7 死闘

 その場にいた全員、その名を聞いて動けずにいたが、そのデモンから発せられた声を聞いてその呪縛が解けた。

「リリィちゃん、大丈夫?」

「その声……、一彦さんですか!?」

 デモンから発せられる一彦の声に、助けられた当の本人であるリリィは事更に驚いた。

「ああ、そうだ。これは親父から受け継いだ俺のデモン、デモン・フレイムだ」

 ベリアルはその言葉を聞き、狂ったように笑いだした。

「ふはははっ! ルシフェルの腰抜けめ、自らの力を息子に託したか! だが、丁度いい。奴の研究成果が目の前にあるのだ。この私に敗れるような代物など不要! その力、試させてもらおう!」

 そう言うと、ベリアルは一彦の乗るデモン・フレイムに襲いかかった。

「いけないっ!」

 咄嗟にリリィが一彦を庇うように前に出るが――

「ブエル! リリィを抑えろ!」

「御意!」

 ベリアルの命を受けると同時にデモン・ブエルが強力な推力を伴ってデモン・リリィに突っ込んできた。

「リリィ殿、暫く私に付き合っていただきましょう!」

 デモン・ブエルがデモン・リリィを掴む。

「そういう訳には……!」

 デモン・リリィはその場に留まろうとしたが、先程の膝の損傷のせいで踏ん張れない。

 結局、デモン・ブエルの推力に負け、そのまま二百メートル程先のビル群に二体共々突っ込んだ。

「リリィちゃんっ!」

「そら、他人の心配をしてる場合か?」

 一彦が視線を声の方に戻した時には既にデモン・ベリアルが斧を振りかぶっていた。

「――っ!」

 デモン・ベリアルが斧を振り下ろすと同時にデモン・フレイムは全力でその場を飛び退く。

 その瞬間、デモン・フレイムがさっきまでいた場所の地盤がゴバッという鈍い音と共に捲れ上がった。

 片手の一撃で……! 何て威力だ!

 あんな物をまともに受ける訳にはいかない。何か武器を――

「ほう、それがお前の得物か」

 咄嗟にイメージできたのは日本刀だ。

 それが今、それによく似た片刃の剣がデモン・フレイムの右手に握られていた。

「とりあえず、武装イメージを具現化する事はできるようだな。他はどうかなっ!」

 ベリアルの言葉と共に左側からデモン・ベリアルの戦斧が迫る。一彦は咄嗟に手にした刀でデモン・フレイムに防御姿勢を取らせたが、その瞬間、自分の失策を悟った。

 しまった! 重量で押し切る斧に対し、細身といえる刀で受けるなんて!

 後悔先に立たず。デモン・フレイムは回避する間もなく、デモン・ベリアルの斧を刀で受けた。

 折れる! そう思った瞬間――

 バヂヂヂヂヂヂッ!

 もの凄いスパーク音を伴って刀はデモン・ベリアルの攻撃を受け止めていた。

「大丈夫ですよ、マスター。生成武器の刃には相手の防御フィールドを切り裂く攻性フィールドを纏わせてあります。相手の武器も同様ですから、お互いのフィールドが干渉して受け止められるんです」

 そう言ってエルは一彦に向かってウインクをした。

 俺の足りない部分はエルが補ってくれる。

 そう思うと一彦も少し緊張が解れた。

「そうか、助かるっ!」

 一彦はそのまま斧を弾くと返す刀でデモン・ベリアルを袈裟懸けに切り付けた。

 しかし、デモン・ベリアルは左手の斧でその刀を薙ぐように受け流すと、バランスを崩したデモン・フレイムに向かって再び右手の斧を振り下ろした。

 案外、脆かったな――ベリアルが勝利を確信した直後、

「何っ!?」

 デモン・フレイムの行動はベリアルの予測を裏切った。

 デモン・フレイムはそのままデモン・ベリアルの左脇から背後に抜ける様な形で前転、起き上がりざまに渾身の胴薙ぎを繰り出した。

 デモン・フレイムの初撃からの流れる様な一連の攻撃。一彦は勝利を確信した、が――

「……中々に乗りこなしているようだな、そのデモンを」

 デモン・フレイムの刀はデモン・ベリアルに届かず、逆手に持った右手の斧に受け止められていた。

 振り向くデモン・ベリアルの獅子の顔がにやり、と笑った様に見えた。

「くっ!」

 一彦はすぐにデモン・フレイムを下がらせ、デモン・ベリアルとの距離を取らせた。

 その様子を見て、デモン・ベリアルはデモン・フレイムと正対し、双斧を構えた。

「そろそろ本気で行くぞ。耐えられるか?」

 ベリアルの言葉の直後、デモン・ベリアルは二体に分身した。

 それぞれがこちらを挟み込むように左右に分かれ、ホバーで高速突進してくる。

「っ! どうするっ!?」

 それは迷う自分に向けた言葉だったが、それにエルが反応した。

「右側のデモン・ベリアルの方が僅かに早く来ます!」

 その言葉でデモン・フレイムは弾かれる様に右に向かい、突進してくるデモン・ベリアルに切りつけた。それに反応してデモン・ベリアルが双斧を交差させて構える。

 バヂヂヂッ!

 フィールド同士の干渉で激しいスパークを伴って、デモン・ベリアルは刀を受け止めた。

 攻撃は失敗したが、一彦は内心、ほくそ笑んだ。

 攻撃は通らなかったが、受け止めた。実体があるこっちが本物だ!

 ならば、ここから――

「マスター! 後方から攻撃! 避けて下さい!」

「なっ!?」

 エルの言葉に対し、反射的に身体が動いていた。

 横っ飛びにその場を離れた――が、

 ドスン。

 一瞬前までいたその場所に大きな鉄板が音を立てて落ちた。

「あれは左背部装甲の一部です。回避が遅れていれば、後ろから袈裟斬りにされて真っ二つになっていたでしょう。装甲に施された呪紋防御フィールドを貫通して切り落とすなんて……」

 そう言うエルの顔色は心なしか青くなっていた。

「こちらに手応えがあったからもう片方には実体がない、とでも思ったか?」

 デモン・ベリアルの二体は左右に並び立つと、互いの斧を触れさせた。

 バヂヂヂ、と干渉スパークが斧の間で起こる。

「この通り、どちらも実体だ。我が能力ギフトは《分け身》。ブエルの幻像とは一味違うぞ? 一彦、お前も出し惜しみせずにその力を見せてみよ!」

 今度は倍の四体になると、二体が前方左右からのホバーで突進、残る二体は空中に飛ぶと上方左右からデモン・フレイムを強襲した。

 後方に退避――いや、この前面からの攻撃はそれが狙いか?

 一彦はデモン・フレイムをその場に留まらせ、迎え撃つ姿勢を取った。

 ベリアルはそれを見てにやりと獣の様な笑みを浮かべた。

「その覚悟、天晴! だが、耐えられるか!」

 地上の二体がデモン・フレイムに肉迫する。

「そらそらそらそら!」

「ぐっ……ううっ……!」

 デモン・フレイムはデモン・ベリアルの高速連撃を辛うじて受け流すが、二度、三度、とその双斧がデモン・フレイムの装甲を切り裂き始める。

「こんな物か! 一彦っ!」

 デモン・ベリアルが更に一歩前に踏み込んだ瞬間、デモン・フレイムは驚くべき反応を見せた。

 地上でのデモン・ベリアルの連撃を刀で捌き、右側のデモン・ベリアルに切りかかって、その斬撃をとその反動を利用して上方に跳ね上がった。

 勢いそのままに回転しながら上方右側のデモン・ベリアルに迫ると、蹴りを繰り出しデモン・ベリアルを弾き飛ばし、更にその時の反動を利用して、上方左側のデモン・ベリアルを急襲。刀でデモン・ベリアルの左腕を切り飛ばした。

「何だと!?」

 ベリアルはデモン・フレイムの急変に驚いた様子でデモン・ベリアルを下げさせた。

 警戒と驚きの色を見せたベリアルだったが、それ以上に驚愕している者がいた。

「どういう事なんですか!? マスター!? い、今の攻撃を一体どうやって――!?」

 エルのその驚きの疑問は、答えを聞く事で更に驚く事になる。

「どう…って、見えたから捌いて受け流し、包囲を抜けるついでに切りつけただけだぞ?」

 エルは一彦の返答に対して言葉を失った。

 み、見えた!? あのデモン・ベリアルの両腕が!?

「一彦」

 左腕を失い、本体ただ一体となったデモン・ベリアルから声が発せられた。

「お前は……お前の能力ギフトは一体、何なのだ? こちらが付けた傷はいつの間にか修復し、切り落とした筈の装甲版でさえも元に戻る。更に昨日今日デモンに乗ったとは思えぬ程の高速機動。……真に恐ろしいものよ」

 ベリアルの指摘を受けて、エルは即座にデモン・フレイムの状況をチェックした。

 確かに言われた通り、先程、切り飛ばされた背部装甲が修復されている。

 どういうこと? マスターがあの戦闘の中でこれをしたというの?

 いや、今日乗ったばかりのマスターにできる芸当じゃない。とすると――

 エルは小声で一彦に問いかける。

「マスター。先の戦闘中に時々、力が抜けていく様な感覚はありませんでしたか?」

 その様子に一彦は小さく頷いた。

「ああ。損傷した時にぐっと力を持っていかれるような感覚はあった。やはりベリアルが言っている事と関係が?」

 一彦が小声で答えると、エルは頷く。

「はい。恐らくマスターはご自身の能力ギフトを無意識的に使っています。先程、デモン・ベリアルの攻撃を受けた際には自身の感覚を高速化し、デモン・フレイムが損傷した際には状態を損傷前に戻す、という風に」

 確かにエルの指摘通り、それらを意識して行なった記憶はない。

 強力ではあるが、自分のコントロール下に置けないのでは意味がない。

「何か、こちらからコントロールできる武装はあるか?」

 一彦の意図を汲んだエルが答えた。

「はい。現在、デモン・フレイムには〔操炎召喚サモンフレイム〕、〔氷針纏アイススパイク〕、〔風盾エアシールド〕、〔結晶壁クリスタルウォール〕の魔法が組み込まれていて、詠唱の必要なく、精神力の消費のみで発動する事ができます。ただ、魔法範囲の器も決められている為、魔法領域規模の拡大はできません」

 魔法は能力ギフトとは異なる。

 瞬時に発動できる能力ギフトに対し、魔法は発動の前段階として、魔法のベースとなる器を具現化する詠唱という作業が必要となってくる。

 詠唱によって具現化した器に術者の精神力を注ぎ込む事で、姿、発動する。

 強力な魔法ほど必要となる器も大きく、消費する精神力も多い。

 また、詠唱時間も長くなる為に高い集中力を要し、戦闘中における魔法の使用は難易度が高い。

 エルが言っているのはつまり、四種のプリセット魔法が一定の精神力消費だけでいつでも使える、という事だ。しかも詠唱の手間なしで。

 詠唱無しというのは何よりありがたい。

 こっちはデモンに乗ったばかり。詠唱しながら格闘戦をこなせる器用さは持ち合わせていない。

 唯一の不安材料は、その魔法がどれ程の精神力を消費するか、だが……。

 一彦はデモン・フレイムの刀の切っ先をデモン・ベリアルに向けて言った。

「ベリアル、俺の能力ギフトの事なんてどうでもいい事だろう? 俺がお前に下る事はないのだから。尤も、お前が俺のもとくだるというなら教えてやらなくもないが?」

 ぶっつけ本番しかない。冷静さを失わせたベリアルに見せていない手で対抗する。

 一彦にはそれしか思いつく方法はなかった。

「……少々、素早いデモンだからと調子に乗るなよ? ――小僧が!」

 ウオオオオオオォオォ!

 激昂したベリアルに呼応するかのように、デモン・ベリアルが咆哮を上げた。

 かかった! これでベリアルが冷静さを欠いて、付け入る隙が――

 一彦がそう思った次の瞬間、デモン・ベリアルの周りに数十体の分け身が現れた。

「なっ!? それ程の分け身を出せるのか!?」

「お前を下す!」

 デモン・ベリアルが前後左右、更に上からも数体迫ってくる。

 一彦は苦い表情で吐き捨てた。

「もう手の内を明かさなきゃならないのか! 〔風盾エアシールド〕!」

 精神力の消費を感じながらデモン・フレイムの前方に風の斥力フィールドを展開すると、デモン・フレイムを前方に飛ばし、前から迫るデモン・ベリアルを刀とフィールドで受け流した。

 そのままデモン・ベリアル達の包囲を抜けようと試みるが、デモン・ベリアルの陰からも無数のデモン・ベリアルがわらわらと姿を現す。

 が、推力と斥力フィールドに物を言わせて強引に引き剝がした。そのままデモン・フレイムを飛ばし、包囲網の穴を見付けようと無数の斧を搔い潜りながら思考を巡らす。

 どうする!? どうする!?

 さっきとは数が違いすぎる!

 ひとつ所に留まって攻撃を受けていたら凄まじい数の斧の連撃に圧殺される!

 移動しながら弾くだけでも精一杯だ!

 このままじゃ……!

 迫る多数のデモン・ベリアルに隙を見出せずに焦る一彦だったが、ふとある点に気付いた。

 こいつら全員、左腕が無い。切り飛ばしたのは分け身の一体だけだった筈だ……まさか!

 次の瞬間、一彦はデモン・フレイムをデモン・ベリアルの包囲の中心に向かわせた。

 デモン・フレイムはデモン・ベリアル達の攻撃を弾きながら、渦を巻く様にどんどんと包囲の中心へと迫る。

 こいつら、数は増やせるがダメージも共有する。だったら分身それぞれのダメージも本体に叩き返せる!

 中心に到達したデモン・フレイムに群がる様に集まり、四方八方からデモン・ベリアルが襲い掛かって来た。

「砕け散れ! 小僧っ!」

「そっちがな! 〔氷針纏アイススパイク〕っ!」

 魔法が発動し、デモン・フレイムを中心に無数の氷の槍が出現した。それは放射状に高速で伸び、群がってきたデモン・ベリアル達は無残に貫かれ――るはずだった。

 デモン・ベリアル達は二機一組になると、失った左腕を庇い合う様に立ち、回転しながら氷の槍を叩き折った。

「そんな……あれ程の数を……」

 デモン・ベリアルは一彦が見せた隙を逃さず、そのままの勢いでデモン・フレイムに迫った。

 両肩サブアームに構えた盾を前方に展開、四機のデモン・ベリアルがその盾でデモン・フレイムを前後左右から押さえつけた。

 視界を塞がれたデモン・フレイムのコックピット内にベリアルの声が響く。

「やはり、経験の差か。包囲の中心に向かう様子から何かあるだろうとは思っていたが、まさか切り札が単なる〔氷針纏アイススパイク〕とはな。戦神の私がその程度の魔法に敗れる筈があるまい?」

 そういうベリアルの声はあくまでだ。

 その声の響きは冷静さを失っていたのは自分の方だと気付かされる。

 冷静になって考えれば確かにベリアルの言う通りだ。

 それどころか、戦神と呼ばれる者を相手にする切札としては稚拙と言わざるを得ない。

 とはいえ、とベリアルは続ける。

「デモンに乗った経験がない中でここまでやるとはな。改めて問う。我が下に来る気はないか? これは最後通告でもある」

「マスター……」

 エルの心配する声が耳に届く。しかし――。

 一彦がぎりり、と奥歯を噛み締めると言い放った。

「どうして、俺が、お前にかしずかねばならない…? 家族の平和な暮らしを壊され、娘の笑顔を恐怖に染め、ましてや、俺自身を一度殺したお前に! お断りだ、クソ野郎っ!」

「そうか、残念だ」

 そう答えるベリアルの声は、激昂した一彦の言葉にも反応する事もなく、冷たく響いた。

「つまりお前は、誰に管理される事もなく自由気ままに振舞う力、という訳か。……危険だな」

 直後、デモン・ベリアルの頭部、獅子の口が大きく開くとそこから轟炎が吹き出した。

 デモン・フレイムのコクピット内にけたたましくアラームが響き渡る。

 と同時に一彦はまたも力が抜けていく感覚を味わった。

「っ!?  何だ!?」

「マスター、危険です! デモン・ベリアルからの炎で徐々に装甲が溶かされています!」

 くそっ! 今の感覚はデモン・フレイムの修復による物か!

 一彦は拘束から抜け出ようとデモン・フレイムでスラスターを吹かしながら、押し付けてくる盾を押し返そうと藻掻もがくが、デモン・ベリアルはホバーの推力を更に上げ、より一層盾を押し付けてきた。

 各関節がギリギリと悲鳴を上げる。

「くそっ…! 抜けられない…っ!」

 八方向からの盾の圧力にその隙間からの高熱轟炎。コクピット内に響き渡るアラーム音が一彦の焦燥感を一層煽った。

「魔界平定の為にこの場で滅せよ! 一彦っ!」

 そのベリアルからの絶望的な宣告の直後だった。

「――それはちょっと困るんだよね」

 ドズゥッ!

 聞きなれない少年の声が響くと同時にデモン・ベリアルは背後から胸部を槍で貫かれた。

「うぐっ!?」

 ベリアルが呻き声を上げると、デモン・ベリアルは口からの炎を途切れさせ、両腕とサブアームをだらりと下げて棒立ちになった。

 同時に周りの分身も姿を消し、拘束から解放されたデモン・フレイムは力なく地面に落下した。

 デモン・ベリアルを貫いた正体不明のデモンはその槍を引き抜くと、デモン・ベリアルに回し蹴りを放ってその場から吹き飛ばした。

「ベリアル様!」

 デモン・リリィと戦闘中だったデモン・ブエルはすぐさまその方向に急行する。

 しかし、そうはさせまいとデモン・リリィはその方向に先回りすると魔法を放って牽制する。

「行かせはしない! 『付き合ってもらう』と言ったのはそちらでしょう?」

 リリィは、ベリアルをブエルに回復されると厄介と考えているのかもしれない。

 本当の所はどうなのか。冷静に考える事ができないくらい、一彦は焼かれたデモン・フレイムの修復に精神力を吸い取られていた。

 それでも、正体不明の相手に隙を見せる訳にはいかない。

 一彦はデモン・フレイムの態勢を整えようとしたが、デモン・ベリアルの猛攻に晒されたデモン・フレイムは力なく片膝を地に着けた状態で対峙するのがやっとだった。

「……お前は何者だ?」

 一彦はデモン・フレイムを地に伏せさせながらも、その右手に刀を油断なく構えさせて問いかけた。

「――ベルゼブブ。魔界のおける八人の下位王子の一人だ」

 求めた答えは下から、よく耳にした声で返ってきた。

 父の輝明と娘の愛理に銃を突き付けているという最悪の状況と共に。

「誠……。お前、どうして……」

 呆然とした一彦の声を無視してベルゼブブが口を開く。

「五年振りにこっちから連絡したんだよ? なのに眷属如きがあるじを呼び捨てとは随分と不遜な物言いじゃないか。ま、でもこっちで三十年に及ぶルシフェル家を監視し続けた功績もあるし、チャラにしておいてあげるよ」

 俺の家を三十年も監視していただって……?

 誠が……?

 でも、現に今、誠は親父と愛理を人質に取ってる。

 何がどうなってんだ!?

 一彦は混乱しながらも姿を現した誠に問いかけた。

「な、なぁ、誠。眷属って何だよ…? 監視って何の事だ…? 今すぐ答えろよっ!」

 誠は一彦の問いに唇を噛み締めるだけで、顔を向けようとすらしなかった。

「そんなの、言葉の通りに決まってるじゃない」

 代わりに答えるとばかりにベルゼブブが口を開いた。

「キミがマコトと呼んでいるはボクの眷属、従者のマゴト。ちなみに、彼も下位王子の一人さ。尤も、ボクの眷属であるが故にその位置をいつだって把握される事になるけどね。だから、キミ達親子に逃げられない様に今まで監視させていたって訳さ」

 ベルゼブブの言葉を信じられない一彦は誠に問い返す。

「……本当なのか?」

 誠はそれには答えず、前に出てベルゼブブに訴えた。

「ベルゼブブ様。何故そこまでルシフェル様の研究成果にこだわるのですか? そんな物が無くてもベリアルを退けた貴方様ならば魔界制覇は可能なはず。どうしても研究成果が欲しいのなら、ルシフェル様ご自身に助力を願えば――!」

「無理だね」

 ベルゼブブは誠の訴えをすぐさま否定した。

「そこまで言うなら、少しだけ話してあげるよ。どうしてルシフェルの研究成果が欲しいのか――」

 ルシフェルの研究成果とは、高い魔力を意図的に付与する方法、だ。

 本来、先天的に決まる魔力。

 それを意図的に高める方法はルシフェルが姿を消して数年、魔界において未だ誰も成し得ていない。

 配下の者に同様の研究をさせているが成果は上がらず、その間にベリアルが魔界統一に向けて動き出した為に時間的猶予も少ない。

 それ故に一刻を争う状況で成果を得るにはルシフェル本人から奪い取る他ない。

「それでも、私にはルシフェル様の研究成果がそこまで必要とは思えません……」

 反発する誠にベルゼブブはデモン・ベルゼブブの槍でデモン・フレイムを指した。

「見なよ。今日、デモンに乗ったばかりの素人の彼があのベリアル相手にあれだけの戦いをやってみせた。しかも、操縦と魔法と能力ギフトを駆使しながらも未だに意識を失う事もなく、目の前に立ってる。……異常とは思わない? 普通だったらとっくに昔に意識を失って、ベリアルの餌食になってたとこだよ?」

「一彦がそれ程とは……」

 誠が驚愕の表情でデモン・フレイムを見上げた。

 ベルゼブブはそれに構わず続ける。

「彼の力が発現したのは全くの偶然ではあるけど、そんな物がベリアルの手に渡ったら本当に魔界統一を成し遂げちゃうし、渡す訳にはいかないよね。尤も、キミは生きたまま研究材料になるだけだけどね。ボクの配下ってば、以前からルシフェルの研究内容を知ってたはずなのに全然成果を上げられないんだもん。まいっちゃうよ。……さ、お喋りはここまで。マゴト、一彦が逃げ出さないようにそこの二人を縛り上げちゃってよ」

「……ちょっと待てよ」

 ベルゼブブの言葉を受けて口を開いたのは誠ではなく一彦だった。

「ベルゼブブ、だっけか? お前、親父の研究内容を知ってたんだ?」

 こいつはさっき、以前から研究内容を知ってた、と言った。

 もし、最初から全てを知っていたのだとしたら?

 赤子の俺を暗殺しようとした者さえ知っている可能性がある。

 一彦がその問いかけをした途端、クスクスと楽し気に笑っていたベルゼブブの声がぴたりと止んだ。

「……少し、喋り過ぎたね。なるほど、キミはボクが最初から研究内容を知っていて、キミの暗殺未遂事件の首謀者との繋がりがある、と疑ってる訳だ」

「そうだ。お前が俺の目の前に現れるには都合が良すぎる」

 ベリアルの襲撃に合わせて、横槍を入れる様なタイミング。何かあると考える方が自然だ。

 一彦の警戒する声色にベルゼブブはフフッと笑って答えた。

「繋がり、あるよ。あ、でも、キミが思っているような繋がりじゃない。ボクはあの日、事を終えた暗殺者と鉢合わせしたのさ。爆発の余波に巻き込まれたらしく、暗殺者はひどく消耗していた。ボクはその暗殺者を見逃す見返りにルシフェルの研究に関する情報とルシフェル親子が逃げ延びた先を教えてもらっただけさ。で、ボクは更なる情報を得るべく、キミ達の逃亡先に眷属・マゴトの魂を送り込み、現地の人間と融合させたって訳だ」

 後は知っての通りさ、とベルゼブブはデモン・ベルゼブブの両手を広げて見せた。

 隙だらけに見えるが、右手の槍がそうは感じさせない。踏み込めばこちらの刃が届く前にその槍に貫かれるだろう。しかし、それ以上に――

「じゃあ、知ってるんだな? 暗殺の首謀者を」

 親父と俺がこの世界に来なければならなかった原因。その全ての根源を知りたい。

「知ってるよ。尤も、ルシフェルもよく知ってる人だよ」

「何…?」

 輝明が訝し気に声を上げるとベルゼブブはこれ以上ない程、楽しそうに答えた。

「――サタンさ」

「バカな!」

 輝明は答えを聞いて語気荒く否定した。

「ヤツは魔界が二つに分かたれる前からの盟友だぞ! それがどうして――」

「そんなの知らないよ」

 ベルゼブブは輝明の反論に笑いながら答えた。

「上位王子達もあんたが思ってる程、一枚岩じゃないって事じゃないの? ご愁傷さま。アハハハハッ!」

 ベルゼブブはひとしきり笑った後、誠に指示を出した。

「ほら、マゴト。さっさとその二人を縛り上げろって言ってるだろ? 早くしなよ」

 しかし、誠はその指示に従わず、それどころか二人を庇うように前に立った。

「……マゴト、何のつもりだい?」

 ベルゼブブのその冷たい声は明らかに怒りと殺意を含んでいた。

 誠はそれにも臆せず、ベルゼブブに対して訴えた。

「ベルゼブブ様、もうお止め下さい。私は今まで魔界が戦乱に見舞われる事を防ぐ為、貴方様に仕えてきました。ベリアル様が魔界統一に動いた際も、それで政情不安定な魔界が治まるなら、と黙認してきました。なのに、ベルゼブブ様はそのベリアル様に対しこの様な暴挙を……。私にはベルゼブブ様が魔界に更なる混乱をもたらそうとしている様にしか見えません。どうかもうこれ以上は……」

 誠は処断される事を覚悟しての発言だったが、返ってきたのは怒りも殺意もない、冷静で穏やかなベルゼブブの言葉だった。

「マゴト、ボクは無理だと言ったよ。彼の力が発現した今、ボクにはそれが必要な理由がある。どうしても止めたいというなら、力ずくで来なよ。同じ下位王子同士、力比べといこうじゃないか」

「……残念です」

 誠は苦い表情で呻くようにそう言うとデモンを召喚した。

「なっ!?」

 現れたデモンを見て、一彦は目を疑った。

 そのデモンは細身の黒いフレームのみで、顔を隠している濃い青色のバイザーと紫色をした胸部の装甲を除いて、ほぼ防御装甲を纏っていなかった。

 デモンの装甲にはが刻み込まれていて、それが薄いベールの様に防御フィールドを形成している。この呪紋処理をデモンのフレームに直接施すとデモンの付与力タレント発動に干渉する場合がある為、フレームに装甲を纏わせる、という形になっている。

 その分、防御フィールドは強力で単純な物理攻撃は装甲表面にまで届かない。その為、各デモンはその防御フィールドを貫く為に攻性フィールドを武器に纏わせている。攻性フィールドの攻撃力が防御フィールドの防御力を上回った時、初めて武器が相手の装甲に届くのだ。

 その大事な防御を担う装甲が誠のデモンには備わっていない。

 そんな状態で攻性フィールドの力を上乗せしたデモンの攻撃を受ければひとたまりもない。

 これがどれほど異質な事かは自明の理だった。

「相変わらず、恐ろしいデモンだよね、それ。装甲を極限までそぎ落とす事で常軌を逸したスピードを手に入れたんだから」

 口ぶりからしてベルゼブブは誠のデモンを知っているらしい。

「でも――」

 突如、デモン・ベルゼブブの周りにおびただしい数の虫の大群が現れた。

「スピードだけでボクに勝てると思わないでよ?」

 そのあまりの虫の大群に一彦が加勢しようとすると、誠がそれを制した。

「手を出すな、一彦。これは俺のだ」

 しかし、一彦は声を荒げて反発した。

「何言ってるんだ! 奴はあのベリアルを一撃で沈めたんだぞ!? それにあの得体の知れない虫の大群。奴は何かこちらに対する策を持っているのは明らかだ! けじめだとか言ってる場合じゃ――」

 誠はデモン・マゴトでデモン・フレイムの前を塞ぐような形で立つと一言だけ口にした。

「頼む」

 一彦にはよく分かっていた。誠が言葉少なに言い出した時の決意の固さが。

 そんな時は決まって一彦が折れるしかない事も。

「……分かった」

 一彦はデモン・フレイムを下げさせ、その場をデモン・マゴトに譲った。

「サンキュ、助かる」

 誠のその言葉に一彦は唇を噛んだ。

 そんな「部活のノリ」でやれるような簡単な相手じゃないだろう!

 ……だが、本当に助けられたのは俺だ。

 少しでも誠の助けになれば、と加勢しようとした俺の力を誠は見抜いていたんだ。

 それを自覚した今、消耗した力が思っているより戻っていないのを感じる。

 こんな状態じゃ……。

 一彦はちらりとリリィとブエルの戦闘が行われている辺りを見た。


「〔氷嵐ブリザード〕っ!」

 デモン・リリィが放った魔法をデモン・ブエルがスラスターを駆使して高速移動で避けるとその背後にあった街並みが一瞬で凍り付く。それだけに留まらず、魔法が結界フィールド端まで到達すると、フィールドが吸収しきれない余剰エネルギーが術者であるデモン・リリィの元に反射した。

 しかし、それが返ってくる頃にはそこにデモン・リリィの姿はなく、デモン・ブエルに向かって接近戦を仕掛け、対するデモン・ブエルもそれを巨大な盾でながら得意の中距離戦にもっていこうと立ち回る。距離が離れると再びデモン・リリィが魔法で牽制しながら接近戦の距離を保とうと仕掛けるというのを繰り返していた。

 その攻防の入れ替わりの速さたるや、まさに高機動戦闘といっていい代物だった。


 どちらに加勢したとしても足手纏いでしかない。

 今できる事は、一秒でも早く力を回復させる事以外にない。

 一彦はデモン・フレイムを二か所の戦闘領域から少し離れさせた。


「……さて、やりますか」

 誠は一彦が戦闘領域外に出るのを見届けるとデモン・マゴトに武器を構えさせた。

 逆手二刀、腕を交差させる形でデモン・ベルゼブブと相対すると、ベルゼブブが口を開いた。

「本気でやるつもりなんだね。ルシフェルの息子を庇った所で、キミに何の得もないよ?」

 呆れたように言うベルゼブブに誠は笑って答えた。

「ベルゼブブ様、損得じゃないんですよ。あいつに虜囚の生活なんてさせたくない。それだけです」

「……情か。人間に憑依させたのは失敗だったみたいだね」

 ベルゼブブの声のトーンが下がって怒りを感じさせるが、誠はどこ吹く風だ。

「むしろ、良かったと感じますよ。人の心を身に着けたおかげで奴に恩を返せる。――行くぞっ!」

 デモン・マゴトが動いた――と思った次の瞬間にはデモン・ベルゼブブの背後にいた。

「覚悟っ!」

「甘いよっ!」

 デモン・マゴトによる二刀の斬撃をデモン・ベルゼブブは槍を自分とデモン・マゴトの間に突き入れるような形で防いだ。

 デモン・ベルゼブブはそのまま槍を振り回し、穂先を背後に向けて構えたが既にそこにデモン・マゴトの姿はない。

「……消えた? ――っ!?」

 デモン・ベルゼブブがその場から飛び退くと同時にその付近の木々がばっさりと切り落とされた。

「随分と器用な事ができるんだね、マゴト」

 ベルゼブブは今しがた木々を切り落とした、から生えた腕に向かって言った。

「……その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」

 デモン・マゴトが地面からせり上がる様にして姿を現すと、誠はそう口を開いた。

 現れたデモン・マゴトの右腕にびっしりとベルゼブブが召喚した虫が群がっていた。

 よく見ると、それは巨大な蠅だ。一匹一匹がカブトムシ程の大きさだろうか。

 それがデモン・マゴトの右腕に群がり、溶解液を出して徐々にフレームを溶かしていた。

「くうっ!」

 誠はベルゼブブの前で自らの手の内を晒さざるを得なくなった。

 小さく亜空間へのゲートを開き、そこに蠅塗れの右腕を突っ込んだ。

 その間、ゲート内にあるデモン・マゴトの右腕は全く見えない。

 そこから引き抜いた右腕には蠅は一匹も付いていなかった。

 それを見てベルゼブブはにやりと笑った。

「なるほど。それがそのデモンの付与力タレントな訳だね。亜空間を発生させ、その中を動ける。おそらく、キミの許容した物以外は存在を許されない空間、というところかな」

「……さあ、どうでしょう?」

 実際の所は少し違う。移動できるゲートと自身のみの存在しか許さないゲートと使い分けているだけだが、馬鹿正直に答える必要もない。

 誠は平静を装い、嘯いてみせた。

「隠しても無駄だよ。キミがあの空間に右腕を突っ込んだ瞬間にボクの下僕の命が消えたのを感じた。――でもね!」

 デモン・ベルゼブブが右腕を振るうと、更に蠅の大群が召喚された。

「ボクはまだまだ下僕を呼び出せる! さあ、どちらに分があるかな!」

「……行きますっ!」

 誠の宣戦布告と共にデモン・マゴトが腰から小剣を二刀取り出し構えると、俊敏に動いた。

 デモン・マゴトはゲートを幾重にも繋げてデモン・ベルゼブブに仕掛けた。

 右と思えば左、左と思えば前、と神出鬼没の動きの上、姿を見せるのは一瞬。

 正に神出鬼没、変幻自在の動きで俊敏に迫る。

 と、デモン・ベルゼブブの後方死角から二刀の斬撃を見舞った。が――

 ガシュッ!

 鈍い音を立てて切り裂かれたのはデモン・ベルゼブブの周囲を守る蠅達だった。

 それを見てベルゼブブは不敵に笑った。

「フフフ、鉄の甲殻を持つボクに蠅を切り裂くなんて中々やるじゃない。でも、ボクにその刃は届かない。このままじゃボクを倒すなんてできないよ?」

 ベルゼブブは失った分の蠅を即座に召喚して補充し、次の攻撃に備えた。

 誠はそれを見ながら挑発した。

「その蠅を召喚するのもタダじゃないでしょう? 何ならこっちはこのままベルゼブブ様の精神力が尽きるまでこのやり方を続けてもいいんですがね」

 何せあれだけの数だ。数を失えば相当の精神力を消耗するに違いない。だが――

「それはキミの精神力と引き換えに、でしょ? それだけの転移を繰り返してれば、どう考えても先に精神力が尽きるのはキミの方だよ」

 そう、、だ。

「どうする? 本当にこのまま続けるのかい?」

 ひらひらと片手を振って挑発するデモン・ベルゼブブ。

 それに対し、デモン・マゴトは小剣二刀を構えて応える。

「確かにこのままじゃジリ貧だ――けどっ!」

 デモン・マゴトがそのまま仕掛けた。

 先程と同様に無数に転移しながらデモン・ベルゼブブに迫る。

 今度、デモン・マゴトが出現したのはデモン・ベルゼブブの真上だ。

「同じ事を何度やった所で――」

 姿を現したデモン・マゴトが手にしていたのはベルゼブブが見た事もない直刃の両手剣。

 そこから感じる恐ろしく嫌な気配。

 それを感じた直後、ベルゼブブは蠅群の全てを目の前のデモン・マゴトにけしかけた。

 ゾン、と不気味な音と共に振るわれたその剣の一振りで大半の蠅は残骸を残す事なく掻き消えた。

「……流石ですね。この剣に気付いて、一早く距離を取るとは」

 誠が言う通り、ベルゼブブは蠅群をけしかけると同時にデモン・マゴトから距離を取っていた。

「その剣は何? 今までに見た事がない――けど、その嫌な気配には覚えがある。……リヴァイアサンの物だね?」

 そう言って誠を問い詰める口調こそ変わらないが、その声には先程までの余裕がない。

 誠はデモン・マゴトにその剣を構えさせると口を開いた。

「ご名答。これはいざという時にベルゼブブ様をお止めする為、リヴァイアサン様から授かった剣――『終末を齎す者ドゥームブリンガー』です」

 ベルゼブブは瞬時に蠅群を召喚すると、槍を構えて誠に聞き返した。

「マゴト、ボクはこういった蠅を呼び出す程度のない能力ギフトの持ち主さ。でもね、これはこれで便利なんだ。小さな蠅を呼び出して他国の内情を探らせたりできるからね。だから、過去のデータからその剣がどんな力を持ってるのかも知ってる。……まんまとリヴァイアサンの口車に乗って、本当にソレを使う気かい?」

 の本当の力を知ってるのか。

 誠はベルゼブブの口調からそれを感じ取った。

 誠自身はこの剣の本当の力を知らない。

 授かった時に試し切りをした際、そのあまりの威力に驚き、それ以来、一切使った事はなかった。

 それがその威力のせいなのか、それとも剣から感じる気配がそうさせるのか。

 分からない。しかし――

 誠は迷った末にデモン・ベルゼブブに向けて、剣を青眼に構え直した。

「……たとえ、これがリヴァイアサン様の企てであろうとも、今はこれしかベルゼブブ様をお止めする方法がありません!」

 それに対し、ベルゼブブは大きく溜息を一つ吐くと口を開いた。

「本当に愚かだよ、キミは。……とはいえ、何を持ち出した所で研究成果かれを諦めるつもりないけどね」

「いいえ、諦めてもらいます!」

 槍を構えたデモン・ベルゼブブに向かって、誠は先程と同様に無数に転移しながら攻め立てた。

 一方、ベルゼブブは蠅群の防御と体捌き、槍捌きを駆使し、デモン・マゴトの振るう剣を悉く避けた。

 防戦一方のベルゼブブだったが、防御に集中した結果、付け入る隙が無くなってしまった。

「先程と違って、随分と余裕がないみたいですが!」

 誠はどうにか隙を見つけるべく、ベルゼブブに揺さぶりをかけて挑発した。

「当たり、前だよっ! くっ!」

 普段ならこちらを煽り返すくらいのベルゼブブだが、挑発にも反応せず防御に集中する一方だ。

 どうにも様子が違う。

「……?」

 誠は訝し気に思いながらも更に攻撃を続けた。

 すると、ベルゼブブは攻撃を防御しながらも誠に話しかけてきた。

「キミがその剣の契約者ならっ! ふっ! その剣は絶大な切れ味を以て、相手デモンの全てを奪う! はっ! その結果、何が起こるか考えないのか!」

「……何が起こるんですか?」

 誠はベルゼブブの言葉に耳を貸し、攻撃の手を止めた。

 そんな誠の様子にベルゼブブは呆れ返った。

「本当に何も知らないんだな。その剣はリヴァイアサンとの契約に基づき、絶大な切れ味を発揮する。勿論、そんな単純な能力だけじゃない。その剣で切られたデモンは力を失い、その力は剣と繋がってるリヴァイアサンに注がれるという訳さ。まぁ、奪った代物が能力ギフトなのか付与力タレントなのかまでは分からないけどね。尤も、その力を発揮するのは契約者のキミが手にしている時だけ。他の者が手にした所で単なるなまくらの鉄板さ」

 ベルゼブブは最後の部分をわざと一彦に聞かせるように言うとデモン・マゴトに向き直った。

 デモン・マゴトは攻撃の手を止めたままの恰好で動かない。

「何故、リヴァイアサン様はその事を黙って……? 俺はただベルゼブブ様をお止めしたかっただけなのに……」

 愕然とした誠の口から洩れた言葉に、ベルゼブブは即座に答えた。

「労せず力が手に入る。そんな旨味があれば誰だって手を貸すさ。誰しも見返り無しに援助なんてしない。……もう一度、聞くよ。本当にソレを使うのかい?」

 どうする? これを……使うのか?

 もう、さっきまでとは違う。この剣の本当の力を知ってしまった。

 これでベルゼブブ様を切れば、力は失われ、その力はリヴァイアサン様の物になってしまう。

 下位王子たるベルゼブブ様が力を失うという事は、その領地を巡って新たな争いが起こる可能性があるという事だ。魔界の争いを止める為に行動してきた結果がこれか……。

 一彦達を守る為に、そこまでしなければならないのか……? しかし……。

 友か、主君か、二者択一の問題を突き付けられ、誠は前に踏み出せずにいた。

 そんな様子を見てベルゼブブは大声で笑いだした。

「アッハッハッハッ! 本当に滑稽だね、キミは! 見ていて飽きないよ。さっきまでボクを殺すつもりで戦ってたんじゃないのかい? それともそんな中途半端な覚悟で『おともだち』を守れると本気で思ってるのかい?」

「……!」

 デモン・マゴトはゆっくりと剣を青眼に構えた。

「……お許しください、ベルゼブブ様。一彦達を守る為、お覚悟を」

「そう。やっぱりボクじゃなくてそっちを選ぶんだね。……来なよ。全部、終わらせてあげる」

 デモン・ベルゼブブが槍を構えるのを合図にデモン・マゴトが仕掛けた。

「全く……」

 ベルゼブブはそう零しただけでデモン・ベルゼブブはその場から動かない。

 直後、デモン・マゴトが転移を繰り返す事なく、すぐにデモン・ベルゼブブの背後に現れた。

 剣を振り下ろす速度は更にもう一段速い!

 刃はデモン・ベルゼブブに届――!

「――情にほだされてぇっ!」

 デモン・ベルゼブブが左脇下を通す形で背後に向かって槍を突いた。

「うぐっ!?」

 デモン・マゴトの剣が届く直前、一瞬早くデモン・ベルゼブブの槍の穂先が背後に出現しようとしていたデモン・マゴトの胸部を貫いていた。

 デモン・ベルゼブブはそのままの体勢でデモン・フレイムの方に顔を向けると意外そうに喋った。

「おや? マゴト自身は仕留めそこなったみたいだね。それでもそれなりに大怪我みたいだけど。この槍、『暴食グラットン』を通して感じるよ」

「ま、誠っ!」

 デモン・ベルゼブブは悲痛な声を上げる一彦を無視して槍を引き抜くと、デモン・マゴトはドシャッと音を立ててその場に力なく崩れ落ちた。

 デモン・ベルゼブブはそのデモン・マゴトを踏みつけながら槍を突きつけると、更に言葉を続けた。

「ついでにキミがボクに勝てない理由の一つを教えてあげるよ。それは、キミがボクの眷属だから、だよ。言ったでしょ? キミの位置を同様に感じ取れるって。それは、例え異空間を通って転移したとしても変わらない」

「……」

 ベルゼブブの言葉に対して、誠の返答はない。

「せっかく目をかけてやったのに……バカなヤツ」

 どこか寂し気な様子でそう吐き捨てると、デモン・ベルゼブブは槍を振りかぶった。

「長い付き合いだったけど、ここでお別れだよ! バイバ――!?」

「させるか!」

 瞬時に間合いを詰めたデモン・フレイムが拳を繰り出した次の瞬間、まともに顔面へ入ったパンチでデモン・ベルゼブブは地面を派手に転がり吹き飛んだ。

「誠、無事か!? 返事をしろ!」

「……手を出すな、って、…言ったろ」

 聞いた事もないような弱々しい誠の声にぞくりと背筋が寒くなる。

 一彦は反射的にデモン・フレイムの左手をデモン・マゴトにかざし、イメージした。

 誠が負傷する前に巻き戻るイメージ……。

「……!? これは!?」

 驚きの声を上げる誠を制して、一彦は言葉を発した。

「とりあえず、傷口が塞がる程度には戻ってる、と思う。自在に力を使える訳じゃないから、本当にお前の身体が元に戻ってるかは分からん。今のところは後ろに退避してくれ」

「あ、ああ……」

 返ってくる誠の声からも動揺が伝わってくる。

 そりゃそうだろう。こんな芸当、やってる自分自身が一番信じられないくらいなんだから。

 一彦の言葉で後ろに退避するデモン・マゴトと入れ替わる形でデモン・ベルゼブブが戻ってきた。

「拝見させてもらったよ。それがキミの能力ギフトなんだね、一彦。ますますキミに興味が湧いたよ」

 まるで舌なめずりでもしているかの様な言い回しに一彦は悪寒を感じつつ、戻って来たデモン・ベルゼブブを見て、やはり、と溜息をついた。

「……こっちとしては関わりたくない相手だよ、あんたは」

 デモン・ベルゼブブは派手に吹き飛んだにも関わらず、頭部装甲の一部が少し変形した程度のダメージしか負っていなかった。

 刀を構えて迎撃態勢に入るデモン・フレイムを前に、ベルゼブブはフフと笑った。

「キミは本当に素人なんだね。防御フィールドのあるこっちの装甲に対して、これまた同様に防御フィールドに包まれた拳をぶつけてくるなんてね。そんなの、お互いのフィールド間で斥力が発生して、ダメージなんかまともに通りやしないって事、デモン戦闘に慣れた者なら誰でも知ってる事だよ?」

 何となくは分かっていた。

 だからこそ、デモンには防御フィールドを破る攻性フィールドを纏った武器が備わっているんだ。

 とはいえ、それを奴に指摘されるのは腹が立つ!

「そりゃご親切にどうも! 親切ついでに俺の事を諦めて帰ってくれるとより助かるんだがな!」

 一彦の返答に対し、ベルゼブブはデモンに『暴食グラットン』を構えさせて答えた。

「冗~談でしょ。こっちは何年も愛しの君を待ってたんだよ? フラれてあっさりと引き下がる訳にはいかないよ!」

 言うが早いか、デモン・ベルゼブブは蠅群を召喚し、デモン・フレイムに向けてけしかけると、それに続いて突進してきた。

 ――が、目の前で蠅群が左右に展開、直後のデモン・ベルゼブブが更に勢いを増して突進してくる!

 三方からの同時攻撃!?

 一彦は瞬時に迎撃法を判断した。

「〔風盾エアシールド〕! エル、風盾を左右に展開!」

「はい!」

 直後、三方から同時に衝撃がデモン・フレイムを襲った。

 バヂヂヂヂッ!

 デモンの武器同士のフィールドのせめぎ合いが火花を上げる。

 それを見て、ベルゼブブが嬌声を上げた。

「アハハ! スゴいね! 左右の蠅群は魔法で防いで、正面からの突撃を武器でまともに受け止めるなんて! とても正気の沙汰じゃないよ! ホラ、ボクの『暴食グラットン』を刀の攻性フィールドで受け止めても、穂先がざっくりとキミの左肩口に食い込んでるじゃない♪」

「だが、これが一番ダメージが少ないと判断したんでね――〔氷纏針アイススパイク〕!」

 デモン・フレイムを中心に発生した無数の氷の槍が蠅群を貫く。貫かれなかった蝿達も極低温の冷気に触れて凍てつき、ぼとぼとと地面に落下した。

 一方、デモン・ベルゼブブ自身は一瞬早くその場を飛び退き、その影響を受ける事はなかった。

「……ホントにムカつくね、その判断力。蠅群を避けて上に逃げてくれたら三百六十度全方位から蠅群をけしかけてやれたのに。それを見越しての地上での迎撃かい?」

「そんな所だ」

 能力ギフトを自在に使えないなら、使える物を百パーセント使って生き残る。

 その為に不利な状況を招かないように頭をフル回転させる。

 飛べば先のベルゼブブが言った状況を招き、前に出れば塊を化した蠅群に圧され、引けば踏ん張れないバランスを欠いた状態で三方から攻撃される。

 ならば、動かず、それぞれ半数となった蠅群を風盾で受け止め、残るデモン・ベルゼブブを本体で迎撃する、というのが一彦の出した最適解だった。

 一彦相手に手を焼くという状況が面白くないのか、ベルゼブブは別方向から攻める事にした。

「キミの身体はホントに興味深いね。……混血であるキミの娘もボクを楽しませてくれるのかなぁ? それとも、混血の子を産んだ母体はどうだろうねぇ?」

「っ!? おいっ! 何言ってるんだ、お前っ!」

 怒りを露わにする一彦に構わず、ベルゼブブは更に続けた。

「あれ? 怒ったぁ? キミがそんなに怒るって事はあの母娘にはもっとすごい秘密があるのかなぁ? じゃあ、徹底的に解剖して調べないとだねぇ! 肉の一片に至るまで隈なく調べてあげるよぉ!」

 ベルゼブブの言葉で、一彦の脳裏に一瞬、切り刻まれた二人の姿が浮かんだ。

 ただ、その一瞬だけで一彦の怒りが爆発するには十分だった。

「俺がお前を消滅させてでも止める! エル、プリセット魔法の出力リミッターを外せ!」

 プリセット魔法唯一の変更可能項目である出力リミッターの解除。

 しかし、それは搭乗者とデモンの存在を危険に晒す事にもなる諸刃の刃だ。

「で、でも、マスター! そんな事をすればマスターの命が……!」

 案の定、食い下がるエルに一彦は誰にも見せた事がない鬼の様な形相で一喝した。

「いいから外せ!」

「は、はい!」

 気圧されたエルは一彦の言うままにリミッターを解除した。

 一彦は手元のコンソールでそれを確認すると、エルに向かってにこり、と微笑み、

「ありがとう、エル」

 そう言うと同時にコンソールを操作した。

「――!? マスター!?」

 直後、エルはデモン・フレイムの外に強制排出され、一彦は〔風盾エアシールド〕を発動させたデモン・フレイムで全開推力を以てデモン・ベルゼブブに向かって一直線に突っ込んだ。

 ベルゼブブはその様子を嬉々として見ていた。

「アッハハハハ! ここまで理性を失ってくれるなんて、挑発したかいがあったってもんだよ!」

 ベルゼブブはデモン・ベルゼブブ前方に蠅群を厚く召喚して受け止める形をとった。

 しかし、一彦はそれに構わず、全開推力のままで蠅群に向かって突っ込んだ。

 蠅群の壁はその暴力的な推力の塊による衝撃に耐えきれず、文字通り、大きな風穴を空けた。

 が、〔風盾エアシールド〕は蠅群の壁と暴力的な推力の双方による圧力に霧散してしまった。

「バーカ! 元々、防御用の魔法を攻撃に使ってもここまで届く訳ないだろ! くらえっ!」

 デモン・ベルゼブブが無防備なデモン・フレイムの腹部を狙って『暴食グラットン』を繰り出すと、デモン・フレイムはそれをかわす事もなく、まともに食らってしまった。

 しかし、刺し貫かれたままのデモン・フレイムはそのまま勢いでデモン・ベルゼブブに向かって突っ込んできた。

 激しい衝撃が二体を襲う。

「ぐっ…! フン、頭に血が上るとまともな戦術も浮かばないようだね。このままデモンを引き裂いて――」

 そう言うベルゼブブの耳に微かに一彦の声が届いた。

「……捕まえたぞ」

「何だって?」

 ベルゼブブが問い返した瞬間、デモン・フレイムの両腕がデモン・ベルゼブブをがっしりと締め上げた。

「お前を捕まえたって言ったんだ! 望み通り、一緒に逝ってやるよ! 魔界じゃなくてあの世にな!――〔操炎召喚サモンフレイム〕っ!」

 二体のデモンが凄まじい勢いの炎に包まれた。

「ぎゃああああぁあっ!」

「ぐあああぁあぁあっ!」

 二つのコクピット内にけたたましいアラーム音と絶叫が響いた。

 リミッターの外れた超高温の炎が二体のデモンの装甲を焼き、溶かし、有り余る熱は互いのコクピットにまで及び、二人の皮膚を焼け爛れさせていた。

 これに慌てたのはベルゼブブだ。

「か、一彦! お前、正気か!? ボクを道連れに死ぬつもりなのかっ!?」

「そうなるかどうかは神のみぞ知るってね! 最期まで付き合ってもらうぞ、ベルゼブブ――燃え尽きろ! 〔操炎召喚サモンフレイム〕!!」

 二体のデモンを更なる炎が包み、デモンと操縦者を焼き、溶かす。

 その度に二人は絶叫を上げた。

「あああああぁああぁあっ!」

 これはだ。

 俺の能力ギフトは未だ自分で制御できない。

 だが、俺自身の生命の危機の際は何れの時も発動した。

 事実、今、この時もデモン・フレイムと自分の身体が焼かれる前に戻りつつあるのを感じる。

 仮定は間違ってない。

 後は自分が燃え尽きる前にベルゼブブを倒せるかだ!

「うおおおっ! 燃えろ! 燃え尽きろぉぉ!」

「くそっ! 離せっ! 離せぇっ!」

 デモン・ベルゼブブはデモン・フレイムから何とか逃れようと踠くが、自らが突き刺した『暴食グラットン』が邪魔で抜け出す事が出来ない。

 ここで逃したら終わりだ!

 燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ!

 このまま燃え尽き――!?

 突如、二体のデモンを包んでいた青い炎が掻き消えた。

「かはっ!?」

 デモン・フレイムはデモン・ベルゼブブを締め上げていた両腕をだらりと下げるとそのまま前のめりに力なく倒れ込んだ。

 な、何だ!?

 呼吸が、呼吸が苦しい!

 視界も暗いっ!

 何が起こってる!?

「や、やってくれたね、一彦……」

 目が見えない一彦の耳に息も絶え絶えといった様子のベルゼブブの声が届いた。

「コクピット内に断熱材として蠅群を召喚するのがもう一瞬遅かったら焼け死んでいたよ。……キミも同様に身体を焼かれてるだろうに、能力ギフト頼りとはいえ恐ろしい程の生命力だね」

「くそっ……。生き延びたのかっ、ベルゼブブ……」

 だんだん目が見えてくるにつれ、全身を刺すような火傷の痛みが襲ってくる。

 そんな一彦の思考状態ではそう悪態をつくのが精一杯だった。

 そんな一彦の様子を見てベルゼブブはほくそ笑んだ。

「キミが賭けに出たように、こっちも賭けだったよ。先のベリアル戦でキミはかなりの精神力を消耗した。そこでボクは考えたんだ。このまま精神力を使い切らせれば労せず捕える事ができる、ってね。まんまと挑発に乗ってくれたのも、こっちとしては大いに助かったよ。しかし――」

 そこまで話したベルゼブブが辛抱堪らなくなったのか、吹き出して笑い出した。

「アッハッハッハ! 娘の事をちらつかせた安い挑発にあっさり乗せられちゃうんだもん! 煽り耐性無さすぎ! アッハッハ!」

 と、ひとしきり笑った後、デモン・ベルゼブブはデモン・フレイムの首根っこを左手で掴むと、そのまま片腕で吊り上げた。

「ホントに呆れたよ。まさか初手からボク諸共に自滅する技を繰り出すとはね。虚を突かれてボク自身もまともに被害を被ったよ。『労せず捕まえる』はずだったのに……くそっ、さっきから〔再生リジェネレイション〕をかけてるのに、未だに治りきりゃしない。ムカつくなぁ……」

 デモン・フレイムの首を掴む手がぎりりと締め上げられる。

「う……!」

 締め上げられた首の損傷を回復しようとデモンに精神力を吸い取られる感覚に一彦が呻き声を上げた時、

「やめて! お願い、もうやめて!」

 悲痛な声と共に茂みから飛び出してきたのは愛理だった。

「あ、愛理……!? くそっ、親父は何してんだ……?」

 その様子を見たベルゼブブはにやりと趣味の悪い笑顔を浮かべ、

「そぉ~だ。一彦、さっきキミに言った挑発そのままに娘を切り刻んでボクの研究材料にしてあげるよ。……ボクの珠のような肌を手酷く焼いたんだから、それ位の報復は覚悟してたよね?」

 と気晴らしの方法を一彦に提案した。

 その悪趣味さに一彦の顔色も青ざめた。

「やめろ! ……やめてくれ、頼む。俺にできる事なら何でもする。だから……!」

「へぇ、何でもするんだ?」

 ベルゼブブの声はそれまでの声色とは打って変わった上機嫌の声だった。

 機嫌を損なわせてはいけない!

「あ、ああ! な、何でもだ! 何でもする!」

「じゃあ、ボクのいう事、何でも聞く?」

「ああ!」

「ボクたちの実験動物にもなってくれる?」

「ああ、もちろんだ! 好きなだけ実験してくれ! だから愛理だけは……!」

 一彦の懇願にベルゼブブはくすっと笑い、小悪魔の様に可愛らしく答えた。

「でもダメー♪」

 デモン・ベルゼブブは右腕でデモン・フレイムに突き刺さっていた『暴食グラットン』を引き抜くと、右手だけで器用にくるりと回して逆手に持ち替えると流れる様な仕草で愛理に向かって投げつけた。

 その瞬間、一彦の喉から絶叫が迸った。

「愛理ぃーーーーーっ!」


 愛理は難産の末に産まれた娘だったんだ。

 薫さんが分娩室に入った時、俺はまだ仕事をしてて。

 どうにか仕事を片付けて病院に駆け付けた時、まだ愛理は産まれてなかった。

 そこから六時間、夜が明けようとしたその時に愛理は産まれたんだ。

 母子ともに健康です。

 医師のその一言で、俺は心底安心した。がくがくと力が抜けて膝から崩れ落ちたよ。

 『キヨさん、どうか二人を連れて行かないで』

 夜通し、ずっとそれだけを祈っていたから。

 分娩室の中に通されて、看護師さんから愛理を抱かせてもらった。

 腕の中に収まる、本当に小さな小さな命。

 自分の抱き方が悪くて壊れちゃうんじゃないかと冷や冷やしたっけ。

 そんな想いまでした大切な娘。

 寂しい思いはさせないって思っていたのに、実際は仕事漬けで寂しい思いばかりさせてきた。

 こんな事に巻き込むくらいなら、もっとずっとずっと一緒にいてやればよかった……。

 ……駄目だ。絶対に駄目だ!

 こんな事で失えない! 失いたくない!

 だから愛理――!


 お父さんの事は好き。

 でも、お母さんの事はもっと好き。

 私が学校のお友だちとケンカしちゃったとき、どうしたらいいか、いっしょに考えてくれたのはお母さんだったよね。……お父さんはお仕事、いそがしかったから。

 やクリスマス、いっしょにお祝いしてくれたのもお母さん。

 私がさびしくないようにって、いてくれたんだよね?

 いつも優しいお母さん。

 でも、お父さんの事もわかってるよ?

 本当はいっしょにいたかったんだよね?

 だって、次の日の朝起きたら、マクラのとこにプレゼントが置いてあるんだもん。

 本当はお父さんも優しいんだって、知ってる。

 そんなお父さんの家を出てからのお母さん、ずっと元気なかった。

 お母さんは平気って言ってたけど、そんなのウソ。私みたいな子供でもわかる。

 だって、二人だけだった新しいおうちにお父さんが来てくれた時、すっごいうれしそうだったもん。

 お父さんがいなくなったら、私、悲しい。

 でも、きっとお母さんはもっと。

 大好きなお母さんにそんな思いさせられない。

 だから、お父さん――!


「「生きて!!」」


 その瞬間、愛理の身体から緑色の柔らかい光が溢れた。

「何だ? 何の光?」

 ベルゼブブがそう口にした時、一彦は自身の身体の変化に気付いた。

 ……? 力が、溢れる……!

 一彦は即座にデモン・フレイムでデモン・ベルゼブブを蹴り上げて拘束を逃れると、愛理の元に急行して両手で掬い上げるとその場を離れた。

 デモン・フレイムと入れ替わる形で、デモン・ベルゼブブが投げた『暴食グラットン』が一秒前にいたまさにその場所に突き刺さった。

 デモン・フレイムはそれに構わず、デモン・マゴトの元にとって返した。

「愛理! お父さん達のずっと後ろに隠れているんだ!」

 デモン・フレイムで愛理を下ろすなり一彦がそう言うと、愛理は頷いてデモン・フレイムがいる側とは反対側の茂みに向かった。

 一彦はその様子を確認すると、すぐさま誠に声をかける。

「誠、お前の力を貸してくれ。二人でヤツを――ベルゼブブを止める」

 一彦のその言葉に、誠がスピーカーの向こうで僅かに息を呑むのが分かった。

「……止めるったって、どうやって?」

 あの化物相手に、という言葉を付け足したい気持ちがありありと感じられる誠の言葉だったが、一彦はそれに気付かない振りをして言葉を続けた。

「昔と同じさ。お前が相手を翻弄して、最後は俺がゴールを決める――」

 一彦が手早く作戦を伝えると、誠は驚き反発した。

「お前、そんな事、ぶっつけ本番でできる訳……!」

「やるんだよ」

 一彦は誠の言葉にかぶせる様に言い切った。

「いつだって、勝負そのものはぶっつけ本番だろ」

「……」

 尻込みする気持ちはよく分かる。

 誠もさっきまで俺と同じようにベルゼブブとやり合ってたんだ。

 その力の程は嫌というほど理解した事だろう。

「……誠?」

 問いかけるも返事がない。

 ……そうか。そうだよな。

 言ってみれば、『命懸けで俺に協力してくれ』って言ってるようなもんだ。

 元々が俺の家族に関わる問題だ。誠は仕事で俺達家族に便宜を図ってくれていたに過ぎない。

 どんな時も口元に余裕の笑みを張り付けていた誠。

 出自の事もあっての余裕だったのかもしれないが、その誠が今、苦悩の表情で押し黙っている。

 俺の家庭の事情で命を懸けさせる訳にはいかない。

「……悪い。つい、いつもの癖でお前に頼ってしまった。俺一人で何とかする――」

「――できるワケねぇだろっ!」

 誠が一彦の言葉を掻き消す勢いで叫んだ。

「一彦、お前もベルゼブブとやり合ったなら分かるだろ!? 数でし切るあの能力ギフト。どうやったって一人で何とかできる代物じゃねえだろうが!」

「そんな事言って――」

「うるせぇ! 黙って聞け!」

 ……どうやらこちらが口を挟む余地は無いようだ。

「クソッ、分かっちゃいたけど、なんて貧乏くじを引いちまったんだ、俺はっ! ベルゼブブに弓引いちまったこの状況じゃもうお前が言う通り、アイツを止めるしか俺が生き残る道は無ぇ! いいか、一彦。今回はお前の言う通りにしてやる! でも、これは貸しだ! だから、絶対に後で返してもらうからな!」

「……分かった。後で返す」

 と、話が終わるのを見計らったようなタイミングでデモン・ベルゼブブが目の前にやって来た。

「話は終わったかい? こっちも随分と体の修復が捗ったよ。……キミの娘のおかげでね、一彦」

 ベルゼブブの言葉に驚く誠。

「娘、って……愛理ちゃんが力を持ったのか!?」

「……ああ、どうやらそうらしい。おかげで俺も力を回復できたが――」

 勿論、光を浴びた者全員、俺や誠のみならず、ベルゼブブも同様、という訳だ。

 ベルゼブブは可笑しくてたまらないといった風に笑い出した。

「アハハハッ! これは僥倖! 『力の継承』の神髄だけじゃなく、何やら癒しの能力ギフトを発現させた娘まで手に入るなんてっ! 一彦、キミは本当にボクを楽しませてくれるねぇ!」

 一彦がちらりと愛理が分け入った茂みに目をやると、ぼんやりと先程の光が見える。

 愛理が発した光。

 それに包まれた瞬間、身体の奥から力が湧いてきた。

 ベルゼブブの言うように何らかの癒しの力を愛理が発揮したのだろう。

 今は光を直接浴びている訳ではないにも関わらず、未だに力が回復しているような気がする。

 それは恐らく、ここにいる全員が感じているはず。

 ――だとしてもっ!

 一彦はデモン・フレイムをデモン・ベルゼブブから愛理を隠すような形で立たせた。

 それを見たベルゼブブは鼻で笑った。

「フン、そんな事をした所で、ボクはボクが欲しいと思った物は必ずモノにするタイプでね。……そうだね、今は手間のかかるキミの研究よりも、即効性のありそうなあの子の方が必要――」

 次の瞬間、一彦達全員を取り囲む様に夥しい数の蠅群が現れた。

 さっきまで相手にしてた数の比じゃない!

 最早、蠅の壁だ!

 どうやって愛理を守ればいい!?

「だから、もらうよっ!」

 ベルゼブブの掛け声と共に一斉に迫ってくる蠅の壁。

「くそっ、やらせるかっ! 〔風盾エアシールド〕!」

 リミッターを解除した最大出力での〔風盾エアシールド〕。

 それは見た事ないほどの巨大な半球状の防御壁を展開した。

 そこに蠅の壁が押し寄せる。

「ぐぅっ!」

 今まで感じた事が無いほどの敵の圧力。そして、圧し掛かる強烈な魔法の疲労。

 キツい! 今にも防御壁が弾けそうだ……!

 しかし、一彦は更に精神力を込めて、何とか防御壁を保つ。

「……ダメだ、防ぎきれない!」

 巨大な防御壁の縁を回り込むようにして内側に無数の蠅が雪崩れ込んできた。

 が、バゾン!、と不気味な音を立てて、その蠅群の一角が掻き消えた。

「愛理ちゃんは渡さねぇ!」

 デモン・マゴトが『終末を齎す者ドゥームブリンガー』を振るう度、大量の蠅がその姿を消す。

 しかし、それを嘲笑うかの様に更に大量の蠅群が押し寄せてきた。

「アハハ! この数相手に二人で何ができるって言うのさ? さっさとそこを退きなよ!」

「うるせぇ! 渡さねぇって言ってんだろうがぁーーーっ!」

 デモン・フレイムが蠅群を押し留め、そこから漏れた蠅群をデモン・マゴトが疾風怒濤の勢いで次々と屠っていく。――が、しかし。

 ……このまま防ぎ続けても、いつかは力尽きてしまう。

 どうする?

 どうすればいい!?

 その迷いがデモンの操縦に表れたのか、防御壁の別の個所から蠅群が雪崩れ込んできた。

「っ! しまった!」

 一彦が悲痛な声を上げた瞬間――


「〔獄炎ヘルフレア〕ァッ!」

「〔氷嵐ブリザード〕!」


 二つの炎と氷雪の光条が膨大な数の蠅群の帯を切り裂く。

 その元を辿るとそこにいたのはデモン・リリィと――

「ベリアルだと!?」

「心配するな、一彦!」

 驚愕の声を上げた一彦に対して、その耳に飛び込んできたのは輝明の声だ。

 その輝明は今、デモン・ベリアルの左掌の上に立っていた。

 輝明は動揺する一彦に構わず言い放った。

「ベリアルとは一時休戦だ! お前はベルゼブブとの戦いに専念しろ!」

「どういう事だよ!?」

 突然現れて納得しかねる上に訳が分からない事を言われて、はい、そうですか、と従える訳がない。

 こちらの心情を慮る事なく、二人の会話にベリアルが割って入ってきた。

「傷の手当てをしてくれたルシフェルへのせめてもの礼だ。一彦、お前の娘を守ってやろう。ブエル、貴様も力を貸せ」

「御意に」

 先程まで剣を交えていたにも関わらず、ブエルは異を唱える事もなく即座に命令に応じた。

 直後、デモン・ブエルの鎖付きの円盾が宙を舞い、蠅群の帯をどんどんと切り裂いていく。

「何がどうなってんだ……」

 親父は任せろと言うが、本当に信用できるのか?

 さっきまで俺達はこいつらと殺し合いをしてたんだぞ?

 とてもじゃないが信用できない……。

「大丈夫ですよ」

 疑心暗鬼になっている一彦の耳に涼やかな声が届く。

 ここ数日で何度も聞いている声、リリィだ。

「私とルシフェル様がいる限り、変な真似なんてさせませんから!」

 大丈夫、大丈夫だ!

 確かにベリアル達は信用できない。

 でも、リリィは、彼女はいつだって俺達を助けてくれた!

 親父もいる! 信じられる!

「頼みます!」

 一彦のその声で、リリィ達三体のデモンが愛理を守るように背中合わせで囲んだ。

「行くぞ、誠っ!」

「おうっ!」

 掛け声と共に、デモン・フレイムとデモン・マゴトが飛び出した。

 デモン・マゴトの付与力タレント、『転移門ゲート』で二体のデモンが瞬間移動でデモン・ベルゼブブに迫り、その間近で前後に挟む形で姿を現すが、

「無駄だと言ったよ? ボクはマゴトの位置を完全に把握しているんだ。ボクの脅威は彼だけ。彼の襲撃場所以外を蠅群で構えれば、後は彼を迎撃する事に専念できる。――こんな風にね!」

 デモン・マゴトの出現と同時にデモン・ベルゼブブが『暴食グラットン』を渾身の力を込めて繰り出した。

 デモン・マゴトはそれを上体を捻るようにして脇腹付近にすり抜けさせると『終末を齎す者ドゥームブリンガー』を振り被った。次の瞬間――

「何っ!?」

 ベルゼブブが驚きの声を上げた。

 『終末を齎す者ドゥームブリンガー』はデモン・ベルゼブブではなく、『暴食グラットン』の柄に振り下ろされたのだ。

 槍の穂先はオーラを失い、ゆっくりと地面に向かって落ちた。

「よしっ! いいぞっ!」

 分厚い蠅群の壁に刃を阻まれ、デモン・ベルゼブブに肉迫できない一彦は歓声を上げた。

「と、思うでしょ?」

 ベルゼブブが不敵にそう呟くと、デモン・ベルゼブブの右手が『暴食グラットン』と同じオーラに包まれた。

「! 誠、避けろっ!」

「そらっ!」

 一彦の声に一瞬早く反応したデモン・マゴトが上体を反らしてデモン・ベルゼブブの手刀を何とか躱すも、胸から左肩口に向かって浅く切り裂かれてしまった。

 それを見て、ベルゼブブはチッと舌打ちをした。

「ざーんねん♪ もう少しでデモン・マゴトをバラバラにしてやれたのになぁ」

「……それがそのデモンの付与力タレントなのか?」

 一彦の質問にベルゼブブは勿体ぶるでもなく答えた。

「そうだよ。『暴食グラットン』は触れた物を消滅させるオーラを物に纏わせる事ができる付与力タレント。槍の穂先に纏わせていたのは、その穂先が再生金属で作られてる物だったからさ。直接、デモンの一部に纏わせると、徐々にその部分の装甲が削られていくんだよね」

 そう言って、デモン・ベルゼブブの右手のオーラを消した。

 確かに言う通り、表面にダメージがあるように見える。

「でも! そんな事、どうだっていい! ボクを選ばなかったマゴトを潰して! キミをデモンから引き摺り出して! キミとキミの娘の命をボクの為に使ってもらうだけさ! さぁ、もう終わらせよう! かかっておいでよぉ!」

 デモン・ベルゼブブがオーラを纏った両手を広げると、その背後に大量の蠅群が現れた。

 まだ、あんなに蠅群を呼び出す余裕があるのか……!

 ちら、と後ろに目をやると、リリィ達のデモンが大量の蠅群相手に奮戦してるのが見えた。

 決戦を煽るベルゼブブの狙いは分からないが、長期戦に不向きなのはこちらも同じだ。

 一彦は覚悟を決めた。

「誠! 今度は細かく! 最後は! !」

「――! 分かった! 目を回すんじゃねぇぞ!」

 一彦と誠のデモン二体は不規則に発生する転移門の間を転移しながらデモン・ベルゼブブに迫る。

 上かと思えば右、右かと思えば後ろと変幻自在、神出鬼没の動きでベルゼブブを翻弄した。

「どうだ! これだけ不規則な移動なら動きを把握しきれまい!」

「このっ…! 無駄な事を!」

 ベルゼブブの声は言葉とは裏腹に余裕が感じられなかった。

「……これで終わりだ、ベルゼブブ!」

 デモン・ベルゼブブの直下に出現するデモン・マゴトと直上に出現するデモン・フレイム。

「覚悟っ!」

 剣を振るデモン・マゴトだが、デモン・ベルゼブブは反転して手刀でその剣を受け止めた。

「フフッ、最終的にはボクの間近に出てくるんだ。キミの場所さえ分かれば怖くないよ」

「……果たしてそうですかね?」

 その時、ベルゼブブはデモン・マゴトが握っている剣に気付いた。

 ――? この剣は一彦の? 何故?

 ベルゼブブの頭に沸いたその疑問の答えが出る間もなく、直上の蠅群の壁が切り裂かれた。

「おおおおっ!」

「バカだね、キミは! その剣はキミが使ってもなまくらだって――」

 バゾン!

 ベルゼブブがデモン・フレイムに向かって無造作に振るった右腕はデモン・フレイムが振るう『終末を齎す者ドゥームブリンガー』に消し飛ばされた。

「なっ!?」

「ここだぁぁっ!」

 デモン・フレイムはそのまま勢いを止めず、突進する恰好で『終末を齎す者ドゥームブリンガー』をデモン・ベルゼブブに突き立てた。

 その直後、デモン・ベルゼブブの両手のオーラが掻き消えた。

「何でマゴトが手にしていない『終末を齎す者ドゥームブリンガー』が力を発揮して……?」

「よく見ろ。ちゃんとだろ?」

 一彦が示した『終末を齎す者ドゥームブリンガー』の柄はデモン・マゴトの左手首から先が握ったままになっていた。

 それを見たベルゼブブは呆れた。

「このボクがこんな単純な手で……」

 愕然とするベルゼブブを尻目に誠は一彦に話を振った。

「お前が突然、あんな事を言い出した時には焦ったぜ」

 あんな事――おそらくベルゼブブを出し抜いた文言の事だろう。

「ああ、あれか。よく覚えていただろう?」

『クロスを上げるから、ゴールを決めろ』

 それは昔、俺と誠で決めたサッカーでの約束事だ。

 意味は全くの逆の意。

『俺が決めるからボールを寄越せ』

 きっかけは単純で、試合中にその言葉を言った直後にクロスを上げられずにシュートした所、それが見事にゴールに決まった事からだ。

 それ以来、相手に二択を迫る意味でも、そう発言してから行動に移した所、シュートかクロスかを見極められず、面白いくらいに相手も引っ掛かったものだ。

 誠は得意げになっている一彦に呆れて言った。

「全く、今回は俺のお陰で上手くいったようなもんだろ。……さて、ベルゼブブ様」

 誠が険しい表情でベルゼブブに向き直る。

「今の攻撃で恐らくデモンの魔素ジェネレーターは破壊されましたが、まだ続きを?」

 それに対してベルゼブブは肩を竦めて応えた。

「お察しの通り、さっきの攻撃でボクのデモンは魔素ジェネレーターをやられちゃった。その上、付与力タレントも失ったんじゃ分が悪いなんてもんじゃない。……お手上げだよ」

 その言葉の直後、デモン・ベルゼブブは四肢の力を失くし、膝から崩れ落ちた。

 終わった、か……。

 その様子を目にした一彦の視界がゆっくりと暗転していった。


                  *


「マスター!」

 一彦は大きな声が耳元で聞こえて、はっと目が覚めた。

 どういう状況だ?

 俺はベルゼブブとやり合って、その戦いが終わって……意識を失ったのか?

「マスター! こっちを見て返事をしてください! さっきから呼んでるじゃないですか!」

「ああ、エルか。すまない……っていうか、何か怒ってる?」

 エルは愛らしい顔が台無しと言わんばかりに目を吊り上げて怒っていた。

「当たり前です! 戦闘中に私を放り出して! 自分は無茶ばっかりして! 死んだらどうするつもりだったんですか! 死んだら! 死んだら……うぅうぅわぁ~~~~ん!」

「……すまなかった、本当に」

 一彦は泣きじゃくるエルの頭を優しく撫でてやった。

「そのAIにはもっと感謝してやるべきだと思うぞ」

 聞き覚えのある、しかし気の抜けない声の主に一彦は鋭い視線を向けた。

「どういう意味だ、ベリアル」

「言葉のままよ。お前は一気に体力、精神力を使い切り、その生命活動は著しく低下していた。そのまま放置していれば死は免れなかったろう」

 俺がそんな状態に……?

 驚く一彦に向かって、ベリアルは更に言葉を続けた。

「デモン内の其方の状態を察知したそこのAIは即座にお前を外に引き寄せ、魔法を駆使して体力の回復を図った。魔素の少ないこの世界において、魔界より魔素を引き出せるデモンならではの技よ」

 本当に死ぬ所だったんだな。

 ベリアルの冷静な状況説明に危うい所だったのだと実感した。

「エル、本当に助かっ――」

「一彦さんっ!」

 どすっと柔らかい物が重量感をもって一彦にぶつかってきた。

 んん!?

「一彦さん! 無事でよかった! 本当によかった!」

 この声はリリィだ。が、そのままの体勢で抱え込むようにぎゅうぎゅうと抱きしめられる。

「本当に大丈夫? 返事をしてください!」

「ぅ……」

 鎧を脱いでいるのか、自分の顔がリリィの胸に沈み込む程に密着する。

 返事をしようにも、ぎゅうぎゅうと胸を顔に押し付けられては声も出せない。

 一彦はプロレスで降参するようにリリィの背中を叩いた。

 そこでようやくリリィが状況に気付いて一彦の顔を抱え込むのを止めた。

「ぷはっ……、もう少しで大丈夫じゃなくなる所だったよ」

「ごめんなさい……」

 一彦は自分の冗談に本気で落ち込むリリィの顔を見てクスっと笑った。

 それで冗談と気付いたリリィが抗議の声を上げた。

「もう、ひどいです!」

 そのやりとりで緊張の糸が解けたのか、一彦とリリィはお互いに笑い合った。

 そうしていると、リリィの後側から声をかけられた。

「一彦……」

 声の主は輝明だ。その傍らには不安そうに輝明の手を握る愛理の姿があった。

 しかし、一彦の姿に驚いているのだろう。なかなか側に来ようとはしない。

「リリィちゃん、いいかな?」

「……はい」

 一彦の意図を察して、リリィは一彦から離れると愛理に向かってにっこりと笑った。

 一彦は愛理に向かって両手を広げると――

「おいで、愛理」

 愛理はその言葉を聞いて、一彦の胸の中に飛び込んできた。

「お父さん…、お父さん…っ!」

「愛理、怖い思いさせてごめんな……。本当は俺がお前を守ってやらなきゃいけなかったのに、逆に助けられるなんてな。ありがとう……」

 そう言って、一彦は愛理の髪を優しく撫でた。

 しかし、愛理はかぶりを振って泣きじゃくるだけだった。

「あちらも一段落着いたようだな」

 ベリアルがくいと顎で指し示す方向にはベルゼブブを後ろ手に捕縛する誠の姿があった。

 ベルゼブブは確かに今回の首謀者と言っていい。

 しかし――!

 一彦はちらりとすぐ近くにいるベリアルの顔を盗み見る。

 涼しい顔して立ってるコイツがそもそもの発端じゃないか!

 コイツをこのままにしておけば、いつか俺達家族に危険が――!

「なぁ、ベリアル」

 一彦の内心も気に掛けずに発言したのは輝明だ。

「お前に施したのはあくまで応急処置だ。そこのベルゼブブに手酷くやられた身体は立っているのもやっとの筈だろう? そこの部下を連れて早々に魔界に戻って養生した方が身の為だ」

「! 親父!」

 叫ぶ一彦を輝明は手を制した。

 しばらくの沈黙の後、ベリアルが口を開いた。

「ルシフェル、お前が魔界に戻るなら私の問題も全て片が付く。戻ってくる気はないか?」

 輝明はベリアルの提案を鼻で笑った。

「ふん、さっきまで儂の子や孫を殺そうとしていた者の言葉を素直に聞くと思うのか?」

 輝明の物言いに今度はベリアルが抗議した。

「何を言う。敵として相対あいたいせば、たとえ血縁であったとしても剣を切り結ばねばならん。……分かっておろう?」

「では、今は儂の子や孫達に危害は加えないというのだな?」

 ベリアルはその問いに即座に頷いた。

「無論だ。先程も言った通り、お前が魔界に戻る事で私の全ての問題は解決する」

 輝明はベリアルのその物言いを訝しんだ。

「……先程までの一彦達に対する執着が嘘のようだな。何を企んでおる?」

 その問いかけに対して、ベリアルは首を横に振って答えた。

「何も企んでなどおらん。私は『魔界を平定する』という目的を達したいだけだ。それにはルシフェル、お前が魔界に戻ってくる事が一番なのだ」

 しかし、輝明はベリアルのその言葉の真意を図りかねていた。

 それが視線に表れていたのだろう。訝し気に見つめる輝明にベリアルは溜息を吐いて話し出した。

「ルシフェル、お前は私をどう評する?」

「戦神、と世間では言われておるようだな。儂もそれに同意する」

 それを聞きベリアルは、戦神か、と自嘲気味に吐き捨てた。

「戦乱の世ならば、それも民に受け入れられよう。しかし、世を治めるとなれば話は別だ。戦の才など治世においては何の役にも立たぬ……」

「弱気などお前らしくもない。いつもの様に言いたい事をズバッと言わんか」

 輝明のその言葉でベリアルの表情が幾分明るくなったのは気のせいだろうか?

「ならば、言わせてもらおう。まずは今回の発端からだが――」


 ベリアルが魔界統一に乗り出したのは、ルシフェルがいなくなり魔界における力の均衡が崩れた為にルシフェル領内に侵攻してきた下位貴族を平定したのがそもそもの発端だった。

 戦の才によって領地を治めるベリアルにとって、魔界の安定を保つ方法は治安を乱す勢力を武力で鎮圧する以外に無かった。

 ルシフェル領内に侵攻してくる勢力を撃退する事、十数回。

 後手に回るこの方法では埒が明かないと考えたベリアルは、その勢力の根本を討ち果たし一帯を平定する為に魔界平定を掲げ勢力拡大に乗り出した。

 ベリアルのこの行動に虚を突かれた形となったのが侵攻勢力だ。

 ルシフェル領内から退却すれば追撃はないと考えていた侵攻勢力は、尚も追撃してくるベリアル軍に捕まり、自分達のバックにいる存在を吐く事になってしまう。

 これにより侵攻勢力はルシフェル配下の下位王子であるアスモデウスとオリエンスの軍勢である事が明らかとなった。

 ルシフェル領の北東に位置する領地を治めるアスモデウス、同じく南東の領地を治めるオリエンス、ルシフェルの信任厚かった二人が何故、その領地の侵攻に走ったのかは不明だ。

 しかし、侵攻してくるからには討ち果たさねばならない。

 ベリアルは自らの才を存分に発揮し、二人の勢力を無力化、両名を配下として組み入れると同時にルシフェル領及び両名の領地を平定した。

 侵攻の理由も明らかにしないままに両名を廃するのは領民の不安を煽ると考え、侵攻理由が明らかになるまでの間、両名をそのまま領主の地位に留め置いた。

 勿論、無力化したとはいえ、どんな行動を起こすか分からないアスモデウスとオリエンスを野放しにはしない。ルシフェル領を配下下位王子のアスタロトを呼び寄せて治めさせる事にした。

 その任は領主不在となっているルシフェル領の統治だが、それ以外にもアスモデウスとオリエンスの逐次監視も含んでいる。

 領主不在となるアスタロト領については同じく配下下位王子のパイモンに任せる事となっていた。

 これで西の領主ベリアルが東の領地をも治める事となり、魔界の半分を手に入れた事になる。

 北の領主サタン、南の領主リヴァイアサンがこれをこのまま見過ごすだろうか?

 東の旧ルシフェル領は何が起こるか分からない程の政情不安、西は一時的とはいえパイモン一人に任せる事なり防御が手薄と見られても仕方がない。

 ……侵攻を考えられない抑止力が必要だ。

 ベリアルがそう考えていた矢先、ある情報筋から驚くべき情報が寄せられた。

 ルシフェルの生存とその行方が確認されたというのだ。

 更にルシフェル宮殿消失と共に失われたと考えられていた研究内容についても知らされた。

 それが『力の継承』。

 生まれた時に決まる魔力の高さ。それを何らかの方法で調整できるという。

 そんな都合のいい物がある訳がないと思う一方、ルシフェルの研究であれば或いは、と思いもする。

 ルシフェルの生存が研究内容の存在報告と同時期に寄せられた事で、ベリアルはそれらの報告を信じられずにいた。


「……しかし、それを信じてもよいかもしれん、と思ったのだ」

 ベリアルはリリィを見てそう言った。

 リリィは溜息を吐き、ベリアルに問いかけた。

「五年もの間、私はずっと泳がされていた、という訳ですね?」

「当然だ。お前はあのルシフェル宮殿消失の直後に身を寄せてきた者。事件に何か関与していると考えるのが妥当だ。敵か味方かはその泳がせている間に判断すればいい――」

 ベリアルはそこまで言ってから溜息を吐いた。

「……こういう猜疑心の塊の様な思考しかできぬから国を治めるのに向かぬのだ、私は」

 だから、とベリアルは輝明を振り返った。

「戻ってこい、ルシフェル。お前がかつての領土を治めるならそれで全て元通りだ」

「――ふざけんじゃねぇよっ!」

 ベリアルの誘いに怒声で応えたのは一彦だ。

「発端がどうだろうが、アンタが始めた戦争だろうがっ! だったら親父に頼るんじゃなく、まずはアンタの手できっちり戦争を終わらせろよ! 力の均衡がどうの、治めるのが苦手だの何だのって! アンタのせいで人生滅茶苦茶になったこっちは知ったこっちゃねぇんだよ! 苦手だって言うなら一人で抱え込まずに慕ってくれている部下に頼れよ! 一人で何だってできる神様とは違うんだからよ!」

 一彦は心底、頭にきていた。

 ベリアルの手前勝手な事の運び方とその言い分に。

 そんなに治めるのが苦手なら、そもそも領地の拡大などしなければいいのだ。

 にもかかわらず、戦火を広げて領地を拡大した挙句、更なる力を求めてここに来た上に統治が苦手だから親父に戻ってきてもらって元通りだと?

 何でもかんでも一人で抱え込んで決めちまうからそんな事になるんだ!

 振り回される周りの人間の事も考えてみろ!

 ふざけるのも大概にしろよ!

 ベリアルは一彦の怒声に圧される形で、傍らに控えるブエルにちらりと目を落とすが――

「ふん、母親の助けを借りねば立てぬ有様で大した口をきくではないか」

 痛い所を突かれたのか、ふらふらとリリィの助けを借りて立ち上がる一彦を見て、吐き捨てるように言った。

 しかし、一彦も負けてはいない。

「ああ、言わせてもらうさ! アンタには戦争を終わらせて、魔界を安定させてくれないと困るんだよ! でないと、第二第三のベルゼブブが出てきてもおかしくないからな!」

「貴様っ……!」

 ベリアルがぎりりと歯噛みした所で輝明が二人の間に割って入った。

「そこまでだ、二人とも。……お前の負けだ、ベリアル。今のは一彦が正しい」

 反論に窮している所に輝明からぴしゃりと言い放たれ、ベリアルは観念して押し黙った。

 その様子を見て、輝明は更に続ける。

「お前のやる事は一彦の言う通り、一刻も早く戦争を終結させて魔界を安定させる事だ。儂が戻らずとも、今回の騒ぎで大小各々の領主も自分の領地に目を光らせるだろう。しばらくはベルゼブブの様な輩が出てくる事もあるまい」

「しかし、それとてそう長くは――」

「まぁ、待て」

 輝明は反論してきたベリアルを手を挙げて制した。

「戻らないと言ってる訳じゃない。一彦はお前の言い分に対して大層怒っておったが、儂がいなくなった事で崩れた魔界のパワーバランスを儂が戻る事で元に戻すというのは理解できるし、長い目で見れば正しい事だろう。……しかし、困った事にその頼りとする所の力、能力ギフトが儂の身体にまだ戻っておらんのだ」

「何だと!?」

 ベリアルは輝明の話を聞いて気色ばんだ。

「下位王子達は貴様の能力ギフトがあるからこそ表立って反抗せぬのだ! 力無くば戻った所で――」

「そこで、だ」

 輝明はベリアルの言葉を遮ると、一彦の方を見て言った。

「代理を立てようと思う」

 は? 代理?

「……成程、そうだな。今し方、領民を思う領主としてのご高説を賜ったばかりだ。苦手なら人を頼れと言った者であれば、まさか頼って来た者を袖にする事もあるまい」

 ベリアルが輝明の尻馬に乗って、にやりと笑いながらこっちを見てきた。

 おい、冗談だろう?

 俺は別に統治とか政治とかには全く興味ないんだ。

 今までは単に俺の家族が巻き込まれてたから必死になってただけで……!

 妙な方向に向かいつつある話の流れは、先程までの戦闘の疲労と相まって、一彦の足元をふらつかせた。

「危ないですよ」

 よろめく一彦を後ろから支えたのはリリィだ。

「大丈夫です。私がしっかりサポートしますから。領主代理、頑張りましょうね」

 大輪の花を思わせる麗しい笑顔からこぼれた絶望的な現実。

 皆が寄ってたかって俺を領主代理にしようとしている!?

「ご愁傷様」

 一彦の肩を叩いてそう言ったのはベルゼブブを捕縛し終えた誠だ。残りの作業は後からやってきた部隊員に任せたらしい。

「とりあえず、ルシフェル様の力が戻るまでの間は息子のお前が代理を務めるしかないだろ? デモンまで受け継いじまったんだしな」

 その声に呼応するかの様にエルが目の前に姿を現す。

「そうですよ。マスター登録は短期間にそう何度もできるものじゃないんですからね」

 なんてこった。

 受け継いでしまったばっかりに、輝明が持っていない力を今、俺が持ってしまっている。

 一彦はこの二人の言葉で完全に退路を断たれたと感じた。

 輝明とベリアルにリリィ、誠とエルの五人は一彦を取り囲むとにっこりと微笑んだ。

 この時、一彦はめでたく(?)無職を脱し、ルシフェル領の領主代理に就任する事となった。

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