方針
「ふー……」
クリスは二杯目の紅茶を飲み干すと、地の底を這うような深いため息をついた。
「いやはや、まさか朝からこんな重いノロケ話を聞かされるとは。胃がもたれそうだよ」
「お、お前が詳しく話せって言ったんだろうが!」
そんなクリスに、思わずレオノティスも抗議の声を上げる。
こちらとて話したくて話したわけではない。こういう空気になるであろうことを見越して、途中で切り上げようとした。
だというのに。それを治療のためと根掘り葉掘り聞き出しておいて、この反応はあんまりではないか。
「だ、第一だな。アイビーは妹みたいなもんだって、あんたも分かってるだろ?」
正確な年齢こそ分からないものの、アイビーは明らかに年下だ。加えて出会いの衰弱し切った印象もあり、恋愛対象というよりは保護対象の印象が強い。
「その割には、彼女の可愛らしさや無防備さに鼻の下を伸ばすことも多かったように思うがなあ? っくく」
「それは……っ」
悲しいかな、否定することはできなかった。外見的には非の打ちどころがない上、感情表現はどこまでも素直でストレート。あれで男として何とも思わずにいるのは至難の業だ。
「……こほん」
そこでドラセナが咳払いし、場の空気を取りなす。
「クリス、からかうのはそれくらいにして。レオも、もっとしゃんとして。そうやってすぐあたふたするから面白がられるんだよ?」
「…………はい」
少しだけ唇を尖らせ不満げに諭されるのは、ばつが悪いやら情けないやら……。
「やれやれ。ところでレオノティス、他に思い出したことはないか?」
ようやく真顔になったクリスがそんなことを聞いてくる。
「ん? いや、それだけだな」
「そうか」
クリスは一度視線を落とし、すぐに顔を上げて話し始めた。
「昨日も言ったが……外傷性の記憶障害なら、傷を治せば記憶も戻ることがほとんどだ。そして、既にレオノティスの脳は物理的には完治している。にもかかわらず肝心の記憶がほんの一部しか戻っていないということは、別の原因が存在すると考えるべきだろう」
「別の原因って?」
「複合要因かもしれんが、あえて一つ挙げるならば――心的外傷。いわゆるトラウマというやつだな」
トラウマと聞いてドラセナの目が暗くなったが、ほんの瞬きで元に戻ったのでレオノティスが気付くことはなかった。
「トラウマ……」
確かアイビーの記憶が戻らなかったのも、それが理由ではないかという話だったか。
過去に惨い仕打ちを受け、その記憶を無意識に封じ込めてしまったのでは? というのがクリスの見解だが……思い出すだけでも胸がむかむかしてくる話だ。
「もし心的外傷が原因だとすると、また事情が変わってしまうな」
クリスは大きく息をつくと、小さな指に自身の毛先をクルクルと巻き付ける。
「人によっては、思い出さない方がいい記憶というのも存在する。アイビーも記憶の修復を望まなかったしな」
「そう、だな」
前にあったことなんて関係ない。そんなアイビーの言葉が脳裏をよぎった。
――俺は、どうなんだ?
レオノティスは瞳を閉じて自問する。
幸いなことに、故郷はすぐ近くにある。アイビーもそこにいるだろうし、このまま無理に記憶を取り戻さなくても元の生活には戻れるだろう。
「…………」
瞼に浮かび上がるのは、ドラセナの姿だ。
記憶の上は昨日出会ったばかりで、ほとんど他人のようなもの。しかし不安を解きほぐそうといつも微笑みかけ、献身的に治療してくれた。彼女自身も浅くない怪我を負っていたというのに、自分のことは全て後回しで。
記憶の治療を止めるということは、彼女にまつわる記憶を諦めるということだ。そんなことをして、果たして納得できるのか? 後悔しないのか?
「なにも今すぐに決めなければならないというわけでもない。まずは君がしたいことをして、その上で方針を決めてもいいのではないか?」
「俺の、したいこと……」
そう言われて真っ先に思い付くのは、アイビーとの再会だ。
「とりあえず家に戻りたい、かな。アイビーが待っててくれてるだろうし」
「ふむ。これまでの経緯を考えれば妥当な案だろうな。ドラセナの意見は?」
「……異論ないわ。こういうケースでは、本人の意向が一番重要だと思うし」
「では決まりだな。私も同行したいところだが、色々と準備があるから後で合流するよ。それまでドラセナはレオノティスの経過観察を頼む。レオノティスは、ドラセナの言うことには必ず従うこと。いいな?」
「俺は子供かっ」軽く毒づき、「んじゃ行こうぜ、ドラセナ」
彼女と連れ立って診療所を後にする。
隣を歩くドラセナの顔には嬉しいような悲しいような、酷く複雑な表情が張り付いていた。
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