第6話

第6章:触れない距離


静香は、椎名の手を握ったまま静かに息を吐いた。

それでも、触れるのは“そこまで”だった。


彼女は触れさせるけれど、自ら触れることはしない。

その距離感が、椎名の中でいっそう彼女を際立たせていた。


「ねえ。」静香が口を開く。

「あなたって、どうしてそんなに優しいの?」


椎名は答えない。

ただ、彼女の手を包み込む力を少しだけ強める。


「……優しさでごまかさないで。」

静香がわずかに笑う。

けれどその声は、かすかに震えていた。


「触りたいと思ってるんでしょう?」


椎名はグラスに手を伸ばし、一口ワインを含んだ。

喉を通る液体の冷たさが、彼の意識を繋ぎとめるようだった。


「ええ。思ってますよ。」

グラスを置き、静香の目を見つめる。


「でも、触らない。」


静香は目を伏せる。


触れてほしいと思っていたはずなのに、その言葉に少しだけ安堵する。


「ねえ。」静香がそっと身を寄せる。

椎名の肩が触れた瞬間、彼女はそのまま身を任せるように頭を彼の肩に預けた。


「こうしてるの、嫌じゃない?」


「嫌なわけないですよ。」


静香の髪が肩に触れ、椎名はその感触を確かめるように目を閉じた。

けれど、それ以上の動きはなかった。


“触れられるけれど、触れない”

二人の間に漂う緊張感が、夜の静けさを余計に際立たせていた。


「あなた、もしかして……私を怖がってる?」


静香が椎名のシャツの袖を軽く引く。

けれど、椎名は笑みを浮かべるだけで、触れ返すことはしなかった。


「怖がってるんじゃなくて、壊したくないだけです。」


静香はその言葉に小さく息を呑んだ。


「……壊れるわよ、私なんて。」

静香が呟く。


「簡単に。」


その瞬間、椎名の指が彼女の髪を優しくなぞった。


でも、それ以上は触れなかった。


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