第6話


         ※


「ふん……」


 眠れないな。それはまあ、あんな謎現象を体感したその日のうちに、さっさと眠れというのは無理な話だろう。常識的に考えても。

 しかしなあ、わざわざ睡眠障害を持っている僕に当てはめなくてもいいだろう。世の中には、眠りたくてもそれができない人だってたくさんいるのだから。


 と、いう皮肉で非建設的なことを考えていると、だんだん明日の水族館でのバイトに行きたくなくなってきた。

 そりゃあまあ、僕だって勤労することなくいくらでもお金が手に入るなら、それに越したことはない。

 だけど、そうすると誰とも話せなくなったり、意思疎通のやり方を忘れたりする。

 これは、実生活を送る上で致命傷だ。食料の確保とか、来客との遣り取りとか。携帯での通話も危ういな。

 

 そうはいっても、来客なんて滅多にないし、僕なんかに連絡を取ろうとする輩に思い当たるところはないし。


「……もうひと眠りするかな」


 僕は冷房の気温設定を下げた。そのまま携帯に手を伸ばし、何か連絡がないか確認する。

 どうせ僕なんかに連絡なんて――。


 ビリリリリリリリッ!!


「どうわあっ!?」


 携帯が、凄まじい勢いで振動を始める。反射的に、僕は携帯をぶん投げてしまった。

 そういえば、着メロはこんな音だったな。誰からもかかってこなかったので、つい未知の音声だと思ってしまった。


 フローリングに激突しながらも、携帯は着メロを奏で続ける。バイブレーション機能が周囲の物体(ほとんどはビールの空き缶だ)に接触し、けたたましい音を生み出している。


「あーったく、もう!」


 僕は久々にキレかけた自分を宥め、ベッドから這い出て携帯を手に取った。


「はい、もしも――」

《って凪人曹長! 聞こえてる!?》

「うわっ! な、なんすか室長!?」


 電話の向こうは嶺子だった。僕は慌てて携帯の通話ボリュームを下げ、何があったのかと尋ね返す。


《クラゲコーナーの水槽、水圧がマズいことになってるの! 誰が調整したのか分からないけれど、このままでは水槽は内側から破裂するわ!》


 僕ははっとして尋ね返した。


「そ、その水槽って、ベニクラゲの水槽でしたか?」

《そうだけど、今はそれどころじゃないの! 警察には連絡を入れておいたから、あなたも早く来て頂戴! それじゃ!》


 ブツッ、といって、嶺子の声は聞こえなくなった。通話終了の効果音が流れる。

 そうか、嶺子は耕助と絵梨にも来てもらうつもりなのだ。それに、合わせて警察も。


「ああっ、たく!」


 別に僕は捕まるようなことはしていないし、そもそも動機がない。

 そう思いかけて、はっとした。


「これって、あんたの仕業なのか……?」


 僕の脳裏にあったのは、水槽の中で浮かんでいる女性のことだ。彼女が何か、力を行使して水槽を破壊しようとしたのか? 

 行ってみなければ分からない。そう思い直し、僕は急いでアパートの外部階段を駆け下りた。


         ※


 従業員用の駐車場に、僕は自転車で滑り込んだ。

 既にパトカーが二台、救急車が一台到着していて、パトランプがこれでもかと周囲の空気を真っ赤に染めている。


 パスカードと顔認証で、僕がここの従業員であることを証明する。

 警官が入館するよう指示をくれたので、僕は普段着(半ばパジャマ)のまま、裏口から入り込んだ。

 途中から、僕はいつのまにか速足になっていた。いやむしろ、駆け出していた。


 クラゲの水槽に浮かぶ彼女。その身の安全が、どうしても気になった。

 ――違うな。守りたかった。

 

 そう言いたいのは山々だったが、事態は思わぬ方向へ進展していた。

 僕が水槽の前に到着した時、その場にいたのは、嶺子と、水族館専属の整備員が二人。それを邪魔者から守るように、円陣を組むように警官が四人。救急隊員も数名待機していたが、彼らも警官の輪からは離れたところに立っていた。


「室長! 嶺子室長!」

「おっと、早速やって来たわね、凪人曹長!」


 嶺子の声は楽しげだったが、こちらに振り向こうとはしない。やはり責任者として、事態を見届けるべく意識を集中させているのだろう。


 って、今はそれどころではない。あの少女の身の安全は確かだろうか。


「室長、あの!」

「何、凪人くん」


 嶺子の態度は素っ気ない。だがそのお陰で助かった。

 もし嶺子がよく話を聞いてくれていたら、僕はうっかり少女の存在をほのめかしてしまっていたかもしれない。


 現在、少女の姿はどこにもなかった。どうしたのだろう? まさかもう捕まってしまった、とか? こればっかりは、他人に尋ねるわけにはいかないな……。


 すると、整備員二人が顔を見合わせ、こくこくと頷き合った。


「こちらの配管も機材も、特に支障はありません。きっと水圧メーターの故障でしょう」


 僕は頭がくらっ、とした。

 よかった。彼女は捕縛されてはいない。他人には見つからないようにと、本人も気をつけていたことだし、一応は結果オーライということか。


 と、思ったのも束の間。

 普通の人だったら、終わり良ければ総て良し、で済ませるだろう。

 だが僕は違う。まだ何も終わってはいない。それに、彼女に助けを求められてから、僕は拒否の意志を一切表明していない。

 こちらから語り掛ける手段がない、という都合を抜きにしても、彼女を助けたいとは思う。

 理由は分からない。でも放っておけないのだ。


 その後、僕は違和感のない程度にいろんな人から話を聞き、遅刻した耕助と絵梨に喝を入れながら、早々に撤退した。

 これで彼女も、周囲に影響を及ぼす危険性を理解したはずだ。向こうから何らかのアプローチがあったとしても、それを受けいれる余地があるのは僕だけだ。


         ※


 翌日、僕の出勤時刻はだいぶ早まった。

 といっても、夕方であることには変わりないのだけれど。

 パスカードと顔認証で、水族館の建物に入ることはできる。だが、誰もいない廊下の左右を見渡すと、なかなか寂しいものがあった。ほとんどの扉が施錠されているのだ。


 当然だよな、と思いつつ、警備員詰め所の前で僅かに立ち止まる。一瞥すると、やはりここも施錠されていた。これでは、警備員用の制服を着られない。

 仕方がないな。取り敢えずお客の順路に繋がるドアに向かってみよう。


 私服で向かうのは、あまり好ましい行為ではない。どこからかやって来た不審者だと思われかねない。それでも僕は、ベニクラゲの水槽の下へ辿り着きたかった。

 あの少女に会っておかなければならない。彼女を安全な形で、僕のみならず皆で受け入れなければならない。


「えっと、君の名前は分からないんだけど」


 僕はベニクラゲの水槽に向かって語り出した。怪しいとか恥ずかしいとか、そんな思いは不思議と湧いてこない。人間とは何なのか。それを、彼女には理解してほしかった。


 よくもまあこんな傲慢なことを言えたものだ――。僕はそうも思っている。

 彼女の出生が全く分からない以上、人類文明よりも地球環境について説明すべきだ。人間がこの星の支配者なのだ、という考えは、僕の好みではない。


 何を話すべきか考えているうちに、穏やかな光が僕の下へと伸びてきた。

 これは何なのだろう。敵意を感じなかったので、僕は立ち上がって光の為すままに任せた。

 よく見ると、その光は細い糸から発せられていた。糸は髪の毛ぐらいの太さしかない。

 糸はゆっくりと僕の背後に回り込み、音もなく僕のうなじにくっついた。僅かばかりの痛みが走る。


「この感覚は……」


 僕は気がついた。この糸は、僕の脳内の情報を吸収しているのだ。蚊に刺されたような感覚だと以前は思ったが、我ながら的を射たたとえだったな。


 考えてみれば当然だ、と僕は思った。言葉は水中では伝わらないし、強化ガラスの水槽を通過することもできない。だったら、僅かな隙間から直接対象物に触れた方が、情報入手はしやすいだろう。


 その日、糸が引っ込むまで、僕はぼんやり突っ立って、糸の主の為すがままになっていた。

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