8 エピローグ
三日後、一彦の姿は輝明宅にあった。
ここから魔界に旅立つために。
昔から輝明宅には『開かずの地下室』が存在していた。
子供の頃、何をやっても開かないので輝明に尋ねた所、
「あれは色んな荷物を詰め込んだら圧迫されて開かなくなった。言わば、開かずの地下室だな」
と笑っていたので、大方、扉でも壊れて開かなくなったのだろうと気にもしていなかった。
が、そこは本当に封印された『開かずの地下室』だった。
内部は石造りの頑丈な部屋で、中央には転移ポータルの魔法陣が描かれている――らしい。
らしい、というのは、輝明から話に聞いただけでまだその部屋の中を見ていないからなのだが。
……そんな物を準備していたあたり、元々、輝明は魔界に戻るつもりだったのかもしれない。
「――よし、必要な物はこんな所だろ」
一彦は大きめのバッグに輝明が作った薬品類を詰めて荷造りをしていた。
コンコン。
開いたままにしていた部屋のドアをノックする音が聞こえた。
振り返るとそこに立っていたのは誠だ。
「少し、いいか?」
「ああ、構わない――っと、作業続けながらでもいいならな」
一彦は詰めかけのバッグに向かい、詰め込み作業に戻る。
「で? 話があるんだろ?」
一彦はそのままの姿勢で誠に声をかける。
少し間があってから、誠の言葉が返ってきた。
「……さっき、上からベルゼブブ様の処遇について通達があった」
その言葉に一彦も手を止めて振り返った。
「どうなった?」
「魔界側の然るべき場所に引き渡すそうだ」
はっきりと言わない誠に一彦は怪訝な顔を向けた。
「魔界側の然るべき場所、ってどこだよ?」
そう言われても魔界の事情に明るくない一彦に分かる筈もない。
分かってはいたが、と誠はため息交じりにその場所を口にした。
「魔界でのお前の居城だ」
「はぁ!?」
冗談じゃない! こっちはこっちでやる事が山積みなんだぞ!?
猛抗議しようとした一彦を誠が必死に宥めた。
「ま、まぁ、待て! ちゃんと説明するから!」
誠が言うには、なるべくしてなった結果、だそうだ。
それには二つ理由がある。
まず第一に、一連の出来事でこちらの世界が被害を被っていない事。
もし、被害が発生していれば、その責任の所在を含め、多くの事が表沙汰になっていたところだ。
リリィが一帯に〔
第二に、こちらの世界に魔界の存在が知られていない事。
オカルト分野でその名を聞く事はあっても、それは空想上の代物。
つまり要約すると、『誰も知らない世界の誰も知らない出来事についてはこちらの関与すべき事ではない。そちらで全て処理するように』という事らしい。
はぁ……。
一彦はそこまでの話を聞いて大きくため息を吐いた。
それはそうだろう。
どこの世界も事なかれ主義なのは変わらないという事を実感させられたのだから。
「どこの世界も事なかれ主義ってのは変わらんな。お前んとこの上層部もそこらの会社役員と同じか」
一彦がそう呟くと誠は慌てて一彦の口を手で塞いだ。
「バカ! 口を慎め! A.M.A.P.の連中の耳に入ったらどうする!?」
「A.M.A.P.はお前が創設したんだろ? なら、お前がトップじゃないのか?」
お気楽だな、お前、と誠は呆れると、話を続けた。
「確かに俺が創設はしたが、トップは別の母体組織だ。お前や親父さんの完璧な戸籍を準備したのもそこだ。そういう物をさらっと準備できるあたりでヤバさを悟れ」
存在しない人間の存在を証明する、逆に、存在する人間を消す事もできるって事か。
……そのあたりは触れない方がよさそうだ。
「わかったわかった。お前んとこの上層部批判は止めにするよ。で話を戻すが、魔界の事は魔界で何とかしろって話が、どこをどうしたら俺がベルゼブブを預かるって話になったんだよ?」
不満たらたらな一彦の質問に誠は冷静に答えた。
「それは捕虜の生命保証の観点からだ。ベルゼブブ様はあの性格上、我々が知らない多方からの恨みを買っている可能性が高い。デモンの力を失った今、誰かが保護しなければ殺害される可能性もある」
「まぁ、そうだろうな……」
一彦は戦闘の際のベルゼブブの言動を思い出してげんなりとした。
「しかし、サタンとの繋がりがあった為にみすみす殺させる訳にもいかない、って所か?」
「そうだ。それにお前はベルゼブブ様との戦闘においても命を奪わなかった。その点も考慮されてお前がベルゼブブ様を預かるという所に話が落ち着いた訳だ」
一彦は誠の言葉に納得しかねて尚も食い下がった。
「しかしなぁ……。命を奪わなかったっていっても、それは結果的にそうなったってだけで全くの偶然だぞ? よくそんなあやふやな裏付けで――」
「そりゃ、俺の報告書を基に決定された事だからな。……お前にとって、これからの指針となる手がかりなんだ。他に回す手はないだろ?」
成る程、そういう事か。
魔界は俺にとって右も左も分からない未知の場所。
ベルゼブブから得た情報を元にすれば、目指すべき者、場所の目途も立てやすいという事か。
ホントにコイツはそういう気遣いというか根回しというか、そういう事に聡いな。
「あ、それと」
「ん?」
誠が思い出したかの様に言葉を継いだ。
「俺もお前について行く事になった。ベルゼブブ様の監視役兼、お前のサポート役って名目でな」
「ついて行くってお前、A.M.A.P.はどうする? 隊長のお前が抜けたら組織にとって痛手だろうに」
一彦の言葉に対し、誠は頭を掻きながらばつが悪そうに答えた。
「あー、創設者の俺が抜けるってんで上層部は少し揉めたらしいがこれまでの実績を盾にして強引に黙らせた。後任には大神が任命される筈だ。あいつもかなりの実績があるしな」
どうしてそこまでするんだ? 今まで俺を欺いていた事に対する罪滅ぼしのつもりなのか?
一彦は喉元まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
罪滅ぼしのつもり? 何を馬鹿な。
そうだよ、そのつもりなんだよ、コイツは。
ガキの頃からずっと見てたコイツは、ずっと真っ直ぐで義理堅い男だった。
確かにそこには俺の監視なんて物もあったかもしれない。
でも、俺に対する態度も、かけてくる言葉も、今思えば俺の事を思ってのものだったように思う。
コイツはどう思っているかは知らないが、今でも俺はコイツの事を親友だと思っている。
だから俺が言える言葉は一つだ。
「……助かる」
「いいって事よ。お前がこれから共に行動するヤツの事を考えれば身内は一人でも多い方がいい」
「ああ、そうだな……」
これから共に行動する者。
ベリアル。
先の戦闘終結にあたって、こちらとベリアル勢で同盟を組む流れとなった。
その最初の共同任務が『ベリアルにルシフェルの情報を齎した黒幕の調査』という事だった。
その黒幕を自由にさせていては、またいずれ家族が狙われるかもしれない。
一彦は勿論、輝明の代理としての役目を意識してはいるが、どちらかというと、その不安の根源を絶つ為という事の方が魔界に向かう動機としては大きいのかもしれない。
家族の事を考えるからこそ、一度、家族を狙ったベリアルをどうしても心情的には信用できない。
そういった意味でも身内といえる誠の同行は本当に一彦を安心させた。
「ところで、そのベリアル様からは黒幕に関する情報を手に入れたのか?」
一彦は誠のその問いに頷いて答えた。
「ああ。ベリアルが言うには、『確たる証拠がある訳ではないが、十中八九、サタンに間違いなかろう』との事だ。その名は俺もベルゼブブとの戦闘中に聞いた。ベリアル、ベルゼブブの両者共、親父の研究内容を知っていて、それを求めて物質界に来た点から考えて、俺もその確度は高いと思う。今度は仕掛けられる前にサタンの身を取り押さえようって事でベリアル側とすり合わせした訳だが――って誠、どうかしたか?」
見ると誠は顎に手を当て深く考え込んでいる様子だった。
誠は眉間に皺を寄せた険しい表情になると一彦に向けて口を開いた。
「一彦。お前、もうサタンの策に嵌ってんじゃないか?」
「……どういう事だ? 何か心当たりがあるのか?」
誠がこんな顔で言い出すなどよっぽどの事だ。
一彦は作業の手を止め、誠に正対してきちんと話を聞く態勢を取った。
「少し、長くなるが――」
誠は一彦の態度を見て、少し躊躇する様子を見せたが、やがて意を決したように話し始めた。
今から二十数年前、きな臭さが漂ってきたルシフェル領に潜入したベルゼブブとマゴトは偶然、サタンが企てていたルシフェルの子(つまり一彦)暗殺未遂の証拠を掴んだ。しかし、サタンは悪びれる事なくこう言った。
君達に有用な情報と引き換えに見逃せ、と。
呆気にとられるマゴトを尻目に、ベルゼブブはこの取引に応じると、ルシフェルの消息とその行方、ルシフェルが我が子に施したのが、『高魔力化』の魔法であるという情報を得た。
その後、ベルゼブブは秘儀を用いて、マゴト自身を魂同然の姿に変化させるとルシフェルの逃亡先である物質界へと送り込んだ。
物質界へと送られたマゴトはルシフェル家近辺に暮らす夢島夫婦の赤子と同化、友人・夢島誠として暮らすと共に、ルシフェルの息子である出雲一彦の経過観察を行い、それと同時に高魔力化についての調査をしてきた。
それが今に至り、物質界で二十数年、魔界ではこちらより時間の流れが遅いとはいえ、数年の時が流れた事になる――
「ちょっと待て。何が言いたい?」
さっきから過去の話ばかりで一向に話の核心に触れない誠に一彦は苛ついて口を挟んだ。
「まぁ、待て。ここからが本題だ」
その様子を見て、誠はにやりと笑うと話を続けた。
どうも、誠は持って回った話し方をする癖があるようだ。
「サタンは何か思惑があって俺達が物質界に干渉するように仕向けた。しかし、数年経っても何も進展しない事態に対し、今度はベリアル様が物質界に干渉するように仕向けた。ベルゼブブ様とベリアル様という二つの勢力から狙われる状況に置かれる訳だが……普通だったら戦ってまで物質界に留まろうと思うか?」
つまり、俺が死ぬか、親父共々魔界に向けて追い込む事が狙い、と言いたい訳か。
それなら形はどうあれ、相手の思惑通りに事が運んでいる事になる。
だとしても――
「たとえサタンの狙い通りだったとしても、俺は行くぞ」
「みすみす相手の懐に飛び込むようなもんだぞ? 危険はこっちの比じゃない」
一彦は忠告してくれる誠に首を横に振って答えた。
「俺が行くって決めたのは、何も親父の代理ってだけじゃない。俺は決めたんだ。俺の家族は俺がこの手で何としても守るって。何よりも大切なものだから」
正直な所、俺が魔界に戻る事でサタンにどんな利があるのかは見当もつかない。
しかし、だからといって手をこまねいていては、いずれ必ず愛理に害が及ぶ。
今、サタンに最も与えてはいけないものは時間だ。
ヤツが次の手を打つ前に身柄を押さえるしかない。
一彦は決意を固めるように自分の目の前で握り拳を作ると力を込めた。
その様子を見て誠はやれやれといった具合に溜息をつく。
「ホント、お前は言い出したら聞かねぇ奴だよな。サポートするのも苦労しそうだぜ」
そう愚痴る割に、不思議と表情は満足そうだ。
「お父さん」
声に振り向くと愛理が部屋の入口からひょこっと顔を覗かせていた。
「おっ? 愛理ちゃん♪ どうしたの? お父さんに何かご用かなぁ?」
誠が今までとは別人のようにおどけて愛理の前に屈みこむ。
今までの深刻な雰囲気をおくびにも出さない辺り、流石はプロと感心する。
愛理は誠の人当たりの良さに促されたのか、ほっとした表情を見せた。
「うん、お父さんを呼びに来たの。おじいちゃんが準備ができたから来てって」
「……そうか。愛理、教えてくれてありがとう。今、下に降りるよ」
準備が出来た。
それはつまり、『魔界へ旅立つ準備が出来た』という事だ。
一彦は誠と顔を見合わせて頷くと、愛理を伴って一階へと向かおうと――
「? 愛理、どうかした?」
見ると、愛理が心なしか不安気な顔で上着の裾を掴んでいた。
「ううん、何でもない……」
愛理のその言葉とは裏腹に、一階に向かう間ずっと一彦の服の裾を掴んで離さなかった。
階段を下りた先のリビングでは、輝明とリリィ、それに包みを抱えた薫が待っていた。
薫が一彦に向けて包みを差し出す。
「はい、これお弁当。多めに作っておいたから向こうに着いたら誠君と食べてね」
その言葉に、後ろの誠もぺこりと頭を下げる。
「ありがとう、薫さん。本当に嬉しいよ」
一彦が感謝すると共にその包みを受け取ると、薫はにこりと微笑んだ。
「――!」
一彦は息を呑んだ。
その笑顔は今までに一彦が目にした事がないものだったから。
優し気で、どことなく寂し気で、ともすれば不安そうにも見えた。
決心が、揺らぎそうになる……。
「お父さんっ!」
突然、大声で呼ばれて思わず包みを取り落としそうになった。
「な、何だよ、愛理。びっくりするじゃないか……」
落とさずに済んでほっとした一彦の抗議を無視して愛理がずんずんと詰め寄る。
「お父さん、また危ない事するつもりなんでしょ!?」
一彦は愛理の鋭い指摘に一瞬、息を呑んだが、すぐさま反論した。
「な、何言ってるんだ。ただの出張だよ」
前日に薫と示し合わせておいた言い訳をしてその場を取り繕う一彦。だが――
「ウソ! だって、お父さん、すごく難しい顔してたもん! 私を助けにきた時と同じ顔してた!」
嘘のない愛理の言葉が胸に刺さる。
一彦は困り果てて薫に向かって問いかけた。
「薫さん。俺、そんなに厳しい顔――」
薫は一彦が言い終わるより早く、苦笑い気味の笑顔で頷いた。
もう一度、愛理に目を向ける。
その嘘のない無垢な瞳はまっすぐ、自分に向けられていた。
心配させない為とはいえ、一時の嘘で誤魔化す事が本当にこの子の為になるのだろうか?
様々な面で負担となるかもしれないが、この子の覚悟を信じ、本当の事を告げよう。
一彦は愛理の前にしゃがみ込んで、その目をまっすぐに見て語りかけた。
「わかった。お父さん、愛理を信じて本当の事を言うよ。お父さん達はこれから『魔界』って所に行ってサタンっていう奴を捕まえなきゃならないんだ。そいつが今回の騒動を起こした張本人でね、放っておくとまた愛理やお母さんが危ない目に合うかもしれないんだ。お父さん、それだけはどうしても止めたいんだ。愛理とお母さんがお父さんにとって何よりも大切なものだから。……ね? わかってくれる?」
一彦が言い聞かせるように話すと、愛理はおずおずと頷いた。
しかし、その両目からぽろぽろと涙をこぼし始めた。
その様子に一彦は慌てて愛理の顔を覗き込んだ。
「あ、愛理!? どうした? どうして泣くんだ?」
慌てる一彦に悪いと思ったのか、愛理は両手で涙を拭うとしゃくり上げながら喋り出した。
「だ、だって…マカイってところ、に行った、ら…何倍も時間、が、かかっちゃう、んでしょ?…ずっと、お父さん、に、会えないの…さみしいよっ…」
そこまで言うのが限界だったのだろう。
その直後、愛理は大声で泣き出してしまった。
何て事だ! どこかで魔界と物質界の時間の流れ方の違いを耳にしたのか!
確かに向こうで少しの時間しか過ごさなかったとしても、こちらではその数倍の時が過ぎている――
だとしても!
「大丈夫っ!」
一彦は大きな声でそう言うと泣きじゃくる愛理を抱きしめた。
「おっ、お父さ――!?」
急に抱きすくめられた驚きで目を白黒させている愛理に一彦は畳みかける様に言った。
「大丈夫だ、愛理! お父さん、愛理の事を想っていればいくらでも力が湧いてくるんだ。すぐに用事を済ませて帰ってくるから!」
「そうそう、それに誠おじちゃんも手伝うから、すぐに帰ってこられるよ、愛理ちゃん」
誠が傍から愛理を覗き込んで助け舟を出すと、安心したのか、愛理は、うん、と頷いて泣き止んだ。
一彦は大丈夫と念押しするように、泣き止んだ愛理の背中をぽんぽんと叩くと、いつの間にか傍に来ていたリリィに愛理を預けた。
……せっかく示し合わせてたのになぁ。
愛理を寂しがらせない為に夫婦二人で決めた嘘の言い訳。それをその場の勢いで一方的に破ってしまった。
一彦は薫の前に来ると、頭を下げた。
「ごめん、薫さん。せっかく二人で考えた事だったのに、愛理の目を見たら嘘がつけなくなった」
「ホント、反省してよねー。これから愛理が寂しくなった時に誤魔化すこっちの身にもなって欲しいわよねー。まず無事かどうかまで心配しなきゃなんだからー」
分かってはいたが、薫の軽口にいちいちへこむ自分が何とも情けない。
薫の言い分は全てが正しいのだ。それをぶち壊した自分は全面的に悪い。
「……本当にごめん」
「ウソウソ♪ そんなに気にしなくて大丈夫よ。……ひょっとすると、今のあの子には『嘘をつかれた』って事の方が傷つくかもしれないしね」
そう言って浮かべる薫の笑顔はやはりどこか寂し気だ。
思っている事、伝えなきゃ。
そう思った瞬間、一彦の口から言葉があふれ出た。
「薫さん、俺にとって一番大切なのは薫さんと愛理、俺の家族だ。それをこの数日で嫌というほど思い知ったよ」
薫はそういう一彦に対して若干疑うような、探るような視線で問いかけた。
「そう? 今は正常な判断ができないだけかもしれないわよ? まだプロサッサー選手の夢、捨てきれないんじゃない?」
それに対し、一彦は首を横に振った。
「俺に夢なんて大それたものは無いよ。強いて言うなら、大切な人を喜ばせるのが俺の夢、という気がする」
学生の頃をキヨさんを喜ばせたくてサッカーに打ち込み、社会人になってからは愛理を喜ばせたくてサッカー選手になろうとした。思えばいつだってそうだった。
だから今はまだ、大切な二人を守れる存在でいたい。
「――薫さん、まだ俺を君の夫でいさせてほしい。俺にもう一度チャンスをくれないか?」
離婚届を突き付けられたくせに何を女々しい事を、と自分でも思う。
勿論、離婚されたとしても、二人は自分にとって一番大切なものだと言える。
……いや、逆か。
ハハ、ここに来て自分の本音と対峙する事になるなんて。
とんだお笑い草だ。
そんな一彦の内心など知る由もなく、薫はそうねー、と顎に人差し指を当てて考えるポーズを取ると、その指を一彦に向けて突き付けて言った。
「条件が二つあるわ」
「どんな条件?」
一彦が聞き返すと、薫は愛理を見て言った。
「一つは、さっきの愛理との約束を守る事」
「すぐに帰ってくるっていう、さっきの?」
一彦の問いかけに、薫はこくりと頷いて応えた。
元より愛理との約束は守るつもりだったんだ。恐れる事はない。
……問題は二つ目だ。
「……じゃあ、もう一つは?」
震えそうになる声を抑えながら一彦が問いかけると、薫は少し照れたように答えた。
「…わ、私を未亡人にしない事よ。早く戻ってこないと愛理の卒業式や入学式を見逃す事になるわよ!」
――!
提示された二つの条件は、早く無事に帰ってきて、という薫からのメッセージだと受け取るのは都合が良すぎるだろうか?
いや、それでも構わない。
たとえ自分の勘違いだとしても、危険な場所に向かう自分への気遣いだと思うと胸が熱くなった。
そんな薫に対し、自分も何も示さない訳にはいかない。
一彦は懐に手を入れると一通の封筒を取り出した。
「っ! それは……」
息を呑む薫に頷いてみせる。
薫の想像通り、これは薫が一彦にあてた離婚届だ。
一彦はそれを薫の目の前で封筒ごと破り捨てると、そのまま薫を抱きしめた。
「必ず帰ってくるよ。薫さんと愛理の元へ。だから心配せずに待ってて」
「……バカ。離れてるんだから、心配くらいさせてよ」
鼻にかかったような薫の拗ねた声に思わず一彦の口元から笑みが零れた。
愛しい。
一瞬、離れがたい衝動に駆られる。
が、次の瞬間、ぐいっと薫に押し退けられた。
「ほらっ、急いで。みんな待ってるわよ」
そう言って、にっ、と笑った顔はいつもの薫に戻っていた。
「……うん、行ってくるよ」
そう笑顔で答えた。
その自分の笑顔はいつもの様に笑えていただろうか?
ポータルのある地下室に向かおうとしたその時、
「待って下さい」
と声をかけられた。
振り向くと、そこには心細げに手をつないだ愛理と意を決した表情のリリィが立っていた。
リリィは空いてる手で一彦を掴むと薫の前に連れてきた。
「薫さん」
「な、何?」
リリィに声を掛けられると、薫はうっすらと浮かんだ目元の涙を素早く拭うと何事も無かったかのように答えた。
リリィもそれに倣って気付かぬ振りで話を続ける。
「これを愛理ちゃんに持たせてあげて下さい」
そう言って差し出されたのは首から下げられる細いチェーンの付いた小振りのメダルだ。
その表面には細かく複雑な紋様が施されていて、中央には青い宝石が埋め込まれていた。
「これは?」
メダルを受け取った薫はリリィの意図が分からずに問い返す。
その問いにリリィは柔らかな微笑みを浮かべて答えた。
「一彦さんをこの物質界に召喚する魔法陣です。愛理ちゃんなら中央の宝石に魔素を集中させる事で一彦さんを召喚する魔法術式を発動させる事ができるはずです」
「……どうして? せっかく旅立とうとしている彼を呼び戻すような物をどうして私達に?」
一彦が混乱する魔界を治める為と家族の不安を取り除く為、魔界に赴きサタンを捕えなければならない事は薫にも理解できる。
しかし、今手渡された代物はその目的からは最も縁遠い、事によってはその障害ともなり得る物だ。
……せっかく、きれいに送り出せると思ったのに。
一彦君が訳が分からない所に行く事に不安が無い訳ないじゃない……。
一人じゃない。知り合いがいる。色々な人のサポートもある。
そう自分に言い聞かせて、誤魔化して、納得させて、今日を迎えたのに……!
なのに…なのに……!
「ねぇ、どうして!?」
私の心をかき乱すような事をっ!
薫は感情的になってリリィに詰め寄った。
しかし、リリィはその薫の視線を真正面から受け止めると、怯む事なく静かに答えた。
「薫さん、心中、お察しします。愛する夫を見知らぬ土地、しかも安全とは言い難い場所に送り出すのですから、その胸の内をどれほど痛めたのか、想像に難くありません。様々な葛藤の末に今日という日を迎えられたのでしょう」
「――っ! そこまで分かっていながら、どうして私の心をかき乱すような事するのよっ!」
冷静に内心を言い当てられた薫は感情を爆発させた。
そんな薫に対し、リリィは少し困った表情を見せ、言い難そうに言葉を続けた。
「……その覚悟を決める事ができたのは貴女が大人だから。ですが――」
「お母さん……」
リリィの言葉を遮るように、愛理がリリィの後ろからおずおずと出てきた。
薫はその愛理の不安そうな表情を見てはっとした。
愛理はさっきの事で自分の父親が危険な場所に向かう事を知っている!
それを考えれば、今、その小さな胸をどれほど痛めている事だろうか。
私、自分の事ばっかり……!
「ごめん! ごめんね、愛理!」
薫は愛理の側にかがみ込むとその小さな身体をぎゅっと強く抱き締めた。
「私、あなたの事、考えてなかった! 今、お父さんの事を知ったばかりで辛い筈なのに!」
「……いたいよ、お母さん」
薫は愛理の訴えに慌てて身体を離すと苦笑いする愛理と目が合った。
どちらかともなく、クスっと笑うと愛理が口を開いた。
「お父さん、私たちのためにマカイってところに行くんでしょ? すぐに帰ってくるって約束もしてくれた。……だから、私、がんばれるよ?」
健気にもそう言って薫を見上げる愛理の顔にはまだ涙の跡が残っていた。
この子がこんなに頑張ってるのに、私が取り乱してどうするのよ。
「……そうね。愛理が頑張るって言ってるんだもん。お母さんも頑張らなきゃね」
そういう薫の目の前にリリィからメダルが差し出された。
「これがあればいつでも一彦さんに会える、そう思えたらその頑張りもより一層力を増すと思います」
そう言って浮かべた笑顔が優しさと寂しさの入り混じった表情に見えたのは気のせいだろうか。
いつでも会える、か。
俺と親父がこの物質界に来て三十年近く。
その間、成長する我が子の側に居られないというのは母親にとってどんな気分なのだろう。
事情があったとはいえ、断腸の思いであった事は想像に難くない。
「薫さん、受け取って。
一彦の言葉もあって、受け取るのに躊躇していた薫もメダルを受け取り、愛理の首に掛けた。
愛理はメダルを手に取ると嬉しそうに皆を見上げる。
「これがあったら、いつでもお父さんと会えるんだよね?」
薫は愛理の言葉に頷いて応えた。
「そうね。でも、それはどうしてもって時だけね。いつも呼んでたらお父さんのお仕事、いつまでも終わらないんだから」
「そうだよね……」
薫の言葉を聞いて少し残念そうな表情を浮かべる愛理だったが、すぐに明るい表情を見せた。
「でも、大丈夫! これ持ってたら何だかお父さんが近くにいてくれるような気がするから。お父さん、お仕事、がんばってね!」
「ああ! さっきも言っただろう? すぐに帰ってくるから安心して待ってるんだぞ」
「うんっ!」
愛理は一彦の言葉に元気いっぱいに答えた。
誰が見ても強がりと分かるその返事。
しかし、一彦は愛理の精一杯の強がりに乗せられる事にした。
自分の言葉を現実のものとする為に。
*
「来たか」
輝明は一彦達全員が地下室に到着すると、そう口を開いた。
一彦達が足を踏み入れた地下室は十二、三畳ほどの空間で、床にでかでかと魔法陣が描かれていた。
そんな中に一彦一家に誠、リリィと六人も集まると流石に手狭な印象を受ける。
皆一様に魔法陣に足を踏み入れるのに気が引けるらしく、自然と部屋の端に立った。
そんな様子を見て、輝明が呆れ顔で声をかけた。
「何してる? まだポータルは起動していない。遠慮なく踏み入っていいぞ」
その言葉に全員がホッとした様子で部屋の中程に進んだ。
来た時から部屋の様子が気になっていた一彦は輝明に声をかけた。
「なぁ、親父。このポータルって代物、もっと広い所に設置できなかったのか? 魔法陣に対して部屋が狭すぎる気がするんだが」
「いえ、これでいいと思います」
一彦の質問に答えたのは部屋を見回していたリリィだ。
「部屋の壁や天井には物質強化等の防御系の魔法が施されているようです。加えてこの部屋の狭さ、恐らくルシフェル様はここが攻め入られた時の事を想定していらっしゃるのでしょう」
「攻め入られた時……」
一彦の呟きにも似た鸚鵡返しに、はい、と答えるとリリィは話を続けた。
「壁や天井に施された魔法のお陰でこの部屋を突き破るような巨大な物をあちら側から送り込む事が出来ないようにしているのです。無理にここから出ようとしても押し返されてしまう事でしょう」
「そうだ」
リリィの言葉を継いで、輝明は話を続けた。
「ポータルを設置し、こちら側からの道を拓くという事は向こう側からの道も通ずるという事。それ相応の対策を施しておかねばならん。……
そう、その通りだ。
今はまだ一つの局面を乗り切ったに過ぎない。
手を
そうさせない為に俺は魔界に向かう筈だったのに……。
一彦は輝明の言葉に自分が
一彦のそんな心中を知ってか知らずか、輝明は魔法陣とケーブルで繋がっているコンソールに向かって忙しなく何かを入力しながら話を続けた。
「一彦、向こうに着いたらベリアルの元に向かえ。話は通してあるから何の問題もない筈だ。その後の事は……リリス、頼めるな?」
「はい、ルシフェル様。どうぞお任せを」
二人がそんな話をしていると、部屋の奥からそのやり取りを鼻で笑う声がした。
「ハッ、仲睦まじい事で。ルシフェル、ボクの事は頼んでくれないのかい?」
そう言って部屋の奥から歩いてきたのは――ベルゼブブ。
初めて目にした時には自分の目を疑った。
赤みがかったウェーブの金髪。
エメラルドを思わせる美しい緑の瞳。
中世ヨーロッパの貴族を思わせる服を纏った十二、三歳の美少年。
そんな少年があれほどの残忍さを見せるなんて。
そのベルゼブブが無造作に歩き出した。
一彦は自由を奪う手錠もなく歩いてきたその姿に慌てて懐に手を入れた。
誠はすぐさま二人の間に割って入った。
「大丈夫だ、一彦。ベルゼブブ様には封魔の枷が首に嵌め込まれていて、
ベルゼブブは誠の言葉にすっと目を細めると嫌味たっぷりに口を開いた。
「……へぇ、重犯罪者である僕をまだ様付けで呼んでくれるとはね。何を企んでる?」
「特に何も。主君をお諫めする事も従者たる私めの役割と心得ております故」
皮肉にも反応せず、真面目に答える誠に対し、ベルゼブブはフンと鼻を鳴らすと面白くもなさそうに、しっしっと手で追い払う振りを見せた。
と、ベルゼブブは何か思いついたのか、急に一彦の方に向いて問いかけた。
「ねェ、一彦クン。キミは今、自分がどういう
「立ち位置?」
一彦が質問の意図が分からず鸚鵡返しに問い返すと、輝明が会話に割って入って来た。
「よせ一彦、耳を貸すな」
しかし、ベルゼブブは構わずに話を続ける。
「今のキミはサタンの用意したシナリオに登場する単なる駒に過ぎないよ。さて、キミはサタンの予想を覆す働きができるのかな? それとも…? ま、せいぜい頑張る事だね。ククク……」
言いたい事を言って気が済んだのか、ベルゼブブは誠と共にポータル中央に向かって歩き出した。
「待て」
呼び止めた一彦の言葉にベルゼブブは足を止めると、お気に入りの玩具を見つけたかの様に楽し気に振り向いた。
しかし、一彦は怯む事なく言い放った。
「確かに俺のする事はサタンにとっちゃお見通しなのかもしれない。だが、愛理に危害が加えられるのを黙って見ている訳にはいかない。誰が相手だろうと俺は絶対に愛理を護る。絶対にだ!」
それを聞いたベルゼブブは心底楽しそうに笑い出した。
「アッハッハ! 完全に予想通りの反応を返すなんて面白すぎ! でも、意気込みは買うけどさぁ、策も無しに敵地に飛び込めばむざむざとサタンの罠に嵌るだけだよぉ?」
「ぐっ……」
人を小馬鹿にしたベルゼブブの挑発顔は頭に来るが、その言葉は的を射ているだけに一彦としてもぐうの音も出ない。
悔しがる一彦の表情に気を良くしたのか、ベルゼブブは右手の人差し指を立てると思わせぶりに口を開いた。
「じゃあ、その意気込みに免じて一つ、プレゼントをあげるよ」
「プレゼントだと?」
一彦が訝し気に問い返すと、ベルゼブブは楽しくて仕方ないといった様子で言葉を続けた。
「そ、サタンの思惑を少しだけ話してあげるよ。サタンはキミが死ぬ事を望んでるけど、ただ死ぬ事を望んでる訳じゃない――惨たらしく殺される事を望んでるだよ」
「……どういう意味だ?」
ベルゼブブは生唾を飲み込み緊張する一彦の面持ちを恍惚とした表情で見つめるとくるっと踵を返した。
「あぁ、やっぱり恐怖に耐える表情というものは堪らないねぇ……」
「――っ! 質問に答えろっ!」
一彦が声を荒げると、ベルゼブブは仕方ないといった様子で質問に答えた。
「単なる推測だよ。サタンにとっては『魔族がキミを殺す必要がある』んじゃないか、っていうね。現に魔族がいなかったこの前まで命の危険は無かったでしょ?」
確かにベルゼブブの指摘通り、今回の事が起きるまでは普通の会社員としての生活を送っていた。
そもそも、こんな突拍子もない事が自分の身の上に降り掛かってくるなんて考えた事もなかった。
「どうやら、考えてもなかった、という間抜け面だね。その程度の頭で果たしてサタンを出し抜けるのか、せいぜい楽しませてよね?」
アハハハ、と無邪気な笑い声を上げながらベルゼブブは再びポータル中央に向かった――が。
「ベルゼブブ様」
ベルゼブブは自らを呼ぶ声に足を止め振り向いた――その先に凍てつく様な冷たい視線を据えて。
そしてその声の主が自らの予想通りであったと知ると不愉快さを隠す事もなく吐き捨てた。
「いちいち
臓腑を抉る肉食獣を思わせるその声は、それを発した目の前の少年が見た目通りの存在ではない事を改めて思い知らされる。
そんなベルゼブブに対し、誠は平然と自分の聞きたい事を問いかけた。
「サタンの思惑、ご教授頂き感謝致します。しかし、ベルゼブブ様にはそうする事によるメリットがございません。サタンの策に乗るのであれば、一彦がそれを知らない方がベルゼブブ様にとって都合が良かったのではございませんか?」
……確かに誠の言う通りだ。
俺に注意喚起を促す事によるベルゼブブのメリットは一切無い。
むしろ、サタンと共謀しているのなら教える事の方が不自然だ。
それとも、何か他に狙いが……?
一彦が思案を巡らせていると、ベルゼブブはつまらなさそうに口を開いた。
「マゴト、ボクの性格はわかってるだろぉ? ボクは
ベルゼブブはしてやられたとばかりに肩をすくめた。
「申し訳ありません。一彦は魔界の事情に疎い故、ベルゼブブ様とサタンの関係を明らかにする必要がありました」
誠はそう言ってベルゼブブに向かって恭しく
そんな様子を見て、一彦は頭に上った血が一気に下がるのを感じた。
どうやら誠は俺の為にわざわざ答えの分かっている質問をしてくれたらしい。
今の状況を認識させる為に。
ベルゼブブとサタンは当初、協力関係にあったが、現在ではその限りでもないようだ。
尤も、サタンの目的次第でどう転がるか分からない危うさを孕んだものではある。
しかし、交渉次第で味方に引き込める可能性があるならば、常にこちらの首を狙って敵対している状況よりは遥かにマシだ。
「……まぁ、いい。マゴト、お前が付いていながらの失態は許さん。サタンの謀の全容を掴んだ後、一彦をどうするかはボクが決める。それまでしっかりと一彦を守れ。いいな?」
「はっ、心得て御座います」
一彦は、ベルゼブブの勝手な言い分に対して、自分の事は自分で決める、と喉まで出かかった言葉を必死で飲み込んだ。
言った所で、今の状況をややこしくするだけだ。
とりあえずは、ベルゼブブのおかげでサタンの思惑の一端を多少なりとも掴めただけでも良しとすべきだろう――向こうで何が待ち構えているのかを考えると気が重くなりそうだが。
「ポータルの準備ができたぞ」
魔法陣側の機材に張り付きっぱなしだった輝明からの声がかかると、一彦とリリィ、誠とベルゼブブの四人は各々、ポータルの中央へと歩みを進めた。
「皆、準備はいいか?」
四人が揃うと輝明が声をかけた。しかし――
「待って!」
薫が切迫した声と共に飛び込んできた。
すると、ベルゼブブはそれを揶揄うように声をかけてきた。
「どうしたの? 今更、男を手放すのが惜しくなった? 何なら付いて来てもいいよ。ボクのお世話係として、ね。ハハハッ!」
「うるさい、負け犬! あんたは見逃された命を大事に抱えて震えてなさい!」
「何だと…っ!」
薫の怒声に怒りを露わにしたベルゼブブだったが、薫に危害を加えるどころか、言葉を発する事も出来なかった。
その喉元には目にも止まらぬ速さで抜かれたリリィの剣の切っ先が突き付けられていたから。
「それ以上の息子夫婦への侮辱は許しません。続けるつもりなら即座に首を
そう言うリリィの視線は静かで冷たく、見た事もないほど鋭い。
本気なのは誰の目にも明らかだ。
そのリリィを前にベルゼブブは押し黙る他なかった。
リリィがそのままの体勢でにこりと微笑んで薫に向かって頷くと、薫も頷き返してから一彦に駆け寄った。
薫が一彦の頬に両手を添えるとぐいと自分の顔に向けて言葉を発した。
「
俺?
一彦はそれが頬を触れられている自分の事なのだと理解するまで数秒かかった。
「ひどい顔してるわよ」
「そう…かな?」
薫に言われて、そう返すしかない自分に情けなさを感じるが、事実、酷い表情をしていたのだろう。
家族の為に頑張る、そう決めたばかりだというのに。
「ほら、また。余裕のない顔してる」
すぐに表情に出る自分に苦笑いするしかない。
「ねぇ、あなた。何でも深刻に考えるのはあなたの悪い癖よ。心配事は多いけど、何も一人で抱え込む事はないわ。周りには誠さんやリリィさん、お義父さんと協力関係のベリアルさん、いざとなったらお義父さん自身だっている。皆を頼って」
薫の言葉を受けて、一彦が皆の顔を見回すと、皆、それぞれ笑顔で力強く頷き返してくれた。
「あなたは一人じゃない。みんながいる。それと、私達親子の気持ちも、ね」
そう言って薫はポケットから何かを取り出すと一彦の手にそっと握らせた。
手を開くとそこにはきらりと輝く銀色のロケットがあった。
ロケットを開いてみると、いつの間に撮ったのか、薫と愛理の弾けるような笑顔がそこにあった。
「よくとれてるでしょ? お母さん、かわいい笑顔の写真、ぜったいお父さんにわたすんだー、ってはりきってとったんだよ」
いつの間にか傍に来ていた愛理が精一杯の笑顔でそう言った。
涙の跡が残るその笑顔は愛理の成長の跡だ。
その笑顔が眩しい。
「コラ愛理!」
愛理はいたずらっぽく舌を出すと薫に怒られる前に素早く輝明の後ろに逃げ込んだ。
全くもう、と薫はため息を吐くと、すぐに笑顔を一彦に向けた。
「とにかく、私達家族は離れていても心はずっと側にいるから。……早く無事に戻ってこられる事、信じてるからね」
照れくさいのか、薫はこちらを向いていても目線を合わせず、口調も心なしか
そんな様子がいじらしく、一彦の口元にも笑みがこぼれた。
「ありがとう、薫さん。やっぱり薫さんは俺にとって最高の女性だよ」
一彦はロケットに繋がってるチェーンを首に通しながら、にこやかにそう言った。
薫さんの存在はいつだって力を与えてくれる。
辛い時、苦しい時、奮い立つ力を与えてくれたのはいつも側にいてくれた薫さんだった。
だから今こそ、薫さんと愛理、二人の家族を守る為に行くんだ!
――家族、か。
「――エル、近くにいるか?」
「はい、マスター。ここに」
一彦の唐突な呼びかけにも関わらず、エルはすぐさま皆の目の前に姿を現した。
おとぎ話の妖精と見紛う愛らしい姿を初めて目にする薫と愛理は色めきたった。
「キャーーッ♪ カワイイっ! お父さん、何コレ!? スゴい! 生きてるの!?」
「本物の妖精なの? すごく綺麗……」
一彦ははしゃいで構いたがる二人から何とかエルを庇いながら声をかけた。
「エル、デモンの名称を変更する事は出来ないか?」
「……マスター、言ったはずですよ? 登録情報の変更は短期間に何度もできない、と」
にべもなく断るエルに、一彦は両手を合わせて拝み倒す様にして頼み込んだ。
「頼む! F.L.A.M.E.のFの意味をFatherからFamilyに変えたいだけなんだ。……親父の愛は偉大だよ。今まで俺の平穏を守ってくれた。だからこれからは俺の家族への愛で大事な人達を守りたいんだ。――駄目かな?」
一彦はそう言ってエルの目を真剣に見つめる。
その様子に騒いでいた薫達も押し黙って、固唾を呑んで見守る。
エルはそんな三人の視線に根負けしたのか、仕方ないといった表情で溜息を吐いた。
「……分かりました。権限委任して頂いたら変更可能になった際にやっておきます」
エルがそう言うと、愛理が飛び出してエルを抱きしめた。
「ありがとう、エルちゃん! お父さんのお願い、きいてくれて!」
「い、いえ、わ、私はマスターの命令に従っただけで――」
愛理の行動にエルも驚いてしどろもどろだ。
「うん、わかってる。でも、うれしいの。あっちに行ったらお父さんのこと、お願いね?」
はしゃいだ様子などない、落ち着いた声色。
でも、年に似つかわしくなく、どことなく寂しげだ。
その声だけで、エルは察した。
身一つで残される自分を差し置いて、マスターの事を案じている事を。
何と健気な――!
「お任せ下さい! 我が命にかけてマスターをお守り致します。お嬢様は安心してお待ち下さい」
エルは気付いたらそう口走って愛理の頭を抱きしめ返していた。
どうしてそんな事をしたのか、エル自身にも分からない。
しかし、愛理から向けられる笑顔を見ていると感じる胸の温かさ、それで自分が満たされるならそれでもいい、と思い始めていた。
一彦はそんな二人を眺めつつ、輝明に声をかけた。
「デモン・フレイムはエルが親父の愛を想って付けた名だ。正直、その気持ちを思うと申し訳ない気もする。でも、今の俺にとって大切なのは親父も含めた俺の家族だ。その名を冠したデモンで皆を守りたいんだ。……名前、変えても構わないよな?」
「もうお前のデモンだ。好きにしろ」
輝明はぶっきらぼうに答えたが、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
それから程なくして、床の魔法陣が鈍く青白い光を放ち始めた。
「さて、そろそろ本当にお別れの時間だ。薫さんと愛理ちゃんは魔法時より外側に出てくれ」
輝明の言葉で薫と愛理は魔法陣の外に出る。
入れ替わる形で一彦、エル、リリィ、それに誠とベルゼブブを加えた五人がその中央へと進んだ。
中央に来ると光は徐々に強くなり、魔法陣全体が強い輝きを放つようになった。
それに伴い、魔法陣に繋がってる各種機器類もブゥーンと鈍く大きい音を立て始める。
魔法陣の外に目を向けると、その様子を不安そうに見つめる薫と愛理の顔が目に入った。
一彦は精一杯の笑顔を作り、手を大きく振って大声で二人に声をかけた。
「薫さん、愛理! 行ってきます! すぐに帰るから心配しないで!」
知らない土地に命の危険。心配事を挙げればきりが無いが、そんな事をおくびにも出さず元気に笑顔で旅立つ。
それが二人に心配をさせまいとする一彦にできる精一杯の事だった。
それを感じ取ったのか、薫もそんな一彦の応えた。
「いってらっしゃい! 身体に気を付けてね!」
大声で応えて手を振る薫に愛理も続く。
「お父さん! 早く帰ってきてね! 約束だからねっ!」
「ああ、分かってる!」
一彦は愛理の声に応えて、二人に向かってより大きく手を振った。
その直後、魔法陣が眩い光の幕に包まれ、外が全く見えなくなった。
「うっ!?」
あまりに強い光に思わず目を閉じた一彦だったが、その時間はそれほど長いものではなかった。
時間にすれば十秒程だろうか、光が収まった後、一彦の目に飛び込んできたのは海の中の様な青さが美しい光景だった。
海、と錯覚したのはその光景に加え、独特の浮遊感があった為だ。
「!? 呼吸ができる…?」
息も止めずに光景に見惚れてしまい、慌てて息を止めようとしたが、自分が既に散々呼吸をしていた事に気付いた。
「はい。ここは海中ではなく、召喚路内です」
リリィが近寄ってきて上を指差して教えてくれた。
指し示す方に目を向けると、そこには煌々と青白く輝く魔法陣の紋様が浮かび上がっていた。
「あのすぐ上が先程まで私達がいた魔法陣です。その大きさと同じ径の召喚路がベリアル城のポータルまで続いているはずです」
リリィが話しながら指をすうっと下に向かって指し示した。
よく見ると魔法陣の縁から薄っすらと光る膜のような境界が下に向かって伸びており、その先には上の魔法陣と同じ色の光の点がぼんやりと見えた。
その点が上の魔法陣と同じ大きさだというなら、かなりの距離があるように思う。
「結構な距離があるな……」
「そうでもないよ」
思わず正直な感想を口にした一彦の眼前にベルゼブブがそう言って顔を出してきた。
「うわっ!?」
一彦が驚くのも無理はない。
何せ、一彦の上側から逆さまの状態で顔を出してきたのだから。
「何を驚いてるんだい? 召喚路内は重力の影響を受けない。つまり宇宙空間みたいなモノだよ」
そう言うとベルゼブブは自分の身体を器用に翻し、上側の魔法陣の上に逆さまになって降り立った。
「そ、そうは言うが……」
一彦も慣れない浮遊感に翻弄されながらも何とかベルゼブブと同じように魔法陣の上に立とうと藻掻くが、その場でぐるぐる回るだけで一向に体勢を整えられない。
ベルゼブブはそんな様子の一彦にニヤニヤと笑いながら声をかけた。
「早く慣れた方がいいよ。この召喚路も供給魔素が尽きると消える。物質界側にどれ程の供給魔素があるか知らないけど、のんびりしてると次元の狭間に取り残される事になるからね」
じゃ、お先、とベルゼブブは魔法陣を蹴り出すと、その反動で勢いよく下側の魔法陣に向かって飛び出して行った。
ベルゼブブの突然の行動に慌てた誠が急いで後を追う。
「あっ、ベルゼブブ様、お待ち下さい! すまん一彦、先に行く!」
「な、おいっ!? 本気か!?」
慌てる一彦を置いて、誠はものすごい速さでベルゼブブを追って行った。
おいおい、冗談じゃないぞ!
魔界に到着するどころか、こんな所に取り残されるなんて!
どうにか身体を捻って魔法陣の上に立とうとする一彦だったが、思惑とは裏腹に身体はくるくるとその場を回るだけ。
ああっ、もうっ!
焦る一彦の手に何か柔らかい物が触れた。
溺れる者が藁をも掴むが如く、一彦は咄嗟に触れたそれにしがみついた。
「大丈夫ですよ」
聞き覚えのある優しい声が耳元に届く。
その声色は焦りにささくれ立った気持ちを柔らかく宥めてくれた。
そのおかげで一彦は自分の状況を落ち着いて確認する事ができた。
まず、リリィの顔が触れ合ってしまう程に近い。
ほえっ!?
思わず素っ頓狂な声が出そうなのを慌てて堪える。
手に触れたものは、リリィの二の腕だったのだ。
つまり、大の男が若い女性の二の腕にしがみつく、というかなり情けない恰好をしているという事。
「マスター……」
さすがにエルもその恰好には呆れ顔だ。
一彦は慌てて手を放すと咳払いして取り繕った。
「あ、ありがとう、リリィちゃん。助かったよ」
リリィちゃん、か。
思わず反射的に言ってしまった言葉。
目の前の女性が自分の生みの親だと知って尚、お母さん、とは呼べない。
自分の中の母親像がキヨさんと結び付いているからだろうか。
それとも、いずれは彼女を「お母さん」と呼べる日がくるのだろうか。
「構いません。我が子を助けるのも母の務めですから」
リリィちゃんと呼ばれたほんの一瞬、寂し気な表情を見せた気がしたが、リリィはにこやかにそう言ってみせた。
「さぁ、右手を。私の左手首を掴む形で」
リリィはくるりと背を向けると後ろ手に左手を差し出した。
一彦は言われるままに右手でリリィの左手首を掴むと、リリィも同様に一彦の右手首を掴む。
「では、行きますよ!」
リリィのその掛け声と共に、一彦はすごい勢いで右手を引っ張られた。
「おおぉっ!?」
引っ張られる方向に顔を向けると、前を行く二人、誠の肩に捕まっているベルゼブブの背中がぐんぐん迫り――
「おい、急ぎすぎだぞ!」
文句を言う誠ごと追い抜いた。
「ゆっくり来てもいいぞー!」
そんな軽口を叩きながら、一彦は前を向いた。
随分と距離があると感じていた魔界側の魔法陣がどんどんと近づいてくる。
この先に全ての元凶がいる。
俺や愛理の命を狙う事に何の意味があるのかは分からない。
だが、愛理は俺の命だ。
サタンがどれだけ恐ろしく、強大であろうとも手出しはさせない。
必ず、捕まえてやる!
目の前に迫る魔法陣――新しい世界への扉が一彦の前で開くのだった。
第一部 完
F.L.A.M.E. - Family, Loves, And Masical Experience - 小津井苑華 @otsui-sonoka
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