第8話 分岐
迷宮の奥へと進む道は狭く、冷たい空気が全身にまとわりつくようだった。足元の石畳は湿り気を帯び、歩くたびにかすかな音を響かせる。前を行く長谷川が周囲を警戒しながら、いつもの軽口を漏らした。
「湿っぽい空気だな……まるでこの迷宮が、俺たちを歓迎してないみたいだ」
「迷宮に歓迎されたいって思ってるんですか?」
俺が軽く返すと、彼は肩をすくめながら振り返る。
「冗談だよ。湿気が増えると滑りやすいってだけだ。お前も足元には気をつけろよ、森本」
その一言で緊張感が少しだけ緩んだ。チーム全員が沈黙して進む迷宮の中では、長谷川の冗談混じりの言葉がどれほど貴重かを感じる。
しかし、その緩んだ空気の中で、俺の胸の中に再び熱が灯り始めた。迷宮の空気に慣れてくるほどに、この熱が強くなっていくのを感じる。
「……まただ」
前回の迷宮でも感じたこの感覚――胸の奥で燃えるような熱。それが静かに、しかし確実に全身へ広がっていく。何かが近づいているのか、それとも自分の力が反応しているのかは分からない。ただ、この感覚が俺を導いてくれるという確信だけはあった。
「森本君、何か気になる?」
美穂が歩を止めて振り返り、俺の顔を覗き込んだ。その目は冷静でありながら、優しい光を宿している。
「いえ……でも、胸の中でまた熱を感じます。この先に何かがあるのかもしれません」
「わかった。その感覚を信じて進んでみましょう。ただし、慎重にね」
美穂の言葉に、俺は緊張しつつも頷いた。彼女の信頼を感じるたび、この感覚を無駄にしないと心に誓う。
「いいぞ、新人。お前が道を示してくれるなら、俺たちも心強い」
長谷川が笑いながら肩を叩いてきた。その軽口とは裏腹に、彼の言葉には期待が込められているのが分かる。
「やれることはやります!」
気合を入れ直し、俺は再び歩き出した。迷宮の通路は先が見えないほど暗いが、この胸の熱が俺を支えてくれる。それを頼りに、チーム全員で慎重に進んでいく。
湿った迷宮の通路を進む中で、胸の奥で感じていた熱が次第に強まっていく。そして、それが頭の中にまで伝わるような不思議な感覚が広がり始めた。
ぼんやりとした光景が目の裏に浮かび上がる。それはまるで迷宮の地図が映し出されたような映像だった。狭い通路、曲がりくねった道筋、そしてその先に繋がる空間――すべてがはっきりと見える。
「……右の通路だ」
その言葉が自然と心に浮かんだ。何の根拠もない直感だが、これが間違っているとは思えない。
「森本君、どうした?」
美穂が立ち止まり、こちらを振り返る。その表情は冷静だが、わずかに疑問の色が浮かんでいる。
俺は少し躊躇いながらも、その直感を信じて口を開いた。
「次は、右です。この通路を抜けた先に分かれ道があるはずですが、右に進むべきだと思います」
「右……?」
美穂は一瞬だけ迷うように目を細めたが、すぐに頷いた。
「わかった。その感覚、信じてみましょう。ただし慎重に進むわよ」
「はい!」
俺の返事を受けて、美穂は全員に「次は右に進む」と短く指示を出す。
「右か……お前の言うことだ、信じるしかないな」
長谷川が軽く笑いながら肩をすくめる。その目にはどこか楽しげな期待が込められているようだった。
「それで行こう。ただし、魔物に出くわしたらまずは全力で逃げるぞ」
冗談めかしながらも、その声に混じる緊張感は誰もが共有していた。
俺たちは静かに歩を進め、分かれ道に差し掛かる。暗い通路の先、右の道がぼんやりとした湿気の中に浮かんでいた。
右の通路を進んでしばらくした頃、迷宮の静寂をわずかに破る微かな音が耳に届いた。それは金属が擦れるような音とも、誰かが何かを動かす音とも取れる不明瞭な響きだった。
「……何の音だ?」
立ち止まり、耳を澄ませる。チーム全員が息を潜め、通路の奥から聞こえるその音に集中した。その瞬間、胸の中の熱が再び強くなり、感覚が鋭くなるのを感じる。
「探索者の声かもしれません」
俺がそう口にすると、美穂がすぐに表情を引き締めた。
「全員注意して進んで。探索者がいるなら無事に救出するけれど、警戒を怠らないで」
その言葉に全員が頷き、慎重に一歩ずつ足を進める。暗い通路は狭く、足音が石畳に反響してやけに響く。俺の視線は、自然とその音が発せられる先へと向かっていた。
「森本君、何か感じる?」
美穂の静かな声が耳元で聞こえる。
「まだ正確には分かりませんが、この先に何かがあるのは確かです。感覚がはっきりしてきました」
その言葉を信じるように、美穂が軽く頷き、全員に再度合図を送る。
「森本君の感覚を信じて、さらに進むわよ。間隔を詰めて」
全員が密集した陣形を取り、音の発信源に向かう。通路をしばらく進むと、足元に何かが転がっているのが見えた。
「これは……?」
俺がしゃがみ込んで拾い上げると、それは金属片のような破片だった。錆びついているが、人の手によって作られたものに違いない。
「探索者が通った跡だな」
後ろから長谷川が顔を覗き込んできた。その目は真剣で、すぐに状況を把握しているのが分かる。
「間違いない。迷宮内でこの種の破片があるとすれば、装備の一部が壊れたか、道具を落とした可能性が高い」
彼の言葉に美穂も即座に反応する。
「そうね。遭難者が近いかもしれないわ。全員さらに注意して、慎重に進んで」
再び歩を進めると、音が徐々に近づいてくる気がした。それはさっきよりもはっきりと聞こえる。どこかで誰かが、助けを求めているような気がしてならなかった。胸の中の熱が、さらに俺を先へと駆り立てる。
「急ぎましょう。この先にきっと……!」
俺の声に、チーム全員がさらに集中を高めていくのが分かった。探索者を救うために、この瞬間の判断が何よりも重要だと感じていた。
迷宮の冷たい空気がひたひたと押し寄せる中、チーム全員で慎重に足を進めていく。先ほど拾った金属片や音の存在が、遭難者が近いという確信を強めていた。
「もう少し先だな。まだ油断するなよ」
長谷川が低い声でそう言いながら、鋭い目で周囲を警戒している。俺も目を凝らしながら進むが、迷宮の奥深くへ行くほど通路は狭く、暗さが増していく。懐中電灯の光だけが頼りだった。
さらに進むと、道が二手に分かれている箇所に出た。右と左、それぞれの通路が奥へと続いている。どちらも見た目には違いがないように思えたが、足を止めた瞬間、胸の中の熱が再び強くなった。
「右の道が正しい気がします」
自然とその言葉が口をついて出た。頭の中に浮かぶ道筋が右へ進むべきだと訴えている。この感覚は間違っていないと、心の奥で確信していた。
「右か?」
長谷川が眉を上げて俺をじっと見た。彼の表情はどこか疑問を含んでいたが、それでも否定的ではなかった。
「森本君、確信があるの?」
美穂が問いかける。その声は冷静で、真剣そのものだった。
「はい。胸の中の感覚が、右が正しいと強く訴えてきます。この先に何かがあるはずです」
俺の答えに、美穂はしばらく考えるように目を閉じた。しかし次の瞬間、彼女は短く頷いた。
「いいわ。その感覚を信じましょう。全員、右に進む準備をして」
隊長としての判断が下りると、チーム全員がその指示に従い始めた。
「森本の勘が外れてたら面白いけどな。まあ、そんときは戻るだけだ」
長谷川が肩をすくめながら軽口を叩くが、彼も警戒を怠らない目つきで前を見据えていた。
「ありがとうございます。でも、今回は外さない自信があります!」
自分でも驚くほど力強い声が出た。それだけこの感覚に確信があった。
「それなら、私たちはあなたを信じるわ」
美穂が静かに微笑みながら、チームを引き連れて右の通路へと進み始めた。
右の通路を進み始めてすぐに、道はさらに狭くなり始めた。通路の壁はごつごつとした石がむき出しになっており、肩幅ほどの幅しかない場所もあった。足元も滑りやすく、注意しなければ転んでしまいそうだ。
「狭いな……森本、お前みたいな新人には厳しい道かもしれないぞ」
長谷川が軽口を叩きながら、慎重に歩を進めている。その言葉に軽く笑って返しながらも、俺の目はひたすら前を見据えていた。胸の奥の熱は次第に強くなり、直感的にこの道が正しいと告げているようだった。
狭い通路が曲がりくねり、何度か足を止めて壁を手で触りながら進むと、ふと視界の隅に赤黒いものが浮かび上がった。
「……待ってください」
俺が立ち止まり、しゃがみ込む。その場所には、石畳の表面にべったりとした血のような跡が残されていた。
「これは……血痕か?」
懐中電灯の光を当てると、その色がはっきりと浮かび上がる。液体はすでに乾き始めており、ここに来てから少し時間が経っているようだった。
「血だわ……負傷者がここを通った可能性が高い」
日高真里がすぐに指摘する。その声には緊張が混じっていたが、冷静さを保っているのが分かる。
血の跡を確認した美穂が、迷いなく声を上げた。
「全員、応急処置の準備を。負傷者がいる可能性が高いわ」
その指示を受けて、日高真里が持参していた応急処置キットを素早く取り出し、中身を確認する。包帯や消毒液をすぐに使えるように整えながら、彼女が静かに言った。
「止血用のガーゼと固定用の器具、準備完了。いつでも対応できるわ」
「頼りにしてるわ。森本君、どう?」
美穂が振り返り、俺に問いかける。
「まだはっきりとは……でも、この道の先に、何か感じます」
胸の奥の熱がさらに強まり、迷宮の空気に溶け込むように広がっていく。その熱はまるで目に見えない道筋を示しているようで、頭の中に進むべき方向が自然と浮かび上がってきた。
「この先を進むべきです……感覚が強くなっています」
俺がそう告げると、美穂は静かに頷いた。
「わかった。全員、間隔を詰めて進んで。状況が分からない以上、どんな事態にも対応できるようにして」
全員が無言で歩調を合わせ、狭い通路を慎重に進む。暗い通路は曲がりくねり、次第に湿気が増してきた。すると、ふいに遠くからかすかな音が耳に届いた。
「……助けて……」
それは掠れた声だった。はっきりと聞き取れるわけではないが、確かに人の声だと思えた。
「声が聞こえます……!」
俺がそう告げると、長谷川が前方を見据えながら短く呟いた。
「誰かが助けを求めているな。これは間違いない」
その言葉に全員がさらに緊張感を高めた。声の方向を頼りに足を進めると、狭かった通路が徐々に広がり、やがて一つの大きな空間へと繋がった。
「広間だ……ここにいるのか?」
長谷川が低い声で言い、美穂が周囲を一瞥して短く指示を出す。
「全員、警戒を怠らないで。声の主を探すわ」
暗い広間を見渡していると、隅のほうで何かが微かに動いた。薄暗い迷宮の中でも、その影が人間の形をしているのがわかる。
「……あそこだ!」
俺が指差すと、美穂がすぐにその方向を目で追った。狭い広間の端、石壁に寄りかかるようにうずくまった影が見える。
「負傷者かもしれないわ。全員、警戒を保ちながら接近する。森本君、感覚に集中して」
美穂の声が静かに響き、全員が指示に従って慎重に歩を進める。影はほとんど動かず、そこにいるだけのように見える。
俺の胸の奥で熱がさらに強まり、その影が間違いなく遭難者であるという確信を与えてくれる。
「ここまで来たら、もう少しだ……」
心の中でそう呟きながら足を進める。長谷川が周囲を鋭い目で見渡し、低い声で言った。
「気を抜くな。何かが出てきてもおかしくない状況だぞ」
彼の言葉に、全員がさらに緊張感を高めた。
「森本君、何か感じる?」
美穂が振り返って問いかける。
「はい、間違いありません。あの人が……!」
その瞬間、影がわずかに動いた。弱々しく腕を動かし、何かを掴もうとしているようだった。
「負傷者ね。全員、応急処置の準備をして」
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