第4話
※
警備員詰め所にのろのろ戻ると、耕助と絵梨、それに嶺子がシュークリームに食らいついていた。食が細い僕からすれば、まったく以て信じられない光景だ。
そんなに『食』に対する執着が強いのか、お前らは。
「うんめえ~!」
「うわっ、美味しい~ぃ!」
「そうだろう、そうだろう! 我輩が出世したら、こんなもんでは済まないがな!」
ほう。焼肉にでも連れて行ってくれるのかな。
僕はシュークリームに手をつけていない。生憎、甘いものは苦手なのだ。さっきプリンの話題が出たが、羨ましいとは思わなかったし。
ただ、あらかじめ三個、すなわち僕をカウントしない個数で差し入れがあるのは心苦しいところ。
人づき合いが下手で朴念仁なのは自覚している。皆に悪意がないのも承知している。
でも、やっぱり寂しくないといえば嘘になる。
僕は人差し指でこめかみのあたりを掻いた。どうしたものやら。
ごちそうさまでした、を三人が済ませてから、嶺子が自分のデスクに手をついた。
ぐいっと立ち上がり、声高らかに告げる。
「えーっと、じゃあ皆の者は昨日と同じ順路で確認作業にあたってくれたまえ。特に凪人くん!」
「え、僕ですか?」
「そうだよ君だよ、蒼樹凪人曹長!」
あ、ちょっとだけ後輩の二人よりも階級が上だな。どうせこれは嶺子の趣味みたいなものだから、次に大佐になってるか二等兵になってるかは分からないが。
「で、僕が個人的にどうかしたんですか? 嶺子将軍」
「うむ。貴様、最近クラゲコーナーに入り浸っておるな?」
おおっと。危うくギクッ、と声に出すところだった。
「す、すみません……」
「まあ、確かにクラゲは美麗な生き物だが……。それを最初に楽しめるのはお客さんだ。我輩は君の上官として、立場の違いについて理解してもらわねばならん」
「そうですね。気をつけます」
素直なつもりでそう答えると、嶺子は腰に手を当てて大きく頷いた。それから足を閉じ、かかとを合わせて敬礼する。忙しい人だな。
それに合わせてくる耕助と絵梨もどうかと思うけれど。
※
そんなこんなで、僕たちは本日一回目の巡回を始めた。
生物たちを照らし出す照明は消されているので、天井の淡い蛍光灯を頼りに進む。念のため懐中電灯と小振りな無線機を持たされてはいるが、警棒などの武器となり得るものの携行は許可されていない。
要は、こんな田舎の水族館に強盗が入るわけがない、ということだ。
僕たちがやれることといったら、ぱっと見で分かることを確認するだけ。
消火器がきちんと配されているか、異常な動きをしている生物はいないか、水槽内の衛生環境に問題はないか、といったところだろう。
主な分担は、僕が無脊椎動物エリア、耕助が脊椎動物魚類群エリア、絵梨がその他、すなわち魚類以外の生物群エリア。
中でも、僕に割り振られた無脊椎動物エリアは巡回が難しいといわれる。理由は単純で、彼らが人間とはかけ離れた生態系を築き上げているからだ。
例えば、僕の担当エリアにいるカニやエビは脱皮をする。しかし、絵梨の担当エリア内で脱皮をする生物は極めて少ない。ワニやアシカが脱皮をする様子など、なかなか想像できないだろう。
と、いうわけで、僕は今日も今日とて甲殻類やら軟体動物やらを横目に、このエリアの最奥部に位置するクラゲコーナーにやって来たのだった。
この池ヶ崎水族館において、最も力を入れているコンテンツの一つ。全国版のニュースで取り上げられたり、大学と共同研究をしたりと、そこそこ名が知れている。
その外観は、どでかい試験管状の水槽が床から天井まで真っ直ぐに伸びている、というものだ。その一つ一つには、それぞれ異なる種類のクラゲがいる。
そんな水槽が、合計で十二基。反対側には横長のソファが配されていて、休憩するのにも適した空間だ。
そんなことを自分で自分に語りかけていると、いつの間にか僕はソファの中央に陣取り、じっと水槽の一つに見入っていた。
膝の上に肘を載せ、掌で顎を支える。悩める高校生みたいだな。まあそれはどうでもいい。
「はあ……」
問題は、今僕が目にしている水槽を漂うクラゲたちが、とても美しくて魅力的だということだ。思わず吐息が漏れるくらいに。
思えば、小さい頃から僕は透明感のあるものが好きだった。
これは、そんな僕の趣味趣向に伴う一つの失敗談だが――。
お気に入りのガラスのカップに牛乳を注ぎ、電子レンジで加熱してしまったことがある。
加熱時間を長く設定してしまい、カウントダウンが終わる前にカップは砕け散ってしまった。
これにはお袋もひどくご立腹だった。親父が仲裁に入るまでの間に、俺はネコパンチ状の鉄拳をさんざん喰らわされた。
「今は親父でもお袋でもないけどな……」
おっと、こんなことを考えるべきではないな。もう元には戻らないし、今さら騒ぎ立ててどうにかなる問題でもない。
さて、いつまでもこうしていると嶺子が怒り出すからな。そろそろ切り上げて続きの巡回を――。
そう思って歩き出そうとした、その瞬間のことだった。
「うっ!」
僕は慌てて顔に手を翳した。ほんの一瞬、試験管状の水槽の中から、鋭い光線が発せられたのだ。
指の僅かな隙間から入り込んだ光量だけでも、一時的に僕を盲目にするには十分だった。
「なっ……」
何だったんだ、今のは?
この水族館でバイトを始めてから三、四年は経っているが、こんな強力な発光現象を起こす生物は紹介されたことがない。
いや、それそも生物が原因なのではなく、機材トラブルの類だろうか。
少なくとも、原因の目星くらいはつけておかないと。さっき後輩二人に拘束された経験があるからだろう、多少僕は意地を張っていた。
加えて、僅かながらの高揚感、冒険心のようなものがあることも自覚している。
この原因究明を一人でこなせたとなれば、皆の中での僕の評価は間違いなく上がる。絶対に、そして大幅に。
とにかく、僕の心にそんな野望が残っている、ということは認めざるを得まい。
随分と長ったらしい自問自答になってしまったが、まずは視界を確保することだ。
幸いなことに、発光現象に発熱反応は伴っていなかったらしい。火傷をせずに済んだ。
「有難い話ではあるけどな……」
僕は片手で片目を押さえるスタイルで両目を閉じながら、ゆっくりと、水槽に背を向けたまま瞼を押し上げた。どうやら現象は収まったらしく、見慣れた廊下の壁面があるだけ。
よし、振り返ってみるか。
そう心の中で呟いてから、僕は何度か瞬きを繰り返し、ぐるりと身体を反転させた。
そして、水槽内の光景に唖然とした。
人が、浮いている。
ベニクラゲという名のクラゲの水槽の中に、胎児のように身体を丸めた人間らしき物体が浮かんでいる。高さは約一・五メートルほどのところで、衣類は一切身につけていない。
これは僕にとっては実に都合が悪い。何故なら、その人間は女性だったからだ。
女性の裸体を目にしてしまったのは、個人的にはラッキーでも何でもない。ただのスケベ、いや、アンラッキースケベ、とでもいうべきか。
自分で膝を抱くような格好をしているから、顔で性別を判断するのはほぼ不可能。だが単純に、全身が丸み帯びているところから、僕は女性だと判断したのだ。
「……ん……」
あれ? 妙だな。
今僕は、この女性らしき人物をどうすべきか、ということを考えようとしていたはず。
しかし、急に頭が回らなくなった。自分の意志とは反したところで、無理やり考えが進められようとしている。抵抗はできない。
息苦しさを感じるものの、何故か僕は深呼吸をしようとしない。
あやふやな考えが脳内を右往左往するうちに、次第に視界が白い岩石のような色彩を放つようになってきた。
眉間に手を遣ろうとするが、やはりそれは叶わない。
視野の中央から始まった白色化現象は、だんだんと僕の視覚を奪っていく。本当だったら絶対に抵抗を試みるだろう。
しかし、その『抵抗する』という考えが生じるや否や、その言葉は具体的な描写を失って消え去ってしまう。僕の想像や行動予測はすぐさま断ち切られ、何もかもが白い空間へと溶け去ってしまうのだ。
「ぐっ……」
不安や危機意識すら失われようとしている。僕の人生はここまでなのか。
そんな大袈裟なことに思い至るや否や、ふっと、全身の力が抜けた。そして言葉が脳内に響いた。
――助けて、と。
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