第5話
※
「ん……」
僕は軽い呻き声をあげながら、頭の中に流れ込んできた情報を整理してみた。
逆に言えば、それだけ冷静さを取り戻したということだ。
「今のはいったい何だったんだ……?」
僕が水槽内に少女の姿を見つけ、何が何だか分からないうちに視界が真っ白になり、半ば気を失った状態からふっと元に戻った。……って、本当にわけが分からないな。
だが、確かなこと、明確な事実は二つある。
一つは、目の前の水槽から女性の姿が消えたこと。
もう一つは、彼女が最後に一言だけ、はっきりとした気持ちを僕に告げたことだ。
助けて、と。
僕はへなへなとソファに腰を下ろし、彼女のいた水槽(ベニクラゲのための個別水槽だ)をじぃっ、と見つめた。
早急に視覚が回復したのは幸いだった。しかし、だからといって彼女が消え去ったことを説明できるわけではないし、助けを求める彼女のためにできることは何もない。
僕が手に顎を遣っていると、クラゲコーナーの入口から声がした。今度はきちんとした、生身の人間の声だ。
「ナギ先輩、もう巡回時間終わりますぜ。警備員詰め所に戻りましょう」
「先輩、どこですかぁ~? またクラゲちゃん、眺めてるんですかぁ~?」
一瞬どきりとしたものの、耕助も絵梨もこちらの位置を把握してはいない様子だ。僕は立ち上がり、さも天井の照明が暗くはないかと、確認しているフリをした。
声をかけられたら、素直に二人と一緒に戻ろう。二人が僕を探しているということは、それぞれの警備区画で異常がなかったということだろうし。
「ちょっと、先輩? 聞こえてます?」
「えっ? あ、ああ、大丈夫だ。戻ろう」
この時の耕助なら気づいたはずだ。僕がクラゲコーナーを去ることに、僅かながら抵抗感を覚えていることに。
そうこうするうちに、耕助と絵梨は僕の両肩に腕を載せた。絶対に逃がさない体勢だ。
ぐわしっ! と僕の上腕を締めつけてくる。かなりの力だ。痣にならないといいのだが……。
※
ひとまず解放されるのは諦めて、警備員詰め所に戻った。
口内が甘ったるくなったためだろう、嶺子は室長席にどかっと腰かけ、ポテトチップスにありついていた。
「おっと、ご苦労様、皆の衆」
「ういーーーっす」
「只今戻りましたぁ~……って室長! どうして室長はポテチ食べてるんですか!?」
「いやあ、お菓子の棚に入ってたからさ。消費期限も迫ってたし」
嶺子は指先をぺろぺろ舐めた。行儀悪いな、おい。
デスクに置かれていたウェットティッシュを手に取りながら、嶺子は顔を上げた。
「で、何か異常はあったかしらん?」
「俺の担当エリアは異常なし、消火器も照明の配線も、ちゃんと機能してまっせ」
「あたしもですぅ。あ、二ヶ所だけ蛍光灯が切れかかってたので、備蓄している中から選んで交換するといいと思いますぅ」
了解、と言いながらメモを取る嶺子。彼女が顔を上げた時、その先には僕がいた。
「それで、凪人くんはどうだったの?」
「あっ、俺ですか?」
「あなたしかいないわ、『凪人』って珍しい名前だもの。それとも、真夏の熱波にやられて頭おかしくなった?」
確かに一理ある。……じゃなくて。
僕は迷った。あの、ベニクラゲの水槽にいた謎の人物について、報告すべきだろうか?
そうすると、今後はこの詰め所にいる四人で秘密を守ることになるわけだが……。
そんなことを考えていると、再びさっきの女性の声が脳内に響き渡った。
彼女は明らかに助けを求めていた。根拠は述べた通り、僕の脳に、明確なメッセージを送り込んできたからだ。
助けて、か……。意味は分かるが、肝心の思考回路、すなわち、具体的にはどうしたらいいのか? ということが全く思い浮かばない。
強いてあげるとすれば、今はまだ彼女の存在を秘密にすること、だろうか。彼女の存在がバレてしまった場合、『人魚伝説が田舎の水族館で判明した』というゴシップ記事が世の晒しものにされるかもしれない。それは避けるべきだ。
加えて、僕は彼女に選ばれたのだ。助けを求める相手として、選択肢の中からピックアップされた。
それが、他の人物との大きな違いだと言えるだろう。
それに、秘密にする理由がなくなったら、きちんと僕から説明すればいい。
しばらくローテーションでいろんな水槽の様子や蛍光灯の配線を確認することになるが、彼女がどんな姿かたちをしているのか、僕でさえさっぱり分からない。
僕以外の人物の前では、大人しくしていてもらう必要があるだろうな。
まあ、選んだのは彼女なのだから、他人に自分の身体を晒すようなことはないだろうけど。
僕以外の人間には、だ。
※
僕はその日、早朝までバイトの継続を申請した。
元々一時間に三周するのが、この水族館における夜間警備の通常シフトだ。
バイトである耕助と絵梨が帰宅を申し出たのは、午前三時を回った頃。
そういえば、僕がこの水族館警備のバイトを始めた頃は、一時間に二周のシフトで回っていた。それが一時間に三周になった、ということは、なにかしらの事件や事故があったのだろうか?
給料が上がったので、文句を言える筋合いではないが。
さて。そうなると、僕はしばしの間、嶺子と一緒に警備員詰め所に滞在することになる。
「凪人くん、我輩は夜食を買ってこようと思うが、どうかね? あ、もちろんお駄賃は貰うが」
「……」
「凪人くん?」
「あっ、す、すみません、休憩中とはいえ、警備任務中に緊張感を切らすのはよくないですよね……?」
「うーん、まあそれも少しはあるんだけれどねえ」
何だろう。嶺子が言葉に詰まるなんて、非常に珍しい現象だ。明日は雪と言わず槍と言わず、きっととんでもないものが降ってくるのだろう。
その時にならなければどのくらい危険なのか、さっぱり分からないのだが。
僕がデスク上から目を上げる。すると、腕を組んだ嶺子が何かを語り出すところだった。
「ところで、凪人くん」
「はい」
「さっき、変なものを見なかった?」
僕は急速に身体が熱を帯びるのを感じた。
「へ、変なもの、ですか? 例えばどんな……?」
「水槽の中にいる生き物……。何かここにいてはいけないような危険生物とか、あまりに不自然な現象とかに遭遇してはいないかしら」
これほどのド直球な質問があっていいのだろうか? いったい何を尋ねられるのかと思っていたら、まさかあの女性のことになるとは。
いや、待てよ。嶺子はまだ、その本性というか、今の状態を知らないかもしれない。
だとしたら、やはり僕は当初の計画、すなわち女性の存在の隠蔽をしておくべきだろう。
「えっと、その、僕は何も見たり聞いたりはしていません」
「そう……」
ギシッ、と音を立てて、嶺子は背もたれに体重をかけた。腕は組んだままだが、その表情は疑問と苦慮の混ざったものだった。
「ごめんね、凪人くん。我輩の考えすぎかもしれん」
うん、人に謝る時くらいは普通の口調でお願いしたいんだけど。
まあいいか……。
僕は後頭部を掻くような格好でぺこっと頭を下げた。
その時だ。うなじのあたりに微かな違和感を覚えたのは。
これはなんだろう? 痛くはないし、無視しようと思えばできるくらいの微々たる感覚だ。しかし、そんな感覚がある、ということは紛れもない事実。
僕はゆっくりと片手をうなじに近づけ、その感覚の元を捕らえようとしたが、しかし。
「うおっ!」
「んぎゃっ! どうしたの、凪人くん?」
「ああ、すみません。何でもないです」
僕が驚いたのは、うなじに近づけた自分の手が跳ね飛ばされたからだ。
それは一瞬の痛み。だが、そもそも大した痛みではない。
一つ分かったのは、感覚からして僕のうなじに何かが刺さっていたらしい、ということ。
蚊に刺されるようなものだと思う。しかし何をされたのかが分からない。
僕が何かに自分の思考を支配されていた時も、もしかしたら同じ現象が起こったのだろうか?
謎は深まるばかりだが、あの水槽の中の女性のことは秘密にすると決めたのだ。そこはしっかりと守らなければならないと思う。
僕は適当に嶺子の相手をし、最後の巡回を終えてから、そのまま帰宅した。
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