アイリス・リルムフェーテ

 柔らかな木漏れ日に、レオノティスはゆっくりと瞼を開いた。朝の森の空気を吸って、少しだけ重い頭へ酸素を供給してやる。

 反動をつけて起き上がると、気付いたドラセナがすぐに寄ってきた。

「おはよう。気分はどう?」

「おはよ……気分は、ってそりゃこっちのセリフだよ。もう動いて大丈夫なのか?」

「うん。万全ではないけど、とりあえずは平気。ありがとね、ずっとおぶってくれて」

 ドラセナは大きな目を細め、レオノティスの足を労わるようにさする。

(こりゃ……出会った頃とはまるで別人だな)

 夢で思い出したことと重ねて、ついそんなことを思ってしまう。

 あの頃はあの頃で神秘的というか、深窓の令嬢のような魅力があった。けれどレオノティスには、表情豊かで生気に溢れた今のドラセナの方がより魅力的に映る。

 そうだ、思い出したことを話さなければ――そう思い立ったところで、クリスと一緒に懐かしい顔がやってきた。

「ヴィステ!」

「おお、レオ! あんたもよく無事に戻ってきたね! ……って、あんた私のこと覚えてるのかい?」

 既に記憶障害のことは聞いていたのか、ヴィステマールが確かめるように聞いてくる。

「ついさっき思い出したんだよ。竜樹を見たからか、アイビーを連れてここに来た時のことを夢に見てさ」

「えっ、それじゃあ……」

 期待の眼差しを向けてくるドラセナに、レオノティスはしっかりと頷く。

「まだ出会った時のことだけだけど、ドラセナのことも思い出せた」

「……っ。よかったぁ」

 瞼のふちに薄っすらと涙を浮かべ、けれどそれを零さないように朝陽みたく笑う。

「ドラセナって、出会ったばっかの時はちっとも笑わなかったんだな。今じゃこんなによく笑うのに」

 よくよく考えれば、口調も少し違うか。

 当時は冷淡で事務的だったが、今では友達のようだ。

「レオとアイビーのお陰だよ」

 溜まった涙を朝露のようにきらめかせ、そんなことを言ってくれる。

 一体、この子との間に何があったのか。それに関する記憶も、いずれ思い出せるのだろうか?

「いやいや、朝っぱらから犬も胃もたれしそうなのをご馳走様」

 早速ヴィステマールが茶々を入れてくる。その隣ではクリスがわざとらしく深々とため息をついてみせた。

「君は、あれか? 朝からのろけないと死ぬ病にでもかかっているのか?」

「う、うるせえな!」

 冷やかしを払いのけ、レオノティスは一つ空咳をした。

「それより竜樹のところへ行こうぜ。《竜脈術》……覚えなきゃ」

 確か、《竜脈術》の修練は竜樹の傍でやっていたはずだ。

「……アイビーのため、かい?」

 ヴィステマールの質問に、レオノティスは曖昧な反応を返す。

「それもあるよ。ただそれとは別に、俺は《竜脈術》を覚えないといけないような気がするんだ。なんでかは自分でもよく分からねえんだけど……」

 それは昨日竜樹を見てからずっと、胸の中で膨らみ続けている思い。そう――自分は、ドラセナのためにも《竜脈術》を習得しようとしていたのではないか。

 理由までは思い出せないが、想いが欠片だけ残っている。

「……本気で、《竜脈術》を覚えたいの?」

 ドラセナが真剣な眼差しで質問する。

「ああ、本気だ」

 だから、レオノティスもしっかりと答える。

 本人の前なので気恥ずかしくて言わなかったが、《竜脈術》へ挑戦するのはドラセナにお返しをするためでもあるのだ。

《竜脈術》がなければ、ドラセナの助けになることもアイビーを救うこともできない。そしてこの胸中にくすぶる思いも解決されない。だったら躊躇する理由などどこにもない。

 アイビーのことを聞きたい気持ちは当然あったが、クリスの忠告に従って今は我慢する。

「……分かった。レオが望むなら、私は全力で支えるわ」

 ドラセナはレオノティスへ微笑みかけると、一同を見渡す。

「そういうわけだから、まずは竜樹のところへいきましょう」

「……そう、だね」

 ヴィステマールは肩を落とすが、ドラセナに促されると手のひらへ拳を打ち付けた。

「そんじゃ修練前の準備体操に、全員で竜樹まで走って行くよ!」

「元気なのはいいことだ。私はこの地域に自生する薬草の植生を調べながらいくから、あとで追い付くよ。ほほう、そこに生えているのは火傷に効くという――」

「なに言ってんだよ、全員ったら全員だよ!」

 ヴィステマールは一人だけ逃れようとするクリスの手を掴むと、半ば引きずるようにして走り始めた。

「ちょっと待て、私は修練とは関係ない!」

「細かいこと気にすんじゃないよ! ほら走った走った!」

「わ、分かった、走るから手を離せ! こんな足場の悪い森の中を全力で走ったら――」

 そうして騒がしい声だけを残し、二人の姿はあっという間に木々の先へ隠れてしまった。

「……俺たちも行くか」

「え、ええ」

 二人して苦笑いし、消えていった影を追い駆け出した。


「よーし、到着っと」

 一番に竜樹の根元へ着いたヴィステマールが、息も切らさず朗々と声を上げる。すぐ後ろには表情を変えずにドラセナが。レオノティスはやや呼吸を乱しているものの、ほぼ遅れず二人に付いてくることができた。

 レオノティスは息を整えながら、竜樹の傍らに建つ木造りの家へそっと触れる。

(そっか……《竜脈術》の修練をしてる間は、ここで寝泊まりしてたんだっけ)

《竜脈術》の修練中はずっと竜樹の近くにいて、高濃度の竜脈に身体を慣らしていく必要があった。そのためレオノティスはアイビーを街医者へ預け、自らはこの家に居候させてもらうことにしたのだ。それでもヴィステマールが送迎を買って出てくれたお陰で、たまの外泊日だけは一緒に過ごすことができた。

 想定外だったのは、竜神圏には流行り病を見た経験のある医者がいなかったということ。

 というのも、実は竜人族が流行り病にかかった例は過去にないらしいのだ。理由は諸説あるが、最近では当該地域のマナが少ないほど、流行り病の感染リスクが高まる……という学説が主流らしい。これはマナが枯渇しかけているセルフィール帝国・リルムリット王国で流行り病が猛威を振るう一方、竜神圏やマナが潤沢な地域ではほとんど流行していない事実に基づく主張だ。

(確かヴィステマールが、あちこちの医者に診せてくれてるんだっけ。アイビーは今頃どこの街にいるのかな……って、あんま考え過ぎるのもよくないか)

 深追いし過ぎてまたあの頭痛がきたら、ドラセナに余計な心配をかけてしまう。

 それに長の予想していた通り、竜神圏へ来てからアイビーの調子は劇的に回復していった。やはり豊かなマナと竜脈というのが一番の薬になっているのだろう。

 そこまで思い出せたことで、レオノティスの中でずっとこびりついていた不安もかなり解消されていた。とりあえずはヴィステマールに任せておこうと思えるほどに。

 何よりいくら心配したところでアイビーの身体がよくなるわけでもないし、結局のところ《竜脈術》がなければ完治に至ることもないのだ。

 レオノティスがそう結論付けたところで、クリスが肩で息をしながらゴールした。

「お疲れさん。いやいや、ちっこいなりして大したもんだね。森の中で私らを見失わずについてくるなんてさ」

「こ、この、化け物たち、め……ぜぇ、ぜぇ……」

 毒を吐こうとするも、酸素不足でそれもままならないようだ。クリス自身も《精霊術師》としてかなり手練れの部類に入るが、身体能力に関しては他の三人が規格外なのだ。

「レオもさすがだねえ。記憶は抜けちまってても、《竜脈術》を覚えるための基礎体力はばっちりみたいじゃないか」

「だと、いいんだけどな」

 状況が状況だけに、少しでも修練を短縮できるならそれに越したことはない。

 レオノティスは竜樹の威容を眼界いっぱいに収めた。するとまた頭の中でさざなみが起こったかのような、落ち着かない気分になる。

 それは忘れていてはいけないものなんだ。早く思い出せ――そんな、自分自身の声が聞こえてくるような気がした。

(分かってるよ……もう少しだけ待ってろ)

 雑念を払うように二度首を振る。

「ん……?」

 視界の端に違和を感じて目を凝らすと、妙なものが映り込んだ。

「おい、あそこ! 人が倒れてる!」

 見れば、家の陰でうつぶせに倒れている人がいた。近寄って仰向けに身体を抱き起こすと、レオノティスは驚愕のあまり我が目を疑った。

「アイビー……!?」

 記憶障害のせいか、随分と久しぶりに顔を見たような気がする。口元に手をあてると、かすかに吐息が感じられた。

「よかった、気を失ってるだけみたいだ……」

「ちょっと待って」

 担ぎ上げようとしたところで、険しい顔のドラセナがストップをかける。

「……私もよく似てると思うけど、多分彼女はアイビーじゃないわ。服を見て」

 ドラセナに指摘され、レオノティスもハッとする。少女が身に着けているのは、王侯貴族御用達の戦闘用ドレスだ。前腕までを覆う純白のドレスグローブもかなり質がよく、庶民のいでたちではない。

「彼女は恐らくアイリスだな。手にしているロッドは、確かリルムフェーテ家に代々伝わる品だったはずだ」

「アイリス……って、リルムリット王国の女王!? なんでこんなところにいるんだ!?」

「多分、私がリルムリットの竜樹で発動した《幻翼飛躍》に巻き込まれたんだわ」

 レオノティスの疑問に答えたのはドラセナだった。

「彼女のことだから、竜樹を守ろうとエルギスや私たちのところへ駆け付けたんだと思う」

「……そういうことか」

 常識的に考えれば女王が最前線に立つなどあり得ないが、アイリスは別だ。彼女は自身が超一流の《精霊術師》であることに加え、臣下にのみ命を懸けさせるべきではないという理念を持っている。

 第一、アイビーは竜神圏の医者に預けられているのだ。いつものお転婆ぶりを発揮して病院を抜け出しでもしない限り、こんなところにいるはずがない。

「とりあえず彼女の症状を診させてくれ。応急処置が必要か判断したい」

 クリスはアイリスの傍で膝をつき、容体を観察し始めた。

「しっかし《幻翼飛躍》で飛ばされたってのはいいとして、どうして人間族のアイリスが結界をすり抜けられたんだろうねえ?」

「うーん……それは私も分からないわ。ちゃんと正常に動作してるはずなんだけど。レオたちが入れたのは、私が一緒にいたからだろうし」

 腕組みして思案するヴィステマールの隣で、ドラセナも皆目見当がつかないといった様子であごに手を添える。

「そんなことより具合はどうなんだ?」

 急かすレオノティスを無視し、クリスはたっぷり数分ほど視診してからやおら開口した。

「倒れた直接の原因は脱水症状だね。これだけなら命に別条はないんだが」

「だが、なんだよ? 他にも何かあるのか?」

 含みのある言い方にレオノティスが突っ込むと、クリスはさして表情も変えず、

「どうやら流行り病にかかっているようだ。しかも中期から末期に差しかかっていて、もう延命治療くらいしかできることはないな」

「…………!」

 クリスの口から出た言葉に、その場にいた誰もが固まる。特にレオノティスにとっては大きな衝撃だった。

 アイビーに酷似した少女が、より重い流行り病に侵されている。それは遠くない未来のアイビーを写し見たようで、心臓を鷲掴みにされたような気分になる。

「リルムリット王国が流行り病の克服に躍起になってるのは、これが原因ってわけかい」

「だろうな。彼女自身は望まなくとも、臣民がそれを強く望むはずだ」

「……クリス、マナ治療をしてくれないか?」

 会話が途切れたところで、レオノティスが提案する。

「私は構わないが、ドラセナとヴィステマールはいいのか?」

「私はドラセナの意向に従うよ」

 ヴィステマールに一任されたドラセナは、迷うことなく首を縦に振る。

「以前竜神様は、リルムフェーテ家の者を『大切な友』と仰っていたわ。例え今は敵対しているとはいえ、見殺しにはできない」

「ふむ……」クリスは考え込む仕草の後、「では彼女を医療設備のあるところへ連れていきたいんだが、サイノスの街は近いのか?」

「ああ、歩いてもいける距離だよ」

「なら街へ運ぶとしよう。移動させることによるリスクはゼロではないが、ここにずっと置いておくリスクに比べれば微々たるものだ」

「分かった、そんじゃすぐに行こうぜ」

「待って」

 すぐにアイリスを抱き上げようとするレオノティスを、ドラセナが引き留める。

「彼女のことはクリスとヴィステに任せましょう。私たちがついていっても結局見てるだけになるだろうし、それだったら《竜脈術》の修練に入った方がいいと思うわ」

「そりゃ……そうだけど」

 承服しかねるレオノティスの背に、ドラセナがそっと手を当てる。

「ただでさえ流行り病にかかってるのに、アイビーそっくりな彼女を心配する気持ちは分かるわ。だけど、自分がいま本当になすべきことは見失わないで」

「! ……そう、だな」

 ドラセナの言う通りだ。自分が最優先すべきは、アイビーのために一刻も早く《竜脈術》を会得すること。ただでさえここ何日かをロスしてしまったのだ、これ以上無為に時間を過ごすわけにはいない。

(それに……俺が《竜脈術》を覚えれば、アイリスも救えるかもしれねえ)

 ドラセナやヴィステマールにとっては敵の総大将になるわけだが……なにも好きで戦っているわけではないのだ。救える命なら救った方がいいに決まっている。

「どうやら決まったようだな」レオノティスの顔を見て、クリスが答えを待たずに立ち上がる。「街へは我々三人で行くとしよう。ヴィステマール、悪いが患者を頼む」

「あいよ。……にしてもまさか、アイリスを抱いて運ぶことになるとはねえ。世の中何が起こるか分からないもんだ」

 ヴィステマールは何とも言えない表情で、アイリスの身を軽々と抱える。

「この子は私の家に運ぶよ。簡易的とはいえ医務室があるし、ここんとこバタついてたもんで決裁も溜まっちまってるし」

「それなら私もアイリスの経過観察がてら、手伝える範囲でそっちの執務も手伝おう」

「お、助かるよ。机でじっとしてるのはどうも性分じゃなくてねえ。レオたちも修練に区切りがついたらおいでよ」

「ああ。ありがとな」

 ひらひらと手を振られ、レオノティスも意気揚々と手を挙げて応える。

「さて、と。それじゃあ始めましょうか」

 二人を見送ると、ドラセナは見せ付けるようにその身に宿る竜脈を解放した。

 凄まじい圧に、レオノティスはまるで突風でも吹いたかのような錯覚さえ感じてしまう。

「まずは実戦形式で今の力を見て、どこから修練を再開するか決めさせてもらうわ。早く《竜脈術》を覚えたければ、全力で来てね」

 挑戦的に吊り上げられた口角に、レオノティスも腕輪へマナを込める。

「武器は使っていいのか?」

「もちろん。言ったでしょ、『全力で来てね』って」

「上等だ。……遠慮しねえからな!」

 こうして、レオノティスの《竜脈術》への挑戦が再開された――

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