第3話


         ※


 なんだか今日は、館内スタッフの人たちとすれ違う機会が少ないな。

 そういえば、展示用の新しい海洋動物を搬入すると聞かされていた。だから閉館時間が早めに設定されていたのだろう。

 僕たちが行う警備活動には何の支障もないけれど。


 今、僕はある扉の前に立っている。その扉こそ、警備員室(として宛がわれた余剰スペース)に繋がる扉である。

 そっとドアノブに触れてみる。施錠されている気配はない。


 それを確認した僕は、今日何度目かも分からない溜息をついた。

 さて、今回はどんな趣向が凝らされているのかな?

 僕はごくり、と唾を飲んで、意識を集中させた。

 意を決してノブを捻る。そのままドアを押し込む。

 そして、大声で叫んだ。


「おはようございま――」


 そう言い切る前に、何かが僕の額を直撃。ぐわ! だか、ぶふ! だか、いかにも格闘漫画にありそうな短い断末魔を上げた。


「蒼樹凪人、討ち取ったり!!」


 意気揚々とデスクの陰から現れたのは、一人の高身長の女性。

 何を隠そう、彼女こそが警備員最古参にして閉館後のこの水族館の主、大川嶺子である。


 彼女の寸劇に合わせようとしていた僕は、しかしこれをとんだ茶番だと思い直した。額に直撃した物体は、やはりただの輪ゴム。

 それを拾い上げて目の高さに上げようとする。しかし、それは叶わなかった。唐突に、僕の頭部が柔らかい何物かに圧迫され、息ができなくなったのだ。


「あれれ~? 凪人くん、お芝居はもう終わり? 淡泊なのね、我輩より若いのに」


 いや、この状況で答えられるはずもない。そもそも呼吸ができない。それを伝えなくては。

 僕は四肢を思いっきり振り回し、嶺子に僕から遠ざかるようにと訴えた。


 状況は大方判明している。僕が輪ゴムを拾い上げた、すなわち隙を見せたところで、嶺子がデスクに手をつきながら跳躍、僕の眼前に飛び下りてきた。

 その直後から呼吸ができなくなったことを鑑みるに、僕は今、嶺子の胸の谷間に顔を突っ込んでしまったのではないだろうか?


 言うまでもなく、これは嶺子による立派な犯罪行為である。しかし、事態はそれだけでは収まらなかった。

 僕の背後で、がちゃりとドアが開かれたのだ。


「ちーっす! お、嶺子先輩、お疲れ様っす!」

「こんばんはぁ、今日もよろしくですぅ~」

「あら、二人共お疲れ様! 今日も異常がないかどうか、しっかりチェックして参ろうぞ!」


 嶺子の言葉に、たった今やって来た耕助と絵梨は固まってしまった。

 だよな。それはそうだよ。知人が、もう一人の知人の胸の谷間に顔を突っ込んでいるのだから。

 呆然とする耕助と、顔を信号機のように変色させている絵梨。


「あー……、えっと、俺たちはどうしたらいいんだ……?」

「ごめんなさい! 部屋を間違えました! ごめんなさい! ほらぁ、行くよコウちゃん!」


 再びがちゃり、と金属質な音と共に、開かれ、閉じられ、再び警備員詰め所は沈黙した。


「ああ、ちょっと!」


 きっと耕助と絵梨を引き留めようとしたのだろう、嶺子は半ばヘッドロックになっていた片腕の力を緩めた。この機を逃してなるものか。


「でやっ!」


 僕は我ながら、勢いのある張り手で嶺子をデスクの方へと突き飛ばした

 息は苦しいし、緊張感で頭がどうにかなりそうだった。しかも、この張り手が使えるのは一日二回が限度だ。何故こんな技を使えるのかはさておき、僕は呼吸を整えた。

 思いっきり空咳を繰り返す。辛うじて呼吸はできるようになったが、嶺子はまだ踏ん張っている。仕方ない。

 僕は二発目の張り手をここで繰り出した。腹部を狙って発した僕の張り手は、狙い通りに嶺子の腹部に命中。


「ぐは!?」


 これには流石の嶺子も倒れ込んだ。それでも、後頭部がデスクや床面に接触するのを防いだのは、称賛されてしかるべきだろう。


「相変わらず効くわねえ、凪人くんの張り手は……」

「室長のフックには敵いませんよ」


 かぶりを振りながらも、どこか楽しげに口元を歪める嶺子。

 彼女は時折、実に複雑な顔をする。意識的にか否かは定かでないが。


 この張り手は、秘密裡に会得したものではない。一子相伝というわけでもない。

 まあ、一種の護身術程度の扱いだ。僕は自分の両手を開き、掌をじっと見つめた。

 すると唐突に、嶺子が座り込んで声を張り上げた。


「きゃん! 凪人くん、我輩のようなか弱い乙女に、なんという酷い仕打ちを!」

「何が『我輩』ですか! 女性はそんな一人称使いませんよ!」

「ふむ……。我輩が本当に、人畜無害か弱い美少女だったら、ね……」


 ふっふっふ、と怪しげな……というか中二病的な顔つきで笑う嶺子。

 でも今年度末には三十路になるんだよな、この人。誰もが彼女に対して、やたら若いという印象を抱くだろうが、実際はいくつなんだろう。


 意外なほど、僕はこの人のことを知らないんだな。

 たとえそうだとしても、少しは中二病を発症しないよう、いい加減気をつけた方がいいとは思うのだが。


 僕は肩を竦めてポケットに片手を突っ込み、部屋のドアを内側からノックした。


「耕助、絵梨、もう大丈夫だ。事件は終わりだよ。入ってくれ」

「……」


 応答がない。


「あー……、二人共?」


 ノブを捻り、そっとドアを開けて顔を覗かせると、確かに二人はそこにいた。


「なんだ、ここにいたのか……。シカトしないでくれよ。もうすぐ巡回始めるから、警備服に着替えてくれ」

 

 数歩近づいてみて、僕は二人の状況を見定めた。どうやら絵梨が泣いていて、それを耕助が励ましているらしい。


「どうしたんだ? 気分でも悪いのか?」

「んなこと決まってるじゃないっすか!」


 絵梨の背を擦りながら、耕助ががばりと顔を上げた。苦悶の表情だ。


「ナギ先輩! あなたって人は……!」

「だからどうしたんだよ、ちゃんと教えてくれ! 謝るから!」


 すると、俯いたままで絵梨が声を張り上げた。


「どうせ……嶺子室長と比べたら、あたしのおっぱいなんて、まな板みたいなもんですよ!」

「そこかい!!」


 そう叫んだ僕の顎に、耕助のアッパーカットが入った。


         ※


「ようし! 総員出撃準備は完了だな!」


 耕助と絵梨が敬礼する。お前ら、嶺子の影響を受けすぎなんじゃないか?

 嶺子は映画が大好きだと聞いた。だが厄介なことに、それらの大半が日本のロボットアニメ、またはアメリカの戦争映画であるらしい。『らしい』というのは、僕が苦手とするジャンルで、あまり鑑賞会(という名の布教活動)に参加していないからだ。

 

 大川嶺子という人物は、地域の雑誌で映画レビューを掲載するほどの実力者である。

 流石にそれだけで生活費を賄えるはずがないから、こうしてバイトを掛け持ちしているのだろう。

 どうして水族館を選んだのかは大きな疑問だが。


「そこっ! 点呼しているんだぞ、返事はどうした! 番号は!」

「え? あ、ああ……、四番、です……」

「ブッブー! 蒼樹凪人、貴様は三番だ! 前述のとおり、間違った者は罰ゲーム! さて、我輩は貴様をどう料理してやるかな……」

「飽きないですよねえ、嶺子室長も」


 僕は溜息をつきながら、首をぐるりと回した。ぱきっ、と軽い音がする。

 

「耕助軍曹! 絵梨軍曹! そこの不届き者をひっ捕らえい!」

「了解!」

「了解!」


 まるで示し合わせていたかのような連係プレーで、僕はあっという間に床に倒された。十字架に磔になるような格好を取らされる。


「お、おい、ちょっと! これどういうことだよ! お前ら、室長に何か吹き込まれたな!」

「なに言ってるんすか、ナギ先輩! 俺らがそんな安っぽい人間に見えますか?」

「そぉですよぉ、隣町のデパ地下でしか売ってないプリンで買収されるわけないじゃないですかぁ!」

「そうそう! 濃厚だけどのど越しがよくて、舌触りも素晴らしい! あんなプリン、こんな田舎で食べられるなんて……。まったく、世の中どうかしてるぜ!」


 ……呆れてものも言えない。っていうか、僕を取っ捕まえて何がしたいんだ?

 僕がそう尋ねようとした、その時だった。


「みんな~、今日はシュークリーム買ってきたわよ~! 日頃の諸君の健闘に敬意を表し、一人二個ずつプレゼント! この美味しさ、我輩が保証するでござる!」


 すると、耕助も絵梨もぱっと僕から手を放した。歓喜の声(というただの奇声)を発しながら嶺子の下へと駆けていく。


「……何だったんだ、今のは……?」

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