文芸部は腐葉土を醸成し横転する
田中鈴木
第1話
「なあ俺氏」
「なんだい私氏」
エアコンの唸りが聞こえるほど静かな教室に、女子二人。お互いに相手を見るでもなく、スマホ片手に駄弁っている。部室を持たない弱小部、文芸部の活動中である。
「昔さ、教科書に載ってたじゃん。ヘッセの『少年の日の思い出』」
文芸部の活動中である。
「……どんなんだっけ?」
「蝶を潰しちゃうやつ」
「あー、なんかあった気がする。で?」
「気付いたんだけどさ、あれってBLとして完成されてるよね」
「詳しく聞こうか」
文芸部の活動中である。ただし、二人は腐っているものとする。
「あれって『僕』の独白で進むんだけどさ。まだ幼い『僕』は、蝶の標本作りに夢中になるわけさ。で、それを隣に住むエーミールに認めてもらいたいわけ。エーミールって『僕』から見て『非の打ちどころのない完璧な少年』なんだよね」
「……いいね。実に良い」
二人は腐っているのである。
「さんざんエーミールを嫌な奴って言っておいて、結局は認めてもらいたいわけさ。その『非の打ちどころのない完璧な少年』に。もうさ、無自覚ツンデレじゃん?」
「うむ。続けて」
「で、自分の蝶の標本を見せたらけちょんけちょんに貶されて凹んでさ。これ、蝶が無自覚な恋心のメタファーだよね。あまりに幼く、自分としては上出来のつもりなのに『完璧な少年』から見たら不完全で価値の無いものっていう」
「…………ッ」
俺氏が顔を覆い椅子の上で横転しだした。文芸部は器用なのである。
「年月が経ち、『僕』はエーミールが珍しい蝶を自分で羽化させ標本にしたと耳にする。そして、どうしてもそれを見たい、手に入れたいと渇望する。蝶が恋心のメタファーならさ、これってもう、もう……ッ」
「なんだよヘッセ天才かよ。天才だったわ。世界的文豪だわ」
ヘッセには失礼な話だが、二人は腐っているのである。
「こっそり忍び込んだ部屋でその標本を目にした『僕』は、あまりにも美しいそれをつい盗んでしまう。慌ててポケットに入れた蝶の標本は無惨に砕け、どう後悔しても元には戻らない……」
「形にできなかった恋心は、無理矢理手に入れようとしても砕け散ってしまう、か。さすが詩人」
「そして『僕』はエーミールに全てを話し、許しを乞う。僕の全てをあげる、許して欲しいと縋り付く『僕』を、エーミールはばっさり切り捨てるんだ。『そうか、君はそういう奴なんだな』と」
「…………」
俺氏はついに涙を流した。繰り返しになるが、二人は腐っているのである。腐葉土なのである。
「最後、独白を続けていた『僕』の顔は夕闇に呑まれて見えないんだよね。余韻まで美しい悲恋の物語。教科書に載るだけのことはあるよね……」
「良き……」
教科書を編集している出版社はそんなこと一ミリも考えていないだろうが、二人は腐っているのである。流れる涙を拭くと、俺氏は立ち上がった。
「ごめん、今日は帰るわ。教科書読み返してくる」
「え、まだ持ってるの?」
「俺、小学校の教科書から全部取ってあるよ」
「まじか。私は学年変わった瞬間に全部捨ててるわ」
「ちょっとこの胸が熱いうちに読みたい。あ、図書室寄ろうかな。ヘッセの他の作品も読みたい」
「私、探しとくよ。たぶん短編集とか詩集とかあるはず」
「ありがと。じゃ」
びっと敬礼すると、俺氏は鞄を引っ掴み足早に帰っていった。手を振りそれを見送った私氏も、やりきった表情で立ち上がる。
文学について熱く語らい、ヘルマン・ヘッセの作品に興味を深めた二人。今日も文芸部は文芸部らしく活動し、文学の土壌を育む腐葉土は熟成が進んだのであった。
文芸部は腐葉土を醸成し横転する 田中鈴木 @tanaka_suzuki
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