JR中野駅のホームから見える猥雑な街並みはどうもヤニ臭い。何年も煙草の煙で汚れた古い不動産の様子を思わせる。


 そんなホームから下りて駅を出ると、それらしき人を見つける。


 青いカーディガンにシャツを合わせて、ジーパンを履いている人物だ。身長は平均程度で、綺麗な黒いスニーカーが調和をもたらしている。


 写真で見た通り黒い髪の毛を短く纏めて、顔立ちは愛嬌のあるタイプだった。年の頃は二十代半ばくらいで、我々が追いかけているバンドのファン層としては全然若い方に入る。私は彼女の方に歩き、スマホを見ている彼女に声をかけた。


「さきさんですか?」


 彼女のハンドルが呼びやすくてよかったと思う。さきさんならば名前呼びしているように聞こえる。会った事がない人間に話しかける緊張はある。


「はい。いざさんですか?」


 彼女は快活な表情で答えを返してきた。私のハンドルは呼びづらいと思うが、彼女は気にする素振りもなかった。


 時間は昼過ぎ、私とさきさんはすぐに近くのイタリアンレストランに入った。夜の賑わいに早すぎる繁華街は力なく日にうだっていた。


 さきさんが住んでいるのは地方と考えて、どういう店で外食しているのか分からなかった。しかし彼女は全然、不慣れな様子を見せなかった。カルボナーラ、ナポリタン、マルゲリータと定番のメニューを二人で選び、軽い自己紹介をした。


「へえ、東北の方から」


 私はさきさんが東北から電車を乗り継いできたという話を聞いた。


「はい。駅の辺りには車停めて遠出できないので、家から歩きとバスで駅までいって」


 手振りをつけてさきさんは話した。明るく、奔放に。それだけの熱量がある仲間は頼もしい。そしてこの時、私は彼女の話し方に東北特有の訛りがない事に気づいていた。


「それならこの間の仙台に当たればよかったですね」


「そうなんですよぉー」


 彼女は温厚な顔に残念そうな色を浮かべて、私の方に身を乗り出した。すぐに引っ込めた彼女の首筋に何か、赤い染み汚れのような物が見えた。


「仙台いきたかったんですけど、どうしても競争率激しくて……」


 私はその話を聞きながら、そっと自分の首筋をなぞった。さきさんは不思議そうな顔をしたが「何か見えたので」一言加えるとナプキンを取ってそこを拭いた。首が少し下がり、柔軟な猫を思わせる動きで彼女は首の後ろに手を回している。


 拭いて取れるような物には見えなかった。何か異物が肌と服の間に挟まっているような……しかし仔細に話す事もないか、安易に思ってしまえばさきさんは「東北ってライブ少ないですから……」など話を続けていく。


 気のせいか……服のタグにも見えなかった。赤い鱗の蛇のような物が僅かに見えた……しかしそんな生物的な物を背中に忍ばせているわけもない。異物と考えると類似する物もない。タトゥーシール……こんな大きな物を? 果たしてさきさんの背中に見えた物は何か……そんな風に上の空になる事も失礼か。


「いざさんはいつ頃からファンになったんですか?」


 何気ない会話はすぐに流れる。


「高校の時ですね。ネットで見た何かの記事で名前を知って……」


 そんな話は、恐らくありふれた物である筈なのに、殊にさきさんに限っては人懐こい顔に楽しそうな興味を持って聞いてくるので、どうもその気になってしまう。


「さきさんは?」


 そんな質問が出てきたのは当然の成り行きだった。


「たまたまなんです。サブスクでおすすめに出てきた曲を聞いたらピカーンってきて……」


 奇異な表現をする。さきさんはスマホを取り、一曲を表示して私に見せてきた。耳に馴染む骨の太いリフが印象的な曲……彼女の穏やかな見た目から考えると寧ろ縁がない世界の物のようにも思えたが、意外というのも失礼だろう。「いいですよね」と答えるだけでは足りないとも思う。


「でもこの曲、最近ライブでやってないんですよね。今日やってくれればいいんですけど」


 そんな話をするのも音楽ファン特有の物かも知れない。歴史の長いバンドを追いかけているから、必然そんな言葉も出てくる。


「やっぱりやってませんよね? セトリとか探してみてもやってない……でもたまに古い曲でもやってくれたりするじゃないですか」


 彼女は饒舌になり、段々夢中な様相を呈していた。


 人間の在り方について歌った真面目な曲一つでここまで思い入れを語れるのかと私は彼女に対して少しの尊敬を抱いた。推し活とはこれくらいの熱量でやるべきなのかも知れない。私などそれに比べれば随分冷めた物だと思う。


「自分もああいう風になりたいって思うんですよ」


 その一言が何を指すのか、私はすぐには分からなかった。


 作詞の事か、演奏や発想の事なのか、たださきさんはその話題に拘泥する事なく、食事を楽しみながら話していた。私は話の舵を切る方に向いていたので、さきさんは私の二倍も三倍も話していただろう。


 話が行き着く先は決まって今日のライブだった。それは二人で会っている目的なので間違いない。


 しかし私はこの時既に、ライブという口実をつけてさきさんを観察する楽しみを見出していた。それはもしかすると、私達の奇妙な運命の端緒であったのかも知れない。


 さきさんは過分に盛り上がっていたが、会計の時がくると落ち着いた。私と一緒にレジまで向かう、レジでさきさんが進んで伝票を出す、その時さきさんが僅かにカーディガンを直すその動きの中に、私はさっきの赤い鱗の正体を見た。


 さきさんは首筋まで僅かに染める程に大きな彫り物を背負っている。


 その一端がちらっと見えたが、その彫り物の上端は恐らく炎だ。そんな所まで墨を入れるのかと思うが、服でも隠れないくらいかなり露骨だった。長袖をあえて着ているという事は……腕にも墨が入っているのだろうか。シールという線を考えるのは無駄だった。意図して貼っているならば隠す理由がない。


 邪推しながら私は会計を済ませた。店を出ると都会の熱風が悪臭をはらんで吹き付けた。私は何度かいった事があるシーシャの店にさきさんを誘い、ファントークに花を咲かせた。時間がくると私達はライブハウスに向かった。


 さきさんは私の視線に気づいていないらしく、終始楽しそうだった。


 ひとまず、当初の目的は達成した……ライブが終わってから、さきさんは「機会があったらうちの方にもきてください」などと言っていた。


「何もありませんけど、海はあります」


 単なる社交辞令だろうか? 彼女の方に期待があると考えるのは自意識過剰か? しかじ、私は下世話な好奇心から「ええ。その時は案内よろしくお願いします」どうとでも取れる答えを返した。


 剽軽な人になれない私に人懐こい笑みを送って、さきさんはホテルまでの道を帰っていった。見送る私を生暖かい空気が包んで、得も言われぬ奇妙な感覚が満ちた。今まさに怪物の腹の中にいるような、こんな気持ちは上京して間もない春の夜に感じた事……奇妙なのは。


 妙な物を見たが、今後もさきさんとの縁は続くのだろうか……そんな不安がもやもやと立ち込めてくる事だ。私が彼女の一つの秘密を知ってしまったから……だけではない。私は彼女の友好的な視線と害のない声、話題の運びの上手さに夢中になっていた。


 面白いという言葉が適切かはともかく、好奇心を刺激するのに十全の相手だ。


 次はあるのか……私はその日、アカウントでさきさんにお礼を言って眠りについた。


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