第二章

追憶――竜樹

 まず感じたのは空気の清浄さだった。あたりは濃密な竜脈で満たされ、生命の気配に溢れている。

 聖域と呼ばれるのはこんな場所なのだろうか――そんなことを思わせる雰囲気だ。

『おっきいね~』

『だなあ』

 アイビーと二人して感嘆の息を漏らす。

 竜樹。

 遥か昔、竜神がマナと竜脈を管理・供給するために生み出したとされる神木。

 レオノティスはアイビーを背負ったまま、雲をつかんばかりに伸びる大樹を見上げた。民家がすっぽり収まるほど大きな幹は、中に神でも住んでいそうな荘厳さで見る者を圧倒する。

 歩を進めると、竜樹の前で二人の竜人族が待ち構えていた。

 レオノティスは堂々と進み出て二人と視線を交錯させる。

 一人はレオノティスと同年代の少女。半透明の美麗な翼から、一目で《竜師》と分かる。

 幻想的な翼に長い銀色の髪、そして端正な顔立ちは、神話の妖精や天使を想起させる。

 もう一人はやや年上と思われる、燃えるような赤髪が特徴的な女性。ただならぬ雰囲気と内から漏れ出すマナから、こちらも相当な使い手であることが窺える。

『人間族がどうやってここまで来たのかしら。途中に結界があったはずですが』

《竜師》と思しき少女の透き通るような声が、森閑とした空間に凛と響く。

『結界? いや、それらしいもんはなかったけど』

 国境でもこの森林地帯へ入るところでも、特に障害はなくすんなり進入できた。

『妙ね。正常に動作しているはずなのに』

 少女は逡巡し、再び無機的な視線をくれる。

『とにかく、ここは人間族が立ち入っていい場所ではありません。早々にお引き取り願います』

 機械的で抑揚がないものの、鈴のように美しい声だ。しかし聞き惚れているわけにもいかず、レオノティスはすぐさま追いすがる。

『そういうわけに行かねえんだ。《竜師》のドラセナってのはあんただな?』

『ええ』

 少女――ドラセナは淡々と返し、『だからなに?』とビー玉のような双眸をレオノティスへ向ける。

(こいつが《氷の竜師》ってわけか)

 想像通り、これは一筋縄ではいかないようだが……。

『話が早い。俺はレオノティスで、背中におぶってる子はアイビーっていうんだ』

 自己紹介に合わせて、アイビーが小さく頭を動かして挨拶する。

『いきなりで悪いんだけど、こいつの流行り病を《竜脈術》で治せないか? もうマナ治療じゃどうにもならないんだ』

『…………』

 ドラセナはアイビーをしげしげと観察し、しばらくすると嘆息して口を開いた。

『無理ですね。竜脈を注いでも、病を治し切るより先に彼女の身体がもたなくなる』

『どういう意味だ? もたなくなるって……』

『そのままの意味だよ』隣にいた女が吐息交じりに言う。『あんたたちがやってるマナ治療も、常人に施す時はマナ中毒にならないように少量のマナでやってるだろ』

 女の言う通りだ。だから延命効果も《精霊術師》に対して常人では低くなってしまう。

『それと同じ理屈さ。《竜脈術師》でもない相手に病を完治させるだけの竜脈を浴びせたら、そいつが竜脈中毒になって死んじまうのがオチってわけだ』

『そん、な……』

 レオノティスの全身から力が抜けていく。背負っていたアイビーを落としかけてしまい、何とか支え直す。

『この子自身が《竜脈術師》になっちまえば治せるかもしれないけど、純粋な人間族じゃそれも望み薄だね。そこまでの体力も残ってないだろうし』

『…………』

 どうしようも、ないのか?

 山を越え、国境も越えて竜神圏まで来たというのに、全て無駄だった……いや、むしろアイビーの寿命を削った分だけマイナスだったのか?

『あはは……困っちゃった、ね』

 アイビーが絞り出すように囁いて咳をする。レオノティスは茫然自失となりながらも、アイビーの苦しみを緩和しようと半ば無意識にマナを共有化する。

『その力は……?』

 レオノティスの能力を目の当たりにして、ドラセナがわずかに目の色を変えた。

『俺、他の奴とマナを共有化する力があるんだ。流行り病にはマナが効くから、こうやって俺のマナをアイビーに分けてるんだ、けど……』

 不意にレオノティスの手が止まる。数秒ほど固まっていたかと思うと、弾かれたように竜人族二人へ詰め寄った。

『ちょっと待てよ。俺が《竜脈術師》になったら、竜脈も共有化できるようになるんじゃ……そうすれば、アイビーを竜脈中毒にせずに治せるんじゃないか!?』

『そうですね。竜脈はマナと性質が似ているので、可能かもしれません。それに共有化して本人のものとして扱えば、中毒も起きないでしょう』

 意見を聞くや、レオノティスはドラセナへ深く頭を下げる。

『頼む! 俺に《竜脈術》を教えてくれ!』

『お断りします』

 冷静に即答された。取り付く島もないとはこのことか。

『えーっと、ダメな理由を教えてくれ。何とかできることは全部何とかする。交換条件とかがあれば何でも言ってくれていい』

『あなたが人間族だから』

 いきなり存在自体を何とかしろと言われてしまった。

『それでは』

『待て待て待て待て!』

 くるりと踵を返したドラセナを、レオノティスは回り込んで引き留める。

『俺はただ、こいつの病気さえ治ればなんだっていいんだ。それ以外に使うつもりもねえ』

『そうですか』

『ああ、だから教えてくれないか?』

『お断りします』

 振り出しに戻ってしまった。

『あー、ちょっといいかい?』

 途方に暮れかけていたところで、もう一人の女が開口する。

『一応名乗っておくが、私はヴィステマール。ドラセナの補佐役みたいなもんだ』

(こいつがヴィステマール……『サイノスの暴竜』か)

 素手で巨岩を砕き、一息吹けば戦場を燎原と化す暴れ竜。彼女の名声はリルムリット王国にも轟いており、竜神圏内での階級は《竜師》を除けば最高位である翼将よくしょうだとか。

『《竜脈術》の習得にはとんでもない量のマナと、それを完璧に操る感覚が必要なんだ。けど人間族は竜人族ほどマナの扱いに向いてないってことは、あんたも知ってるだろ?』

『……まあ、な』

 これまで任務で竜人族と共闘することは度々あったので、彼女の意見は身に染みている。

 同じ《精霊術師》であっても、人間族と竜人族ではマナの量・操作技術とも歴然とした差がある。これは努力でどうにかなるものではなく、生まれついての性質――もっと言うなら、種族としての差だ。

『《竜脈術》は、竜脈に深く愛された竜神様と《竜師》だけのもの。唯一の例外になることができたエルギスにしたって、半分は竜人族の血が流れてる。ただの人間族が《竜脈術》を修めるなんて、逆立ちで世界一周しても無理な話だよ』

『こっちも無謀なのは百も承知だ。それでもどうしても挑戦したい。治したいんだ』

 理屈をいくら説かれようと、そんなことで今更引く気はない。そんな不退転の決意を見せると、ヴィステマールは諦めたように俯く。

『ま、そうなんだろうね。じゃなきゃわざわざこんなとこまで来ないだろうし。……そんじゃ今度はこっちの事情を説明しようかね』

 ヴィステマールは意図してか、仮面のような表情を張り付けおもむろに語りだす。

『知ってるか分かんないけど、エルギスもここで《竜脈術》を得た。そして今、その力で私たちサイノスの脅威になってる。この意味、分かるかい?』

『……あっ』

 そういうことかとレオノティスは得心した。

 セルフィール帝国のマナ事業を受け入れて以降、リルムリット王国と竜神圏の関係は急速に冷え込んだ。その結果、国境付近では小規模ながらも戦闘が繰り返されている。

 その中でリルムリット王国軍の軍師であるエルギスが、竜人族を相手に竜脈を振るうこともあった。

『向こうには向こうの事情があるってことは理解してるつもりだ。だけど戦争で実際に大切なもん――家族や仲間を奪われたサイノスの連中は、そうは言ってくれない。その不満はリーダーであり、エルギスに《竜脈術》を授けたと思われてるドラセナへ向けられるんだ』

 あんたたちには気の毒な話だけど、とヴィステマールは締めくくった。

『……要は、俺があんたたちの敵にならない保証があればいいってことか』

『まあ、そうとも言えるかね』

 だけどそんなことは無理だろう、とヴィステマールの顔が言っている。

『なら術を覚えた後であんたたちに危害を加えられねえよう、俺の右手を切り落としてくれても構わねえぜ。《竜脈術》を覚えるのに支障さえなきゃ、好きなようにしてくれていい』

『レオ、なに言ってるの……!? だめ、そんなの絶対にだめ! ……っ』

 背から降ろしたアイビーが声を張り上げた途端、激しく咳き込んでしまう。

『病人が無理するなっての……いいから静かにしてろ』

 背中をさすってから頭を撫でてやり、ヴィステマールへ意識を戻す。

『というわけで、そういう条件つきならどうだ?』

『それだけじゃ足りないね。両手とも、やっちまっていいかい? なに、綺麗に溶断してやるから最小限の痛みで済むよ』

 ヴィステマールは肉食獣のように目をぎらつかせると、その手に炎を宿した。ギラギラとたぎる炎熱が、彼女の髪をより紅に染める。

『それで、《竜脈術》に挑戦させてくれるならな』

『レ、レオ……!』

『アイビー、反対側向いて目ぇ閉じてろ。絶対にこっち見るなよ』

 なおも止めようとするアイビーを半ば睨むように見つめ、低い声で指示する。

『……正気かい? そこまでしたところで、《竜脈術》を習得できる保証なんてないんだよ』

 気圧された様子が三割、試すような様子七割に念押ししてくる。

『ゼロパーセントでなけりゃそれで十分さ。こっちはもう他に方法がなくてな。……やるかやらねえか、それだけだ』

 レオノティスは彼女の心境を把握し、鋭い視線で返す。

『……そうかい。じゃあ一思いにやってやるから、動くんじゃないよ』

 凄まじい熱がチリチリと頬を焼く。『サイノスの暴竜』の二つ名は伊達ではないと言わんばかりだ。

 レオノティスは狙いやすいようにと両腕を伸ばし、目を閉じて腹の奥へ力を込める。

 アイビーが息を呑む音が聞こえた。

『…………?』

 しかし、待てども衝撃は来ず。レオノティスが恐る恐る目を開けると、ヴィステマールは目を皿のようにして突っ立っていた。もうその手に炎はない。

『こりゃ困っちまったねえ。本気で害意をぶつけたつもりだったんだけど』

『……どういうことだ?』

 状況が呑み込めず目を瞬かせるレオノティス。その背中を、ヴィステマールが威勢よく平手で打つ。

『あんた、肝は据わってるようだねえ。人間族にしとくのがもったいないよ』

 豪快に笑うヴィステマールの姿に、レオノティスはようやく狂言だったのだと理解する。

『おい……勘弁しろよ』

『悪い悪い。その代わり、あんたの覚悟はきっちり伝わったよ。しかしこりゃどうしたもんか……おや?』

 ヴィステマールの目がレオノティスの手に留まる。

『レオノティス、その腕輪はどこで手に入れたんだい?』

『これか? ずっと昔から俺の家で受け継がれてたらしいんだけど、詳しくは分からねえんだ。親父は俺がガキの頃に死んじまったし』

 レオノティスが腕輪をつけている右手を伸ばすと、ドラセナは腕輪にあしらわれている紅い宝玉をじっと見つめた。

『微弱だけど、この宝石から力を感じるわ。元々は相当強力な祝福がかけられてたみたい。……どうして人間族がこんなものを持っているのかしら』

 ドラセナはヴィステマールの方をちらりと窺うが、彼女も見当がつかないといった様子だ。

 と、その時だった。

「ドラセナ。その少年に《竜脈術》の指導をしてあげてください」

『な、なんだ!?』

 突如頭の中で響いた声に、レオノティスは弾かれたように辺りを警戒する。どうやら声は他の者にも聞こえているようで、三者三様のリアクションが見て取れる。

『これは竜神様の声だよ。竜樹の竜脈を通して意思を伝えてきてるのさ』

『い、意思を伝える……?』

 理解が追い付かずに困惑するレオノティスをよそに、ドラセナは小さく点頭して『承知しました』と短く応じた。

『そういうわけなので、あなたに《竜脈術》を教えます』

『え? あ、ああ……』

 あれだけ頑なだった態度が急変し、レオノティスは肩透かしを食らったような気分になってしまう。

『……もしかしてエルギスの時も、竜神の指示で《竜脈術》を教えたのか?』

『ええ』

 ドラセナはけろりとした顔で答える。

『え、だったらそれであんたが責められるのはおかしくないか? 竜神が指示したんなら、そりゃ竜神の責任だろ』

『それは私が黙っているから。サイノスの民は竜神様の指示だなんて知りませんし』

『ん……? もしかして竜神に隠しておけって言われたのか?』

『いいえ。竜神様はそのようなことをなさいません』

 ドラセナの答えに、レオノティスの頭はますますこんがらがってしまう。

『じゃあ自分の意志で事実を隠してるってことか? なんでまた……』

『単純な損得勘定です。竜神様は、竜人族が団結するための象徴的存在。そんな方が咎を背負って竜神圏に余計な軋轢が生まれるくらいなら、私が代わった方がいい』

 何の感情も抑揚もなく、ただ理屈を並べていく。まるで機械が喋っているような錯覚すら感じて、レオノティスは言いようのない気分に歯噛みする。ドラセナはそれを知ってか知らずか『そんなことより』と話を換える。

『繰り返しになりますが、《竜脈術》の修練には大量のマナを要します。いくらマナの祝福を受けているとはいえ、純粋な人間族では到底耐えられない。万一耐えられたとしても、修練中は慢性的なマナ欠乏症で想像を絶する苦痛を伴います』

『それでアイビーを治せるなら、いくらでも耐えてやるさ』

『……どうして他人のためにそこまでするのでしょうか』

 ドラセナは視線をそらすと、初めて無表情を崩して不可解そうに目を細める。

『他人じゃねえよ。アイビーは、家族だからな』

『カゾク?』

 その単語を、ドラセナはまるで遠方の異民族の言葉のように復唱する。

『血の繋がりはないけど、ずっと一緒にいれば同じさ。そういう相手を助けるのに理由なんかいらないだろ?』

『そう思うのは、彼女があなたにとって大切だからですか?』

『まあ……そう、かな』

 何の因果で本人を目の前にこんなことを言わされているのか……レオノティスは赤くなってしまった顔を見られないよう、微妙に立ち位置を変える。が、アイビーは『ぐっふっふ』などと気持ちの悪い笑みを浮かべ、ずいっと身体を寄せる。

『しょーがないなー。レオは私がいないとなんにもできないもんね~』

『お前は調子に乗るな』

 実った小麦のように綺麗な金髪へ、容赦なくチョップを決めてやる。

『いったーい! 女の子相手にチョップなんてするかなあ……』

 なんてぶつくさ言うアイビーの頬も、ほんのり朱色に染まっている。何のことはない、ただの照れ隠しというやつだ。そこまで分かっているからこそ、レオノティスもその辺で話を戻す。

『言ってみりゃ、あんたにとっての竜神みたいなもんかな。あんただって母親は大事だろ』

 なにせ竜神は《竜師》にとってたった一人の親だ。先ほどは単なる損得勘定で竜神をかばったと言っていたが、他に何の情もないというわけでもないだろう。

『……べつに。私にとって、竜神様は竜神圏の長。それ以上でもそれ以下でもありません』

 なのに、ドラセナは氷のような目で答える。

『あー。正直言うとね、この子は竜神様とは数えるほどしか会ってないんだよ。その数えるほどってのも、ほとんどは《竜脈術》の修練の時だし』

 そこへヴィステマールが補足を入れてくれる。

『え、じゃあドラセナは誰に育てられたんだ?』

『日常の世話は侍従。《竜師》としての教育は指南役の仕事さ。私はこの子がここに着任してからの付き合いだから、そこまで詳しいことは分かんないけど』

 そうしたやり方にはヴィステマールも納得していないのか、口をへの字に曲げている。

『ヴィステ。それは伝える必要のない情報です』

『はいよ』

 ドラセナに視線を外したまま諫められ、ヴィステマールは浅く嘆息する。

『そっか。あんたも、親がいないようなもんだったんだな』

『……も?』

 冷淡な目付きは変わらず。しかし少しだけ興味を持った様子でドラセナが問い返す。

『ああ。アイビーも俺も、血の繋がった肉親は一人もいなくてさ。だから、小さい頃から独りきりで生きてきたんだ』

 もっともアイビーについては記憶がないだけで、実際のところどうだったのかは不明だが。

『……そう、だったのですね』

 ドラセナは一瞬目を開き、しかしすぐに無表情に戻る。

『でも、だからこそ、本当の家族より家族らしいと思う。独りは……辛いもん』

 レオノティスはアイビーの告解に何も答えず、代わりに頭を撫でてやる。

『…………』

 そんなカゾクの様子を、ドラセナは喜怒哀楽のどれともつかない双眸で見ていた。

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