海月な彼女と浮遊感に漂う僕【正式版】

岩井喬

第1話【プロローグ】

【プロローグ】


 その少女は、水槽をすり抜けて現れた。

 少女、と表現したのは、それが最も適切だと思ったからだ。当然だろうと言われてしまえばそれまでだけれど。


 全身がすらっとしていて、顔が小さい。スレンダーなモデルみたいな体格だ。

 しかしその顔は、まだあどけないように見える。中学生? いや、高校生ぐらいか。

 背中にはすらりと長髪が伸びていて、麦藁帽子を被っている。

 

 着用しているのは、パステルブルーのワンピース。

 口元には微かな笑みが浮かんでいて、瞳はビー玉のように丸い。背後から差してくる光が屈折し、眼球をきらり、と輝かせる。


 さっきまで、僕はこの人物を『少女』と呼称していた。が、それは止めた方がいいかもしれない。厳密には、この人物は女性、いや、そもそも人間ですらないからだ。


 その確たる証拠は二つ。

 一つは、彼女が僅かに浮遊していること。足はあるから幽霊ではないようだ。しかしながら、地面に足がついていないのにそれを意に介してはいない。

 サンダルの爪先は、明らかに浮いている。


 もう一つは、彼女の姿全体が、青を基調としたクリアカラーになっていること。彼女の顔を見ているつもりが、その先の照明に視線が飛んでしまう。


 ここで、さらに一つ確認したいことができた。彼女の身体は実在しているのだろうか? 幻覚や錯覚の類ではないのか? 今ここには、僕と、この不思議な生命体がしかいないけれど。


「ああ、そうか」


 僕はぽかんとしながら呟いた。今後に及んで、僕はようやく自分の喉がひどく渇いていることに気づいた。

 それを見て、生命体は首を傾げてみせる。僕の疑問を、さらに疑問で返すような所作だ。


 今、僕は自分の興味関心と警戒感の板挟みに遭っている。

 生命体に触れてみたい。

 下心はないつもりだ。それでも実在しているかどうかを確かめるには、実際に触れてみるしかない。

 また、未知の物体に触れるのだから、危険が伴うかもしれない。その不安が、伸ばしかけた僕の手をふわり、と止めてしまう。


 すると生命体は、僕の手にそっと自分の手を差し伸べてきた。

 僕が顔を上げると、やはり微笑みを浮かべている。

 ごくり、と僕が唾を飲んだ、その時。


「先輩? 蒼樹凪人先輩!」


 何者かが、暗い廊下の片端から歩いて来る。懐中電灯で、狭い廊下を慎重に照らし出していく。

 僕は直感的に、このままではいけないと思った。生命体の姿を隠さなければ。


《もしもーし、耕助くん? 先輩、そっちにいないのぉ?》

「そうだな、いっつもこの辺でクラゲ眺めてるはずなんだけど……絵梨ちゃん、そっちは?」

《ぜーんぜん! 猫一匹いないよぉ》


 無線で二人の人物が、僕を探しているのが分かる。そして、会話に集中すべく足を止めた。


「戻れ! 水槽に戻るんだ!」


 僕は、大袈裟に羽虫を払うように手を動かして、生命体に引っ込むよう促す。

 しかし何をどう解釈したのか、生命体は面白がって、ずいっと顔を近づけてくる。

 少しだけ、ドキリとした。……って、そんなことはどうでもいい。


「ああもう! ついて来い!」


 僕は生命体の腕を掴んで自分に引き寄せ、通路から外れた非常口へと向かった。

 これでこの生命体に実体があることが確認された。しかしその時の僕には、それを実感するほどの冷静さは残されていなかった。


 まったく以て、妙なことに巻き込まれてしまったな……。

 この事態は僕が生命体と出会った時、すなわち三日前に遡る。

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