六
イシダイの刺身にから揚げ、ポテトサラダにみそ汁という食事を前に、私とさきさんは一緒に手を合わせた。
外では大雨が降っている。俄雨だろうか……さきさんがつけたテレビによると、夕方から夜にかけてはこの辺りで激しい雨となる予報だった。明日に引きずらない事を願うしかないが……いかんせん天気だけはどうにもできない。
刺身を作ったのは私でから揚げは共作、出来は上々といった所……話すのは私の仕事についてで、さきさんは興味深そうに聞いていた。この後数日必要な事ではあるが、私が気になるのはそれではない。
食事を終えて。
「少し、こちらへ」
食器を纏めるだけ纏めて、さきさんはキッチンに持っていく事もなく廊下への戸を開けた。
廊下に出ると、さきさんはすぐ目の前の襖を開けた。
雑然とした部屋だった。物置を兼ねているのか、サラダ油の段ボール箱やトイレットペーパーの買い置きなどが置いてある中に、アイロン台などが置いてある。テーブルが一つあり、裁縫道具が近くに置いてあった。仏間でもあるらしく、仏壇がある。そこには昨日、私が贈ったお土産が供えられていた。
その部屋の壁にかかっているのは、居間と同じ幾つもの画幅だった。さきさんが手で示すのは、炎に包まれた天女の絵だ。
「こっちが本当の宝物なんです。洗い物済ませてくるので、ここでお待ちください」
私が何か返す間もなく、さきさんはキッチンへ向かった。
何か彼女の秘密に関わる大事な話が始まる……予感はあった。そして、目の前にある炎に包まれた天女の絵が何故だか気になり、私はそれの前に立った。
見た感じに浮世絵に現れる天女と変わらない物に見える。ただ、炎に包まれているという点が異様だった。一体どんな意味があるのか……そして、炎の上端は画面の限界まで描かれている。仮にこれを下絵にして背中に彫りつけたならば、首筋を少し露出するだけでその炎は人に知れるだろう。
他の画幅を見るが、これらはことごとくよくある絵柄で、何か変わった事があるようには見えない。また、入れ墨にした時の塩梅を考えてもさきさんの背中にあるあの赤い鱗になり得ると見えなかった。
奇怪な家の奇怪な部屋に隠棲する彼女の口から語られるのは――足音を聞いて私が入口を見ると、さきさんは麦茶を持ってテーブルにそれを置いた。
「長い話になりそうですから、お茶でも飲みながら……」
彼女はしんみりと言う。何か遠い記憶を呼び起こすような、そんな表情が浮かんでいる。
「ありがとうございます」
私は彼女の前に座り、グラスを受け取った。
そこでさきさんが語った事は以下の通りだ。
神様、っていう言葉が身近にあったんです。
信じていたっていうとバカみたいかも知れませんね。でも、幼稚園や小学校の頃の私は真面目に信じていました。ただ、例えば絵本に出てくるような神様ではないんです。神様の話は好きでしたけど、あくまで家の中で語られてた神様です。
別に変な宗教にはまっていた家族がいたわけじゃありません。ただ……お祖父ちゃんやお祖母ちゃんが教えてくれた神様の話、それが好きでした。民間信仰って言うんでしょうか……調べたりもしたんですけど、私が聞いた事のある神様は全然違うんです。
その神様とこの絵になんの関係があるのかと言うと……お祖父ちゃんが言ってた事に繋がるんです。
「神様は人間の前に出てくる時は人間の姿をしているんだ」って、変な話なのかも知れません。だって、絵本とか絵画の神様って、大体人間の姿をしているじゃないですか。元々そういう姿で、人間が神様に似てるって言われて……。でも、うちの神様は本当はそうじゃないんだって聞いた事があります。本当の姿は人間が持ってる言葉を超えるんだそうです。その姿は鹿みたいでもあって、亀みたいでもあって、木のようであって、玉のようでもあって、絶えず変化するらしく……。ただ、姿が見えるなら……お祖父ちゃんが言ってた事は「早子にはきっと、この天女様みたいだろうな」っていう事です。
人によって見え方が違うらしくて、私であれば天女の姿らしい……っていう事です。お祖父ちゃんは別らしくて、自来也の絵を大事そうに持っていました。それがお祖父ちゃんに見える『神様』らしいです。ただ、見え方の問題であって、私が見た神様もお祖父ちゃんが知ってる神様も、存在としては同一のものです。同じ存在が人によって違う見え方になる……勿論、
怪しい話だと思いますよね。私も豊さんの立場なら怪しいと思います。でも、私にとっては例えば、野菜を切る時に左手を猫にする、赤信号に当たったら止まる、みたいな常識と同じなんです。神様はいても私の事を見てなんかいない。世界のどこにでもいてどこをも見ているけれど、一人の人間に目を向けるのなんてほんの一時だけなんだって聞きました。だから、いつ神様の目が向いてもいいように生きろって。
説得力ないのかも知れませんね。特に彫り物なんかしてると。
けど、そういう社会でダメな物でも別に神様は咎めないんだって聞きます。本当にダメなのは命を蔑ろにする事。つまり殺人や自殺……少なくともそれは凄くダメな事だって教えられました。法律で決められている事や道徳の上でダメだって言っても、あんなに口酸っぱく言ってたのはうちにある独自の信仰の為だと思っています。
絵の事に話を戻すと、私は昔……五、六歳くらいにこの絵をお祖父ちゃんに見せられて、それからずっと憧れていたんです。憧れ。どういう意味での物か自分でも分かりませんけど、写真の中の人にいつか会えるんだっていう気持ちに近いかも知れません。この感覚、この信仰、どちらも人に共感された事がないですけど……多分、理解も共感も求めてないんだと思います。
人にこういう話をする事もあまりありません。私の家族と馴染んでいるこの辺の人達はそもそも知っている話です。信じているのかは別ですが。
広める気もなく、私はただこの信仰を一人で感じていって、最後に天国……っていう言葉も借りものですけど、そういう所にいければいいかなと思います。なんだか普通に生きていって、自分の命も他人の命も大事にしていればいいみたいですけど。
この天女様は昔から好きで、私は何か困った事がある時とか、目標がある時に天女様の絵にお願いするんです。そうすると叶うって、自分で思い込んでるにしては何度も助けられました。
例えば八歳の時、その頃うちで飼っていた犬が病気になったんです。獣医さんの話も分からないくらいに子どもの頃でしたけど、随分酷くて。覚悟しておいてくださいって言われたくらいです。天女様に『ムータが治りますように』って毎日祈ってたら一ヶ月くらいで症状がよくなって、結局私が十五になった年に老衰で死ぬまで生きていたんです。
今話したのは大きな物ですけど、もっと小さい事は幾つでもありました。今年も健康でいられますようにとか、育ててる花が咲きますようにとか、告白が上手くいきますようにとか。そういう上手くいく事が重なっていく中で、私が私の神様を忘れる事ってあるんです。
高校の時、つきあっていた人と上手くいかなくて、ただその時の私は日常に余裕がなくて、神様の事を忘れていた所、その人は離れていったんです。その時に思った事は神様を大切にしていきたいという事で……この天女様に毎日祈るようになったのはそれからです。なんでも叶えてくれるわけじゃないとは思うんですけど、後で「お導きかな」と思う事は何度もありました。
考え方の問題な気はします……ただ、神様を確信する事はあったんです。
起きた事は明確です。家族の連続死、全員が病気でです。祖父母は元々持病がありましたし、父も丈夫な人ではなかったんですけど、母も何人も看病している内に体を壊したらしく、二、三年の内にバタバタと。
その頃のこの家に何があったのか、正直よく知りません。大学に通っていて、遠方に住んでいる間に祖父母が流行り病で亡くなって、その病気の特徴でお葬式も上げられない決まりが当時はありました。感染力が高いとかで、遺骨を納めるだけです。父もそこから間もなく逝って、お母さんはお父さんがいなくなると呼ばれるみたいに。
その頃の私は大学二年で、県外にいたんですけど、帰ってきて遺品を整理してって、今もほとんどそのままにしてあるんですけど、その中でこの家にある絵はそのままにしようと思いました。
中でも一番親しい天女様の絵は手元に置きたいと思ったんですけど、絵が好きでも詳しいわけではなく、どうすればよく保存できるか考えて……。
さきさんは徐に上着を脱いだ。半そでの白いシャツから覗く腕には想像通り、彫り物が見えた。青の中に赤が混じる独特の模様は炎のように見える。
「少し」
背中を向けて、彼女はシャツを脱ぎ、ブラを外した。
細い体だった。夏場でも肌を露出する事はあまりないらしく、隠されていた肌は白い。形のいい背中だと思わせるのは、炎を背負った美しい天女の入れ墨の作用であるのかも知れない。
私は密室で彼女が脱ぎだした事よりも、その背中に存在する入れ墨の美しさに驚いた。これほど立派な彫り物は初めて見る。本格的に和彫りで彫られた天女はきっと前方を見て、赤い炎の中に燃える事もなく羽衣を纏っていた。
「この炎は、火光というそうです。厳密には炎じゃなくて、東の空に見える夜明けの光の中に天女様がいるんだって、いつかお祖父ちゃんが言ってた事ですけど」
入れ墨を私に見せながら、首を曲げてこちらを見るさきさんの姿は妖艶だった。妖艶? 否、魔性や妖気とでもいうべき色香を放っている。
私は既にその特異な信仰と、それを自身に刻んださきさんの身の上の話に夢中になっていた。もっと知りたいと思う心が抑えられない。刺激された情欲は好奇心のふりをして私を蝕み、浮ついた事を言わせた。
「その天女様を彫った時の事をお聞きしても、構いませんか」
見返りの状態でさきさんは微笑んだ。
「はい」
彼女はブラをつけずにシャツを着なおして、上着で胸の辺りを隠して私に向き直った。
古びた民家の中に存在する香りは淫靡を伴い、それを表に出さぬ為に神秘の皮を剥ぐ……学者の業か、無残な真似をしている。
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