情報……収集……?」


 再び首を傾げる少女を前に、僕は徐々にイラついてきた。


「その時僕は、確かに未知の感覚に襲われたんだ。忘れたわけじゃないんだろう?」

「うん、あの時はあなたの――蒼樹凪人さんの記憶を観察していたの。割と最近のこと、だけれど」


 その言葉に、僕は心臓に太い杭を打ち込まれたような感覚に陥った。

 最近のこと? ということは、もちろん『あの件』についてだろう。

 いやいや、そんなことは今はどうでもいいんだ。


「詳しくは僕の家で聞かせてもらう。来るのに抵抗はあるのかい?」

「凪人くんの部屋? ううん、抵抗なんてないよ、むしろ行ってみたい!」


 あれ? これって、未成年誘拐とかの罪に問われるのだろうか?

 いや、今こそ超法規的措置とやらを発動するべきだ。無論、僕は刑事でも警官でもないので、説得力は皆無だけれど。


 いずれにせよ、この時間帯にすれ違う人々の人数が少なかったのは幸いだ。

 足早に廊下を抜け、半ば押し開けるようにして裏口から出た。僕が後悔したのは、振り返って少女と向き合ったこと。


「相変わらず暑いな……。君もそう思わな――って、おい!!」


 僕の心臓が、嫌なテンポで脈を打つ。少女ががっくりと膝を折り、上半身を揺るがせていたからだ。

 彼女を最初に発見した時、そして、それから数回にわたって彼女に情報提供をしていた時、彼女はいつも水槽の中にいた。

 つまり、暑さ寒さといった寒暖差に弱いのだ。


「ちょっ、あ、え? ま、待ってくれ、ぼ、僕はどうしたらいい……?」


 僕の声は掠れていたが、そんなことは言っていられない状況だった。

 彼女の姿が、薄くなってきていたのだ。

 今は全身が深い青に染まっていて、うっすらとその反対側が見えるほどになっている。

 

「えっと、水分……水! 清涼飲料水! どこかにないのか!?」


 僕は立ち上がって喚いたが、それで水分を引き寄せることなどできない。このあたりで自販機を見かけた記憶はないし、どうしたら――。


 その時、僕の横顔にハイパワーの白光が当てられた。反射的に手を目元に翳す。

 しかし彼女も使い慣れたのか、前回ほどの鋭さはない。そっと地面を見下ろすと、そこには少女を中心に、魔法陣のような文様が刻まれている。


 ゆっくりと、少女は上半身を揺すりながら立ち上がる。

 するとその足元から、幾本もの光の糸が全方位に向かって発せられた。

 いや、足元、というのは語弊がある。現在、少女の足は、絡まった糸がほどけていくように見えた。脚部が触手や糸になり、魔法陣の上を滑っていく。


「あ……」


 僕が唖然としていると、触手のうちの五、六本がペットボトルや缶入りの飲料を引っ張ってきていた。

 少女はその場で飲料の容器を持ち上げ、自分の口元に持っていこうとする。


「ちょっ、ちょっと待って!」


 僕は慌てて、彼女の前に掌を突きつけた。


「ここじゃ人目につく! ひとまず、あ、あっちの木陰の方に……」


 最初のペットボトルに口を付けようとした少女は、手と足を止めて、ぽかんと僕の方を見た。

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