第7話
ユミの通う小学校は、アパートから歩いて十五分ほどのところにある。僕は合成ゴムで舗装された校庭を歩いて、来客玄関へと入っていった。
「国際情勢については、仕事柄、悪いけどあなたよりもよっぽど理解しているつもりです」
応接室に通された僕は、ユミの担任の男性教師が現れて、一言二言、かんたんに挨拶をしたあと、そう切り出した。教師は、年齢は僕と同じくらいで、柔道の段を持っているとのことでがっちりした体格だったが、日ごろブランコと向かい合っている僕は、全く威圧されることはなかった。
「その上でいいますが、僕は仕事相手として彼を尊敬しています。それはセレーヌとアルタイルがこれからどうなるかに関わらず変える必要のないものであるはずだ」
僕はユミがアルタイルの人間について好意を持って、それをクラスメイトに話すことを、学校が妨げるべきではないことと、大体その位で世論に影響なんて与えるはずもなく、むしろ懸念すべきは小学生の女の子の言葉などに過敏に反応してしまうような不自然な空気にセレーヌが包まれてしまい、人々が正常な判断力を失っていくことであることを、彼に述べた。
それに対する担任教師の答えは、そりゃあなたはお仕事上、食料やらなんやらをアルタイルから優先的にもらえるから悪くは思っていないのかもしれませんが、というものだった。
なんだ、こいつは。
そんなことあるわけがないじゃないか。そういうのを横領って言うんだ横領って。
実際はむしろ逆で、社内でも物資調達の担当がそういうふうに見られがちな空気は残念ながらあるので、自分の住む地区への食料供給は少なめにしたり、順番を後回しにしなければならないくらいなのだ。
僕はこの男が自分の教師としての信念に従って、現在の情勢の中で自分のクラスの生徒たちにそういう話をさせたくない、と思っているならば、僕の考えとは違うが仕方がないかも知れないと思っていた。
話はどこまでいっても平行線だろうし、それでも自分の意見だけはちゃんと伝える、それしかないだろうと考えていた。
だけど、議論にすらならなかったのだ。
あきれ果てた僕は応接室の壁に並ぶ、歴代の校長の写真を見上げた。月の小学校はまだ歴史が浅いので、歴代といっても写真は三枚しかなかった。
そのあとも少し話したがその教師の個人の考えのようなものは一つも聞くことができなかった。重い徒労感に包まれた僕は帰り際に玄関のところで、どうもお忙しいところすみませんでした、と皮肉のつもりで言った。
教師は、いいえこれも仕事ですから、と厄介なクレーマーの詰問をかわしきったデパートの売り場店員のような笑顔を見せた。
家に帰ると、ユミが心配して、どうだったかと聞いてきた。彼女はあくまでも僕がいやな思いをしなかったかどうかだけを気遣ってくれていた。僕はそれだけで幸せな気分を取り戻すことができた。
「この世の全ての人間から、自分は正しいと認めてもらうことなんて、どのみち無理なんだよ。」
僕はユミが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、彼女に言った。
ユミは悲しそうだった。僕も彼女くらいの年の頃は、誠実さがあれば誰にでもいつかは自分を理解してもらえるものだと信じていた。
それにあんな男でもユミにとっては担任で、彼女は彼のことすらも好きだったのだろう。
「先生はきっとわたしのことが嫌いになったよね。これからもわたしが話しかければ笑ってくれるかもしれないけど、それでも先生はもう本当はわたしが嫌いなんだよね」
ユミは賢い子だった。そのかわいい顔が悲しみに曇るのを見るのはつらかった。
「俺の周りにもいるよ。会うたびにニコニコして寄ってきて、俺に話しかけてくるけど、そいつは俺のことが大嫌いなんだ。でも俺は平気だよ。簡単さ。一人だけ、認められたい人間がいる。その人が自分は正しいと認めてくれれば、信じてくれれば、それでいい。ほかの人間にどう思われたって気にならない。また明日も背筋をまっすぐ伸ばして出かけて、そして笑って君の元に帰り着けるように、自分のベストを尽くすことがきっとできる」
僕はユミの艶やかな髪に触れた。見ていると胸が締め付けられるほどの漆黒の髪は、彼女の心そのもののように、繊細で、柔らかくて、一途だった。
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