第一章

目覚め

 陽光に瞼を焼かれ、安眠を妨害されたレオノティスは眉根を寄せる。たまらず腕で顔を覆ってみるも、強い日差しに照らされるうちまどろみは薄れていた。

 森の清浄な空気が緩やかに流れ、何かに頬を優しく撫でられる。

『……今日も可愛い寝顔だね』

 そんな呟きが聞こえてくる。聞こえてはくるものの、未だ覚醒途中のレオノティスの脳は言葉の意味を理解しようとしない。

 軽い頭痛に思わず顔をしかめる。すると今度はゆっくり髪を梳かれた。

『辛いこと、たくさんあったね……。でも、レオは独りじゃない』

 優しい声。

 聞いていると、心の底から温まるよう。

 温かく柔らかな感触に包まれ、アプリコットの匂いがふわりと鼻をくすぐる。

 頭の下からは硬過ぎず、かといって柔らか過ぎもしない。そんな心地よい弾力と、すべすべの感触。そして、人肌の温もりが伝わってくる。

(ああ、膝枕されてるのか……)

 まるで他人事のように考えながら起きてみようと試みるも、半分眠ったままの身体は芋虫のようにもぞもぞ動くだけだった。

『私は、ずっとレオの傍にいるから。レオが必要としてくれる限り、ずっと隣にいてレオを守るから』

 耳を撫でる鈴のような声とともに、アプリコットの甘い香りが増す。

『……んぁ?』

 ようやく覚醒してくれた脳が認識したのは、視界いっぱいに映った彼女の顔だった。

 鼻と鼻がぶつかってしまいそうな距離感でぱっちりと目が合った途端、彼女は斥力でも働いたかのように顔を離す。

『お、おはよ、レオ』

『ああ……おはよ、――』

 ――!?

 なんだ、今のは?

 確かに彼女の名前を呼んだはず。なのに声は出ず、何かに邪魔されてしまったような、正体不明の歪な感覚だけがこびり付いている。

『えっと……今の、聞いていた?』

 強烈な違和感の原因を探る間もなく、彼女がおずおずと尋ねてくる。

『え? 今の、って?』

『あ……聞こえていなかったならいいの。なんでもない。なんでもないよ、うん』

『はあ……? なんかよく分かんねえけど、朝から元気だな。――は』

 ……まただ。名前を呼ぼうとすると――いや、そもそもこの子の名前はなんだ? 顔も声も、確かに知っているはずなのに……!

『ん? もしかしてまだ寝ぼけているの?』

(お、起きてるって。ただ……あれ、声が出ない!?)

 少女が身体を揺すってきても、指先一つ動かせなくなる。

 そんな様子にただ事ではないと感付いた少女も顔を曇らせ、何度も呼びかけてくる。応えなければいけないのに、身体は相変わらずピクリとも動きやしない。

 こうなったら、とレオノティスはありったけの力で身体を起こそうとする。

(うっ……らあぁ!!)

刹那、視界が弾けて明転し――


「ぁあああっ!」

「きゃっ!」

 夕暮れの寂れた街道に、叫び声と悲鳴が交差する。

「……あ?」

 飛び起きたレオノティスは、何やら想像と違う状況に周囲を見回した。

「なんだここ……俺、なんでこんなとこにいるんだ――うぉっ!?」

 すぐ傍にいた少女が視界に入ってきたかと思うと、何のためらいもなくひしと抱き付いてきた。どこか懐かしい匂いが鼻いっぱいに広がり、柔らかな感触が伝わってくる。

「よかった……意識は戻らないし、急にうなされ出すし、このまま目を覚まさなかったらどうしようかと……」

「ちょ、ちょっと、とりあえず離れてくれ」

 レオノティスは耳元でささやかれる涙声に戸惑いながらも、少女の身体を引き剥がして無遠慮に怪訝な視線を送る。

「――あんた、一体誰だ?」

「えっ?」

 艶やかにうるんだ少女の紅い双眸が、夕日にキラキラと輝いて不安げに揺れる。あまりの美しさに、レオノティスは一瞬呼吸すら忘れて見惚れてしまった。瞳だけではない。上質なシルクのような銀の髪と白磁肌。無風の湖面のように穏やかで純真そうな雰囲気。その全てから透明感のようなものを抱かせながら、どこか儚げな印象も与える。

「レオ……?」

 名を呼ばれたレオノティスは我に返って少女を見やり、そこでようやく先端の尖った耳と、腰から伸びる翼に気が付く。これらは紛れもなく竜人族の特徴だ。

(しかも翼が半透明ってことは、《竜師》か!?)

 全竜人族の頂点に立つ竜神。その子にあたる《竜師》は、肉体の半分が竜脈からなるとされる。翼が景色を透過しているのは、竜脈でできている証だとか。

(向こうは俺のこと知ってるみたいだけど、俺だって《竜師》と直接話したら覚えてるはずだしなあ)

《竜師》は世界中に数えるほどしかいない。それにこの特徴的な翼は、一度見れば記憶へ鮮明に焼き付くはずだ。

 というか《竜師》でなくても、こんな子と面識があったらそうそう忘れまい。それほど目の前の少女は美しく、どこか華がある。

「もしかして私が分からないの?」

 少女は整った顔を引きつらせながら、華奢な身からは想像もつかないような強い力で肩を掴んでくる。

「分からないっていうか、知らないんだって」

 痛みをこらえながら言い放つと、少女は言葉の真意を探ろうとするかのように澄んだ瞳でじっと見つめてくる。

「記憶が混濁してるのかしら……」

「おいおい、俺が記憶障害だってのか?」

「そうとしか考えられないわ。じゃあ例えば、今までどこで何をしていたかは思い出せる?」

「それは……」

 レオノティスは必死に記憶の海をかき分けてみる。が、荒れ狂う水面には知りたいことなど何一つ浮かんでこない。

 つい先ほど見ていた夢のような光景もそうだ。あれがどこなのか、起こしにきた相手が誰なのか。はっきりしたことなんて何一つ分かりやしない。

「何がどうなってるってんだ……くそっ」

 自分自身への苛立ちから、レオノティスは力任せに拳を地面へ叩き付ける。

「大丈夫、落ち着いて。記憶の混乱は一時的なものかもしれないし、まずは現状の把握に努めましょう」

 苦虫を噛み潰したような顔をするレオノティスに、少女はどこまでも冷静に、それでいて優しく諭す。しかし当のレオノティスはじっとしていられずに立ち上がろうとして――強い違和感を覚え、すぐに動作を止める。

「あっ……?」

 見ると自身の右膝から下が血に染まっていて、とても動かせるような状態ではなかった。恐らく骨に異常はないが、だからといって浅い傷でもないことは明らかだろう。

 しかも怪我をしているのは足だけではなく、あちこちボロボロの状態だ。

「一番深かったお腹の傷は大体治したんだけど、足はまだ手付かずなの」

 少女に言われ、レオノティスは腹へ触れてみる。服は大きく破けているものの、処置のお陰か足ほどの違和感はない。痛みがほとんどないのは、興奮状態だからだろうか。

「なんでこんなことになってんだ……?」

「私を庇って、攻撃をまともに受けてしまったから……」

 よくよく見れば、申し訳なさそうに説明する少女の身体にも至るところに傷がある。

(自分のことはそっちのけで、俺の傷を先に治してくれてたのか……?)

 レオノティスの視線に気付いた少女は、さりげなく自身の傷を隠す。

「エルギスのことは覚えている――います、か?」

 それから、ぎこちない丁寧語で話す。

「……ああ、もちろん」

 エルギス・アーヴァイン。リルムリット王国軍軍師にして、同国女王アイリス・リルムフェーテ直属護衛部隊長。《竜師》以外で初めて《竜脈術師》へ至った、人間界最強の呼び声高い勇士だ。

「あなたとエルギスは、昔からの知り合いみたいな口ぶりでしたね」

「ああ。昔、仕事で顔を合わせた時にマナの使い方を教えてもらったんだ。俺はマナの祝福の他にも珍しい力があるんだけど、エルギスがそいつに興味を持ったみたいで」

「他人とマナを共有化する能力、ですね」

 少女がわけ知り顔で言い当てる。

「確かに珍しい力です。私もあなた以外には直接お目にかかったことがないので」

「ふーん、竜人族にもいねえのか……」

 一般的に、竜人族は人間族よりもマナに精通している。その竜人族を束ねる《竜師》が見たこともないとなると、本当にレアな能力なのかもしれない。

「エルギスは、この力をリルムフェーテ家の――アイリスのために使ってほしいって言ってさ。マナの使い方を基礎から教えてくれた上に、女王直属護衛部隊へも推薦してくれたんだ」

「そうだったんですね。彼と戦ったことは覚えていますか?」

「お、俺がエルギスと戦った!?」

 思いがけない少女の質問に、レオノティスは頓狂な声を上げた。

 それもそのはず。

 レオノティスはリルムリット王国で生まれ育った。その彼が同国軍軍師・エルギスと戦ったということは、祖国へ刃を向けたのと同義だからだ。

「…………」

 でたらめを言い聞かせて、何か企んでいるのではないか――猜疑心から少女の表情を観察するレオノティスだったが、彼女の顔からは誠実さしか見て取れない。

 少なくともレオノティスには、彼女が自分を騙そうとしているとは思えなかった。

「本当にごめんなさい。私が巻き込んでしまったばかりに……」

 困惑するレオノティスの姿が、自分の問いに対する答えとなっている。

 そう判断した少女は深々と頭を下げ、決意を宿したようなひたむきな瞳を向ける。

「少しだけ時間をください。あなたの記憶は、何があっても治します」

 力強く宣言し、すっと立ち上がる。

「そのためにもまずは医者に診せないと……。近くに街や村があるといいんだけど」

「それなら、この街道を北へ進めば村がある」

「ん? もしかしてここ、知ってる場所ですか?」

「リルムリットの端、竜神圏との国境近くだ。俺の故郷が近くにあって何度も通った道だから、間違いない」

「そっか。そういえば、レオの故郷はこのあたりって教えてもらったっけ……」

 少女はどこか感慨深そうに呟く。

「ああ。この先の村に馴染みの医者がいるから、あんたの傷も治してもらおう。腕は俺が保証する」

「ふふ、ありがとう。あ――」

 不意に少女が思い出したように声を上げる。

「ごめんなさい、そういえば名乗っていませんでしたね。……私はドラセナ・フレシェヴェルヌ。よろしくお願いします」

 フレシェヴェルヌ、とは竜神の名でもある。《竜師》たちは竜神の子である証として、その名をもらって名字とするのだとか。

「俺はレオノティス・アイギスフレシェだ」

 少女――ドラセナの寂しさが滲んだ自己紹介に胸を掻きむしられつつ、レオノティスは短く返す。

「ってか、俺のことは知ってるんだっけか」

「ええ。レオ――ノティスには、とてもお世話になったんです」

「あー……えっと。レオでいいぞ」

「えっ?」

「呼び方。あと、丁寧語も別に使わなくていい」

「ほ、本当に?」

 ドラセナがおずおずと上目遣いになる。

「でも今のあなたからしたら……私は、その……赤の他人だし」

 か細く途切れ途切れの言葉が、少女が心底では現状を認めたくないと思っていることを表していた。

 目の前の男の子にとって、自分が赤の他人になってしまったという現状を。

「前はそう呼んでたし、普通に話してたんだろ? じゃあそれと同じでいいよ。俺も普段からこういう口調だし」

 何気なく言うと、ドラセナはぱぁっと花のように表情を明るくする。

「ありがとう、レオ……やっぱり優しいね」

「べ、別にこれくらい普通だろ。というかそんなかしこまられると、こっちも落ち着かねえし」

 まっすぐに向けられた笑顔があまりに綺麗で、レオノティスはついぶっきらぼうに返す。

「それより、早く医者のところへ行こうぜ。暗くなっちまう」

「そうね。その怪我じゃ歩くのも辛いだろうから、飛んでいきましょ」

 ドラセナはレオノティスの身体を優しく起こすと、背後から抱き締めるようにしてしっかり固定した。

「うぉ……っ」

「あっ、ごめんなさい。痛かった?」

「あ、いや、その……む、胸が、背中に思いっきり押し付けられてるんだけど……」

 全体的には細身なのに、バストだけは厚手の軍服越しでも分かるくらいに大きい。しかもドラセナの全身――特に長く美しい髪から、とんでもなくいい香りがしている。石鹸やシャンプーだけでは決して出せない、ある意味で麻薬より危険な匂い。

 こんな状態は、健全な少年にとってある意味拷問より惨い仕打ちではないだろうか。

「い、今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ? ほら、出発!」

 ドラセナは羞恥心を振り払うように身体をふわりと浮かせ、美しい翼にマナを纏わせると猛烈な速度で飛び始めた。

「お、お、おぉ!? すげえ……っ」

 いざ飛び始めれば、少年の悶々とした感情も匍匐飛行の大迫力に押しのけられる。

 ドラセナの両翼がはためくたびにマナと空気が後方へ押しのけられ、二人の身がぐんぐん前へ進んでいく。

「もっと高度を上げたいんだけど、そうすると追手に見つかっちゃうかもしれないから」

 確かに竜人族のほとんどいないリルムリット王国内でそんなことをしたら、目立ってしまうのは間違いない。

 レオノティスが首を回すと、ドラセナの白銀の髪が夕日を受けて燃えるようになびいていた。白い肌を染める血さえも美しく見えてしまう。

 幻想かと見紛う光景。なのに、不思議と既視感のようなものが湧き上がってきて。

「なあ」

 気が付けばレオノティスは声をかけていた。

「今更だけど……俺たちって、やっぱ知り合いだった……んだよな?」

「……ん。そうだよ」

 短い答えが返ってくる。顔までは見えないが、声色から彼女の表情を想像するのは容易かった。

「なんていうか、すまん。思い出せなくて」

「ううん、謝るのは私の方だよ。だってレオは私を庇って怪我したんだから」

 そういえば、さっきもそんなことを言っていたか。

「命を落としてもおかしくないような攻撃だったのに、レオは迷わず私を守ってくれた。今は覚えてないかもしれないけど……とても、とても嬉しかった。本当にありがとう」

 最後の方は声を震わせて、感極まった様子が伝わってくる。

「お、おぅ……」

 ドラセナには他意などないのだろう。ただそんなことを耳元で言われた方は、むずがゆくてたまらない。

 不意に、そんなレオノティスを包む両腕の力が強められた。

「何があっても、私が治すから」

「…………」

 自分自身へ誓うような一言。レオノティスが返す言葉を見つけられずにいると、それきりドラセナも閉口して翼で風を切り続けた。

 レオノティスは懸命に頭を絞ったが、どうしてもこの少女のことを思い出せず。

 ただ記憶を探ろうとすればするほど、漠然とした喪失感が首をもたげていくのだけを感じていた。

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