「それはね、欲しいものが重なっちゃうからなんだ。両方の村のちょうど真ん中に、美味しい実がなる木があったとしよう。どっちの村もその木が欲しいから、これはうちの村のものだって言うだろう」

「半分ずつ分ければいいのに」

「そうだね。でも動物たちにはそれができなかった。どうしても独り占めしたい気持ちを捨てられなかったんだ。そんなに美味しい木の実なら、その実を遠くの村に持って行って、別の食べ物やきれいな宝石や、便利な道具と交換することができるだろう?」

 さすがに難しすぎるだろうか。若菜の視線が薄暗い寝室を彷徨さまよっている。

「森では争いが起こるたびに村が大きくなったり小さくなったり、新しく生まれたり無くなったりしていたんだ。でもカモシカの村は湖に囲まれていたから、争いにはほとんど巻き込まれなかった」

 若菜は横目でじろりと僕を睨みつけてきた。早く先を話せということらしい。こういった手厳しいところも智子にそっくりだ。

「古くからずっと続いてきたカモシカ族の村には、ちょっと変わった王様がいました。王様は代々、王家に生まれた男の子が受け継ぐ慣わしになっています。あまりにも村が長く続いているので、今の王様は何代目かと聞かれても誰も答えることができません。もちろんカモシカの王家は、どの動物の王家より長く続いています。さて、そんなカモシカの王様の変わったところはというと……」

 大事なところなので少しもったいぶった話し方をすると、若菜は容赦なく冷たい声を浴びせてきた。

「いいから早く教えて」

 こうなるとまるで智子と話をしているようだ。親娘だから仕方ないとはいえ、ずっとこの調子だと年頃になっても彼氏ができないのではと不安になってしまう。でもまあ、智子が聞いたら夕飯がしばらく卵かけご飯だけになってしまうかもしれないけれど、世の中には僕みたいな物好きもいるわけで……。

「カモシカの王様は、代々なんにもしない王様だったんだ」

 思った通り、若菜はぽかんとしている。話が難しかったからというわけではなく、おそらく大人が聞いても同じ反応になるだろう。

「他の動物の王様たちは、自分の村のことをあれこれ決めたり、他の村の王様と話し合って約束事を作ったり、時には村同士の戦いを指揮したりしていたんだ。それが王様の仕事だからね。でもカモシカの王様は違った。いつだって王様らしいことはなーんにもせずに、村を散歩して回ったり、村人の集まりにふらりと顔を出したり、村人の会話にじっと耳を傾けたり。当然、誰かに命令なんて一度もしたことがなかった」

「カモシカの王様は、ダメな王様?」

「他の動物たちから見たらそうかもしれない。でも村のカモシカたちは、そうは思っていなかった。王様は村のみんなのことをいつも見ていて、良いことがあると一緒に笑ってくれるし、辛いことがあると一緒に悲しんでくれる。カモシカたちは、決して偉ぶることなくみんなと同じように暮らしている、まるでお父さんのようなやさしい王様のことが大好きだったんだ」

 心なしか、若菜の表情が苦々しく歪んだように見えた。まだ五歳だというのに、父の巧みな印象操作に気づくとは大したものだ。

「王様はみんなのことを思いやり、みんなはそんな王様のことを思いやる。そうやってずっと暮らしてきたカモシカの村は、長い間大きな争いもなく平和そのものでした。ところがある出来事をきっかけに、穏やかだったカモシカの村はとても騒々しくなってしまいます。その出来事とは、クロクマ村の使者の訪問でした」

「クマ……。カモシカさんを食べちゃうの?」

「大丈夫、クロクマは獣を襲って食べることもあるけど、それは他に食べ物がないときだけなんだ。普段は草や木の実や虫を食べているし、森にはそういった食べ物がたくさんある。そもそもカモシカはクロクマと同じくらい身体が大きいから、簡単にやられたりはしない。大怪我をしてまでカモシカを襲うのは、クロクマとしてもあまり得じゃないんだ」

 若菜のほっとした顔を見て、続きを話すのが少し可哀想になってきた。これからカモシカの村に起こる悲劇は、弱肉強食という理屈で片づけるにはあまりに残酷で理不尽な事件だ。しかし、ここまできて話を止めてしまうわけにもいかない。それにこの話は、いずれ若菜も向き合わなければならない重大な事実を含んでいるのだから──。

「クロクマの村は、最近とても力をつけた新しい村でした。彼らは他の村の王様を脅して、他の村を自分たちの土地のように扱っていました。そしてクロクマたちの勢力は、もうカモシカの村のすぐそばまで迫っています。カモシカの村を訪れたクロクマの使者は、王様に手紙を渡しました。その手紙はクロクマの王様がカモシカの王様に宛てた手紙で、中にはこう書いてありました。『湖のほとりに広がる“輝きの大地”の半分は、我々クロクマのものとする。今後、勝手に入ることは許されない』。これにはカモシカたちも黙っていられませんでした。なぜなら輝きの大地は、森の中でも特に食べ物が豊富な場所で、カモシカの他にも多くの動物たちがそこの食べ物を分け合っていたからです。誰のものでもない“輝きの大地”の独り占めは、ずっと前からここで食べ物を取ってきた動物たちにとって、とても受け入れられないわがままでした」

 横目で様子を窺うと、若菜は目を輝かせて話の続きを待っている。自然と声に力がこもった。

「カモシカだけでなく他の動物たちも、クロクマをよく思っていないのは明らかでした。しかし、クロクマは身体がとても大きく力も強い上、今ではどの動物よりも広い土地を支配しています。動物たちの中にはクロクマの味方についたほうが得と考えて、自ら仲間になった者たちもいました。カモシカたちも、クロクマと争えばただでは済まないことくらいよくわかっています」

 エアコンが効いているにもかかわらず、首筋にじっとりと汗を感じる。気がつくと、あれほど瞼を重くしていた眠気はすっかり吹き飛んでいた。

「使者が持ってきた手紙を読み終えた王様は、勢いよく立ち上がりました。周りのカモシカたちはすぐに、王様がクロクマの王様のところへ話し合いに行くつもりだとわかりました。しかし王様をこのまま行かせるわけにはいきません。乱暴なクロクマの村に行けば、王様の身に何が起こるかわからないからです。カモシカたちは必死に王様を止め、王様が行くくらいならクロクマと戦うと申し出ました。それを聞いた王様は決して頷きませんでしたが、かと言って他にクロクマを止める方法はありません。カモシカたちの決心は固く、とうとう王様の許可を得ないままカモシカの村とクロクマの村は戦うことになってしまいました」

 ひどい無力感に襲われて声が出なくなってしまった。カモシカの民はこのとき初めて、王様の意向を黙殺して武器を取った。王様は戦いによって傷ついていく両陣営の若者たちを見て、どれほど心を痛めただろう。

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