花見 2
御殿の裏手に回ると池がある。池の縁には何本か山桜が生えており、桜は今年も見事に咲き誇っていた。
「きれいですね。こんなにたくさん咲いて。雲の上にいるようです」
十和は舞い落ちてきた桜の花びらに手を伸ばした。つかもうとするが、つかめない。何枚挑戦しても花弁はひらりひらりと逃げてしまう。
いい加減あきらめたところで、月白が難なく花びらをつかんだ。続いて二枚三枚と取って、十和の手のひらにのせる。
「お上手ですね」
「何かに使うのか」
真面目に聞かれて、十和は口ごもった。
「……はしゃいでしまって。すみません」
「元気で良い」
心なし月白の目元がなごんだ気がした。雪に浮かれ騒ぐ子狐と同じにみられている気がして、十和は恥じ入った。
「……十和の目を通して見る桜は、俺とは違うのだろうな」
「月白様には桜がどう見えるのですか?」
「桜」
情緒も余韻もない、端的で簡潔な回答だった。
「何か思い出すようなことは」
「……昔、桜の木の上で寝ていたら夜中に女が」
十和がゴクリとつばを飲みこむと、月白は話を止めてしまった。
「夜中に何が起きたんですか!?」
「やめておく」
「気になります」
「来年も目いっぱい、十和には桜ではしゃいで欲しい」
のんきに浮かれ騒げなくなるようなことが起きたらしい。
桜に対して嫌な印象を持たないようにと配慮をしてくれるのは嬉しいが、十和は不服だった。
十和だって怨念に満ちた死霊をたくさん見てきている。彼らから嫌というほど世の理不尽を聞かされる。世の中がきれいことばかりだとは思っていない。
(嫌な思いをすることになっても、もっと月白様のことを知りたいのに)
人とぶつかりそうになると、月白に軽く抱き寄せられた。
見守るような温かい視線を注がれる。
こう優しくされてしまうと、月白の自分を大事にしたいという想いがしみじみ伝わってきて、十和は不満を口に出せなくなった。
(それにしても、すごく見られているわ)
十和は周囲を気にした。集まった参加者たちが、ちらちら目線を送ってくる。
黒松と吉乃同様に「だれ」と首をかしげる者が後を絶たない。正体に思い当たると、みな一様に月白の変わりぶりに目を剥いた。
「顔を半分隠しているのは、よほど顔がまずいからかと思っていたが」
「意外な一面だな」
驚くやらうらやむやら。感嘆する声が聞こえてくる。
女たちは浮わついた様子でささやきあい、酒や料理を運ぶ女中たちはしばしば足を止めていた。
十和も今一度となりに目をやって、思う存分心の中でのろける。
(月白様ってきちんとなさっていると、どこかのお国の若君みたい)
ついでに、ずっと気になっていたことをたずねる。
「月白様はどうしてお顔を半分隠していらっしゃるのですか? 不便では?」
「……不便以上の危険があって」
「危険?」
「夫のいる女に気に入られて痴話げんかに巻きこまれたり、男に好かれて付きまとわれたり、昔いた群れのヌシに『顔が不愉快』とか『ワシより目立つな』とかいわれて理不尽に殴られたり」
「……」
「この顔面、たぶん呪われている」
人によっては嫌味にもなりそうな発言だったが、月白の口調は大まじめで、少しも自慢が感じられなかった。
そもそも美醜がわからないと自称している月白だ。自分が人並外れた美貌をしていること自体まるで分かっていないのだろう。
「……十和は、この顔を見て不愉快にならないか」
「不愉快なんて! そんな、全然。……ずっと拝見していたいくらいで」
月白は後ろになでつけた前髪をいじる手を下ろした。
「ならよかった。赤城がこうした方が十和が喜ぶといっていたが正しかったんだな」
赤城の気遣いに十和は赤くなった。
婚儀の時の月白に自分が見惚れていたことを、赤城は気づいていたに違いない。
(ありがとう、赤城さん。ありがとう……!)
十和は第二の母に心からお礼をいった。
「お待たせいたしました、月白様、十和様。お席へご案内します」
案内役の女中がやって来て、二人を席へとうながす。
ついた先の景色に、十和の頬がこわばった。
「こ、今年は池の上なんですね……」
「はい。桜が間近で見られるようにと、今年はこちらで」
杭を打って板を渡し、池の上に席が設けられていた。そばではひときわ大きな桜が池むかって広く枝を伸ばしており、観桜にふわさしい席だった。
水上席に座れるのは、天遊の傘下で縄張りを任されているヌシたちだけ。特等席だ。しかし、ほがらかな案内役とは対照的に、十和の気分は沈む。
「早う座りやれ。後がつかえる」
「水辺は嫌などといつまでも子供のようなことを申すでない」
「申し訳ございません」
十和は青い顔で、豊乃の右側の席へ腰を下ろした。月白に顔をのぞきこまれる。
「水辺は嫌いなのか」
「……死霊が多いので不気味で。妖魔に沼に引き込まれたこともあるので苦手なのです」
十和は何度も池を気にした。池の底にはこの池のヌシである大きな
「昔の話なので。大丈夫です」
「あなたが溺れて以来、お父様は過保護に池の上での花見は取りやめて。甘やかしすぎよね」
向かいに座っている吉乃に言われ、十和は肩を縮めた。
十和が望んだわけではない。十和は自分だけ陸の席でも一向にかまわなかったが、天遊は水を怖がる末娘を気遣って、花見でこの席を使わなくなった。
みんなが残念がっていたのを知っているので、十和も罪悪感があった。いまだに怖いものは怖いのだが、水面に背を向け桜を仰ぐ。
「月白様、あそこ。桜の精がいらっしゃいますよ。美人ですね。天女というのはあんなふうなのでしょうか」
「どうでもいい」
同意を求めたら思い切り突き放された。何か怒らせたのかと表情が凍ったが、違った。月白は十和を連れて席を立つと、陸に座っている妖狐の一組にいった。
「席を変わってくれ」
「あそこに自分どもが座るわけには」
頼まれた二尾の妖狐たちは恐縮するばかりで承知しない。月白は言い方を変えた。
「……命令だ。席を変われ。逆らうなら池に放りこむ」
「謹んで承りますっ」
妖狐二匹は飛び上がって席を退いた。
十和はおろおろと、水上席と空いた席を見比べる。
「私はお言葉に甘えてこちらに移りますが。どうか月白様はあちらの席にお戻りください。他のヌシと話すのも大事なお役目でしょう」
「……俺は水辺にいたくない。昔、川獺の妖怪に水中に引きずり込まれて水中戦をやらされた。死ぬかと思った」
月白はさっさと空いた席に腰を落ち着けた。
「俺はここに座りたいから座るだけだ。十和も勝手にすれば良い」
嬉しさで涙が出そうになるのをこらえて、十和はそっと月白のとなりに座る。
二人が席を変わったことに、豊乃は特に何もいわなかった。簡単な挨拶があって、花見が始まった。
古株の妖狐たちが気安い微笑と共に酌をしに来る。
「見かけによらず愛妻家だな、月白殿は」
「妖狐は情愛が深いもの。伴侶は大切にせねばな」
古参の妖狐たちは女中のそでを引く黒松を横目にしつつ、月白の盃に酒を注いだ。
「それにしても、その見事な化けよう。ふだんのあのずぼらさは何だったのだ? 十和殿の影響か?」
「いやはや、うらやましい。こんなに優しく美しく気品ある姫を妻をもらったら、梅雨のような気分も五月晴れになるというものよな」
「……気分どころか世界が変わった」
一同はきょとんとして、吹き出した。
「まじめな顔で何をいったかと思えば、おぬしはノロケるときも顔色一つ変えないのか!」
「はは! 存外おもしろいのだな」
なごやかな雰囲気につられて、さらに人が寄ってきた。代わる代わる月白に酒を注ぐ。
十和は十和で年長の女性たちに手招きされた。
「十和さん、こちらへいらっしゃいな。都でおいしいと評判の桜餅を買ってきましたのよ」
「旦那さん、良い方ねえ。ずっと怖そうだと思っていたけれど今日で印象が変わったわ」
「聞いていたうわさとぜんぜん違う。とってもかっこいいし優しい方ね!」
女性陣が口々に月白を褒めるので、十和は我がことのように嬉しくなった。
つい自分だけが分かっていればいいと思っていた長所を語って聞かせる。
「本当に良い方です。威張ることはございませんし、悪いと思ったことはきちんと謝ってくださいますし、ふだんの口数は少なくとも大事なときにはじゅうぶんな言葉を下さいますし」
「まあ。まだ結婚して一ヶ月なのに。ご主人のことをよくご存知なのね」
「その話しぶり、まるで長年連れ添った夫婦のよう」
「ああ、しまった。そんな良い男なら唾を付けておくんだったわ」
「だめだめ。あなたが奥さんになったってあんな風には変わらなかったわよ」
「分かってるわよ、冗談に決まっているじゃない。言ってみたかっただけ」
あっけらかんとした明るい笑いが場に満ちる。あまりに周りが褒めてくれるので十和は照れくさくなった。
同時にふと心に不安が兆す。
(そうよ、月白様はあんなに良いお方なのだもの。きっとたくさんの女性に想いを寄せられるわ)
手に取った桜餅を食むが、動揺で味を楽しむどころではない。
(月白様が他の女性に言い寄られてその気になってしまったら……どうしよう)
さっきまで嬉しかった月白への賞賛が悩みのたねに早変わりする。
(それでも月白様は私を妻として大事に扱ってくれるかもしれないけれど。
きっと私の方が耐えられないわ)
淡い紅色をした桜餅は、甘くてしょっぱかった。
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