帰郷
レオノティスの故郷は、クリスの診療所から徒歩で数時間のところにある。が、マナの祝福を受けた者が軽く走れば一時間もかからず着く道程だ。
レオノティスはなだらかな勾配のついた街道を駆け上がり、村が見えたところでスピードを落とした。
ちなみに飛んでいこうというドラセナの提案は、レオノティスにより却下された。その方が早いのは間違いないのだが、抱えられて飛ぶというのはお世辞にも格好のいいものではない。
「ここがレオの生まれ育った場所なのね」
ドラセナは村の入口から全景を見渡し、わくわくした様子で両手を合わせる。といっても広場を中心に十数軒の簡素な建物が並んでいるだけで、取り立てて特徴のない小村だ。
この時間だと既に大人たちは狩りや採集に出ているだろう。近くの森から子供のはしゃぎ声が漏れ、清涼な空気に木霊する。きっと採集の手伝いをするよう言われたものの、飽きて遊ぶのに夢中になっているのだろう。
「にしてもアイビーの奴、家にいるといいんだけどな」
「ん……そうだね」
もしここにいないとなると、アテがなくなってしまう。その時は否応なしに記憶を取り戻さなくてはならないだろう。
(トラウマ、か)
クリスの言葉を反芻する。
封じてしまいたくなるような忌まわしい記憶が、自分にもあるかもしれない。そう考えると、少し恐ろしくもあった。
「記憶のこと、考えてる?」
目も合わせていないのに、思考を言い当てられてしまう。
「……すまん。あんたのことを考えたら、どうするかなんて悩むまでもないのにな」
「んー」ドラセナは頬に指を当て、「私のことを気にかけてくれるのはとても嬉しいけど……私は、レオの思う通りにしてほしいかな。私のせいでレオが後悔するなんて嫌だから」
「……そういう考え方もあるのか」
またつい考え込みそうになったところで、ドラセナが自然に手を出してきた。
「あまり暗いことばかり考え過ぎるのもよくないわ。それより少し歩きましょ」
「あ、ああ」
レオノティスがその手を自然にとる。
歩くといっても、本当に小さくて何もない村だ。なのにドラセナはまるで初めて王都を訪れたおのぼりさんのように、しきりにあたりを見回している。
「そんなに面白いもんあるか?」
「あら、探せばいくらだって見つけられるわ。あっちの丘の上には面白い造りの物見櫓が建っているし、川の水は凄く綺麗。さっき小魚が跳ねてたから、釣りもできそうね」
「ああ。仕事がなかった頃は魚を釣って食おうと思ったこともあったんだけど……これが中々うまくいかなくてさあ」
竿を振りかざす真似をしてみせると、ドラセナはクスクスと笑う。
「ちょっと納得かも。きみ、じっと待つのとか好きじゃないもんね」
「む……いいんだよ。グッと食い付いたやつをガッと引き上げちまえば。ただ待ってたって、餌だけ持ってかれて終わりだろ」
レオノティスの意見に、ドラセナは「そうかしら?」と首をかしげる。
「大きい魚ほど賢くて警戒心も強くなるからね。最初は少し食べさせて、安心して食い付いたところを引いた方がいいような気もするけど」
「よーし、そこまで言うなら今度勝負するか?」
「いいわよ。じゃあ、負けた方が勝った方の言うことを一つ聞くってことでどう?」
「望むところだ!」
「ふふ、約束ね」
ドラセナは踊るようにレオノティスの正面へ回り込むと、身長差から自然な上目遣いで笑顔を向ける。
「あっ、水車!」
そして前へ向き直るや、また面白そうなものを見つけてレオノティスの手を引く。
「この匂い……小麦粉を作っているのかしら?」
「ああ。隣の小屋で粉挽きして、さらにその隣の雑貨屋でパンを焼いて売ってるんだ。せっかくだからちょっと寄ってくか。パン、食えるよな?」
「ん、好きだよ」
竜人族の食事は、人間族のそれと概ね変わらない。
しいて違いを挙げるなら、人間族に比べてやや植物由来のものを好む傾向はあるが、誤差の範囲と言える。
「人間族の村でパンを食べるなんて、考えてみたら初めてだわ。ね、早く行きましょう」
ドラセナと繋いだままの手が、ぐいぐいと引っ張られる。
「おい、待てっての」
手を離すまいと少し強く握る。
するとドラセナはにっこり微笑み、手を握り返して自らの方へ引き寄せてきた。
「ほら、いい匂いがするね!」
「だなあ」
二人で店を覗くと、ちょうど焼き上がったパンを陳列しに中年の女店主がやってきた。
「いらっしゃい――お、レオじゃないか!」
「よ。久しぶり、おばちゃん」
突然の訪問に驚いたのか、店主は手から滑り落ちそうになったトレイを慌てて持ち直す。
「あ、ああ。そうだね。久しぶり」
「……?」
店主のどこかよそよそしい態度に、レオノティスは違和感を覚える。この人はいわゆる肝っ玉母さんタイプで、尻込みや遠慮という概念などないのではと思っていたのだが。
「それよりあんた、久しぶりに戻ってきたと思ったらなんだい? こんな目ん玉飛び出るくらい可愛い子を……」
言いかけて、店主の目がドラセナの背から伸びるクリアな翼へ釘付けになる。
「こりゃあたまげた。あんた、《竜師》を連れ回してるのかい」
「おいおい、人聞きの悪い言い方は勘弁してくれ」
「ははっ、照れるんじゃないよ! ……何にせよ、元気そうでよかったよ。ほんとに」
後半は小声だったため、はっきりとは聞き取れなかった。
「それよりパン売ってくれよ。ドラセナ、どれがいい?」
レオノティスが勧めるも、ドラセナは残念そうに両手のひらを向ける。
「あ……考えてみたら私、リルムリット王国のお金は持っていないから。レオだけでも食べて」
「んなもん俺が出すって。治療代……には全然足りねえだろうけど、頭金代わりで」
「そんなこと気にしないで。私がやりたくてやったことだもの」
「む……そんじゃあ、俺もドラセナにおごりたいからおごる。どうだ、これで断れねえだろ」
そう言って胸を張ってみせると、ドラセナは困ったように苦笑を浮かべた。
「もう、こうなると頑固なんだから。……じゃあ、ハニートーストをいただいていい?」
「おう」
レオノティスはドラセナ所望の品に加えて自分用にサンドウィッチも取り、合わせて代金を支払う。
「本当にありがとう。ごちそうになりますね」
店を出ると、ドラセナは丁寧に礼を述べて頭を下げる。
そんなパン一つくらいでと思うが、彼女の性格なのだろう。
「あっちの広場にベンチがあるから、そこで食べましょ」
「別に立ち食いでもいいだろ」
「だーめ、ちゃんと座ってゆっくり食べるの。食事は楽しくしなきゃ。行きましょ」
また空いている手を取られ、二人でベンチへ向かう。すっかりドラセナのペースだが、決して嫌な気分ではない。むしろそれが心地よいと思うほどだ。
(いきなり手とか握られるのは、ちょっと心臓に悪いけどな……)
「それじゃあ改めて、ごちそうになります」
一方のドラセナは、そんなレオノティスの葛藤など知る由もなく。ベンチに腰かけると頭を下げ、レオノティスが促すのを待ってからトーストを頬張る。
なんとも礼儀正しい子だ――と思ったが、考えてみれば至極当然か。
クリスも言っていたが、《竜師》は竜人族の王女。良家のお嬢様どころか、由緒正しいお姫様ということになる。
「ん~、甘くて美味しい!」
「よかったな」
とろけそうな顔の隣で、レオノティスもサンドウィッチへかぶりつく。耳付きのパンに卵と輪切りにしたウリを挟んだだけというシンプルな一品だが、これがまた美味いのだ。
「ね、ハニートーストも食べてみる? 使っているハチミツが甘さ控えめだから、レオもいけるんじゃないかな」
「ん。じゃあ少しだけ」
こちらが甘いのが苦手というのは、当然のように知っているらしい。やはり彼女とは浅からぬ付き合いだったのだろうか?
しかし他国どころか他種族の姫と、一傭兵の自分がなぜ――そんなことを考えているレオノティスの口元へ、ドラセナが嬉々としてトーストをちぎって運んでくる。至極自然な所作で。
「はい、あーん」
「お、おぅ……っ?」
にこにこ顔のドラセナと目が合い、思わず硬直してしまう。
仕事や村以外で女性とまともに話したことのないレオノティスにとって、「あーん」など遠い世界の幻想のようなもの。まして相手は、主観的にはまだ昨日出会ったばかりの、そして客観的には恐らく「超」がつくであろう美少女だ。とはいえ楽しそうな顔を見ると断るのも気が引けてしまい、意を決してトーストをくわえる。
「美味しい?」
「お、おう」
味なんて分かるはずもない。緊張で口の中が乾いたところにパンでさらに水気を持っていかれるも、気合いで飲み下す。
「……なあ。俺たちって、前からこういう感じだったのか?」
「ん? こういう、って?」
「だ、だから……あーん、とか」
自分で言って血液が沸騰しそうになり、尻すぼみに声量が小さくなってしまう。
「あっ……ごめんなさい、つい……。レオにとって私は出会ったばかりの相手だもんね」
しゅんとして眉尻を下げるドラセナ。彼女の心情を反映してか、美麗な翼もへにゃりと折れて下を向いてしまう。
「あーいやいや、べつに俺はいいんだけどさ!」
そんな彼女に、レオノティスはぶんぶんと両手を振る。
あんな顔をされてはたまったものではない。
「ほんと? よかった……」
笑顔を取り戻し、翼も元気に上向いてくれる。
(この翼、見てると結構面白いな……)
感情にリンクしてぴこぴこと動く様子は、犬の尻尾――というと失礼な例えになってしまうが、まさにそんな感じだ。
「ね、サンドウィッチの方はどう?」
人間族にはないものをしげしげと観察していると、ドラセナもまたサンドウィッチを興味津々に見つめてくる。
「美味いぞ。昔っからここのが好きで、いつからかこればっかになってたな」
「話には聞いていたけど、よっぽど好きなのね。私も少しもらっていい?」
もちろん、と勧めると、ドラセナは小さな口でついばむように食べた。直前で間接キスということに気付き、むぐむぐと動く唇にも妙な気分にさせられてしまう。
「ほんとだ、こっちもすごく美味しい!」
「だ、だろ? 何度か家で真似しようとしたんだけど、中々こうはいかないんだよなあ」
「この挟んである野菜、生じゃないわね。ちょっと漬けているのかしら? 卵の方は……多分これにもハチミツが入っいてるのね、面白いわ。配分は――」
ドラセナはレオノティスの手にあるサンドウィッチを注視しながら、次々に料理の特徴を挙げていく。
「すげえな……一口食べただけでそこまで分かるもんなのか」
「子供の頃から色んなことを教え込まれたからね。料理も含めて」
「竜神に?」
その特殊な生まれ方から、《竜師》の親といえば竜神一人に絞られる。
だから竜神から教わったのかと推測したが、ドラセナは力なく首を横に振った。
「竜神様はお忙しいから、そういうのは全部教育係の人がやるの。毎日決まったスケジュールで、朝から晩までひたすら訓練や勉強をしていくんだ」
「うへえ。貴族の坊ちゃんがいく学校みたいなもんか」
「そんな感じかな。私は今までの《竜師》の中でも一番覚えることが多かったから、物心つく前からずっとそんな生活でね。そしたらいっつも無表情の、ひねくれた子供になっちゃって」
「そう、だったんだな」
今のドラセナからは想像もつかない。それくらい彼女は素直で表情豊かだ。
レオノティスはなんと声をかけたらいいか分からず、項垂れてしまう。
「あ、でも今は全然引きずってないよ? レオのお陰でたくさん笑えるようになったし」
暗くなった雰囲気を察してか、ドラセナは指で口角を引き上げにっこりと笑う。
「俺の、お陰?」
「笑顔だけじゃないね。レオは、私に大切なものをたくさんくれた。だから私も、レオに素敵なものをたくさんあげたい。レオが困ってたら、他の何を棄てても支えになりたい」
穏やかな微笑の中に垣間見える、決意のような感情。そこには揺らぐことのない、絶対的な信頼があるような気がして。
「あの、さ」
「うん?」
――俺たちって、付き合ってたのか?
喉元まで出かかった質問を、レオノティスはすんでのところで呑み込んだ。
そんなことを本気で聞いて、どうするというのか。
「どうしたの? 考えてることは言ってくれないと分からないよ?」
「いや……い、今でも料理とかするのかなって」
なんでもないとも言い辛くて、レオノティスはパッと頭に浮かんだ別の質問を口にする。
「うん、家にいる時は毎日作ってるよ。これでも結構自信あるんだからね~。色々試してるうちに、大抵のものは一度食べれば再現できるようになったし」
「なにっ!? ってことは、このサンドウィッチも作れるのか?」
「そうねえ」柔らかそうな薄ピンクの唇に指をあて、「それっぽい味に野菜を漬けられれば何とかなりそうかな。今度作ってみよっか」
「ぜひ頼む! あのおばちゃん、気が向いた時にしか作ってくれなくてさあ。材料が足りないこととかも結構あるみたいだし」
思わずずいっと詰め寄ると、ドラセナは嫌がるどころか嬉しそうに応じる。
「はーい、頼まれました。食いしん坊さんには三人前、用意してあげないとね」
「おお、話が分かるぜ! あ、ついでって言ったらなんだけど、アイビーの奴にもハニートースト作ってやってくれないか? あいつもその味が大好きでさ」
「うん……。アイビーが再現しようとしてたのは、この味だったんだね」
しんみりしたように呟くドラセナの姿に、レオノティスははてと首をひねる。
「もしかして、ドラセナってアイビーとも知り合いだったのか?」
「そう。あの子も私にとってはとても大切な友人よ」手に持つハニートーストへ視線を落とし、「今なら、もっとこの味に近付けられるかな」
「だったらなおさら作ってやってくれ。絶対喜ぶぞ」
「ん。……そうだね」
そっけなく返し、ドラセナは視線を外してしまった。
(あれ? 怒って、る……?)
アイビーの分も、なんて言ったのが厚かましかったか? いや、ドラセナがそんなことで腹を立てるとは思えないが……。
(って、言うほどドラセナのこと知らねえんだけど)
「な、なあ、ドラセナ」
沈黙が続いて気まずくなる前に、何か話題を振っておくか――そう思って声をかけたが、
「ん、なあに?」
「あ……れ?」
振り返った彼女の顔は、もう元に戻っていた。
レオノティスは逆に面食らってしまい、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「ふふ、どうしたの? レオから呼びかけたのに『あれ?』って」
「あー。いや、えーと……」
どうやら、やはり怒ってはいないようだ。
しかしだとすると、どうして急にドラセナの雰囲気が変わったのか余計に分からない。
レオノティスがどう答えたものかと悩んでいた時――男のがなり立てる声が、のどかな村の空気を一変させた。
「!? いくぞ、ドラセナ!」
「うん!」
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