やさしいおうさま

塚本正巳

 その手は飽きることなく僕の頰を打ち続けた。当然痛いのだが、僕にだって意地がある。ビンタくらいで折れるものか。僕はとても眠いのだ。ここで甘い顔をしてしまえば、きっと明日も明後日も寝不足に悩まされることになってしまう。

 ただ、今夜の攻勢は凄まじかった。ほどなくして平手は握り拳に変わり、横殴りの猫パンチが僕の顔面に容赦なく降り注ぐ。

「痛っ……」

 たまらず声を上げて顔を覆った。猫パンチが鼻柱を直撃したからだ。五歳の女児とはいえ、日頃から僕をぶっているだけに相手を追い込むテクニックはなかなかこなれている。

「こら若菜、痛いからやめなさい」

 枕から頭を上げた僕は、目の前で拳を振り上げている若菜に厳しい視線を送った。しかし彼女は怯むどころか、不敵な笑みを浮かべてどしりと僕の腹に跨がった。

「うっ、苦し……。どうしたの、トイレ?」

 若菜はかぶりを振った。目覚まし時計に目をやると、なんと午前二時。観念して起きるにはさすがに早すぎる。

「ああ、もしかして暑いのか? 確かに今夜は蒸していて息苦しいな」

 気がつくと自分も首にうっすらと汗をかいていた。八月もちょうど半ば。熱帯夜の寝苦しさは今がピークと言っていい。

 一方、妻の智子はこちらに背を向けて心地好さそうに寝息を立てている。夏が好きな智子にとっては、熱帯夜の蒸し暑さなど屁でもないらしい。

 エアコンの設定温度を下げると、淀んでいた空気が清められたようでたちまち気分が良くなった。つい先ほどまでべたついていた肌がさらさらに乾いて、眠気がどっと押し寄せてくる。そうやって僕が気持ちよく微睡んでいたときだった。再び頰を打つ平手のリズムが始まって、せっかくの眠気を無慈悲に追い出していく。

「どうした、もう暑くないだろう?」

「うん、でも眠くない」

 どうやら目が冴えてしまったようだ。幼稚園は夏休み中なので、もしかすると日中遊び足りなかったせいもあるのかもしれない。

 智子にさりげなく視線を送ってみた。依然としてよく眠っている。ここで無理に起こせば烈火の如く怒るに違いない。罵声だけで済むならまだいいが、おそらく寝ぼけた拳も飛んでくるだろう。何が悲しくてこんな夜中に妻の拳の味を確かめなければならないのだ。

 眠くて仕方がないが、こうなったら腹をくくるしかなかった。僕だって若菜の親。娘の窮地を救えずして何が父親だ。

「そうか。じゃあ子守唄でも歌おうか?」

「下手だからイヤ。それより何かお話して」

 軽くショックを受けたが、今はいじけている場合ではない。具体的な要求があったのだから、まずは彼女の期待に応えなければ。

「そうだなあ。お父さんが小学一年生の時、学校の朗読大会で二位になった話をしようか」

「長そう。つまんなそう。それに二位だし。ちゃんとした物語がいい」

 はっきりとした性格は智子譲りなので仕方がない。さっきの猫パンチを連打されるよりはいくぶんかましだ。

「だったら昔話をしようか。むかーし昔、あるところに……」

 若菜があからさまに渋い顔をしている。物語を所望しょもうしたのは彼女のはずだが。

「あれ、昔話は嫌?」

「嫌じゃないけど、知ってる話はやだ」

「大丈夫、若菜が知らないお話だから。このお話の結末を聞いたらびっくりするぞぉ」

 とは言ったものの、本当は一寸法師かさるかに合戦あたりを適当に話すつもりだった。慌てて記憶の底を漁り、若菜の知らなそうな話を探してみる。あのような前置きをしてしまった以上、普通の話ではダメだ。その場のノリだったとはいえ、無駄にハードルを上げてしまったことを後悔せずにはいられない。

 自分の間抜けさに呆れていたところ、運良く妙案が降りてきた。ああそうだ、今日は八月十五日。だったらこの時期に相応ふさわしい話をすればいい。脳内ですっかりホコリを被っていた記憶を拾い上げて、何とかそれらを繋ぎ合わせていく。うん、どうにかなりそうだ。

「むーかし、昔、あるところにたくさんの動物が住んでいる大きな森がありました。その森の動物たちは、種族ごとに村を作って暮らしています。なぜそうやって暮らしているかというと、同じ種族同士のほうが習慣や考え方が近いので、争いが少なくて済むからです」

 若菜はきょとんとしている。種族や習慣といった言葉はさすがに難しかっただろうか。しかしだからといって別の話を考えている時間もないので、このまま続けるしかない。

「動物たちの中でも、カモシカの村だけは少し特別でした。森の中には広い湖があるのですが、彼らの村はその湖の真ん中に浮かぶ島にあるのです」

「カモシカは森に行かないで、ずっと島で暮らしてるの?」

 意外にも若菜が食いついてきた。まだ始まったばかりだが、ありがたいことに少しは興味を持ってくれたようだ。

「湖はそれほど深くなかったから、泳いで森に行くこともあったんだ。でも泳ぐのは歩くよりずっと大変だから、カモシカたちも森の動物たちも、大事な用事がなければ行き来することはめったになかった」

「ふうん、それで?」

「他の動物があまり来なかったおかげで、カモシカたちは長い間その島で穏やかに暮らしていました」

「他の動物たちは違うの?」

「そう、他の動物たちは違ったんだ。森に住む動物は、どんなに仲が良くてもそのうち隣の村と争いを始めてしまう」

「仲が良いのにどうして?」

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