四
到着して翌日、私は朝からさきさんに頼んで海まで案内して貰い、そこから一週間の日程での調査が始まった。本来もっと時間をかけるべき物ではあるが、研究拠点に乏しい場所で長期的調査は行なえない。ましてわが身に先立つものもなければなおの事だ。
採集する物は少しあるが、まずは目標を見つけなければならない。チームもいない自分一人の作業になるかと思えばさきさんが「お手伝いできれば」と言ってくれた。私は件のヒトデの写真を見せて探して貰うように頼んだ。
私自身探す内に気づいたが、この辺りは釣り人が多い。魚を探しているでなし、テトラポットの多い海岸で私は目当てを探して歩く。少し離れた所でさきさんも探している。この辺りで珍しい物でもないとは聞く。
釣り人が並ぶ堤防に立つと、そこに流れ着いたのか釣り人に釣られて投げ捨てられたか、目的の物はいた。私は離れた所に立つさきさんに手で合図を送り、近くに呼んだ。ヒトデがすぐさま逃げる物でもないが、私はすぐにそれを写真に撮った。さきさんがくると実物を見せる。
「このヒトデは持って帰るんですか?」
さきさんは学者と言えばそういう物という先入観があるらしく、不思議そうな顔になっている。
「いいえ。ヒトデそのものは特に。この足の部分の模様、これが探している条件です。見つけたら教えてください」
「はい。待ってください。写真に撮って覚えます」
さきさんはすぐにスマホで写真を撮り、ヒトデの特徴的な足の模様、私がそれを持ち上げて示す裏側の奇妙な、しかし綺麗に整っている部分を撮った。ヒトデを元に戻すと、私は立ち上がって近くにいる釣り人を見た。
「この辺りは釣りにはいい所でしょうね」
地理的に言えば海流が丁度よく様々な魚を連れてくる。そして釣る場所にもあまり困らない。釣りとだけ考えればいい釣り場だ。
「ええ。地元の人だけじゃなく、あちこちからくるんです。イシダイの穴場とか言って」
「釣り人の憧れじゃあないですか。さきさんは釣りは?」
「いえ、私は買うばっかり食べるばっかりで釣るのは全然です」
この人に釣り竿……活動的な見た目と大人しそうなイメージが調和しているので、案外似合うだろう。本人は謙遜しているが。
「イシダイなど一度食べてみたいですけどね。東京にいるからと言って、すぐにお目にかかれる物でもない」
そんな話をして、私達は釣り人に紛れてヒトデ探しを続けた。
恐らく、さきさんの彫り物の事を知らない釣り人もいるのだろう。さきさんは目立たぬような服を選んできている。それだけならば見える事はない。海水浴場はお断りされそうだが、ここに仕事でくる以上は問題ないようだった。
彼女の仕事が心配に反して反社となんの繋がりもないのは知れた。その上で彼女の生活らしい所はまだ見えない。ヒトデ探しなど頼んでいるが、彼女の印象は寧ろ大きな水母のようにふわふわ漂うような物に見えた。長閑ではない。ダイビングに飛び込んだ人間すら飲み込むような化物水母のように思える。
失礼な空想を抱きつつ、昼食を挟んで午後まで粘るが収穫は少ない。目的の観察に入るまでもう少し当たりをつけなければならないだろうとは思った。
今日はそろそろ切り上げるかと思うが、さきさんが先ほどから見えない。まさか海に落ちたとは思わないが、どこにいるのか……私は海辺の様子を見た。釣り人は減りつつある。それぞれの釣果はあったのか海に返したのか、ともかくも海水浴の客もいないような海岸で私は一人の老いた釣り人と視線が合った。
「さきちゃんにいいもの渡しておいたからね」
そんな事を言って、彼は一ヶ所――海の家を示した。するとまるでそれが合図であったかのように、クーラーボックスを抱えたさきさんが出てきた。私が老人を見てなんと返すべきか考えると、彼はにっこり笑ってゆっくり去っていった。大方今日の釣果は箱の中、私は「ありがとうございます」一声かけてさきさんの方に向いた。
「それは?」
さきさんが持っているクーラーボックスはなかなか大きく、年季のいった物だった。かと言って私自身荷物があるのですぐに受け取れない。
「噂をすれば……ですかね。さっきの方がイシダイ釣れたって言ってくださったんですよ。あの方、お一人暮らしの方なので一人じゃ食べられないなんて言って」
さきさんは地面にクーラーボックスをおろして「そこで入れる物借りてきたんです」開いた所、そこには見事なイシダイが一尾いた。まだピチピチと動いている。魚、その動きはなんというか、陸にいるという一点で哀れに見えた。敷き詰められた氷はどのくらいもつか分からない。
「民泊まで持って帰れますかね」
「うちでご飯にしませんか? ここからなら近いんです」
不意のお誘いなどなんでもない友人同士の物なのに、彼女の背中にいる何かの為にかえって恐ろしく感じてしまう。
「さきさんの家ですか」
逡巡はある。しかし、私は彼女の背中の事情を知らない内から彼女の生活に興味を抱いていた。田舎暮らし、海のそば、時折垣間見える古びた家屋……いずれも私の存在しない郷愁を刺激してやまず、その中に見え隠れする背中の怪物の正体……。
見たいという気持ちはこの時既に抑えきれなくなっていた。
「お邪魔します。案内をお願いしても?」
私が荷物を示して尋ねると、彼女は莞爾と笑って「はい」と言った。
不可思議な人だと思うが、傍から見れば私も何者だか分からない、枯れ尾花に肉がついた程度の存在かも知れない。
「道が狭いので気をつけてくださいね」
そんな事を言われると不安になるが、乗りかかった舟、私も頷き、二人で駐車場まで向かった。
先ほど積乱雲が見えたと思えば雲は広がってきた。車に乗るとさきさんからショートメッセージで彼女の家の住所がくる。私が地図アプリで検索すると、ほぼほぼ地図も空白の多い田舎の奥地、確かにこれならば普段もかなり苦労するだろう。そしてさきさんは「降る前に着くようにしましょう」ときて私は「ですね」いった。
エンジン音に重なるようにエンジン音が響き、二台の車が道を外れていく。はぐれてもいいように地図は見えるようにしておく。道はなかなか狭い。この辺りは整備が行き届いた道も多いが、さきさんが進む道はそうではなかった。寧ろ長年の使用と自然の暴挙に耐えかねたような道ばかり進む。
途中一軒の商店が見えた。その前を素通りして、もっと細く曲がりくねった道に入る。なかなかに緑が多い中を通り抜けた先に急に空が広くなり、曇った天に近くなる錯覚ののち、高台にある鄙びた家の庭に到着した。
読めるかと言えば読めるが、目の悪い私が細めて読んだ所によれば「有村」の表札があり、すぐ下に郵便受けがあった。奥に家屋があり、その前の細い道の両脇に物置や一段古い家屋の名残があった。家の前に車を止める場所がある。
私が下りずにいると、さきさんは車庫と言うより、屋根だけ作って雨よけにしたスペースを示して、ガソリンスタンドの店員の真似を始めた。私はその誘導に従って車を止めて、なければ困るような物だけ下ろした。
庭は手入れが行き届いていて、まだ若い桜の樹がある。晴れていれば長閑な田舎の一風景だが、雲に日差しが遮られた今はどこか不吉な古びた家屋だった。
自分の家がどんな風に見えているかをさきさんは考えてもいないのだろう。
「入りましょう」
微笑みの言葉につられてぼんやり頷いたのは、夢幻の世界に迷い込んだような心地を感じていたからかも知れない。傀儡のように頷く私は確かに夢幻の中にいるに違いなかった。
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