第2話【第一章】

【第一章】


 僕が目を覚ましたのは、携帯のアラーム起動よりも三時間も早くのことだった。

 自室の冷房は自動運転を終えて停止している。


「やれやれ……」


 道理で暑苦しいわけだ。地球温暖化、いや、地球沸騰化が進行する昨今、冷房設備の配置は義務にすべきなんじゃないか。

 ベッド上で上半身を起こす。やはり暑い。今夜はバイトのシフトが入っているから、シャワーでも浴びてから出勤すべきだろうな。


 僕は適当に着替えとバスタオルを引っ掴み、脱衣所へ。もそもそとパジャマを脱ぎながら、いつもと同じ考えに至る。このマンションの一室こそが、僕を捨てた両親が遺した唯一の財産なのだ、と。


 一応、大学での教育費も貰ってはいる。しかしそこまでカウントするのは面倒だ。

 留年を繰り返し、今年で僕は二十三歳。

 それでも両親が、僕にもっと勉強しろだの、遊んでばっかりいるなだのという文句を言ってくることはない。

 彼らにとって僕がいかにどうでもいい存在なのか。それが明確に表れているところだ。


 シャワーを終えた僕は、ルームウェアを着てリビング件ベッドルームに戻った。それほど広くはないが、僕は満足している。理由は単純で、眺めがいいからだ。


「すごいな……」


 僕はがらりと窓を開けて、上半身を乗り出した。

 そこから見えるのは、広大な海。僅かに湾曲した水平線が、視界いっぱいに飛び込んでくる。天気がよければ沈みゆく太陽が海面に映り込んで、二つの円が重なり合っていく景観を拝むことができる。

 うむ、今日の眺めは格段に素晴らしい。早起きは三文の徳、とはよく言ったものだ。


 最近はこの景色を我が物にすべく、芸能人が近所に越してきたという噂を聞くが、果たしてどうなのだろう。

 都会のネオンに目が慣れた彼らに、この自然の雄大さが理解できるだろうか。


「……ふん」


 僕は自分がいつの間にか苛立っていることに、ようやく気づいた。

 といっても、別に都会やら芸能人やらに恨みがあるわけではない。なんというか――頭の中がごちゃごちゃだ。きっと情報処理ののろまな自分自身に苛立っているのだ。

 これだから精神疾患ってのは……。


 おっと、そうだった。精神科のドクターから処方された薬を飲まなければ。

 飲みそびれてパニックに陥ったことは、二度や三度ではない。

 最近は、流石に飲み忘れなどなくなってきてはいる。だが万が一、飲み忘れてしまったら……。そんなことを考えると、嫌な汗がじっとりと背中から噴き出してくるのが分かる。


 ふうっ、と息をつきながら、僕はかぶりを振った。

 頭を切り替えよう。これからバイトだ。出かける必要がある。多少は外見を気にしなければ。

 

 とは言いつつも、現場に着いたら着いたで、僕はすぐに着替えることになるのだけれど。


「まあ、こんなもんかな」


 安価なシャツとスラックスを下着の上から着用し、部屋の鍵と自転車の鍵を確認して、僕は玄関へ向かった。


         ※


 自転車をこぎ出した時、既に空は大方紺色に染まっていた。水平線は淡い橙色に広がり、どこか寂しげだ。太陽が最後にせめて、と、一筋の光を投げかけているように見える。

 腕時計に目を落とす。現在時刻、午後七時四〇分。現場到着まで、ちょうどいい時間の塩梅だ。


「持ってくる必要はなかったかな……」


 首回りに巻いた人間用の保冷パックに触れてみる。やっぱりあった方がいいかな、最近は天気も変わりやすくなってきているし。


 僕が走っている下り坂は、海岸線に沿っている国道へ至るための山道だ。

 対向車がぽつぽつと、ヘッドライトを灯しながら緩やかに流れていく。

 ヘルメットの顎紐をまた確認しながら、ゆるゆると急カーブを下っていく。


 その時だった。海外のデスボイスボーカルの曲が聞こえてきたのは。

 まったく飽きないもんだな……。僕はほとほと呆れながら、ゆっくりと減速した。後方から迫るデスボイスも、僕と位置を合わせるように停車する。


「あっれえ~? ナギ先輩じゃないっすかあ!」

「おう。そういうお前は元気だな、耕助」

「へい、おかげさまで!」


 僕は眉間に手を遣った。

 車道から声をかけてきたのは、僕のバイト先の後輩・谷木耕助。文武両道で曲がったことを嫌う。決して悪いやつではないのだが、いかんせんチャラ男である感が否めない。

 やや長めの金髪をポニーテールで縛り、サングラスを額の位置にセットしている。ノースリーブの重そうなジャケットを羽織り、右ハンドルのアメ車を悠々と扱っている。


「ねぇねぇコウちゃん、どうしたのぉ?」

「ん? ああ、ナギパイセンがチャリ乗ってっから、喋ってた」

「ほぇ? あぁ、凪人せんぱーい。おつかれさーっす」

「なんだ、絵梨も一緒だったのか。よう」


 僕はさして驚くでもなく、さっと手を上げて挨拶した。

 彼女は花宮絵梨。同じく大学の後輩で、耕助とは同期。共に農学部で水産加工業を専攻している。

 サングラスを外すと、片方だけカラーコンタクトを入れた瞳が露わになる。両目を別々な色にすることにどんな意味があるかはわからない。色素の薄いショートヘアもまた然り。

 それでも耕助よりは、だいぶ落ち着いて品があるように見える。彼女も精神面はしっかりしているから、さして意外でもないけれど。


「あ、凪人先輩! 最近気づいたことがあって!」

「ん、なんだい?」

「先輩、警備員でバイトできてよかったですね、ほんっとに!」


 何の話だ? 僕が顔を顰めると、絵梨はぷくーっ、と頬を膨らませた。


「だってぇ、先輩って愛想が全然ないじゃないですか! 髪はボサボサだし、頬はこけてるし、細長くて海藻みたいだし! 接客業は絶対無理です! このあたしが保証します!」

「どんな保証だよ、それ……」


 僕の呆れた声音に反応したのか、耕助は絵梨をぐいっと振り向かせた。


「こらっ、絵梨! 先輩にそんなことを言っちゃだめだぞ!」

「みゅぅん、ごめんなさい……」

「そんな本音ばっかり言ってたら、いくら凪人先輩でも鬱状態――」


 僕は無言で耕助の頭に手刀を喰らわせた。


「いてっ! なっ、何するんすか、先輩! 俺は先輩のメンタルケアのために!」


 そこまで言って、耕助は黙り込んだ。地雷を踏んだとでも思ったのだろうか?

 まあ、別に気にすることでもない。

 初対面で僕の病気のことは皆に知らせてあるし、今までさんざん腫れもの扱いされてきたし。なんというか、もう慣れた。


「あっ、凪人先輩! よかったら乗っていきませんか?」

「っておい絵梨、自転車はどうするんだよ」

「後部座席に載せればぁ?」

「座席が汚れるだろうが、このおバカ絵梨! そんなところも好きだぞ~!」

「いやん! コウちゃんのエッチ~!」


 ……もう、一人で行ってもいいかなあ?


         ※


 結局、僕の方が到着は早かった。関係者専用の出入口に通じる駐車場に走り込んだ時には、太陽の残滓は完全に撤退し、天空の主役の座を星々に明け渡していた。


 ヘルメットを外してチェーン型の鍵で後輪ごと施錠。ふっと軽く息をついて、関係者専用の出入口へと足を運ぶ。薄暗さを強調するように、二、三基の蛍光灯がアスファルトに光を投げかけている。


 周囲に自分や他の警備員以外の人影がないのを確認。閉館後に、こんなところにお客にいられても困るのだが、それはお互い様というところだろう。

 強盗に遭っても、僕にはさして金銭的な価値がない。現金やカードの持ち合わせはほとんどないし、誘拐されても身代金を出してくれる人間がいるとも思えない。


 僕は一旦立ち止まり、月明かりに照らされた海に一瞥をくれてから、カードキーによるセキュリティを解除して入館した。

 中に入ったら入ったで、あまり明るくはない。外よりはまだマシか、という具合だ。

 むしろこのくらいの暗さの方が、恐怖心を煽ったり、パニックを増長したりするものなのだろうか。


「……」


 僕は音のない溜息をついて、再び歩き出した。警備員の首領たる人物の座する、夜間作業員詰め所の控室へと。

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