五
見知らぬ土地で奇異な物に遭遇した場合の考え方は知っている。単にその土地にはそのような物が当たり前に存在していると受け入れる事だ。もっとも、さきさんの家の変わった造りはともかく、彼女の背中まで一般的だとは思いたくないが。
さきさんの家は外から見ると古いなりに変わった所のない一軒家だが、中に入ると異質だった。玄関に入ってすぐ目の前に戸がある。玄関自体横に長い。向かって右に下駄箱、左側を見るとそちらに廊下があるが、その先にも襖が見えて、内部がちょっとどうなっているのか分からない。玄関にはさきさんが使うつっかけの他に一足の靴もなかった。
「あ、こっちに上がってください」
さきさんは戸を開けた先……畳が敷かれ、掘り炬燵があり、テレビがあり……という居間を示した。さきさんは先に上がってそこにクーラーボックスを置き、彼女は奥にある戸を開けた。途端に僅か、部屋の匂いが変わる。向こうはキッチンだろうか。
「お邪魔します」
知らぬ仲ではないと言うのに彼女の事を知らなさすぎるが、私はひとまず持ち込むべき物を持ち込んで居間に上がった。紛失して困る物は多いが……こんな田舎の一軒家にあえて盗みに入る人がいるだろうか。まして私の調査関係の持ち物は金になりそうでもない。最低限高価な物と財布などを持っていればいい。それでも泊まり込むような荷物にはなっているが。
「今お茶入れますね」
さきさんは台所から栗饅頭の袋を持ってきて、その封を切り、炬燵の上の木皿に置いた。
「ありがとうございます」
入ってすぐの所に座った私は炬燵に足を入れるのもどうかと思い、正座していた。
私は(不躾と分かりながら)部屋の中を見た。廊下の方には硝子戸があり、開かれていた。その先に見えるのは襖と階段だ。炬燵の上には灰皿があるが、使っている風ではない。何より目を引くのは、壁を埋め尽くすほどに掛けられた画幅の数々だった。
龍、雷神、鬼、女郎蜘蛛の絵……こういう物を愛好しているのか、それとも家族の誰かの持ち物か……前者だと思うのは、さきさんに同居人がいないだろうという推測があるからだろう。
「いえ……せっかくですから」
お茶の用意は居間にあった。扉がついたキューブボックスが置かれ、その中に急須と茶碗が入っている。
「どうぞ」
私は少し強張った顔をしていたように思う。さっきと同じ言葉を繰り返して茶碗を受け取り、湛えられた鶯色を見た。僅かに波紋が揺れ、少し飲む。
「家族はいないので、あまりお気を遣わずに」
思っていればその通りで、玄関に靴が少ない事、車を置くスペースが明らかに埋まっていない事、そして家の中にも人の気配がしない事から予感はしていた事だった。
「そうですか……絵はお好きなんですか」
身の上話をする間柄でもないだろう。寧ろ趣味の領域で知り合った仲、その話題の方が幾らか安らぐ……と思えるのは私だけか。
「こういう絵は元々家にあったんです。祖父が……身内では一番先に死んだんですけど、収集家だったらしくて。子どもの頃から好きだったので今でも飾ってあります。ただ……」
さきさんは私から見て右にある雷神図を見た。
どういう作者の筆による物か知らないが、素人目で見てもなかなかにできた物に見えた。民家で見る物というよりは、美術館で硝子越しに見るような……。
「一番好きな物は一つだけです」
ふいに、視界の端で黒髪が動く。さきさんは雷神図に興味もなさそうにお茶に視線を落とし、塞いだ顔をした。
何が彼女をそれほどに憂鬱にさせるのか。さきさんと会った回数は三度目だが、彼女の穏やかな空気はこの時初めて、不穏に淀んでいた。
「それは……聞いてもいいんですか」
好奇心の暴走は寸前で卑怯な質問に変わった。私が彼女を見ると、さきさんは唇で微笑んだ。
「見た方が早いです。ただ……少し待って頂ければ。もうそろそろ雨が降りそうですし、イシダイも捌かなきゃいけませんし」
誤魔化すわけでもなく、寧ろ当然の事が並んだ。私は一つ深く息を吐き、この閉ざされた密室へのどうしようもなく卑しい興味を満たす方法を選ぶ事にした。
「魚ならさばけますよ。道具さえあれば」
「なら……すみません、お願いします。少し家事を済ませたいので」
「はい」
さきさんも私も茶を一息に飲み干し、二人でキッチンに入った。本来海に面したそこは陽光が届くだろうに、この時は外の不穏な空気に飲まれて暗く、さきさんが一人で住んでいるという家に陰鬱を添えた。
魚をさばく事は彼女も普段からあるらしく、道具は一通りあった。釣りをしないと言っていたが、貰う事は多いらしい。彼女が鱗を取っている所を想像すると、少し意外な気はする。
しかし……奇妙な暮らしをしている人だ。田舎に住む人は家族がいる場合の方が多いだろうに、彼女はもう家族がいないと言う。随分早くに亡くしている。年齢は聞いていないが、三十と言われて信じられるか怪しいくらいに若々しい。それだけ早くに家族を亡くして、生まれた家に一人で暮らし続けるというのはどのような心境だろうか。
また……居間にあった様々な画幅はいずれも浮世絵のようだ。ならばそれを元に彫り物を彫ったのではないか。一番お気に入りの、と言ったが、それはどのような物か。きっとそれは背中にある物と変わらない。彫り物を入れるという事自体どういう目的でするのか分からない。やくざ者が忠誠の証に彫るという話は聞いた事があるが、彼女はそのような過去を持っているのだろうか。
もっとも、過去がどうであれその彫り物のお陰で仕事に不自由していそうな所は垣間見える。彼女は半そでの姿を見せない。ここ何年かの気温上昇を考えれば不自然なくらいだ。背中への大きな彫り物は腕まで及ぶ場合がしばしばある。袖の長さ次第ではその一部が見える……現にうなじの辺りを見るだけで赤さが隠せない彼女ならばあり得る。
趣味と呼ぶに大胆過ぎる決断を彼女はいかにして下したのか分からない。どんな彫り物を背負っているにしても、相当大きな物だろう。
あのおとなしい顔を乗せる背中に似合う柄は何かなど、好奇心と呼ぶのに下劣すぎる思考に入って私は指を切りそうになった。
嘆息一つ吐いて、聞こえてくるのは水音……風呂掃除をしているらしい家主の秘密はどのようなものであるのか。私は適当な皿を選んで、見栄えの悪い刺身を盛りつけていった。
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