4 大切

 翌朝、一彦はカーテンの隙間から差し込んできた朝日で目を覚ました。

 隣のベッドに目をやると薫の姿はなく、部屋には一彦一人だけだった。

 しかし、ベッドの足元辺りに畳まれた下着が置かれているあたり、一度は戻って来たようだ。

 どうやら昨夜はそのまま愛理の傍についてやる事にしたのだろう。

「……あのまま、寝ちまったのか」

 風呂に入って汗を流す事もなくそのまま眠りこけてしまうあたり、かなり疲れていたのだろう。

 薫に感謝しながら、足元に置かれた下着を手に取ると風呂場に向かい、手早くシャワーと洗顔を済ませて身支度を整えた。

 一先ひとまずは手を打った。しかし、これからどうすべきか――

 一彦はそんな事を考えながら食堂へと向かった。

 食事をしながらもどこか一彦の表情は冴えない。

 打てる手を打ったとはいえ、親父の状況次第。こちらから働きかける手段がないというのは落ち着かないものだ……。

「ここにいたのか」

 誠が一彦を探してやって来た。

 聞けば、会議室を押さえたのでこれから会議をすると言う。

「会議? 何を話すんだよ?」

「今んとこ、打てる手は打ったが、相手の出方次第の手でしかねぇからな。こっちから何か出来る手はないか、って事を捻りだすんだ。ほら、お前も来い」

 半ば強引に連れて来られた会議室には、既に皆が集まっていた。

 誠は会議室に入るなり口を開く。

「皆、疲れている所、すまない。皆には現在までに分かっている情報の共有、置かれている状況に対する意識の擦り合わせを行う為に集まってもらった。また、それらを踏まえて、これから採れる行動のアイデアを出してもらいたい。――それじゃ、始めよう」

 では私から、とリリィが話し始めた。

 内容はリリィが物質界に来た経緯から。

 主君ルシフェルが姿を消して以降、ベリアルはその領地に侵攻、その全て占領した。

 リリィはベリアルのその後の動向を探る為、素性を隠し、配下として身を寄せていた。

 そんな中、物質界に逃れた主君をベリアルが突き止めたという情報を耳にし、その命を脅かす恐れがあった為に自分がやって来た事。その過程で運悪く一彦の出自をブエルに悟られてしまった事。一彦を保護するという理由もあって主君ルシフェルはベリアルに対抗せざるを得なくなり、魔族としての力を取り戻す作業に入った事などを順序立てて話した。

「そもそも」

 黙ってリリィの話を聞いていた誠が口を開いた。

「何故、今頃になって一彦達が付け狙われる? そのまま放置しておいても問題ないと思うんだが」

 憶測になりますが、とリリィが前置きした上で答えた。

「現在、ベリアルが支配している領地の約半分が元々はルシフェル様の物なのです。ですので、恐らくはその領地回復を恐れての行動なのではないでしょうか……」

「そんなに取り戻されたくない程の領地なのか?」

 一彦がそう問いかけるとリリィはこくりと頷いた。

「はい、ルシフェル様に近しい下位王子の領地を含めると魔界全土の四分の一ですから」

 リリィの話によると、魔界は四人の上位王子によって大きく四等分されており、それぞれの領地の一部をそれぞれが近しい二人の下位王子に治めさせているのだとか。

 更にその下位王子達も自身の近しい部下に同様の事をさせているらしい。

 それを聞くだけでもベリアルが現在、どれほど広大な領地を治めているのかが想像できる。

「……そりゃ、戻ってきてもらいたくねぇよな」

 誠も呆れながらそんな感想を漏らすあたり、同じ様な事を想像したらしい。

 しかし――

「ルシフェル傘下の二人の下位王子はベリアルに反発してないのか?」

 ルシフェルに近しいというなら、ベリアルが侵攻してきたら真っ先に反抗しそうなものだが。

 リリィは表情を曇らせ、答えにくそうに口を開いた。

「ベリアルと傘下の下位王子達はそれぞれデモンを保有しています。その上、ベリアル自身、『戦神』と呼ばれる程の強さを有していますので、まともに衝突すれば甚大な被害が出ます。それを見越してベリアルの侵攻を黙認したのだと考えられます」

「黙認って……そんな事をすれば侵攻軍に領地をいいように荒らされるだろう?」

 一彦は言葉を選びながら問いかけた。

 戦場での略奪や民間人の殺害。

 こちらの世界の戦場でも起こる事だ。ならば向こうの世界でも同様のはず。

 しかし、リリィはそれに対してきょとんとした表情を浮かべた。

「いいえ、全く。戦闘はそれぞれの軍同士でしか行われません。領地、領民は領主の財産と見做されるので、荒そうとする者達は皆無です。……荒らせば、領主直々に粛正されてしまいますので」

 粛正――

 聞き慣れない言葉に一彦はぞっとしたが、少なくとも旧ルシフェル領民が酷い扱いを受けていない事が分かって、どこかほっとした。

 それなら、と一彦は一つの案を出してみた。

「こちらに干渉しない条件として、元々は親父の領地だった場所の統治権を放棄する、という形でベリアルとの交渉に当たるというのはどうだろう?」

 途端に誠は呆れ顔になって口を開いた。

「お前……、領主の親父さんを蚊帳の外に置いて話を進められる訳ねぇだろ?」

「大丈夫さ。今の今までずっと放置してきたんだ。俺達家族が安全に暮らせる材料として使えるなら文句は言わない筈だ」

 俺がもし同じ立場だったら、そうすると思うから。

 尚も納得しかねる誠は食い下がってきた。

「だとしても、俺達が置かれたこの状況でそんな交渉すれば足元見られるぞ。……交渉の場でそのまま殺される事だってあるだろ」

 実際、交渉の場で行う事は口約束でしかない。

 誠の言う通り、今すぐ交渉を行えば間違いなくそうなるだろう。

 一彦は誠を宥めるように落ち着いた口調で話を続けた。

「勿論、今すぐという訳じゃない。親父が魔族の力を回復し次第、という状況になってからだ。上位王子の親父も力は相当な物の筈だ。それならデモンの数も互角で武力面でも拮抗した状況を作り出せるし、ベリアルも迂闊に交渉を断れないんじゃないか?」

 この交渉は親父とデモンが健在である事をアピールするのが肝だ。

 対抗する力があると知らせる事により、俺達に対して迂闊に手を出せなくなる。

 ベリアルが賢い男ならば、武力による解決よりも交渉を選ぶ筈だ。

「……そうですね。その状況ならベリアルも交渉に乗ってくると思います。彼には理知的な政治家の面もありますから」

 一彦の話が始まってからずっと考え込んでいたリリィが口添えをした。

「わかった。近くで散々ベリアルを見続けていたアンタが言うんだ。従うさ」

「おいっ、そんな言い方は!」

 リリィを蔑むような誠の口調に怒りを露わにした一彦だったが、リリィに無言で制止されて二の句が継げなかった。

 そんな様子に誠は反省するように両手を挙げて口を開いた。

「……悪かった。俺も少し気が立ってたらしい。だが、どんな状況であっても交渉の場ってのは何が起こるか分からねぇヤバい場所だってのを言っておきたかったんだ。……気をつけろよ」

 その後、話し合いを続けた結果、交渉役には冷静で魔界の勝手知ったるリリィが、輝明への交渉内容等諸々の連絡係として息子である自分が当たる事となった。

 決めたのは薫さん。

 薫さん曰く、

『今のやり取りをはたから見てるだけでもリリィさんが冷静に判断してて安心感があるし、向こうの事情にも通じてて交渉役にはピッタリね。お義父さんへの内容連絡は一彦君、貴方しかいないでしょ? 今回の交渉内容は事後報告になるけど、大事な事なんだからきちんと説明しなきゃ。しっかり説明して、勝手に決めてごめんなさい、ってしてきなさい』

 との事。

 いや、まぁ、全くもってその通りなんだけど、愛理の前で俺に対して子供に言い聞かせるように接するのは止めてほしかった……。

 他のメンバーからのほっこりとした視線が何とも居心地悪い事この上ない。

 会議が終わり、一彦は苦笑いしながら、一階エントランスの公衆電話へと足を向けた。


「――そんな感じで決まったから。……うん、そう。勝手に決めて悪いとは思ったけど、他にいい方法が思いつかなくて。……ありがとう。じゃ、そういう事で」

 一彦は用件を伝えると公衆電話の受話器を置いた。

 携帯電話って、便利だったんだなぁ。

 一彦は胸の内ポケットから自分の携帯電話を取り出してみた。

 画面は大きくひび割れ、電源ボタンを押しても何の反応もない。

 昨日からの騒ぎの際に破損してしまっていたらしく、文鎮代わりくらいにしか役に立たない代物と化していた。

 ここのエントランスには公衆電話が備え付けられており、電話連絡には差し支えかった事は不幸中の幸いと言うべきかもしれない。

 電話で手短にこちらの方針が決まった事を輝明に連絡する事ができた。

 その内容を聞いても輝明は怒りだす事もなく、そうか、と納得した様子だった。それだけでなく、交渉材料になりそうな資料もあるらしく、それも今日中にこっちに持ってきてもらえるらしい。

 が、しかし――

「……勝手に決めた事とはいえ、少し気が引けるな」

 反対してほしかった訳ではないが、親父の事にも関らず、出しゃばって決めてしまった手前、どうしても後ろめたさが先立ってしまう。そこにそれを後押しするような資料の提供ときた。

 嬉しさと後ろめたさ、半分ずつって所か。

 一彦がもやもやした気分を抱えながら戻ってくると、廊下から言い争う声が聞こえてきた。

「愛理の護衛に付けないってどういう事!?」

「だから、こっちの都合で悪いけど、って言っただろ?」

 この声は大神と薫さんだ!

 大神の物言いに薫が今にも掴みかかりそうな所に、一彦は慌てて二人の間に割って入った。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 二人とも、一体、何があったんだ?」

 大神の話によると、自分はこれから薫の自宅へ調査に行かなければならないらしく、代わりの隊員を愛理の護衛に付けようとしたが、都合が付く隊員がおらず、愛理の安全を考慮して今日の登校の中止を勧めたら、理由を聞かれて先の有様という事らしい。

「薫さん、一日くらい学校を休んでも……」

 こんな状況だし、愛理の安全を考えて、と一彦は大神に助け舟を出そうとしたが――

「ダメよ」

 全て言い切る事もできず、即座に却下された。

 いい? よく聞いて、と薫が一彦の目を真っ直ぐに見て話し始めた。

「昨日の愛理の様子、見たでしょ? あの子は普通に振舞ってるけど、家で起きた事をしっかり覚えていて、ふとした拍子にその時感じた恐怖が表に現れてしまう……。そんな不安定な精神状態にこそ、友達といられる日常が大きな支えになるはずよ。ここにいたんじゃ怖かった事ばかり思い出しちゃうもの」

 確かに、ここにはあの時目にした物が多い。

 制服や装備品、そういった物が愛理の深層心理に働きかけている可能性も無くもない。

 薫さんの言う通り、それから離れて日常に触れる時間という物が必要なのかもしれない。

 とはいえ、現実問題として護衛無しで登校させられる訳もなく。

「気持ちは分かるけど――」

「どうかされましたか?」

 渡りに舟、とも言うべきタイミングで通りかかったのはリリィだ。

「実は――」

 三人で事情を説明すると、リリィは分かりましたと頷き、

「では、私が愛理さんの護衛に付きましょう」

 とその役を買って出た。

「そう言ってくれんのは助かるけど……大丈夫か?」

 一見、細身の若い女性にしか見えないリリィに不安を感じたのか、大神が問いかけた。

 しかし、リリィはそれを意にも介さず、にこやかに答えた。

「剣術と体術の心得もありますので。では」

 リリィはそう言うと、愛理を迎えに部屋へ向かった。

「……一昨日の件は彼女がいたからこそ、あの触手の餌食にならずに済んだのに、大丈夫なのか、は失礼じゃないか?」

「後で謝っておいた方がいいと思うわよ」

 一彦と薫の二人に責められ、大神も思う所があったのか、素直にそうする、と頷いた。

「じゃあ、俺はアンタんでの調査の準備があるから」

「ねぇ」

 薫はその場を後にしようとする大神の背に声をかけた。

「ん? まだ何かあんのか?」

 面倒臭い、という態度を隠そうともせずに振り返る大神に薫はにこやかに話しかけた。

「その調査、私も連れて行ってくれない?」

 大神は一瞬、驚きの表情を浮かべたが、その顔はみるみる険しくなった。

「何言ってるか分かってんのか? 単に調査なんて言ってるが実際の所、何がいるか分からねぇ所に行く威力偵察みてぇなもんだ。危なすぎて連れて行ける訳ねぇだろ」

 取り付く島もない大神の言い方だが、薫は尚も食い下がった。

「危険なのは分かってる。でも、どうしても取りに戻らなきゃいけない物があるの!」

「ダメだ。危険すぎる」

 そう言い捨ててその場を去ろうとする大神だったが、薫はその袖を掴んで引き留めた。

「お願い!」

「ダメだ!」

 離せ、と袖を振り払おうとしている大神に対して、意地でも離さないと掴んでいる薫。

「やめろ、二人とも!」

 取っ組み合いになりそうな雰囲気に一彦もさすがに二人の間に割って入った。

 一彦は大神に向き合うと口を開いた。

「なぁ、大神さん。薫さんを連れて行かないって言い張ってるけど、この場に残しても彼女は一人でも行くんじゃないか?」

 ちらりと薫を見ると、そうだとばかりに頷いた。

 一彦はそれを見て溜息をつくと、話を続ける。

「単独行動させるくらいなら、連れて行って目の届く場所に置く方が得策だと思うが」

「だがなぁ……」

 尚も渋る大神の前で一彦は胸元から魔法銃を取り出す。

「なっ……!」

 驚き目を剥く二人の前で一彦が言い放った。

「俺も一緒に行って、これで彼女を守る。なら、問題ないだろ?」

 大神はしばらく考えを巡らせた後、口を開いた。

「……それ、撃てるのか?」

 銃の仕組みの話ではない、様々な意味で問いかけているのは分かってる。

 一彦は頷いて答えた。

「家族を守る為なら何だってするさ」

 一彦の答えに大神はにっと笑うと、ついてこいと二人を伴って歩き出した。


 クロウに乗り込み、薫宅に向かう間に大神から調査の説明を受けた。

 先に調査に入った隊員からの報告によって、非武装の隊員に対し退避命令が出され、代わって頑丈な自分が行く事になったらしい。

「ほら、着いたぞ」

 一彦と薫、大神の三人が乗り込んだクロウは微かな作動音を伴って薫宅から少し離れた場所に着陸した。

 光学迷彩を伴ったほぼ無音の飛行物体は人目を引く事もない。

「さて、人間の目に映らないからといって、敵さんもそうとは限らない訳だが……」

 大神はそんな事を言いながらコンソールパネルを操作すると、今まで外を映し出していた風防型ディスプレイに幾つかのウィンドウが開いた。

 どれも薫宅の外観を様々な方向から見た映像だ。

「マイクロドローンからの映像だと周辺に変化は無さそうだ。問題は内部だが、こればかりは俺達が入って調査する他ない――が、その前に」

 大神が険しい顔付きで一彦達二人が乗る後部座席を振り返って口を開いた。

「いいか、妙な生物を見かけても迂闊な行動を起こすなよ。そいつらが飼い主に何か信号を送ってないとも限らん。一昨日の触手の例もあるしな」

 一彦は触手の嫌な感触を思い出しながらも、違和感を覚えて質問を返した。

「何か生物を見たのか?」

 大神は一瞬、しまったという表情をしたが、観念して話し始めた。

「さっき、非武装の隊員に退避命令が出たって言ったろ? どうやらその内の一名が負傷して現場、アンタん家のどこかに取り残されてるらしい。俺の仕事は調査というより、負傷した状況の把握とその隊員の救出って訳だ。……さっきのマイクロドローンのセンサーに人間らしい反応はあったんだが、その他の反応が無かったからな。もし、隊員を負傷させた何者かがまだ現場にいるのなら、ってだけだ」

 そこまで聞いて一彦は思わずごくりと唾を飲んだ。

 大神は険しい表情を向けたまま、更に言葉を続ける。

「そういう訳で俺はアンタらに構ってる余裕はぇ。……それでも行くのか?」

 一彦は胸のホルスターに収められた銃の感触を確かめると大神に頷いて返した。

「わかった。じゃ、俺が先行する。大丈夫そうなら合図を送るからそれを見てついて来てくれ」

 大神が銃を構えて油断なく降車すると素早く玄関脇に駆け寄ると、ドアをそっと開けて隙間から中を窺う。――程なくして、安全確認できたようでこっちに向かって手招きの合図を送ってきた。

 合図を見て一彦達も油断なく、物音を立てないように、だがなるべく速く大神の元に急ぐ。

 慣れない行動と緊張が一彦達の想像以上に神経をすり減らし、大神の元にたどり着いた瞬間、薫が大きく息をくと、大神が人差し指を唇に当て静かにとジェスチャーで示した。

 薫も慌てて口元を手で押さえる。

 全員がそのまま動きを止めて数秒、何も起こらない事を確認して大神は先程の様にドアの隙間からそっと中を窺った。

 大神がその状態のまま、小声で囁くように一彦達に向かって声をかけた。

「正確な数は分からんが、少なくとも二匹は中にいるな。人間じゃない奴が」

 大神の言葉に一彦はぎくりとして振り返る。

 大神はその一彦の動きを制するように手を上げるとそのまま中の床を注視した。

「鹿か山羊か……草食動物のたぐいの足跡が複数匹分、確認できる」

 大神はそう言うが、一彦と薫の目にはそれが全く分からない。

 思わず訝しげに大神を見つめる薫。

「俺の目にはそれが分かる高感度センサーがある。まぁ、草食動物相手ならアンタも銃持ってるし、油断しなけりゃ危険性も高くはねぇだろう。ここで二手に分かれても問題は無さそうだ」

 薫の探し物は二階にあるとの事だったが、幸い二階に向かう階段には足跡はないらしく、大神は隊員の捜索の為、出口の確保を兼ねて一階から調査を行ない、一彦と薫は二階に向かう事となった。

 一彦は銃を抜くと薫を後ろに控えさせながらゆっくりと音を立てないように階段を登り始めた。

 それを見た大神も物音を立てないように一階の調査に向かった。

 階段を登り切ると薫の指差す部屋の扉の前へと向かう。

 扉のノブに手をかけようとした時、違和感を感じた。

 ……妙だ。何故、少し開いてる?

 扉が閉まり切ってなく、ほんの少し隙間が出来ていてそこから中を覗けそうな気がした。

 注意深く扉の側に近づくと部屋の中から何か物音がする。

 そっと覗いて見えたのは、灰色の山羊の後ろ姿だった。

 何処か別の場所から入って来たのか? それにしても随分と汚れた山羊だな……。

 一彦がそのまま頭の方へ視線を移した瞬間、全身の毛が総毛だった。

 思わず隙間から目を離して隠れる。

 な、何だあれは……。

 一彦の慌てた様子に薫の顔にも不安の表情が浮かんだ。一彦は大丈夫と言わんばかりに左手で薫を押し留めた。

 あまりに異質な物を見た衝撃でまだ心臓が早鐘を打ってる。

 無理もない。

 山羊の身体に付いていた頭は、ライオンのそれだったのだから。

 しかし、山羊の身体であるせいか、全体の大きさは腰あたりまでの高さで本物のライオンほどの体格差はなさそうだ。

 一彦は銃を構えて、ドアの陰から慎重に狙いを定めた。

 自分の心音が耳に煩い。

 気付かれる前に……!

 一彦が引鉄を引くと銃口からジャッと微かな音と共に光条が放たれ、怪物の頭を穿った。

 その瞬間、怪物の頭部はスイカが割れるような音を立てて内部から炸裂した。

 怪物はその場に崩れ落ちるように倒れるとシューシューと音を立てながら蒸発し始めた。

 おそらくこの前の触手の様に跡形も無く消えてしまうのだろう。

 それにしても――

「護身用にしちゃ随分と物騒な代物じゃないか、リリィさん?」

 一彦は思わず自分の握る銃を見て呟いたが、そんな自分を訝しげに見つめる薫の視線に気付いて慌てて銃をホルスターに仕舞った。

「怪物は始末した。入ろう」

「さっき、迂闊な行動を起こすな、って言われたばかりなのに……」

 薫はそう言って顔をしかめる。

 そうは言っても、どう見たって有効にコミュニケーションがとれる相手じゃないし、こっちも黙ってやられる訳にはいかない。

 少々、非難するような薫の視線を受けてどうにもばつの悪い一彦だったが、

「いいから、早く入って」

 と薫の手を掴んで部屋に引き込んだ。

 二人は注意深く周りを見て部屋の中に入ると、怪物の死骸はほとんど得体の知れない液体と化しており、みるみるうちに蒸発して跡形も無くなってしまった。

 一彦はドアの脇に立つと薫に声をかけた。

「俺が見張っておくから、その間に目的の物を探してくれ」

 薫は一彦の言葉に頷くと部屋の奥側にあるタンスを探し始めた。

 それを確認すると一彦は少し開いたドアの隙間から外を見張り、そのままの姿勢で薫に尋ねた。

「どうして離婚届を置いて行ったんだ?」

 薫は、こんな時に何?、とでも言いたげに振り返った。

 一彦はそんな薫の様子をちらりと横目で見ながらもドアの外を警戒する。

「こんな状況で自分の身に何が起こるか分からないから。今、知っておきたいんだ」

 何が起こるか分からない。

 それを実感したのは先程の怪物を殺した時だ。

 不用意にドアを開けていたら、あの場に転がっていたのは自分かもしれない。

 引金を引いた手が震えていたのは、何も生き物を殺した事による緊張からばかりではないのだ。

 それを意識してしまったのか、薫に問いかける声は少し震えていた様な気がする。

「……戻ったら話すわ。他にも怪物がいるかもしれないここじゃ落ち着いて話せないでしょ?」

 ここ数日の経験から、薫も何が起こるか分からないという言葉に思う所があったのだろう。

 しかし、その答えは状況を示すだけでなく、必ず戻る、という強い意志を含んでいた。

 そうして探す事、数分――

「あった!」

 薫は目的の物を見つけた喜びに思わず声を上げてしまい、慌てて口を押さえた。

「で、結局、薫さんは何を取りにここへ?」

 クロウ内での会話においても目的については一切答えてもらえず、自分も大神も何も知らない。

 危険を冒してこの場に来ている身としては、見つけたその場に居合わせているのだから、それを知るくらいの権利はあるだろう。

 薫は一彦の質問に少し躊躇ためらったようだが、一彦の傍に来ると手にした書類ファイルを差し出した。

 一彦はそれを受け取るとパラパラとめくってみる。

「これは……民間の臍帯血さいたいけつバンク契約書?」

 聞いた事がある。

 公的バンクは提供された臍帯血を使って白血病など血液疾患の治療に広く活用する機関。

 一方、民間バンクは生まれた子が将来難病にかかった時に備えて臍帯血を私的に保管する機関だ。

 臍帯血の提供については様々な意見がある。

 公的バンクに提供すれば血液疾患の研究は進み、難病根治の可能性が出てくるが、その研究成果がその子自身に使われるかは分からない。

 民間バンクで保管すればそういった研究に貢献するものではないが将来、その子を救う手立てとなるかもしれない。

 どちらが善、悪というたぐいのものではないが――

「……軽蔑したでしょ? 愛理には『みんなの為になるいい事をしなさい』なんて言っておいて、自分は社会貢献そっちのけで自分の家族の事ばかり優先してる。とんだお笑い草ね」

 一彦がファイルを返すと薫はそれを両手で抱きしめるように抱え込んだ。

「今だって、このファイルを取りに来る為だけにあなたを利用してる!」

 自嘲気味に言うその声と肩は小刻みに震えていた。

 一彦はやり切れない思いから、そっと薫の肩に手を伸ばす。

「そんな事――!」

 言いかけたその時、薫の肩越しに背後の窓に動く影が見えた。

 言うまでもない、あの獅子頭の怪物だ。

 認識した直後、一彦と目が合った。

 マズい!

 しかし、怪物に対して背を向ける格好になっている薫は気付いていない!

「――くそぉっ!」

 一彦は薫の肩にかけた手に力をこめると自身の背後方向に引き入れた。それと同時に窓が破られ、怪物の真っ赤な口腔が一彦の眼前に迫ってくる。

 かわせない。

 一彦は歯を食いしばると左腕を怪物の口の中に突き入れた。

 ばくん、と怪物の口が閉じられると同時に激痛が走る。

「ぐうぅっ……っ!」

 覚悟していたとはいえ、想像以上の激痛に一彦の口からうめき声が漏れる。

「一彦っ!」

 あまりに衝撃的な光景に薫も狼狽した悲鳴を上げた。

 その声が一彦の切れかかった意識の糸を手繰り寄せた。と、同時に左手の感覚を確かめ、怪物の口腔内の感触を感じた。

 一彦は左手で怪物の顎を内側から掴むと同時に右手で銃を引き抜き、怪物のこめかみに銃口を突き付けた。

 直後、躊躇なく引鉄を引くと、ばかっ、と嫌な音を立てて怪物の頭が割れた。

 閉じられていた怪物の口はだらりと開き、一彦の腕を解放すると力なく倒れた。

 一彦も噛まれた左腕を押さえて膝をつく。

「大丈夫なのっ!? ねぇっ!?」

 薫はそのまま倒れそうになる一彦の身体を支えて、そう呼びかけた。

「……他人が言う事なんて気にする必要はないさ」

「え?」

 呼びかけに対する答えがあまりに突飛な発言で薫は面食らった。

「さっきの話の続きだよ。俺達は聖人君子じゃない。社会貢献よりも身近な家族を優先するのは当然の事さ。誰から見ても正しいと言える選択をする聖人君子より、家族の為なら傲慢な選択ができるエゴイストの方がずっと薫さんらしいよ。だから、他人が言う事なんて、気に、しない、で……」

 一彦が意識を保てたのはそこまでだった。


                  *


「いやぁ、今日も快勝だったな、一彦!」

 え!?

 突然の誠の声に驚く暇もなく、誠は一彦と肩を組んできた。

 誠のユニフォームに纏わり付いた土の匂いが鼻をくすぐる。

 ユニフォーム? 何だ、この状況……?

 誠の問いに対して、一彦自身が考えを纏めるより先に言葉が勝手に口から滑り出てきた。

「そうだな。今のメンバーなら全国出場も夢じゃない」

 ああ、そうか。これは――

「一彦ぉ~、お前、そこは全国出場じゃなくて全国優勝の間違いだろぉ? 夢がねーなぁ、夢が」

 高校三年、レギュラーである誠の言葉に周りの部員達も吹き出した。

 覚えている。ここでのこの笑い声を。

 これは俺の記憶だ。――夢を手折った日の。


 この日はインターハイ前の調整を兼ねた練習試合だった。

 相手も全国出場経験のあるチームで強豪、お互いの戦力強化の為に試合の日程を組んだのだ。

 その試合で快勝、とまではいかないまでも1点差で勝利を収める事ができた。

 さっきの自分の言葉はこの当時、自分だけでなく部員全員が本当にそう感じていた事だ。

 その帰り、母校近くまで戻ってきた峠の下り道での会話がさっきのやり取りだった。

「みんなー、今、帰りー?」

 その声に振り向くと、快活そうな中年女性が道路を挟んだ向かい側でこっちに向かって手を振っていた。

「あ、キヨさんだ。キーヨさーん! 今日も快勝だったよー!」

 誠の景気のいい勝利報告を聞くと、よかったねー、と笑顔で返してくれた。

 その笑顔に部員一同はしゃいでいた。

 キヨさんと呼ばれた女性は桜井さくらい清美きよみさん。

 親父より十歳ほど年上の中年女性で、昔、看護師をしていたらしく、その経験を買われて親父の診療所で働いてもらっていた。

 怪我の度に親父の診療所の世話になる俺達サッカー部員は、キヨさんと接する機会も多く、親しみを込めて『キヨさん』と呼んで慕っていた。

「こらっ! やめなさいっ!」

 清美の怒鳴り声に我に返ると、誠が周りを見る事もなく道路を渡ろうとしていた。

 慌てて誠のユニフォームの襟首を引っ掴むと、誠の鼻先を掠めてトラックが通り過ぎて行った。

「まったく! 高三にもなって何考えてるの!」

 道路を渡ってきた清美の第一声がこれだった。

 本当に面目次第もない。

 心の中で平謝りする一彦だったが、怒られている当の本人には堪えた様子がないようで――

「いやぁ、ごめんごめん。キヨさんが見えたから何だか嬉しくなっちゃって」

 と、謝罪の言葉の割に悪びれもせずニコニコ笑う誠に清美は呆れて溜息をついて言った。

「あんたねぇ、軽口叩く割に足にきてるじゃないの。そんな状態で道路に出て転んだらどうするつもり? 危ないじゃない」

 清美の指摘通り、誠の膝は小刻みに震えていた。

 いや、誠だけじゃない。

 試合に参加したメンバー全員、試合の疲労が足にきていた。

 かく言う自分自身の膝が笑っているのだ。間違いない。

 しかし、誠は負けじと虚勢を張った。

「いや、そこまで足にきてませんよー。ほら、ここ、下り坂だから」

 確かに誠の言う通り、ここは下り坂ではあるがその傾斜は緩やかだ。

 とても膝が笑う理由にはならないし、言い訳にしても苦しい。

 それに――

「何言ってんの。下り坂の歩き方のセオリー通り、重心を後ろ目にして膝に負担がかからない様に歩いてるじゃない。なのに、そんなフラフラするようじゃ疲れてるーって言ってるようなものよ」

 ほら、バレた。

 そもそも、キヨさんは何年も俺達の診療に立ち会っている上、スポーツ医療に精通した看護師だ。

 本人の申告よりも身体の状態を見られれば一目瞭然、その目を欺く事などできない。

 第一、皆、インターハイを控えた身だ。

 フットケアは入念に行い、膝に負担をかけるような真似はしない。

 しかしながら、一目でそれを看破するあたり、流石、と内心舌を巻いた。

「それで? 道挟んだ向かいの私めがけて飛び出してくるくらいだし、何か言いたい事あるんでしょ?」

「そりゃ、もちろん!」

 言うが早いか、誠は水を得た魚の如く、今日の試合での活躍を部員達の笑いを交えながら面白おかしく話し始めた。

「――相手ディフェンスを一人かわした一彦からのパスを俺がダイレクトで華麗なシュート! 相手ゴールの左上隅に叩き込んでやったのよ! あれは絶対誰にも止められない! さっすが俺様って感じだよな!?」

 ハイハイ、スゴイスゴイ。

 誠ー、お前、調子乗りすぎー。

 おどけた誠の様子と一部の部員の掛け合いに清美とその他の部員達も一際大きく笑った。

 ゴールが決まったのは誠へのマークが甘くなった隙をついたパスが通ったのが要因としては大きいが――まぁ、オーバーな脚色は若さの特権だろう。

「――って、ちょっとキヨさん? 何でそんな生暖かーい視線でもって笑いかけてくるの?」

「え?」

 誠の言葉に清美の方を振り向くと、確かに穏やかな微笑みを浮かべてこちらを眺めていた。

「そんなに俺の話って売れない芸人みたいにスベってる? それはちょっと傷つくんだけど」

「バカね、そんなんじゃないわよ」

 誠がわざとらしく拗ねてみせると、清美はあっけらかんと笑い飛ばした。

「ただ、ね。私にも子供がいたらこんな風にバカ話して笑い合ったりしたのかなって、少し、思っただけ」

 一彦はそう言った清美の顔にいつもは感じない影をほんの一瞬だけ、見た気がした。

「ちょっ!? 売れない芸人ってだけでもアレなのに、更にバカって! ひどいよ、キヨさーん」

 追い打ちをかける誠の軽口に部員達の間で更にどっと笑いが起きた。

 笑いすぎて苦しくなったのか、部員達の何人かがヒーヒー言いながら誠の背中を背負ってるバッグごとバンバン叩く。

 その勢いでバッグの隙間から誠のスパイクが道路に転がり落ちた。

 お前ら叩きすぎだっての、と誠は落ちたスパイクに手を伸ばした。

「……っと?」

 誠がスパイクを拾おうと上体を倒した瞬間、疲労した足では踏ん張りが効かずバランスを崩してそのまま道路に向かって倒れ込んでいく。

 そこへ音もなくトラックが突っ込んできた。

「危ない!」

 それに反応できたのは清美ただ一人だった。飛び出して誠の服を掴んで引っ張る。

 一彦はこの場面を見て毎回思う。

 清美が男性の様に大きく力強かったら、と。

 女性にしても小柄な清美の筋力と体重では倒れ込もうとする男性の体重を真っ直ぐ引っ張るだけでは引き戻す事ができない。

 咄嗟の判断だったのだろう。

 清美は誠の服を掴んだまま、素早く横に回り込むと倒れ込もうとする力を利用してそのまま歩道に向かって振り回した。

 道路に向かって倒れ込もうとしていた誠の身体は九十度ほど方向転換して歩道の端に突っ伏した。

 しかし、歩道に向けて振り回すという事は、振り回した者に対してその力の反作用が働く訳で――

「キヨさん!」

 起き上がった誠の悲痛な叫びと同時に響く衝撃音。

 宙を舞った清美が道路に落ちて転がると、トラックは反対側車線のガードレールにぶつかって停止した。

「救急車を呼んでくれ!」

 そう言って一彦はなりふり構わず駆け寄ると清美を抱き起した。

 どこから染み出しているのか、腕にぬるりと清美の血が触れる。

 何だ? どこから出血してる?

 いや、まずは――

 一彦は清美を抱きかかえると、更なる事故に巻き込まれないように急いで歩道へと運んだ。

 ゆっくりと清美を歩道へ下ろす。

 その間もかかえる一彦の腕を伝って落ちた清美の血がぽたぽたと地面に染みを作った。

 清美の着ているセーターは目に見えて血に染まる速度を早めていき、下ろした後もじわじわとその染みは広がっていく。

 十八歳の少年にとって凄惨といえるその光景は冷静さを奪うには十分だった。

 どうする…? どうしたらいい…!?

 混乱する一彦の手にそっと手が重ねられた。

 はっとして手を見る。清美の手だ。

 恐る恐る清美の顔を窺うと、清美はにこりと微笑んで口を開いた。

「みん、な、大丈夫…?」

 一彦は息も絶え絶えに言葉を発する清美に驚いたが、重ねられた手を握り返すと力強く答えて励ました。

「みんなは大丈夫。今、みんなが救急車を呼んでる。すぐ来るからキヨさんも頑張って!」

 一彦の言葉に清美は微笑んで返すがその顔に生気はない。

 と、そこに携帯電話片手に誠が駆けつけてきた。

「今、救急車を呼んだ! すぐここに――」

 言いかけた誠は絶句した。

 無理もない。

 かなりの出血。清美の顔色は青白くなり、死相が色濃く出ていた。

「ごめん、ね…。あなた、たち、の試合、見に、行けなく、なっちゃ、った…」

 苦しさからか、途切れ途切れに言葉を発する清美の様子に一彦は胸を詰まらせる。

 医学的な知識のない一彦にできる事はせいぜい握った手に力を込めて励ます事くらいだった。

「試合の事なんて気にしないで。誠も言ってるよ。救急車、すぐ来るって。だ、だから、頑張って、頑張ってよ、キヨさん……」

 頑張って。

 何て空々しい言葉だろう。

 目の前の本人は生きようと頑張ってる。これ以上ないってくらいに。

 でも、『死なないで』とは口にできない。

 口にすれば、厳然たる現実として死を突き付けられる気がしたから。

 清美はうっ、と呻くと咳を伴って吐血した。

「キヨさん!」

 その場にいる全員が悲鳴を上げると清美は気丈にも皆に向かって微笑んでみせた。

「一、彦く、ん…」

「ここにいるよ、キヨさん!」

 一彦は清美のか細い呼びかけに手を握り返して力強く応える。

「ごめ、んね…。小さ、い頃から、見てた、の、に…、決勝、せ、ん、見に、行けそ、うに、ない…」

「大丈夫だよ…! 行けるよ…っ。それまでに怪我を治してさぁ…っ!」

 一彦自身、励ましの言葉とは裏腹に昔の思い出が次々と脳裏をよぎる。

 小さい頃に指を切って絆創膏を巻いてもらった事。

 小学生のサッカー大会で親父の代わりに応援にきてもらったはいいが、人一倍声援が大きくて恥ずかしい思いをした事。

 中学校の部活から帰ってきたら、忙しい親父に代わって温かい夕食を準備してくれていた事。

 高校の合格発表の日、一緒に見に行って合格を自分の事のように喜んでくれた事――


 やめろ、やめてくれ……!


 清美は一彦の言葉ににこりと笑うと自分を取り囲んで見下ろす部員達の顔を見て言った。

「みんな…、幸せに…生きて……」

 清美の目は力尽きたように閉じられようとしていた。

 一彦は慌てて清美の肩を揺さぶる。

「ダメだ、ダメだよ! 目を開けてよ!」

 一彦の揺さぶりに応えるように清美は何とか薄く目を開けると消え入るような声で、今度は守れた、と呟くと力尽き、満足げな表情で目を閉じた。

 それからは一彦の揺さぶりにも目を覚ます事はなかった。

「何だよ、今度は守れたって……。今度は守れたって何なんだよっ! お願いだよ、目を開けてくれよ、キヨさん! 俺は子供の頃からずっと面倒みてもらってたのに、その恩をまだ何にも返せてない!まだ…これからなのに……。……母さん」

 母親のいない一彦にとって、子供の頃から身近な存在の清美は母親同然だった。

 それをよく知る部員達一同は一様に押し黙った。

 一彦の咽び泣く声の響く中、遠くに救急車のサイレンが聞こえていた。


                  *


「――――っ!!」

 一彦は声にならない叫びを上げて目を覚ました。

 と同時に、左腕に鋭い痛みが走る。

 見ると厳重に包帯が巻かれていた。

 周りを見渡すと、どこかの病室のようだ。傍らには看病してくれていたのだろう、ベッドに突っ伏して眠る薫の姿があった。

 心配してくれていたらしく、俺の右手を握ってくれているのが可愛らしい。

 意識を失う前の状況から判断すると、どうやらどこかの病院に担ぎこまれたようだ。

 それにしても――

「久々に見たな……」

 あの事故の夢。二十歳を過ぎた頃からはすっかり見なくなっていたのに。

 あの後の事はあまりはっきりと覚えていない。

 唯一、覚えているのは葬儀での事だった。

 清美の息子を名乗る人物が現れたのだ。

 大学生くらいだろうか、彼は片足が不自由で松葉杖を突いていたのを覚えている。

 彼が幼い頃、母である清美と二人で出かけた際に交通事故に巻き込まれ、大怪我を負ったその後遺症との事だ。

 その怪我の責任を巡って清美の夫は清美を責め続けた末に離婚、清美は独り身となってこの地へ流れてきたという訳だ。

 何故こんな事を知っているのかというと、彼自身が霊前で克明にこの事を語り、更に父子家庭となって苦労してきた旨を朗々と語りかけたからだ。

 ひとしきり語り終えると彼はその場にいた俺達に向かって言った。

『母は満足だったと思いますよ。守れなかった俺と違って、あなた方は守れたんですから』

 彼はそう言って線香をあげると早々に立ち去った。

 彼の怒りと悲しみがないまぜになった言葉は『今度は守れた』という清美の言葉を際立たせ、俺の心に突き刺さった。

 その場にいた部員達はその言葉に思う所があったのか、それとも責任を感じたのか、部を離れる者も少なくなかった。

 誠もその中の一人だ。

 俺はといえばそれから半年間、サッカーどころではなかった。

 あの事故の際、清美を母と慕っていた事を自覚すると同時に凄惨な喪い方をした事で心に大きなダメージを負った。

 暫くは清美の幻を見たり、他人を清美と間違ったり……。

 清美はもういないと頭では理解しているものの、心ではそれを受け入れられない、そんな日々が続いた。

 日常生活を送れる程度の精神的な落ち着きを取り戻すまでには半年という時間を要した。

「しかし、どうして今更こんな夢を……」

 理由は何となく分かってる。

 薫の大切なものを目の当たりにしたからだ。

 大切なもの、夢……。

 今の俺には――

「ん……。目、覚めたのね。貴方の声で私も目が覚めちゃった」

 声に振り向くと薫が目を覚ましていた。

 握られていた右手はいつの間にか離されている。

 もう少し握ってくれててもよかったのに。

 一彦はそれを残念に思いながらも状況をわかっている様子の薫に聞いた。

「どういう状況なの、これ?」

「掻い摘んで話すわね――」

 一度に多くの血液を失った事によって気絶した俺を薫さんと駆けつけてきた大神の二人でここに運び込んだ。結構な失血だったらしく、そのまま緊急手術が行われ今に至る。

 薫さんの話ではここはA.M.A.P.の医務室との事。

 ここの医療設備は一通りの外科的手術ができるほど充実していて、それ故に俺のざっくりと裂けていた皮膚、筋肉、血管の縫合ができたのだそうだ。

 設備の充実振りの理由は恐らく仕事柄、負傷する隊員達が多い為だろう。

 幸い、今は俺が使っているベッド以外は空いているようだ。

 手術は執刀医の腕が良かったらしく五時間程で終了し、術後一時間経って目を覚ましたのが今という訳だ。

「じゃあ、今何時なんだ?」

 病室内では時間感覚が働かない。一彦の質問に薫は自分の腕時計に目をやる。

「午後四時を回った所よ」

 そんなに経ったのか! こうしてはいられない。

 リリィちゃんから交渉の状況を聞かなきゃ。

 一彦が痛みに耐えて起き上がろうとすると薫は慌てて一彦の身体をベッドに押し付けた。

「まだダメよ! 結構な出血だったのよ!? ……あまり心配かけさせないでよ」

 そんな風に言われると一彦としても抑えるその手を振り払う事は出来なかった。

「約束だったわよね。戻ったら話す、って」

「……ああ、そうだったね」

 状況の変化が目まぐるしくてその事はすっかり頭から飛んでいたが、薫の言葉が鍵となって意識を失う前の状況をしっかりと思い出す事ができた。

「話してくれる?」

 離婚の理由も知らないまま死ぬのは御免だ。

 ただでさえままならない人生、自分の身の周りの事くらいしっかりと理解しておきたい。

「ええ、少し長くなるわよ――」

 薫はそう前置きすると今迄一度として話さなかった離婚の理由を話しはじめた。


「私ね、貴方の事、貴方が入社してくる何年も前から知ってたの――」

 高校三年生の春。今の私からは想像できないかもしれないけど、取り柄もなければ全然勉強もできなくて。

 そんな自分だから将来に何の展望も持てずに進路も決めかねてたの。

 そんな時、つけっ放しにしてたテレビから高校サッカーの実況が飛び込んできたわ。

 インターハイ予選県大会決勝、私の高校と新設された高校の試合。

 私の高校はスポーツも盛んで、特にサッカーは何度も全国大会に出場する程の強豪だった。

 そのチーム相手に、新設校の全員一年生チームがすごい試合を演じてたの。

 経験不足からくる守備の脆さを突かれて点を取られれば、攻撃陣がドリブルとパスを織り交ぜた多彩な攻めで相手の三年生守備陣を翻弄、点を取り返す。

 素人の私が見てもすごい試合だってわかった。

 対戦相手なのにドキドキした。

 番狂わせが起こるかもって。

 でも、最終的には一歩及ばず6対5で私の高校が勝った。

 試合終了直後、印象に残ったのは私の高校の選手達の笑顔じゃなく、負けた新設校の選手の崩れ落ちた姿。フィールドから出ようと歩いていた選手の足からずるっと脱げてしまったボロボロのシューズ。

 よく見れば新設校の選手の用具は何もかもボロボロだった。

 実績の無い部には予算が付かないのか、内情を知る由もない私にはわからないが、ここで私の進路が決まった事だけはわかった。

 低予算の部にも提供できるような安価で丈夫で高品質なスポーツ用具を作りたい。

 もしそんな用具を使っていたらさっきの試合の結果はどうなっていただろう?

 そう考えるだけでワクワクしたし、彼らの試合が楽しみになった。

 夢島誠と出雲一彦の連携プレーはそう思わせるだけの魅力を放っていた。

 一年後、私は死に物狂いで勉強と資格取得に打ち込み、その甲斐あって希望のスポーツ用品会社に就職する事ができた。

 それから一年半の間、商品開発のノウハウを学びながら実際に新商品の開発にも参加し多忙な日々を送りながらも、試合数をこなす内に洗練されていく貴方達のチームの試合を気にかけていた。

 そして彼らの高校最後のインターハイ三ヶ月前、遂に私が初めて開発に関わったシューズが完成、全国に出荷される事になった。

 足の甲の部分には柔らかい上によく足にフィットし素足感覚でボールの感触を伝えられるハイエンドモデルで使用されている物と同じ天然皮革を用いて、その他の部分、足の側面と底面には柔軟性には多少劣るがそれ故にしっかりと足をホールドできる従来素材に準ずる物を使用する事で全体としてシューズと足の一体感を出すと同時にコストを大幅に抑える事ができた。

 風のように駆け、群れなす狼の狩りの様子になぞらえて『ウィンディウルフ』と銘打たれたサッカーシューズはそのコストパフォーマンスの良さから中高生を中心にかなりの注文が舞い込んだ。

 コストパフォーマンスという面では私も先輩相手にかなり議論を白熱させていたからまるで自分の事のように嬉しかったのを覚えてるわ。

 そして遂に全国高校インターハイ。

 間に合った。

 大会では多くの選手の足元をウィンディウルフが飾っていた。

 ただ、その大会に夢島誠と出雲一彦の姿はなかった。

 正直、がっかりした。

 だってそうでしょう?

 一番履いて欲しかった選手がいないんだから。

 それっきり、出雲一彦と夢島誠の姿をフィールドで見る事はなかった。

 それから数年、私は仕事に没頭していて、私自身の人生を変えた高校サッカー選手の事を色あせた古い記憶として忘れ去ろうとしていた頃、それは突然目の前にやってきた。

「出雲一彦です。今日から先輩の下に付く事になりました。ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」

 正に青天の霹靂だった。

 人間って衝撃が大きすぎると本当に何も反応できなくなるのね。

「え、ええ、よろしく……」

 衝撃の大きさを実感するあまり、そう返すだけで精一杯だったわ。

「――それからの事はあなたも知ってのとおり。……ねぇ、高校最後のインターハイ、どうして出場しなかったの?」

「それは……」

 キヨさんが――亡くなったから。

 一彦はそれを言い出す事ができなかった。

 キヨさんの死を自分の夢を諦める理由に使っているような気がしたから。

 実際の所、キヨさんの死は部員達全員の心に大きな影を落とし、出場したとしても試合にならなかっただろう。

「ねぇ、聞いてる?」

 黙り込んでしまった一彦の顔の前に身を乗り出してきた薫の問いかけに一彦は現実に引き戻された。

「あ、ああ、聞いてるよ。……あの時は色々あったんだ」

「……ふーん?」

 薫は言葉を濁した一彦に対して何か思う所があったのか、それ以上追求する事はなかった。

「まぁ、いいわ。私の話もまだ途中だし」

 薫はパイプ椅子に座り直すと話を続けた。


 そこからはごく最近の薫の事。

 経理部の友人から会社の財務状況が危ない事を聞いて転職に動いていた事。

 友人の言葉通り、会社は倒産、薫自身はうまく転職先が見つかっていた事。

 一彦の重荷にならない為に一彦の前から姿を消した事――

「それだよ」

 一彦は即座に指摘した。

「どうして愛理共々、姿を消す必要があったんだ?」

 一彦の問いかけに薫はしばらく黙っていたが、やがて観念したかのように話し始めた。

「あなた、ここ何年かJリーグのトライアウトに向けてトレーニングしてるでしょ?」

「あれは愛理に言われて試しに――」

 薫は反論しようとした一彦を手で制すると話を続けた。

「私は高校時代のあなたを見てたし、今のトレーニングの様子も目にしてる。どれくらい本気か、すぐに分かるわよ」

 黙認していたのは、興味がないからじゃなかったのか。

 一彦は薫との認識の差に驚いた。

「あなたが本気でプロになろうとしているなら、私達の存在は邪魔になる」

 一彦は薫の言葉にぎょっとした。

「邪魔だなんてそんな事――」

「あるわよ」

 薫は一彦の否定を即座に跳ね返した。

「……あなた、優しいもの。自分がやりたい事よりも私達家族の事を優先して、収入が不安定なアスリートより安定収入の会社員を選択するんじゃない?」

 確かに、愛理の将来を考えると雲を掴むような夢を追っている場合じゃないよな……。

 薫と愛理が目の前にいる今、プロ選手になる事は頭の片隅に追いやられていた。

 薫の指摘通りの結論を導き出している自分の思考回路に半ば呆れ、半ば納得した一彦には全く反論の余地はなかった。

「今度こそ、夢を選んで。あなた自身の為に」

 薫のその言葉は、薫にとっては正論なのかもしれなかったが、一彦には今一つ心に響かなかった。

 夢、やりたい事……。

 プロサッカー選手が本当に俺の夢なのか?

 高校の頃の俺なら間違いなく何が何でもプロサッカー選手になりたい答えていただろう。

 だが今の俺にはそこまでの渇望の念は生まれない。


 俺が本当にやりたい事は――

 そう考えた時、頭をよぎったのは薫達家族の幸せな笑顔を浮かべた姿だった。

「待ってくれ、薫さん」

「うん? 何?」

 薫は一彦の呼びかけに立ち止まって振り向いた。

「俺がやりたい事は――」

 一彦がそこまで口にした時、薫の胸元からシャラっという小さな金属音と共に滑り出てきた――見覚えのあるペンダントが。

 それを目にした瞬間、一彦はベッドから転げ落ちるようにして立ち上がると薫に詰め寄った。

「そ、そのペンダントはどうしたんだ!?」

 よく似た別物であってくれ!

 そんな一彦の願い虚しく、ああ、これ?と差し出された物は一彦の物と寸分違わず同じ物だった。

「愛理から渡されたのよ。『お母さんを守ってくれるように』だって」

 薫の言葉が何処か遠くに聞こえる。

 愛理の優しさが裏目に出てしまった。

 違うんだ、愛理。

 この護符はお母さんを守ってはくれない。

 これはお前の魔力を他の魔族から隠してくれる物なんだ。

 お前の無事こそがお母さんの唯一の希望なのに。

「俺、行かなきゃ」

 そう言ってふらふらと出て行こうとする一彦を薫は慌てて引き留めた。

「ちょっと! そんな身体で何処に行こうって言うの!?」

 病室を出ていこうとする一彦とそれを押し留める薫。

 そうしていると廊下から誠の叫び声が聞こえてきた。

「どいてくれ! どいてくれ! 前を開けてくれ!」

 誠の声色に驚いた薫が病室のドアを開けると向かい側が処置室になっているのが見えた。

 ちょうどそこに人を抱えた誠が駆け込んできた。

 驚く事に誠に抱えられた人物はぐったりとした様子のリリィだった。

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