情熱乃風MЯ4625
倉木さとし
【疾風】01 峠のNTRドライバー
ヤクザの息子を車ではねた。
相手の素性を知った上で、事故を起こしたわけではない。
むしろ、このバカと過去に五分以上喋ったことがあったならば、時速十キロ以下の速度でぶつかるなんて生易しい真似はしなかった。
四十八手を模したステッカーごと、ヘルメットが砕けるぐらい痛めつけたのに。
それがかなわなかったとしても、事故直後に「おれはヤクザの息子だ」と偉そうに語らせはしなかった。
お前の親父がヤクザだろうがUMAだろうが、正直どうでもいい。
そんなもので、びびるようなやわな人生を
なんにせよ、今日はついていない。
せっかくの休日の朝に、恋人の優子と転職の話で喧嘩をしてから、運気は下り坂に入っていたのだろう。今年の四月一日で二七歳になったが、巻き込み確認を怠ったせいで事故を起こしたのは初めてだ。
今月は八月だから、初めて公道で運転した日から丸十四年は経つというのに。
無免許運転で父親のフェアレディZを槻本峠で走らせることで、疾風の走り屋人生のシグナルは青に変わった。十代のうちに疾風は槻本峠最速の男として一部の界隈では有名になった。
特に下り道が得意だったせいか、運気が一度下がり始めると、底に到達するのもはやいのかもしれない。などと皮肉めいたことを考えながら、歩道と駐車場の境目に突っ立ったままの疾風はため息をもらした。
「おい、てめぇ。バイクに詳しくないのか? エンジンがかからないんだよ」
キックペダルを何度も踏み込んで疲れたのか、ヤクザの息子は顔中汗まみれだ。
猿みたいに不細工な顔が、汗のせいで脂ぎっていて、気持ち悪さが増している。
「黙ってないで、なんとか言えよ。くそが」
「口を開いたら、お前が泣くまで暴言吐くけど、いいのか? 」
「きこえねぇぞ、ハッキリ喋れよ」
「おまえの耳が悪いだけじゃねぇの?」
「あー、まじきこえん。ビビって小声しか出せないってか?」
「いや、まじかよ。面と向かって悪口言われることなさすぎて、現実逃避してるじゃねぇか。つまんねぇ反応だな、まったく」
「まぁ、どうせバイクに詳しくないんだろうがな」
「話もどしやがってからに。まぁいいや――はい、そうです。詳しくないですね」
猿みたいなヤクザの息子が乗っていたのは、モンキーだと車種がわかったとて、二輪車に詳しいなんて胸をはれるわけがない。
かつては県内外にその名を知らしめた走り屋集団『情熱乃風』の副リーダーだった疾風の周りには、二輪車に精通している連中が大勢いるのだ。彼ら彼女らに比べたら滅相もございませんという感じだ。
疾風はあくまでも『MR2の赤グラサン』という通り名で有名なだけだ。
他にも定着しなかった呼び名は、いくつもあるにはある。
愛車のナンバープレートから『4625』というシンプルなものとか。ホームコースから『槻本峠の風神』というのもあったが、県外の特定のライバルしか呼んでいなかった。
一番ひどいのは『NTRドライバー』だ。疾風のせいで恋人と別れた奴が流行らせようとしたらしい。セフレはいたけど寝取りに心当たりはなかった。むしろ、初めて出来た恋人が寝取られて妊娠してるから、ルビしだいでは間違っていないのも厄介だった。
なんにせよ『二輪に自信ニキの赤グラサン』とは一度も呼ばれたことはなかった。
ヤクザの息子に踏まれ続け、キックペダルはメキョッと、悲鳴をあげる。
「ああぁっ!」
「キーキーうるせぇな。当然の結果が起こったのに、騒ぐんじゃねぇよ」
あくまで二輪車に詳しくない疾風でも、キックペダルの操作は、ライダーの体重をかけて行うものというのは知っている。なんでもスタンドを立てたままだと、スタンドの取り付け部分に大きな負荷がかかるとかなんとか。
間違った方法を何度も繰り返していたら、いまみたいにキックペダルが変な方向へ折れ曲がるに決まっている。
モンキーは、めでたくパーツ交換が必要な状態となった。この場では、手の施しようがなくなったと猿でも気づけるようだ。ヤクザの息子がにらんできた。
もしかして、このタイミングで疾風を笑わせようとしているのか。ブサイクな顔がよけいに歪んでいるぞ。
「どうしてくれるんだ? このバイクは借り物なんだぞ。てめぇのせいだ。てめぇのせいだからな。わかってんのか?」
「巻き込み確認を怠ったのは、反省してます」
心をこめて、疾風は謝った。
ヤクザの息子にではなくて、視界の端にうつった自らの赤い愛車に対して誠意を見せたのだ。
「ごめんよ、MR2」
心のなかで留めるつもりだった言葉は、口から溢れ出した。
事故後も自走ができた賢いMR2は、パチンコ屋の駐車場の白線内にちんとおさまって、疾風の帰りを待っている。
消灯時にライトがボンネットの内部に埋没する――リトラクタブル・ヘッドライト方式の――車だから、まるで目をつぶっているようだ。運転手が揉めている姿は、見てほしくないので、そのまま眠っていてくれ。
思い起こせば、疾風がMR2に初めて乗ったのは、高校一年生の秋だった。いまの彼女よりも付き合いが長い。そんな相棒ともいえる車の左側面が傷だらけになってしまった。
左側のサイドミラーは折れ曲がり、ボディの下部には、黒い横線が入っている。この線の色は、ヤクザの息子が履いているブーツの色と同じだ。おおかた、ブーツが車体をこすったのだろう。痛々しい姿だ。
運転の下手な奴が道路にいなければ、MR2が傷つくことはなかったのに。
だいたい、交通ルールというものも、運転の下手な奴を基準に作られているのも腹が立つ。
「とにかく、てめぇには弁償してもらうからな!」
ムカつく交通弱者が叫んできた。
大声を出さなくても、聞こえる距離にいる。そんなこともわからないから、十分な車間距離もとれなかったのだろ、ボケが。
「はいはい。とにかく、弁償うんぬんの前に警察呼びません?」
「ふざけんなよ。最初にも言っただろ、おれの親父はヤクザなんだよ」
「それが決め台詞なのはわかったから。警察をね」
「だから頭悪いのかよ? 警察なんかに来られたら、親父に迷惑がかかるだろうが」
「ヤクザの親父さんに、ヤクザじゃない息子が迷惑かけたくないのは、よーくわかりました」
「おう。わかってくれたか!」
親父がヤクザでも息子のお前はヤクザじゃないよね、と疾風は結構ストレートに煽ったつもりだった。なのに、天才チンパンジーレベルの知能では理解できないようだ。相変わらず、自分自身もヤクザになると勘違いしたままで、得意げになっている姿は、みていて滑稽だった。
「だったら僕も最初に言いましたよね。警察を呼ばないと保険が使えないから、一円も払えませんから」
「ふざけたこと、いってんじゃねぇぞ」
「いや、真面目な話ですから」
父親に迷惑がかかるといったが、どうせパパに怒られるのがこわいだけだろう。
これ以上、こんなバカと付き合っていられない。
警察を呼ぶために疾風は携帯電話のボタンをプッシュしていく。1を連打し、親指を0に動かしながら、新着メールに気づく。
0のボタンを押す前に、受信メールを確認する。
恋人の弟の中谷勇次を迎えにいっている途中で、今回の交通事故は起きた。
高校三年生の夏休みの予定を狂わせることになるから、車から降りる前にメッセージを勇次に送っていた。
『パチンコ屋のとこで事故った。それで、遅れてる。すまん』
『いまからいく』
勇次の返信は、絵文字や顔文字の類いはおろか、漢字すら使われていない。
平仮名のみというのが、勇次のおバカさをあらわしているようだ。
なにはともあれ、素っ気ない文面を見て、警察を呼ぶのをためらう。
疾風が携帯電話をとりだしてすぐに、ヤクザの息子も電話を耳に当てていた。
電話しながらの下品な笑い顔をみただけで、勇次は敵と判断し、すぐに喧嘩になるだろう。
当然のように勝ってしまうから、駆けつけた警察の世話になるのは勇次だ。
警察の判断基準では、喧嘩両成敗とはならない。勝者は加害者、敗者は被害者とラベルが貼られるのだ。
そこに、正義や悪の付け入る隙がないせいで、勇次は警察官まで蹴散らしてしまうかもしれない。
行き着く先は、助手席に勇次を乗せて、MR2とパトカーのカーチェイスだろう。
逃げ切る自信が昔ほどないのは、正常になった証拠だと疾風は自らに言い聞かせた。
「だから、なんべん言ったらわかるんだよ。チャンさんとちがって、てめぇらは本当にバカだな。パチ屋の駐車場だっての。でも、持ち主の頭と同じで中身すっからかんの軽ワゴンだからこそ、拉致しやすいってのはあるよなあ」
声がでかいので、通話相手が警察ではないのはよくわかった。
勇次逮捕の心配がないので、やって来るのは警察よりも本職の極道のほうがいいのかもしれない。
ヤクザの息子程度は知らなくても、極道と呼ばれる方々なら川島疾風の名前にピンとくるはずだ。
前回の抗争が終結してからの数年で、川島疾風の名前が風化していた場合、槻本高校で三年間同じクラスだったキヨの名前を出せばいい。
キヨで通じないなら、ちゃんとフルネームで近藤旭日だと説明しよう。キヨから貰ったものがダッシュボードに入っているから確認してもらえれば、友達だというのは納得してもらえるはずだ。
「おい、てめぇ。警察が来る前にさらうから、覚悟しとけ」
ヤクザの息子は電話をポケットに片付けながら、鼻息を荒くする。
「あー、こわいこわい。ところで、ヤクザの息子って言ってたけど、親父さんはどこの誰なの?」
「無双一家系列の田宮組の組長だよ。素直に震えてもいいんだぜ? ゆるさねぇけどよ」
「ふざけんなよ。巖田屋会じゃねぇのかよ」
〇島県岩田屋郡に根付いた極道の巖田屋会と、日本全土に事務所がある無双一家。両団体は、絶妙な均衡を保って岩田屋町での抗争を回避している。
どの組織も岩田屋町を縄張りにしないという決まりがあるぐらいだ。
大勢が死ぬ抗争のキッカケなんて、些細なものだと誰かが言った。
無双一家系列の組長の息子をはねた。
よりにもよって、巖田屋会の沖田総一郎に運び屋として雇われていた時期のある疾風が起こした交通事故だった。
勇次には悪いが、警察に介入してもらったほうがマシだと思ったけど、もう遅い。
軽ワゴンがパチンコ屋の駐車場に入ってきて、田宮は猿の玩具のように手をパチパチさせていた。
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