第4話
月では植物の自然な育成の為、光量の調節により人工的に季節が作られていた。
日本の関東地方の五月に相当する環境に調節されたその日の公園は、とても過ごしやすかった。まもなく梅雨を再現するために湿度が上げられ、植物への水分供給も多くされるようになる。
チューリップの時期はもう過ぎていたが、のんびりや達がまだ少しだけ居座っていた。鮮やかな紫色のあやめが公園のあちこちで大きな花をつけていた。
月では植物は、低重力によって、地球上で栽培されたものよりも背丈が大きくなる。ユミもこの一年で成長期だということもあり身長が七センチ伸びていた。
「二ヶ月位は目が回るほど忙しいと思う。でもそれが一段落ついたら休暇をもらって、一度地球に戻ろう」
できれば半年はユミと一緒に地球で過ごしたかった。それだけあればユミの若い体は丈夫な骨を作り直してくれるだろう。
仕事の方はその間、籍はセレーネに置いたままで地球側にて資材の納期調整を行うことになる。送り側の地球にいたほうが調整しやすい場合も多々あるのだ。
健康上の理由から順番に定期的に地球に戻ることが慣例となっていた。そのころまでには今の月と地球の緊張状態がなんとか改善されていればいいのだが。
「望遠鏡をもっていけるかな? 地球から月を見てみたいな」
地球から月を見るとすでにその表面の三分の一ほどの面積は人工の建造物に覆われているため、昔のようなうさぎに例えられた情緒ある姿は残念ながら見られない。
月の開発が本格化して、技術的な課題や法整備など万事にわたる議論がなされたとき、月の景観はさほど重要な案件としては扱われなかった。
人間にとっても、多分地球に住むほかの動物達にとっても、空に浮かぶ月を眺めることは、古代よりみんながしてきた、自分達が思っているよりも重要であり、必要としているはずの行為だと僕は思うのだが、残念なことだ。
もちろん月の裏側、常に地球に対して背を向けている面は、無数のクレーターが示すように、隕石の飛来確率が格段に高く、またそのクレーターによる起伏の大きい地形は、基地の建設には不向きだった。
「お月様は、地球をみるのが好きなんだよきっと」
いつか望遠鏡を覗きながらユミがそう言っていた。僕もそう思う。衛星の自転周期がその公転周期と等しいため、母星に対して同じ面を向けることは、太陽系のほかの衛星でも一般的に見られる。理論的になぜそうなるのかは明快に説明が付けられているが、僕はそれよりもユミの考え方のほうが好きだった。
地球をいつも見ていたいから、月はきっとそれが叶う理屈を後から作り上げたのだ。
そして僕の会社に泊まりこんでの激務が始まった。
物品の納入スケジュールは綿密に練られていた。むしろそれは綿密すぎた。
現状はアルタイルからの横流し物資の管理が中心だったが、アルタイルもそんなに余裕があるわけではない。本当に予定通り納入されるかは当日の土壇場になるまで分かったものではなかった。
受け取った物資の運用、加工スケジュールというものは極力余裕を持たせるべきだったが、いまのセレーヌにはそれができなかった。何か一つ予定が狂えばがたがたと全体の見通しがくずれてしまう。計画を守るために僕たちは文字通り命がけだった。
納期を巡る攻防をするときの資材担当というものは、借金取りと同じだ。
いくら向こうの言い分に筋が通っていて、防ぎようのない想定外の事態によって納期が遅れてしまう場合でも、はいそうですかと引き下がることは許されない。
ものの例えではなく、本当に、セレーヌの家々では子供たちがおなかを空かせて、僕が食べ物を持って帰るのを待っているのだ。
僕も、好きでやっているのではないが仕方なく声を荒げて納期の尊守を要求することがあった。
僕がアルタイルと交渉をする際の向こうの直接の窓口はブランコという軍人上がりの黒人男性だった。
最初期の宇宙飛行士は軍人の中から選りすぐりのエリートが選出されてその任に就いたが、現在でも宇宙での業務に携わるものは軍人出身者が多かった。
僕のように、工場勤務から異動するものは少数派だった。
ブランコは大学時代,バスケットボールのスター選手だったそうで身長が二メートル近くある。
初めての打ち合わせの時、スキンヘッドにサングラスで現れたブランコを見たときには、今度のケンカ相手はえらいのが来たぞとたいそう驚いたものだったが、背中を丸めて神妙に僕の名刺を受け取った彼は、話してみると中々のナイスガイだった。
僕がつまらない冗談を言うとブランコは顔をくしゃくしゃにして大笑いをした。低い、腹のそこに響く笑い声だった。
もちろん仕事の話になればお互い真剣勝負だ。アルタイル側からしても、セレーヌへの対応はいま一番神経を使わなければならない業務だ。そんな情勢で、担当に任命されたブランコは、年は僕より四つ下ではあったが優秀でないわけがなかった。
彼の交渉術はその図体から想像したものとは違い、徹底した理論的なものだった。
情にとらわれず、できないものはできない。決して感情を高ぶらせることなく、冷静な目でまっすぐ僕の目を見つめながら一つ一つ状況の説明をした。
会社勤めをしていれば大勢の人間に接することになり、そこには常識人もいればくそ野郎もいる。直接の仕事相手として頻繁に会うことになるのが彼のような人間であるということは僕にとって幸運だった。
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