3 真実

 出雲家に向かう車中、誠は運転しながら助手席の一彦に話かけていた。

「おい、何だよー? そんなあからさまに不機嫌そうなツラするなってー」

「そんなつもりはない」

 そう答えたものの、自分の顔が普段より険しくなっているのは自覚している。

「仕方ないだろ? リリィちゃん、『実家に着くまでは理由を一切話さない』って言うんだから。諦めろって」

 そう、これなのだ。

 リリィは出発直後、こう言い放ってだんまりを決め込んでしまった。

 一彦の父親に会う事が一彦達の安全に繋がるというその根拠を聞き出したかった一彦としては、出鼻を挫かれた形となった。

 それでも諦め切れず、何度も話しかけてみるのだが――

「理由以外でしたら、何でもお答えしますよ」

 と、にっこりと笑顔で返されてしまった。

「なぁ、リリィちゃん」

 一彦は後部座席を振り向くと、もう何度目か分からない問いかけにも関わらず、リリィはにこりと笑顔で応じる。

「せめて、話せない理由だけでも教えてくれないか?」

「一彦さんのお父様の前でお話しします」

 取り付く島もない返答に一彦は溜息をつくと、どすんと音を立てて助手席に座り直した。

 その様子を見て誠が呆れたように口を開いた。

「お前……、そんなに口を尖らせて。まるで子供じゃねぇか」

「うるさい。ちゃんと前見て運転してくれ」

 超常の存在に追われて命を危険に晒され、そこから逃れる術が父親に会う事だと言う。

 にも関らず、その理由を明かせないだって?

 薫も愛理も怯えずに済む未来が開ける展望が見えないのに不機嫌さを隠すなんて無理な話だ。

 気分を変えたい一彦が身を乗り出してカーステレオのスイッチを入れると、午前に相応しい爽やかなで軽快な音楽が流れてきた。

 少しは気分が晴れたのか、幾分和らいだ表情で一彦がシートに座り直す。

 その際、胸元からシャラッという軽い金属音と共にリリィから貰ったペンダントが滑り出てきた。

 目ざとくそれに気付いた誠がからかうような口調で話しかけた。

「おっ、それか? 大神の報告書にあった可愛いリリィちゃんから貰ったプレゼントってのは。隅におけないねぇ、このォ! ちょっとよく見せてくれよ」

 そう言って誠は運転しながら左手を一彦に向けて差し出した。

 誠の追求する口撃に辟易していた一彦は、その口を黙らせる意味でも護符を首から外そうと――

「いけませんっ!」

「うおおっ!?」

 突然の大声に驚いた誠はハンドルを切りそこなう所だった。

「あっぶねぇな! 急に大声出すなよ! ペンダント見せてもらうくらい、いいだろ!?」

 誠が声の主であるリリィに抗議した。

 しかし、リリィも譲らない。

「いいえ、何としても止めさせていただきます。その護符には創造者である私以外、一彦さんと愛理さんを感じ取る事ができないような効果を持たせてあります。外した途端に一彦さんの居場所は敵の知る所となるでしょう」

 成る程。それで『お守り』という訳か。

 一彦はそこでふと疑問に思った。

「それにしても、リリィちゃん。よくそんな物を都合よく持ってたね?」

 一彦はなるべく平静を装って聞きながら、背筋に冷たいものを感じていた。

 都合よく持っていたなら。

 それは、相手がどういう行動に出るか知っていたとも考えられる。

 それを黙っていた相手を信用していいのか?

 でも、助けてくれたのも事実だ。

 疑心暗鬼が渦巻く一彦に対し、リリィはあっけらかんと答えた。

「いいえ、持ってませんでしたよ?」

 その瞬間、一彦の疑心暗鬼は霧散した。

「……どういう事?」

 一彦が訳が分からないといった感じで問い返すと、リリィは自分の腰ベルトを指差して見せた。

「ここ、投げナイフが一本無くなっているでしょう?」

「うん」

 確かにリリィが言う通り、ベルトに並んで差している投擲ナイフが一本だけ無くなっている。

「これ、ミスリルという金属で魔術式を刻み込む事で魔法を持たせる事ができるんです。これに錬成魔法を施して二つの護符に作り替えたんですよ」

 そんな事ができるのか。

「いつの間にそんな事を……」

「昨夜の魔法陣を破壊した直後です。ですので、『敵かもしれない』なんて身構える必要はありませんよ」

 全くもって耳が痛い。

 彼女にはさっきの緊張も全てお見通しだった訳だ。

「疑ってごめん。やっぱり昨日から無意識に気が立っているみたいだ」

「いえいえ、とんでもない。戦いに身を置かなければ普通はそういうものです」

 そう言ってリリィは笑顔を返した。

 彼女にとってはいつもの事なのかもしれないが、やはり一彦にとっては心苦しい。

 つい目線を外し、誠の方を見てしまう。

「悪い、誠。どうやらこれは暫く外せないらしい」

 一彦が苦笑いしてそう言うと、話を聞いていた誠は分かったよ、という風に肩を竦めて前を向くと運転に専念した。

 

 二人とのやり取りから更に一時間をかけて誠の運転する車は一彦の実家のある村へと到着した。

「おー、見えてきたな。こっちに戻ってくるのも久しぶりだ。一彦、お前もそうなんじゃないか?」

「ま、不便だしな。そうなるのも仕方ない」

 話を振られた一彦はさして興味なさそうに答えた。

 ――仕方ない、か。

 一彦の住む市街地側から見て、峠一つ越えた山村に位置する実家。

 公共交通機関の便も少なく、市街地へのアクセスも悪い。

 それ故、誠の指摘通り、一彦自身も実家に戻ってくるのは久しぶりだ。

 一彦は助手席の窓からちらりと外を眺めた。

 この辺りは相変わらず何もないな。

 道なり奥に見える一彦の実家以外には農家が数軒ほど目に付く程度の小さな集落。

 物心付いた頃には母もなく、この何もない田舎町で一彦は父一人、子一人で育った。

 市街地方面にある学校には自転車通学で通う事が出来たが、車を運転できる大人と違い、子供の頃の自分にとっては不便極まりないものだった。

 そんな少年時代に刷り込まれた記憶も相まって、一彦自身、実家のあるこの村があまり好きではなかった。

 そんな一彦が進学、就職の為に村を出て市街地で暮らす事を選ぶのは自然な流れといえよう。

「ここを出て、俺達と街の方で暮らさないか?」

 一彦が結婚の報告の為に薫を連れてきた時に言い出した言葉だ。

 薫とも話し合い、随分と悩んで決意した上で口に出した言葉。

 しかし、一彦の父、輝明はその誘いに頷かず、こう答えた。

「それはできん。俺がここを出れば地域の医療はどうなる?」

 輝明はこの集落唯一の町医者だった。

 その責任感から口を突いて出た言葉だったが、一彦は納得ができなかった。

「手伝ってくれてた看護師のキヨさんもいない。一人で診療所をやっていくのは無理だって!」

 食い下がる一彦を前に、輝明は首を横に振った。

「それでもだ。患者が一人でもいる間はここを離れる訳にはいかん」

 彼の揺るぎない使命感からの言葉ではあったが、一彦にとっては断られたのが余程堪えたのか、それ以来一度として同居の誘いはしていない。

 と、一彦が物思いに耽るうち、いよいよ一彦の実家が近づき、誠から声が掛かった。

「おーい、そろそろ着くぞー……ってか、相変わらずでけぇ家だな、おい」

 皮肉たっぷりの口調でぼやく誠に対し、涼しい顔で流す一彦。

「田舎の家なんざ、どこもこんなもんだろ」

 しれっと答える一彦に誠は目を剥いて噛みついた。

「ふざけろ、この野郎。お前ん家が普通だったら、俺ん家は掘っ建て小屋になっちまうわ!」

 事実、周りの家々に比べて、一彦の実家は敷地も広く、家屋も洋風な上、二回りは大きかった。

 しかし――

「そんなに好きな家でもないし、どうでもいいさ」

 興味なさ気に答える一彦を尻目に、誠は敷地内のあちこちに目を向けながら車を敷地内へと向かわせる。

 と、突然、リリィががばっと車の窓に取り付くときょろきょろと辺りを見回し始めた。

 突然の行動に驚き、一彦は辺りを警戒するように身構えてリリィに聞いた。

「何? どうしたの?」

「……いえ、何でもありません」

 リリィはそう言うと元の座席に何事もなかったかのように座り直した。

「……?」

 一彦と誠は顔を見合わせるとお互いに肩を竦めて同じように座席に座り直した。

 そのまま車を進めた誠は玄関脇に車留めスペースを見つけると、手慣れた様子で駐車した。

 足取り軽く車を降りる誠に対し、一彦の腰は重い。

「久々に帰って来た用事が厄介事の持ち込みというのも……って、おい!」

 一彦の心境もお構いなしに誠はさっさと玄関に向かうと呼鈴ボタンを押した。

 直後、屋内からリンゴーンと鐘の音が響く。

 が、誰も出てくる気配はない。

「いらっしゃらないのでしょうか……?」

 車の後部座席から降りながら、リリィが不安そうに問いかける。

 と、誠はジロリと助手席から降りかけの一彦を睨みながら戻って来た。

「一彦、お前、ちゃんと俺達が訪問する事、事前に連絡したんだろうなぁ?」

 一彦は誠の詰問に憤然として答えた。

「してる訳ないだろ。大体、携帯電話も持ってないのにどう連絡付けるって言うんだ? それにたかが実家に帰るだけで『今からそっち行くから』って一言断り入れるのもおかしな話だろうが」

 一彦は当然だとばかりに言ってのけたが、二人の一彦を見る目は冷やかだった。

「お前、流石にそれは……ねぇ?」

「ええ、伺う事を事前にご連絡差し上げるのはマナーの範疇ですよ?」

「うぐっ……!」

 無作法を指摘された齢三十二の一彦が心理的ダメージを受けた所で実家と併設された、出雲診療所と看板を掲げた建物の扉が開いた。

 老人男性とそれを見送る初老の男性が姿を現す。

「先生、ありがとうございます。お蔭様で痛みも和らぎました」

「いやいや、大した事は。それじゃ、高橋さん。また具合が悪くなったらいらしてください」

 初老の男性が頭を下げて老人を見送るのに合わせて、一彦も同じようにして見送る。

 長年の習慣だ。

 頭を上げると初老の男性を目が合った。

 細目の長身、鋭い眼光をした細面。

 多少よれたワイシャツとパンツは普段の忙しさを物語っていたが、きれいに短く刈り込まれた白髪混じりの髪型は清潔感を与えていた。

 鋭い眼光は一見、怖い印象を与えるが、その奥の瞳からは優しさを感じられる。

 相反する二つの印象を同時に与える不思議な人物。

 それが一彦の父、輝明だ。

 輝明は一彦の後ろの二人にちらりと視線を走らせると、診療所の扉に掛かっている札を「休診」に変えながら口を開いた。

「愛理を連れずに来るなんて珍しいな。という事は、愛理の体調はいいという事か?」

「親父、久しぶり。最近の愛理は体調を崩す事もなく、学校に通っているよ。……今日は別件でこっちに来たんだ」

 一彦はどう話したものかと考えながら、ちらりと後ろの二人に目をやる。

 目ざとくその様子に気付いた輝明はその二人を見ながら口を開いた。

「で、そちらのお連れさん方がその『別件』という訳か?」

 輝明の言葉を受けて、誠が一彦の前に出て頭を下げた。

「お久しぶりです! 覚えておいででしょうか? 中学、高校で一彦と一緒のサッカー部員で……」

 しかし、誠の勢いとは裏腹に輝明は思い当たる様子がなく首を傾げる。

 その様子がもどかし気で、誠は更に早口で捲し立てるように話を続けた。

「ほら、ボールキープ力があった一彦が敵の注意を引いている内に俺が裏から走りこんで、一彦からのパスを受けて……!」

 そこまで言うと思い当たった輝明は、おおっ、と大きく声を上げた。

「おお! 思い出した、思い出した! その後、そのままダイレクトでシュートを決めてた誠君か! 覚えとる! 覚えとる!」

 輝明の反応にほっとしたのか、誠の口が更に滑らかになった。

「覚えとるって、さっきまで忘れてたじゃないですか」

「何を言う。今は一人前の男になって、あの頃のあどけなさの影も形もないからピンとこなかっただけだ」

 あの頃はいい連携だったとか、お前等サッカー部員はいつも生傷だらけで消毒薬がいくつあっても足らなかったとか、二人の間で昔話が始まったので、慌てて一彦が割り込んでリリィを紹介する。

「親父、昔話はその辺で。こちら、リリィちゃん。何でも親父に話があるって――」

 そこまで言って輝明の顔を見て言葉に詰まった。

 輝明の表情が一彦が今までに見た事がない程の厳しい形相だったからだ。

 そんな厳しい視線に晒されながらもリリィは涼しい顔で受け流し、頭を下げて礼をするとにこやかに微笑んだ。

「リリィと申します。貴方様にお話しすべき事があって参りました」

 

                  *

 

 立ち話もなんだ、と一彦達は輝明の案内で出雲家の応接間に向かう事となった。

 応接間に向かう間、一彦はちらりと隣を歩くリリィに視線を巡らす。

 一体、何者なんだ……?

 父、輝明に恐ろしい形相を浮かべさせた上、それを眉一つ動かさずに受け流し、微笑んで見せる。

 昨日の事もあって、只者ではないとは思っていたが、その胆力は一彦の想像を遥かに上回る代物に思える。

「どうされました?」

 一彦の視線に気付き、リリィが一彦に問い掛けた――にこやかに。

 一彦はぎくりと驚くと平静を装って返した。

「いや、何でもない……です……」

 見た目通りの少女として扱っていいものかどうか。

 リリィさん、と敬称付けで呼ぶようにした方がいいのかもしれないなどと考えている内に応接間の前に着いた。

 輝明がドアを開き、一彦達が中に入ろうとした時、最後に入ろうとした誠の肩を輝明が掴んだ。

「少し込み入った話になる。君は席を外してくれ」

 輝明のその態度に対し、一彦はカッとして輝明に詰め寄った。

「ちょっと待ってくれ、親父! 俺達は訳あって今、誠の保護を受けているんだ。なのに部外者みたいな言い方は……!」

 誠は興奮する一彦を手で制すると輝明に向き直って敬礼した。

「わかりました。外で待機しておりますので何かあれば声をかけてください」

 そのまま応接間の外に向かう誠に、すまん、と一彦が声をかけると、誠は気にするなとでも言うように手を振って応えた。


 ドアが閉まると輝明は一彦とリリィにソファに掛けるよう促した。

 全員が座ると輝明はリリィを見据えて開口一番――

「お前はリリスの手の者だな?」

 リリィはその言葉に頷くと自分達の置かれた状況を話しはじめた。

「貴方様が魔界から姿を消した時よりベリアルの勢力が台頭、現在、その勢力は貴方様の領地の殆どを手にしました。広範なる魔界の四分の一を手にする事になるベリアルが更なる侵攻を企てる可能性も低くはありません。そして、こちらの時間で昨日、その勢力の者に貴方様のご子息の存在を知られる事となり、先程の者の属する組織の保護を受けるに至りました。彼らは目的の障害となり得る貴方様の血族の抹殺の為に動き出すでしょう。貴方様がお戻りになればベリアルの野望を止める事ができるはずです。――王子よ」

 輝明はリリィの話を聞くと首を横に振った。

「いや、我ら親子を亡き者にしようと考えているなら儂が戻った所で流れは変わらん。以前と同じく暗殺者を差し向けてくるだろう」

 のっけから馴染みのない魔界の複雑な事情が語られるのをどこか他人事のように聞いていた一彦だったが、最後の言葉が衝撃を以て頭の中に飛び込んできた。

 王子? 親父が?

 じゃあ、俺は一体……?

「しかし――!」

 反論しようとするリリィを輝明は手を挙げて制すると、一彦の様子を見て口を開いた。

「一彦、お前に全てを話す時が来たようだ――」


 世界が天界と魔界に分かれる前の遥か昔、魔力を有する魔族同士の大戦があった。

 原因は創造主が新たに作った存在、人間を巡っての事だった。

 一つはまだ幼い種族である人間には犯すであろう多くの過ちを正す為、自分達魔族の手助けが必要だとする勢力。これが我等だ。

 もう一つは創造主の立場を最も尊重し、基本的に人間に対して不干渉としながらも創造主の意に反する行動を起こした際には罰、即ち存在を抹消する勢力だ。

 前者は脆弱な存在である人間が過酷な環境の地上で生き抜く為に必要な考える能力、智恵を人間に与えた。

 それに対し、後者は前者を創造主の意に反する行いをしたとして悪しき魔族、悪魔と蔑み、自らを創造主である天、その御使いとして天使と称した。更に装光体・デモンに対しても悪魔の意味を重ね、自らの装光体にはデウス、神と名付けた。

 天使は人間に智恵を授けた我ら魔族に対して、創造主に対する叛意ありとして攻撃を加え始めた。我等は愚かにもそれに力を以て対抗した。

 天使と魔族の装光体を用いた戦いはその激しさ故、度々二つの世界の境界を破り、物質界へと顕現した。その時の戦いを目撃した人間達によってそれは巨大な天使と悪魔の戦い、「黙示録の戦い」として畏敬の念を込めてこの世界に伝えられている。

 戦いは苛烈を極めたが故に魔界は荒廃、その影響を受けて物質界も戦争や疫病等によって多くの死傷者を出す事となった。

 

「――影響を受けて戦争?」

 遠い世界の出来事が何故、こっちに影響を及ぼす?

 一彦は気になって口を挟んだ。

「それには私がお答えします」

 リリィが一彦の疑問を受けて答える。

「魔界と物質界は僅かな位相差で重ね合わせ状態として存在する別世界、いわば隣人と言って差し支えない程の近しい距離にあるものなのです。その近さ故にお互いの世界同士の出来事が影響し合う相関関係にあり、魔界が荒廃した事の影響は物質界、その生命体の生命力や精神にまで及びました」

「いくら近い世界だからってそんな事――」

 信じられない。

 一彦がそう口にしようとしたのに先んじてリリィが言葉を継いだ。

「生命力に影響を与えたが故に生命体の抵抗力が弱まって疫病が、精神に影響を与えたが故に活性化した本能を理性が抑えきれなくなり、争いが起きた。そうは考えられませんか? 事実、過去に大きな戦や疫病の流行があったわけですし」

 確かにそう考えれば一応の説明はつくが――

「そこはこの話の要点ではない」

 議論になりそうな所を輝明がぴしゃりと一喝して割って入った。

「話を続けるぞ」

 

 戦いが一層激しくなり、魔界と物質界の境界が今まさに崩れようとしたその時、天使達は一体残らず目の前から忽然と姿を消した。

 魔界と物質界、二つの世界の境界が崩れる事によって起こる世界の対消滅を避ける為に創造主が天使達を「天界」と名付けた空間へと押し込んだ為だ。天の御使いを名乗る者達には似合いの場所といえる。

 天界は魔界、物質界からは時空間的に「遠い場所」にある世界。

 それ故、この時以来、天使達が魔界や物質界に現れた記録はない。

 

 それから十数年。

 先の大戦で武功を挙げた十二人によって構成される評議会を中心として各地の復興に力を注いだ事が功を奏し、魔界はかつての美しい姿を取り戻しつつあった。

 評議会メンバーは特に武功の大きかった上位王子と何らかの形で功績を挙げた下位王子とで構成されている。

 上位王子はルシフェル、ベリアル、リヴァイアサン、サタンの四人、下位王子はアスタロト、マゴト、アスモデウス、ベルゼブブ、オリエンス、パイモン、アリトン、アマイモンの八人の計十二人だ。

 魔界の復興に際してはそれぞれ力を合わせ尽力したが、メンバー間の複雑な力関係があり、評議会は必ずしも一枚岩ではないのが実情だった。

 そんな中、一つの知らせが魔界全土に報じられた。

 ルシフェルの妻、リリスの第一子の出産だ。

 この明るい知らせは復興の過程にあたり、暗く沈みがちだった魔界の人々の心に明かりを灯した――が、しかしそれは新たな悲劇の幕開けでもあった。

 リリスの第一子出産の報から数日後、今度は凶報が魔界全土を駆け巡った。

 リリス第一子の数度に渡る暗殺未遂事件だ。

 幸い、全ての暗殺行為は失敗に終わっているが、その全貌を明らかにする事は出来なかった。何故なら実行犯が悉く自殺してしまったからだ。

 暗殺に失敗したと見るや、実行犯は何の躊躇もなく死を選んだ。

 身元を証明する物を一切残さず――そう、自分の顔さえも。

 それ故、暗殺を計画した主犯に繋がる追跡捜査も難航。

 そんな事件が幾度か繰り返されたある日、事件は急展開を見せる。

 ルシフェル邸宅の消滅。

 邸宅を中心とした周囲五百メートルに渡って地盤ごと削り取られたかのように消滅した。

 そこにはルシフェル一家の存在を示す物が何一つ残されてはいなかった。

 その後の顛末は私が、とリリィが話を引き継いだ。


 邸宅消滅後、程なくして実行犯を名乗る者が捕縛された後、処刑された。

 犯人の動機は個人的な怨恨であったという話だが詳細な内容は残されていない。

 これ以降、この事件に関しては誰も口にする事はなくなったという。

 

「それが今から三十年前の話だ」

「――いえ」

 リリィは輝明の話に異を唱えた。

「こちらの時間は魔界より六倍程度速く流れていますので、魔界では五年しか経っておりません」

 一向に話の核心に迫らない輝明に一彦は苛立って声を荒げた。

「で、その暗殺やら何やらの話と今の俺達に一体何の関係があるんだよ!?」

 本当は分かってた。

 、と。

 王子とその第一子。自分に魔力が宿っている理由。

 でも、認めたくなかった。

 自分が人間ではない、などと。

 苛立つ一彦の目を真っ直ぐに見つめ、輝明は冷徹に答えた。

「暗殺されたとされる王子・ルシフェル、それが儂の本当の名だ」

 認めたくない……!

 一彦は助けを求めて、縋るような視線でリリィを見た――が。

 リリィは輝明の話を肯定するように静かに頷いた。

 呆然とする一彦を痛ましく見つめた輝明だったが、軽く咳払いすると続きを話しはじめた。 


 三十年前――いや、向こうでいうと五年前か。

 当時の状況では暗殺者の手から逃れられないと悟った儂は自身の死を偽装する事にした。息子であるお前の安全を確保し、陰に潜む真犯人を突き止める時間を稼ぐ為だ。

 儂は次元的に近い距離にありながら渡る事が難しい世界、即ち、ここ、物質界にお前と共に落ち延び、妻リリスは魔界にて潜伏、引き続き真犯人の追跡調査を行う事となった。

 儂は地下にある転移ポータルから魔素の乏しいこの世界、物質界への経路を能力ギフト、《無尽の精インフィニットジン》を使って強引に形成して渡って来た。渡った後、邸宅は消滅させるよう妻に言い残してな。

 それが邸宅消滅の真相だ。

 

「……その《無尽の精インフィニットジン》っていうのは?」

 ショックを受けながらも一彦は今の状況を理解しようと疑問点には即座に口を挟んだ。

 その都度、輝明は面倒くさがらずに根気よく答える。

「魔族には各々一つずつ固有の能力ギフトが宿っている。儂には《無尽の精インフィニットジン》、文字通り無限に近い魔素と精神力を発生させる事ができる能力だ。魔法は各々に備わった魔力と精神力を以て魔素を操り発現する。儂はこの能力ギフト故、魔素の少ないこちらの環境でも何の心配もなく魔法を使う事ができる」

 各々一つ……。

 一彦の視線は自然とリリィの方に向けられた。

 リリィはそれに頷いて応える。

「私の能力ギフトは《高速詠唱ファストチャント》。この能力ギフトのお陰で瞬時に魔法を使う事ができます。ちなみにデモンにも同様に一つずつ固有の能力――与えられた力という意味で『付与力タレント』と言います――がありますので、デモン搭乗時は二つの特殊な能力が使える事となります」

 無我夢中だったとはいえ、昨日はよくそんなのを相手に立ち回れたものだ。

 だが、冷静になってしまった今、デモンと異能の力を持ち魔法を操る追跡者、そんな超常の相手からどうやったら逃げおおせられるか、見当もつかない。

 一彦は無知の恐ろしさを実感しながらも、この先の事を考えて暗澹たる気持ちになった。

 頭を抱えて黙り込んだ一彦を前に輝明はじっと待った。

 それに気付いた一彦は続けてくれ、と輝明を促すと輝明はまた話しはじめた。

 

 物質界へ来てまずやらなければならない事は追手に自分の発する魔素を感知させない事だが、これは自らに魔素遮断魔法を施せば事足りる。問題は生まれて間もない一彦の方だ。

 一彦には来るべき時に備え「力継承の儀」を施した為に高い魔力が宿っており、それに伴い内包する魔素、その発生量も膨大だ。

 世界間転移の門、転移ポータルはその性質上、二地点間の魔素供給が行われれば経路を形成してしまう。

 一彦が発散する魔素を転移経路形成に使われる前に追手の目から隠さなければならなかった。

 しかし、魔素遮断魔法を施すという事は、成長ホルモンの一つとして魔素が使われる魔族にとっては身体的な成長を阻害する事に他ならない。

 そこで一彦に変化魔法を施し、人間として成長させる事にしたのだ。

 魔法自体は自身から発散される有り余っている魔素を利用している為、永続魔法として機能する。

 物質界に来た当初こそ、いかに人間社会に溶け込み生き延びるかを考えていたが、三十年に及ぶ平穏な生活と一彦の成長が儂を変えた。

 このまま人間として生きる事が一彦にとって一番の幸せなのではないか?

 その想いは一彦が結婚し、娘ができた事を通じてより一層強くなった。

 この想いは自分の中に封じておこう、そう思った。しかし――


「ベリアルに見つかった、という訳か」

 リリィは輝明の言葉に頷くと輝明に助力を請うた。

「ベリアルが暗殺者の手勢であるかは不明ですが、現時点で一彦さんが狙われている事は事実です。最強と名高いルシフェル様のデモンならばベリアル撃退も容易いはず。是非、お力をお貸し下さい」

 しかし、輝明はリリィの言葉に頷くでもなく考え込んだ。

「……妙な話だな」

「え? それはどういう……?」

 リリィの疑問に答える形で輝明が話し始めた。

「この三十年、魔界の追手が現れる事など一度として無かった。数ある異世界の中でもこの物質界は極めて魔素が薄い。こちらに来たとしても帰還の為のポータルを開くのは困難で、帰還を考える者の潜伏先としては考え難く、捜索先候補からは真っ先に外される筈だ。事実、今まで我等は奴等の目を免れていたのだからな。しかし、奴等はここに現れた。何故だ?」

「他の候補地を捜索し終えた、というのは?」

 一彦は正直、奴等が現れた理由などどうてもいい、と言い出したい気持ちだったが、輝明の助力を得る為にもぐっと堪えて会話に参加する。

 そんな一彦の気持ちを知ってか知らずか、少々得意げに輝明は話を続けた。

「ここより有力な候補地などごまんとある。それこそ星の数ほどな。五年で捜索できる範囲はその一割にも満たない」

 輝明は暗にここが見つかるとは考え難い、と言いたいようだ。

「ここの事は妻リリスにしか話しておらん。リリスが明かすにしても信用できる者に限られておるだろう。つまり――」

 輝明がリリィを見る。

 リリィは顔面蒼白だ。

「……奴等に尾けられたのかもしれんな」

「そ、そんな、わ、私、ルシフェル様達の潜伏先が知られたと聞いて…守らなきゃ、って、私、私……!」

 ……駄目だ。我慢できない。

 一度は不満の吐露を耐えた一彦だったが、リリィを追い詰めるような輝明の物言いに我慢できなかった。

「リリィちゃん、落ち着いて! 親父も憶測で軽々しく物を言うな! ひょっとしたらある程度の目星がついてたのかもしれないだろ!」

「何?」

 意外、とでも言いたげな輝明の視線が一彦を更に苛立たせた。

「だってそうだろ? 木を隠すなら森の中、とは言うが、俺達の場合、物質界は魔素が乏しくて森ですらない。むしろ、魔素が少ない環境で発散される魔素なんて、暗闇に浮かぶ篝火みたいなものだ。更に言えば、相手が親父の能力を知っていれば、魔素の乏しい環境からでも帰還は可能と考えるかもしれない。ならばこういう環境こそが潜伏先の候補として挙がるじゃないか!」

 こんな時によくもまあそんなに口が回る。

 我ながら呆れてしまう所だが、狼狽するリリィを見て、つい庇い立てをしたくなったのは事実。

 しかし、それが却って功を奏したようで――

「ふむ……。その可能性もなくはないな。リリィ、すまなかった」

「いえ……」

 リリィには対して慰めにもならなかったようだが、輝明に対しては効果があったようだ。

 輝明の攻め気が引いた今、ここぞとばかりに一彦が畳みかける。

「そもそも、奴等に見つかってしまった今、その原因を責めたところで事態は解決しない! 肝心なのは、俺達がこれからどうするか、だ!」

 悔やんでも過去は変えられない。

 変えられるのは、これから歩む未来だけ。

 そう、魔族である事を知った今、それを悩んだところで何も変わりはしない。

 魔族である上でこれからどう生き残るのか、それが肝心なんだ。

 輝明もそんな一彦に圧倒されたのか、しばらく黙った後にすまん、と一言、謝罪した。

 さて、と輝明は気分を切り替えるように声に出すと普段のトーンで淡々と状況を話し出した。

「何にせよ、今すぐの助力は無理だ。見ての通り、儂の身体は変化魔法により人間の肉体となっている。力を貸すにしても、先ずは変化魔法を解き、魔族の肉体に戻さねばならん。今すぐ魔法を解いても肉体の復元には二日弱程かかる。力を貸せるのは明日の深夜から明後日以降になるだろう」

 親父の助力を得られるまでは何とか自力で逃げ切るしかない。

 それまではこれが頼り、か……。

 一彦は胸元からペンダントを取り出すと物憂げに眺めた。

「そのペンダントはどうした?」

 不意にぶつけられた輝明の質問に一彦は戸惑いながらも答えた。

「これ? よく分からないけど、敵から俺を隠してくれるお守りだそうだ」

 ふむ、と輝明は一彦の首にかけられたペンダントに手を伸ばすと暫く手に取り観察した。

 一通り観察を終えると、輝明はリリィに向き直り質問をぶつけた。

「このペンダント、魔素遮断魔法の効果が付与されているな?」

 リリィは輝明の言葉を肯定してこくりと頷いた。

 あんな眺めた程度でこのペンダントがどういった代物か分かるのか……。

 改めて輝明が魔界の住人であった事を認識させられる。

 同時に、ペンダントにそんな魔法がかかっていた事にも納得した。

 でなければ、薫の家以降、奴等が姿を現さない理由がない。

 驚いたのは、この状況を受け入れている自分自身に対して、だ。

 意外に適応能力が高いのか?――違う。

 単に状況が突飛すぎて思考停止しているに過ぎない。

 だけど今はそれでいい。

 全ては今、この時を生き延びてからだ。

 一彦は思いつくままをリリィに尋ねた。

「リリィちゃん、このペンダントをかけていれば奴等に見つかる事はないんだよね? なら、ずっとこれを身に着けていれば逃げおおせるんじゃないのか?」

 それができるなら親父に無理をさせずに済む。

 そんな一彦の考えとは裏腹に、リリィは困惑の表情を浮かべて輝明を見た。

 それに対し、輝明は少し考えこんだ様子を見せたが、覚悟を決めたように口を開いた。

「一彦、元々、お前に宿る魔素と魔力は成長に伴い強力になるものだが、奴等との接触による影響なのか、今それが急上昇している。溢れ出る魔素をそのペンダントで抑えたとしてもそれは一時的なものだ。いずれそういった物では抑えられなくなるだろう」

 このままではいずれ見つかる、輝明はそう言っているのだ。

 今のままでは逃げ切れない。

 一彦は昨夜の事を思い出して背筋に寒くなった。

 あんな超常の場にあって、自分に一体何ができるというのか。

 どうやって生き延びればいい……?

「このまま逃げ切る事はできないのか……」

 リリィは苦悩する一彦を見るに忍びなかったが、顕在しつつあるもう一つの事実についてその重い口を開いて告げねばならなかった。

「もう一つ、辛い事を言わなければなりません……」

「辛い事?」

 リリィは言いづらそうに俯くが、意を決して口を開く。

「一彦さんの魔力と魔素発散量が強まった事に呼応して、愛理さんの身体にも同様の現象が起きています」

 一瞬、一彦には意味が分からなかったが、はっとしてリリィの肩を掴むと強い口調で問い質した。

「ペンダントの効果は!? 愛理は大丈夫なのか!?」

「だ、大丈夫です…。今はまだペンダントの効果を上回る程の魔力には達していません…。ですが……」

 このままではいずれ愛理も奴等に見つかってしまう。

 どうする? どうすればいい?

「一彦さん、い、痛いです……」

 一彦はリリィに声をかけられて、まだリリィ肩を掴んだままという事に気付いた。

 焦る気持ちから手に力が入っていたようだ。

 慌てて掴んだ肩から手を離す。

「ご、ごめん……」

 何か考えなくては。

 強い力で魔素が発散されるというのなら、より強い力でそれを抑え込むか?

「リリィちゃん、今より強い効果のペンダントを作るというのはどうだろう?」

「駄目だ」

 リリィが答えるよりも速い返答が別の方向から返ってきた。

 輝明だ。

「その方法は一時凌ぎに過ぎん。それに魔素遮断期間が長期の及ぶ場合、さっきも言った通り、魔素を成長ホルモンとして使う魔族の成長を著しく阻害する事になる。体調が不安定な愛理の場合、何が起こるか分からんぞ」

「くっ……」

 それじゃ本末転倒だ。

 八方塞がりの状態に一彦は押し黙る他なかった。

「……これから儂に施した変化魔法を解く。順調にいけば明後日の今頃には魔族に戻れる、筈だ」

 輝明の妙に歯切れの悪い物言いが気にかかった。

「親父、戻れる筈、というのはどういう意味なんだ?」

「言葉の通りだ。魔族の身体に戻る際に変化魔法に使用されていなかった、それまで堰き止められていた魔力と魔素が戻ってくる。その反動に肉体が耐えられなければ死ぬ。それだけの事だ」

 一彦は輝明がしれっと流すように言った衝撃の内容に驚き、慌てて聞き返した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! し、死ぬ!? そんな大事になるような事をさっきからずっと話していたのか!?」

 一彦の慌てぶりとは対照的に輝明は冷静に返す。

「肉体の組成を変える魔法だ。その行使にはそれなりのリスクを伴う。慌てるような事じゃない」

「そんな事言ったって……」

 死ぬかもしれないと言われて平静でいられる訳ないじゃないか。

 輝明は不安そうな顔をする一彦の様子に苦笑いしながら言葉を付け加えた。

「まぁ、待て。変化魔法を解く際には変異負担を軽減する薬品を使う。死亡するリスクはぐっと抑える事ができる筈だ」

 死亡リスクを軽減できると聞き、一瞬、ほっとした一彦だったが、すぐに気を取り直して突っ込んで問い詰めた。

「で、死亡する確率はどれくらいあるんだ?」

「……三割、といった所だな」

 戻れる、と確約しなかったのはそれが理由か。

「くそっ!」

 親父に頼るしかない、何の力もない自分が情けない。

 しかも親父の力に頼るには、死亡するリスクまで冒さなければならないなんて。

 借りを作るにしても、大きすぎるだろう!

「気にするな、一彦」

 苦悩する一彦にかけられたのは、輝明の優しい言葉だった。

「お前と愛理には、人間として穏やかな一生を送ってほしい。儂はそう思ってこの地で人間と魔族の研究を続けてきた。その甲斐あって、負担軽減薬を作り出す事ができたし、いずれはお前達が人間になりたいと望んだ時により安全な薬を渡す事ができるだろう。そんな未来を掴む為には、今を何としても生き延びなければならん。……どんなリスクがあろうともな」

「……っ!」

 頭では理解できても心情では納得しかねる一彦は無力感から拳を握りしめる他なかった。

 輝明は一彦のそんな様子には気付かぬ素振りで二人に部屋から出るように促した。

「さて、二人とも。儂には変化魔法の解除以外にもやらなければならない事が多い。そろそろ部屋から出てくれ。……薫さん達にもよろしくな」

 半ば強制的に部屋から出された二人を待っていたのは誠だ。

 誠は急かされるように出てきた二人に面食らったような顔をしたが、一彦の様子がおかしい事にすぐ気付いた。

「一彦、お前、大丈夫か? 顔色が真っ青だぞ?」

「あ? ああ……」

 誠の問いに曖昧な返事しかできない一彦に代わって答えたのはリリィだった。

「話の内容が内容でしたので。どこか一彦さんを休ませられる所はありませんか?」

 誠はリリィの言葉に頷くと、こっちだ、と二人を先導する形で歩き出した。


                  *


「ここならいいだろう――ほら、一彦。懐かしいだろ?」

 誠に案内されてやって来たのは、一彦の昔の自室だった。

 驚いた事に、部屋の中の殆どの物が一彦が住んでた当時のまま残されていた。

 勉強机やベッドに本棚、その他の趣味の物までがそのままだ。

 誠の言う通り、確かに懐かしいが今はそれに懐かしさを感じている気分じゃない。

 誠はうなだれた様子の一彦をベッドに座らせると、自分は勉強机の椅子を引き出し、後向きに跨って座ると一彦に問いかけた。

「で、何があった?」

 一彦は一瞬、躊躇してから話し始めたが、すぐにリリィに制止された。

「お父様と話した内容は私達にとって重大な機密事項です。第三者に話すのは……」

 一彦はそう話すリリィの目の中に微かな怖れを見た気がした。

 そんなリリィに対し、一彦は真っ直ぐに見つめ返して答えた。

「いや、話すよ。リリィちゃんにとっては第三者かもしれないが、俺にとっては昔からの友人で、今やこの事態に対処してくれる頼りになる仲間だ。その仲間に対して、この事態に関わる内容を隠し立てる真似はしたくない」

「……わかりました」

 リリィは半ば、一彦の真っ直ぐな視線に絆されるような形で自分の言い分を譲った。

 そんなリリィに一言、ありがとうと告げると、一彦は輝明と話した事を誠に順序立てて話した。

 輝明が魔界の王子ルシフェルで我が子共々、この物質界に逃れてきた事。何らかの方法で敵が輝明を追って現れた事。その影響が自分と愛理にも現れ、このまま隠れてやり過ごす事ができない事。輝明にはこの事態に対処する力があるが、それを取り戻す方法に命の危険がある事……。

 一彦が話している間、誠はずっと黙って耳を傾けていた。

 話し終えた後、一彦が口を開く。

「驚かないのか?」

 誠は苦笑いしながら答えた。

「仕事柄、異界の存在に触れる事は多いしな。リリィちゃんみたいな『意思疎通できる異界人』を目の当たりにすれば、お前がそうだって言われても納得はできる。別に何も変わりゃしないだろ?」

「たとえ人間じゃなくても、か?」

 自虐的に皮肉を飛ばす一彦だったが、間髪入れずに誠が答えた。

「そうだな。そんな風にいじけながら皮肉を飛ばす癖はガキの頃の昔のまんまだ。……一彦、お前はお前だ。何も変わりゃしない」

 誠からの本心の言葉に思わず胸が詰まる。

「……すまない」

「『ありがとう』って言えないあたり、ホントに変わらねえよな!」

 誠はそう言って大声で笑った。

「さて、と。気分転換もできた事だし、今後の事でも話し合うとしますか」

 頭が多少クリアになった所で、三人で今後の事を話し合う事となった。

 その結果、輝明が力を取り戻すまでの間、一彦と愛理の身の処し方が問題になった。

「順調にいけば、明日の夜中頃には親父さんを当てにできるが、それまでが問題だなぁ」

「そうだな」

 護符の効果もいつまで保つかわからないし、勿論、輝明を当てにする事はできない。

 その状況下で、いざという時に自分の身を守る手段を講じなければならない。

 となると――

「……リリィちゃん、もし俺が親父と同じように魔族の身体になれば魔法を使えるようになるのか?」

「――! おい、一彦!」

 驚いて声を荒げる誠を手で制すると、一彦はリリィの返答をじっと待った。

 リリィは一瞬、迷いを見せたが、一彦を真っ直ぐ見据えて答えた。

「……使えます。ですが、それは感覚的に使える程度の物でベリアルとの戦闘に耐える物とは思えません。例えば、泳ぎを教わって訓練した者とそうでない者とでは泳ぐ速さや水の中での挙動が全く違うでしょう?」

 使い物にはならないか……。

 自分がベリアルに対抗できるなら親父にも負担をかけずに済む。

 そう思っての申し出だったのだが、かなり厳しいと考えた方がよさそうだ。

「一彦さん……」

 リリィが神妙な面持ちでこっちを見ている。

 輝明の代わりに自分が、と言い出しかねないと心配しているのだろう。

 一彦は苦笑いして弁明した。

「分かってる。親父の代わりに、なんて無茶は言わないよ」

 一彦のその言葉に、リリィと誠は胸を撫で下ろした。

「……無茶はよせ。奥さんと娘、二人を守らなきゃ、って気持ちは分からんでもないが」

 ほっとした誠はおもむろに机の棚に飾られてたモデルガンに手を伸ばした。

 子供の頃読んでた探偵漫画の主人公が使っていた拳銃と同じ型の6連装リボルバーのモデルガン。

 誠はそれを中程で開いて弾倉を取り出すと、またそれを戻すといった手遊びをしながら考え込むように呟いた。

「人間のままで奴等に対抗できる力が必要となると、何か武器が必要だよな……」

 一彦は誠の呟きに呆れたように反論した。

「武器? 武器があったって、相手は巨大なデモンだ。人間サイズの武器なんか豆鉄砲――」

 いや、ちょっと待て。

 相手がデモンを持っているといっても、四六時中それに乗り込んでいる訳じゃない。

 むしろ、食事や睡眠といった日常生活の為に降りている時の方が断然多い筈だ。

「……デモンに乗っていない時なら有効かもしれないな」

「そうだろ!」

 我が意を得たりとばかりに得意げな顔で親指を立てる誠。

「それで、誠さんが手にしている物が、こちらの世界の武器なんですか?」

 リリィが興味深そうに見ながら誠に聞いた。

 それに対して誠は今までのテンションが嘘みたい冷静になって答えた。

「その模型だな。実物は――」

 普段の訓練で本物を手にしてるせいか、モデルガンと実銃の違いを指摘しながら簡単に、しかし正確に銃の仕組みをレクチャーした。冷静に答えている分、聞いている方も理解しやすい。

 それもあってか、リリィも興味深げにカチャカチャとモデルガンを触っていた。

 と、リリィが一彦の方に振り返った。

 腰から引き抜いたらしき短剣を手にして。

 ぎょっと目を剥く一彦だったが、何か言いたげなリリィの様子に気持ちを落ち着かせると、リリィの口から言葉が出てくるのを待った。

「一彦さんさえよろしければ、これを一彦さんの武器に作り変えたいと思うのですが……」

「武器に? 別に構わないよ。是非、やってほしいくらいだけど……?」

 一彦は躊躇している様子のリリィが気にかかった。

「何か迷っている事でも?」

 その言葉にリリィは申し訳なさそうに答える。

「ここに残されているという事は、子供の頃の大切な思い出の品なのではないか、と」

 一彦は首を横に振った。

「気にしなくていいよ。大切なのは物じゃなくて思い出だ。……薫さんの受け売りだけどね」

 そう言って笑うとリリィの口元も綻んだ。

「では、遠慮なく魔法を使わせて頂きますね!」

 リリィは短剣をモデルガンの上に突き刺す様に構えると、魔法を使おうと精神を集中し始めた。

「あっ!? ちょっと待って!」

 一彦は大事な事を思い出して、リリィの魔法を中断させた。

「はい、どうされましたか?」

 リリィは一彦の制止にきょとんとした様子で魔法を取りやめると小首を傾げた。

 一彦は自分の中に生じた疑問が魔法を中断させた理由であるとして、その疑問をリリィにぶつけてみた。

「魔法を使ったら、その時の魔素の反応でベリアル達に気付かれるんじゃないのか?」

 そう、最も恐れたのは魔素の反応だ。

 リリィはこの世界は魔素が薄いと言った。だから、俺を見つける事が出来た、とも。

 そんな世界で魔法を使おうものなら、その魔素の反応は追跡者にとっては格好の目印だ。

 ……今、親父に目を付けられる訳にはいかない。

「大丈夫です」

 一彦の心配をよそに、リリィは即座に否定した。

 即座の否定に対し、逆のその理由が気にかかる。

「どうしてそう言い切れる?」

「家の敷地に入った時の事を覚えていますか?」

「ああ、覚えてるよ」

 敷地に入った途端、リリィは急に車窓に飛び付き、キョロキョロと周りを見回していた。

 様子がおかしかったからよく覚えている。

 しかしあの時、どうしたのか尋ねても、何でもありません、としか返ってこなかったが……。

 リリィは、魔法に関わる事なのであの時はまだ言えなかったのですが、と前置きした上で魔法を使っても大丈夫な理由を話した。

「この家の敷地全体に魔素の感知を遮断する結界が施されている様なのです。事実、ルシフェル様から発せられる魔素は敷地の外からは感知できませんでした」

 成程、今ならあの時のリリィの様子にも納得できる。

 いないと思っていた親父の存在を急に感じられたんだから。

「恐らく、ルシフェル様も魔法を用いた作業をなさる事もあるのでしょう。追手を警戒しておられるが故、このような結界を張り巡らせているのだと思います」

 追手から身を隠す為に親父が準備した結界だ。

 少々の魔法でベリアル達に勘付かれる可能性は低いと考えていいだろう。

 一彦は納得した様子で改めてリリィに武器の製作を頼んだ。

「……わかった。リリィちゃん、武器の方、よろしく頼む」

「畏まりました――《高速詠唱ファストチャント》!」

 机に置かれたモデルガン。

 その上で真下に向けて構えられた短剣。

 リリィの口から高周波音が漏れると短剣が液体の様に姿を変え、モデルガンの上に流れ落ちた。

 次の瞬間、その液体は素早く蛇の様にモデルガンに絡みつくと、モデルガンは灰銀色に鈍く輝く拳銃に姿を変えていた。

 リリィはその拳銃を手に取ると一彦に向かって差し出した。

「こちらが一彦さんの武器になります。魔法銃、といった所でしょうか」

「魔法銃?」

 一彦の問いかけに対し、リリィは銃の弾倉を取り出すとその中から弾丸を引き抜き、一彦の手を取ると、その弾丸を手のひらに置いた。

「?」

 見ろ、という事か?

 一彦は置かれた弾丸を手に取り、見回してみる。

「普通の弾丸とは少し違うね」

 ぱっと見、普通の弾丸の様に見えるが、弾丸の尻の部分、雷管やスタンプの場所にそれが無く、代わりに小さな魔法陣が描かれていた。

「そこに撃鉄部分に施された魔法が触れる事で、弾丸に封じられた魔法が弾頭部分から発射されます。発射された魔法はバレル内で渦を巻くように回転、及び加速する事で貫通力を増すと共に防護障壁魔法を打ち消す魔法を纏わせます。そうして打ち出された魔法弾は敵防護障壁を跳ね除けて敵体内に潜り込み、その深部で魔法本来の威力を解放、内部から敵を破壊します」

 聞くだけでもエグい。

「ぼ、暴発が怖いね、は、はは……」

 一彦は自衛と言うには過激過ぎる武器を提示された事に、そう言って苦笑いするしかなかった。

 しかし、その様子を意に介さないリリィは真顔で首を横に振って更に説明を続けた。

「暴発はしません。この銃は所持者の一彦さんが『目標を定め』、その『意志で撃つ』のです――」

 リリィが言うには、俺が撃つと決めた時でないと魔法弾は発射されないし、その時に定めた目標にしか魔法弾は効果を発揮しないらしい。

 こちらの実銃の安全装置は引金を引けなくするといった原始的な物であるのに対し、必要時にしか撃てない上に誤射も防止するとは、何というテクノロジーの高さだろう。

 一彦は驚嘆すると共に、ある恐れを抱いた。

「……なぁ、リリィちゃん。あの巨人、デモンって言ったっけ? あれって魔界では魔族なら誰でも普通に持っているような物なのか?」

 一彦の問いに対し、リリィは首を横に振って答えた。

「いえ、デモンは王と呼ばれる存在より王子とそれに準じる者に供与される物です。使われている技術の高さも相まって、量産できるとは思えません。少なくとも、私が魔界にいる間にその様な話は聞いた事がありませんでした」

 リリィのその返答に一彦は胸を撫で下ろした。

 デモンが大群を以って自分達に襲い掛かってくる事は無さそうだ。

 と、同時に新たな疑問も湧き上がる。

 魔族の高い技術を以って生み出されたこの魔法銃。その魔族の高い技術を以ってしても量産できないデモン。そんな代物を供与する王と呼ばれる存在とは何者なのか。そしてその目的は……?

 一彦はかぶりを振ってその考えを頭から追い出した。

 聞けば聞くほど新たな疑問が湧いてしまう。

 今は余計な事は考えない!

 この銃で俺と家族を守る事だけを考えるんだ!

 一彦は上着を脱ぐと、机の引出しからモデルガン用のショルダーホルスターを取り出して身に付けた。

 左脇の下に位置するホルスターに魔法銃を突っ込むと、意外と違和感なく収まった。

 一彦は上着を着直しながらリリィを礼を言った。

「本当に助かったよ。これでいざという時に家族を守れる。……使わないに越した事はないけどね」

 苦笑いする一彦に対し、やはりリリィも同じように苦笑いして返した。

 戦いを避けられるなら、それに越した事はない。

 しかし、避けられないなら――やるしかないんだ。

「……よし、んじゃ、帰るか。あまり遅くなったら愛理ちゃん達も心配するだろうし」

 一彦の表情を見て何かを察したのか、誠は椅子から立ち上がるとさっさと帰り支度を始めた。

 その様子に慌てたのはリリィだ。

「え、えっ……? もう帰るんですか? せっかく久々の親子対面なのに……」

 誠は帰り支度の手を止める事なく答える。

「今後の対策は親父さんに一任。一応の次善策はたった今、一彦の胸元に。最悪の事態が発生した場合の策を戻って講じなきゃなんねぇ上にここでできる事はもう何もない。となれば、一刻も早く戻る他ないだろ?」

「そ、それはそうですが……」

 誠の反論の余地もない早口論法にリリィもたじたじだったが、それでも心配そうに一彦に視線を送る。

 一彦はそんなリリィに対して笑って答えた。

「俺は大丈夫。親父も今、自分がすべき事をやってる。俺達も自分がすべき事、できる事をやろう。その先の事はその時に考えるさ」

「そういう事♪」

 誠はそう言いながらバッグに纏めた荷物を背負い上げた。

 そのまま一彦達は帰る前の挨拶に、と輝明の自室に立ち寄った。

 コンコンとノックをしてから声をかける。

「親父、いるか?」

「いるにはいるが、中は散らかってるんでな。そこで用件を言ってくれ」

 中からがたがたごそごそと様々な音がする。

 事が事だ。準備にも色々とあるのだろう。

 そう思うと途端に申し訳ない気持ちで一杯になった。

「親父、俺達はそろそろ帰るよ。今日は色々とすまなかった。……あと、あまり無茶するなよ」

「息子とその家族の為だ。無茶もする」

 その返答に困惑する一彦。

「おい、親父……」

「お前にもいずれ分かる時がくる。……もう遅くなる。気をつけて帰るんだぞ」

 気を付けて帰れ、って、俺はもういい大人だぞ? そんな事、わざわざ言われる事じゃない。

 一彦はため息交じりに反発した。

「いい加減、子供扱いはやめてくれ。……じゃあ、またな」

 一彦達はそう言って輝明の部屋を後にした。

「またな、か……」

 輝明は一彦のその言葉を繰り返した。

 一彦は気づいていなかった。

 自分が「再会を求める言葉」を口にしていた事に。

「こりゃ、是が非でも失敗する訳にはいかんな……!」

 自分の言葉が輝明の目に強い意志の光を灯した事にも気付かず、一彦達一行は輝明宅を後にした。

 

                  *

 

 本部まで目と鼻の先という所で、誠が喉が渇いたと手近な自販機のある路肩に車を寄せた。

 誠は車を降りると携帯電話を取り出し、何やら電話をしながら自販機に向かうと飲み物を何本か買って戻ってきた。

「ほら、コーヒー。甘いやつでいいんだろ?」

「ああ。サンキュ、助かる」

 一彦が差し出された缶コーヒーを受け取ると、誠は、その口癖、部活のノリかよ、と笑った。

 誠はそのまま後部座席の方に振り向き、

「はい、リリィちゃんにはミルクティー――って、寝てる……」

 リリィは誠の声に反応する事もなく、すぅすぅと寝息を立てていた。

 無理もない。

 慣れないこっちの環境だというのに、昨日はブエル相手に大立ち回り、夜は愛理の面倒を見てもらい、明ければ自国の王子様と面会だ。

「寝かせておいてあげよう」

 誠は一彦の言葉に頷くと静かに前を向いて運転席に座り直すと、自分の缶コーヒーを開けながら一彦に話しかけた。

「本部の方にもうしばらくしたら到着するって連絡を入れておいた。……お前、大丈夫か?」

「何が?」

 コーヒーを一口飲んでとぼけてみせた。

 が、すぐに誠から呆れたような口調が飛んできた。

「何が、じゃねぇだろ。お前、自分が思ってる以上に顔に出るからな? 俺にバレるくらいだから、奥さんの前に出たら何か悩みを抱えてるのなんて一発でバレるぞ」

 悩み――言うまでもなく敵の目的と自分の出自の事だ。

 しかし、何て言えばいい?

 実は親父がリリィの暮らす魔界の王子で、敵はその命を狙ってやって来た。

 それ故、血縁の俺と愛理も同様に狙われる事になったって?

 ……リリィの存在がなければ一笑に伏されるな。

 問題は狙われる理由だ。

 俺と愛理が狙われる理由が本当に親父の血縁という事であるなら、現時点で問題の根源を取り除く事は出来ない。

 何らかの方法で交渉の場を持ち、その着地点を見出さねば。

 それができなければ――

 一彦は上着の上からそっと銃に触れた。

 その銃の金属的な冷たさは一彦の背筋をぞくりとさせた。

「――っ!? 冷てぇっ!」

「やっと反応したか。ぼーっとしてんじゃねえよ」

 誠が一彦の首筋に当てていたミルクティーの缶を離すと、一彦に向かって放り投げた。

 一彦は慌ててそれを受け止める。

「いきなり何すんだよ」

「いきなり、じゃねえよ。『そんな悩み抱えた顔して大丈夫か?』って聞いたら、黙り込んじまったのはお前だろうが」

 そういやそうだ。

 さっき、そんな顔だと薫さんにバレるって言われて考え込んでしまったんだった。

 思い当たる節を見せる一彦に、誠は呆れてため息をついた。

「どうせお前の事だから、一人で先走って、どうにもならねえ事考え込んでたんだろ」

 図星なだけに、ぐうの音も出ない。

 誠はそんな事は想定内とばかりに言葉を継いだ。

「敵の目的の正確な所は分からねえ。親父さんなのか、親父さんの持つ何かなのか、お前ら親子なのか、そもそも何故、親父さんを追ってきたのかさえもな。だから明日、リリィちゃんにも持ってる情報を全部出してもらって、みんなで今後の対策を練ろうぜ。一人で考えたって碌な事になりゃしねえよ」

 下手な考え、休むに似たり、か。

 一人の、特に平静でない人間の頭じゃ、いい考えなど浮かぶ筈もない。

 誠に言われて、少し気が楽になった。

 現状を踏まえて、皆で対策を練る。

 その為に自分の知る情報を全てその場に出す。

 そうすれば、その時点での最高の案が出来上がるはず。細かい事はその時に考えよう。

「……少しはマシな顔になったな。っと、電話みてぇだ――」

 一彦の表情を見て車を出そうとした誠だったが、その時、丁度かかってきた電話を見て固まった。

 だが、誠はすぐに我に返るとその電話を切って携帯電話をポケットにしまった。

「電話、いいのか?」

 誠は一彦の問いに手をパタパタと振って答える。

「いい、いい。昔の知り合いだ。後でこっちからかけ直す」

「リリィちゃん寝てるし、少しくらい待つぞ?」

 電話一本かける時間くらい、大した事はないだろう。

 しかし、誠は頑なだった。

「いいんだよ、後で。――じゃ、車出すぞ」

「……ああ、頼む」

 釈然としないまま、車は道路へスルスルと滑り出した。

 

 一彦達が本部に戻ってくると薫が出迎えに来ていた。

「夢島さんから『もうすぐ戻る』って連絡受けたから」

 どうやら、さっき車を停めた時に誠が電話してたのは、この為らしい。

 そういう根回しが上手いのも全くもって誠らしいというべきか。

「今日、愛理は学校に行ってきたんでしょ? 何か変化あった?」

 昨日の今日だ。気が動転してなければいいが。

「それが……何もないの」

「何も?」

 薫の返答に思わず鸚鵡返しをしてしまう。

 今朝、薫さんが言ってたように、昨日の事は「夢の出来事」と思っているのだろうか。

 ショックが大きくて思い出せないというなら、それに越した事はない。

 しかし、それにしても――

「何で今、エプロン姿なの?」

 出迎えに来た薫は何故かエプロンを身に着けていた。

「ここの厨房を借りて夕食の準備をしてたのよ。ほら、昨日は夕食台無しになっちゃったじゃない」

 薫によると、厨房は昼食の時にしか使われない為か、あっさりと使用許可が出たらしい。

 そんなバカな。

 大きな施設の共用設備。そうそう使用許可が出る訳がない。

 恐らく、これも誠が根回しして許可を取ったんだろう。

「もう夕食の時間か……」

 薫の言葉を受けて腕時計に目をやると、午後五時半を回ったところだった。

 ずいぶん実家に長居してしまったらしい。

「お父さーん! おかえりなさーい!」

 自分を呼ぶ声に振り向くと、愛理が薫と同じくエプロン姿で駆け寄ってきていた。

 確かに薫の言う通り、昨晩、久々にあった時の様に溌剌とした笑顔だ。

「お父さんに美味しいハンバーグを作ってあげるんだーって張り切ってたんだから」

 そう耳打ちする薫の言葉に一彦は胸が熱くなった。

 駆け寄ってきた愛理を抱き上げると一彦は嬉しさを抑えきれずに聞き返した。

「愛理、お父さんの為にハンバーグ作ってくれるんだって?」

 その言葉に愛理はぷうっと頬を膨らませると薫をにらんだ。

「もう! お母さん、ひどいよ。何でばらしちゃうの?」

 愛理の怒り方が可愛くて思わず笑顔になる。

 一彦は愛理の頭に手をやり、軽く撫でた。

 細く滑らかで陽だまりを思わせる温かさ。

 ……これが失われる事があってはならない。

「――お父さん?」

 愛理の言葉に一彦ははっと我に返った。

「……何でもないよ。ほら、その様子だとまだ料理の途中なんだろ? お父さん、お腹ぺこぺこだよ。早く愛理の作ったハンバーグが食べたいなぁ!」

 おどけた一彦が面白かったのか、愛理はころころと笑った。

「わかった。すぐにおいしいの、作ってあげるから!」

 早くきてねー、と言って駆けだす愛理に一彦は手を振るとそのままのポーズで薫に問い掛けた。

「心配かけた、かな?」

「そうね。でも、今の方がもっと心配」

 さらりと話す薫の言葉に一彦の心臓は跳ね上がった。

 驚いて振り向くと、薫は当然でしょ、と言わんばかりの表情で口を開いた。

「何かあったって顔に書いてるもの。今更、驚きもしないから全部話して」

 ……すぐにバレるという誠の指摘は正しかったらしい。

 一彦は大きくため息を一つ吐くと意を決して話し始めた。自分が魔族である事を知った事、更にその血筋が魔界の権力者に連なる物であり、ゆえあって魔界より落ち延びてきた事、その事が敵に知られ、愛理共々、命の危険に晒されている事……。

 薫は一彦の話をただ黙ってじっと聞いていた。

 一彦がひとしきり話し切ると、薫は何気ない会話でもするように話を切り出した。

「それで? 魔族だったら短命って事情でもあるの?」

「えっ!?」

 どうだろう? そんな事、考える余裕もなかった。

 実際の所はよく分からないが、親父も今の所は健康に不安もなく存命だ。

「親父の健康状態から考えて、短命って事はないと思う」

 一彦の返答に、薫の表情は明るくなった。

「あー、よかった! ちゃんと愛理が大人になるのを見届けられそうで! ――あ、もちろん、貴方も愛理の成長を見届けられそうでよかったと思ってるわよ?」

 俺への心配はまるで付け足しみたいだな……。

 しかし、一彦は知っている。そういう時は得てして本心である場合が多い事を。

 薫自身、気付いてはいないが、一彦もそれを明かすつもりはない。

 言わぬが花、というやつだ。

 微笑む一彦に気付かず、薫は明るい口調で話を続ける。

「そっかー。魔族の権力者ねぇ。世が世なら私は貴婦人、愛理はプリンセスって訳ね?」

「……そういう事になるな」

 そう答える一彦の表情は幾分暗い。

 自分の軽口も一彦の暗い表情に効果がないと見るや、薫は軽くため息を吐いて一転、真面目な表情で一彦に問いかけた。

「で、愛理には何て伝えるつもりなの?」

 その重い言葉に思わず胸が詰まる。

 命の危険だけじゃなく人間ですらない事実を前に、愛理を傷付ける事なく話す。その為には何をどう伝えればいい?

「……わからない」

 一彦にはそう絞り出すのがやっとだった。

 それに対し、薫は「でしょうね」と予想していたかのように返すと、一彦を正面から見据えて口を開いた。

「いいわ。今聞いた事は私から愛理に話してあげる」

 その言葉に驚いて声を上げそうになった一彦だったが、薫に指を突き付けられ思わず口を噤んだ。

「ただし、貴方は自分の身の振り方をしっかりと考えて。……色々あるでしょうから」

 そう言い残すと薫は愛理の後を追うように調理場へと向かった。

 色々、か……。

 昨日の騒ぎで有耶無耶になってたが、やっぱり離婚の事なんだろうな……。

 一彦は、のしかかる様々な問題に鬱々としながらもしばらくその場に立ち尽くしていたが、愛理を待たせているのを思い出し、二階の隊員用食堂に向かった。

「あっ、お父さん! すぐにじゅんびするから、そこにすわって待ってて!」

 そこ、と示された先のテーブルの中央には少し段になるように足をつけた円形のガラス板が置かれ、その上には綺麗にフラワーリースが飾られていた。

 更に、そのリースを囲うようにして各席にランチョンマットが敷かれており、とても食堂とは思えない洒落た雰囲気を醸し出していた。

「おっ、旦那。戻ってきたんだな」

 声に振り返ると大神が他の席のセッティングを手伝っていた。

「ああ、たった今、帰って来た所だ。誠もすぐに来ると思う」

 へぇ、そうかい、と話を切り上げようとする大神に、一彦は気になっている事を尋ねてみた。

「今日の登校中、愛理の様子はどうだった?」

「車の中じゃ黙って静かに過ごしてたくらいだが……何か気になる事でも?」

「いや、変わった様子がないならいいんだ」

 少し考えすぎか?

 薫さんの言う通り、確かに愛理自身に変わった様子はなさそうだ。

 昨日の今日だから気が動転しているに違いない、という先入観を持っているのかもしれない。

 せっかく愛理が夕食に腕を振るってくれるんだ。

 こちらも万全の準備を整えるとしよう。

「大神さん、俺も手伝うよ。食器、半分分けてくれ」

「はいよ」

 一彦は大神からナイフとフォークを半分受け取ると、まだ準備ができていない席に並べ始めた。

 その手を止める事なく、大神に話しかける。

「ところで大神さん、どうして今日はこんな事やってるんだ?」

 どう考えても食器を並べるのはA.M.A.P.隊員の仕事じゃない。

「あー……、そりゃ、昨夜の晩餐を台無しにした責任感というか……」

 大神はばつが悪そうに頭を掻いた。

 それを言うなら俺も同じだ。

 俺が薫さんを訪ねたばっかりにあんな事が起こったんだから。

「じゃ、俺も連帯責任という事で」

「ははは」

 一彦と大神が軽口を叩いていると奥から厳しい叱責の声が飛んできた。

「おい、そこ! 何、無駄話をしている! そんな暇があったらさっさと食器を並べろ!」

 大神はその声に肩を竦めると、その声の主、麗華に向かって軽口を叩いた。

「へいへい、手を動かしますよー」

「まったく……」

 男二人がそそくさと作業に戻ると、薫が麗華に向かって遠慮がちに声をかけた。

「蘭城さん、ごめんなさい。食材や食器類の調達だけでなく、配膳のお手伝いまでしてくださるなんて。本当に何て言っていいか……」

 申し訳なさそうな薫とは対照的に、麗華はにこりと笑顔で答えた。

「いや、構わん。先程、ウチの大神が言ったようにそちらのパーティーを台無しにした一因はこちらにあるのだ。これくらいの事はさせてほしい。それに――」

 麗華は厨房で調理に勤しむ愛理を見て、顔を綻ばせた。

「彼女の作るハンバーグが楽しみでもあるのだ」

「でしたら、そのご期待に応えられると思います。愛理、主人の為に一生懸命練習してましたから」

 薫が自信たっぷりに答えると麗華は、楽しみだ、と笑顔を向けると作業の続きに戻った。

 程なくして食事の準備が整うと、一彦達は席に着いた。

 少し照明を落としてテーブル中央に配されたキャンドルに火を灯すと、テーブル飾りのフラワーリースと相まって一流レストランのような雰囲気を演出していた。

「はい、どうぞ。お父さん」

 愛理の手によって運ばれてきた目の前の皿には、艶々と輝くデミグラスソースのかかったハンバーグが載っていた。

 ぐぅうぅ……。

 湯気に乗って漂うソースの香りが鼻腔をくすぐり、胃袋を刺激する。

 強制的に想起させられた空腹感が口の中に向かって大量に唾液を分泌させ始めた。

 一彦はすぐにでも手を付けたい衝動を抑えるのに必死にならざるを得なかった。

「皆さん、料理は行き渡りましたね? ――では、どうぞ召し上がれ!」

「いただきます!」

 皆の嬉しそうな声が食堂に響く。

 一彦はナイフとフォークを手に取ると、ハンバーグを丁寧に切り分けて口に運んだ。

「――美味い!」

「ホント? 良かったぁ。お父さんに気に入ってもらえて」

 やや大袈裟な一彦の反応に対して、愛理はくすくすと笑いながら一彦の右隣の席に腰かけた。

「愛理、この人の舌を当てにしちゃダメよ。あなたが作った物だったら何でもそう言うんだから」

 薫がやや棘のある言い方をしながら一彦の左隣に座ると、目の前のハンバーグの一切れを口に運んだ。その直後、一彦の感想が真実である事を体感する。

「ん~~♪ 本当に美味しい! いつも作るハンバーグと違う!」

 一彦に輪をかけて大袈裟に驚く薫に愛理は堪え切れずにころころと笑った。

「二人とも、大げさだよ~。今日は使ってるざいりょうが良かったのと、肉ジュウが外に出ないようにふうしただけ」

 薫が機嫌良さそうに愛理の話に食いつく。

「えー、どんな工夫?」

「へへー、ヒミツー♪」

 やだー、教えてよー、と二人のじゃれ合うような会話を耳にしながら、一彦は料理を口に運ぶ。

 と、ガシャンと皿の割れる音が耳に入った。

 音の方、右隣の愛理のその向こうを見ると、大神がハンバーグを皿を床にひっくり返していた。

 向かい側の麗華が席を立つと落ちた料理の片づけに向かう。

「すまない、まだ志郎の右腕動作の微調整に不具合があるようだ。せっかくの料理を……」

 麗華は皿の大きな破片をまとめると、残りは手近にあった雑巾で落ちた料理ごと拭き取った。

 麗華の沈んだ声に薫が席を立ちながら答える。

「大丈夫ですよ。まだ材料は十分にありますから。ね、愛理? ……愛理?」

 返答のない愛理を不思議がる薫の声に愛理が振り返ると、その視線と目が合った。

 その瞬間、愛理は突然、廊下に向かって駆け出した。

「愛理っ!」

 一彦の制止の声にも耳を貸さず、愛理は真っ直ぐ廊下へと駆けていく。

「愛理、待ちなさい!」

 薫はそのまま愛理を追って廊下へと消えた。

 一彦もすぐに愛理の後を追いたい。追いたいが……足が動かない。

 さっきの愛理の目、全てを思い出した目だった。

 恐怖に慄く、あの愛理の目。

 二度とそんな目をさせたくはなかった。

 原因をもたらした俺が今、愛理の前に立てば愛理はどう思うだろう。

 そんな自身の思いが一彦自身の足を縛り付けていた。

「一彦さん!」

 自分を呼ぶ大声に弾かれて、思わずそちらを見る。

 そこにはリリィが険しい顔つきで立っていた。

「何を呆けているのですか! 早く愛理さんを追って下さい!」

「し、しかし、俺が行けば愛理は……」

 違う。それは言い訳だ。本当は――

「細かい事は後で! 今、怯えた自分の娘以上に大切な物などありはしません!」

「――っ!」

 リリィの言葉に背中を押され、一彦は全力で駆け出した。


「クソッ、本当に何やってるんだ、俺は!」

 愛理を怖がらせたくない――それが言い訳だと分かっていた。

 本当は自分が怖がっていたのだ。

 愛理に拒絶されるのを。

 ……父親として情けない話だ。

 愛理が怖がっているなら、抱きしめてただ一言、

 『お父さんがついてるから大丈夫』と、伝えるだけでいいのだ。

 愛理を見つけたら抱きしめてやろう。

 そう思い、一彦は廊下に繋がる扉をくぐった。

 しばらく廊下を真っ直ぐ進むと、その先から人の話し声が微かに聞こえてくる。

「愛理、急に飛び出してどうしたの? 心配するじゃない」

「ごめんなさい」

 間違いない。愛理と薫だ。

 廊下の終わり、右に曲がった階段前付近で愛理とその前に屈みこんでいる薫を見つけた。

 二人に声をかけようとしたその時、

「こわかったの」

 愛理のその言葉に一彦の足は止まった。思わず廊下の陰に身を隠す。

「何も怖い事なんて無いわ。みんな、いるじゃない」

「ちがうの、みんないるからこわかったの」

 えっ……? どういう意味だろう……?

 薫も一彦も困惑していると、ぽつりぽつりと愛理は一生懸命に言葉を選びながら話しはじめた。


 わたしが小さいころ、お父さんはやさしくて、よくいっしょにいてくれた。

 でも、今はおしごとがタイヘンみたいで顔もあわせられなくて。

 きのう、やっといっしょにごはんが食べられると思ったらうれしくて。

 おしごとの時間が少なくなってもいいから、もっといっしょにいられたらいいな、って考えたらこわい事が起こって……。そんな事、考えたからが当たったのかな?

 さっきもお父さんがわたしとお母さんが作ったハンバーグを食べてる時、つい同じ事を考えちゃったら、お皿が割れて……。ここの人たちをきのうみたいなこわい目にあわせちゃうと思ってこわくなったの……。


 あの怯えた目は『周りを巻き込む事への恐怖』だったのか……。

 自分に対する拒絶の目でなくてどこかほっとする一彦だったが、その反面、そう感じる自分の卑しさに嫌悪する自分もまたそこにいた。

 そんな一彦の事など露知らず、薫は何も言わずに愛理をぎゅっと抱きしめた。

「お母さん……?」

 薫の行動に戸惑う愛理だったが、薫は構わず抱きしめ続けた。

「――いいの」

「え?」

 愛理が聞き返すと、薫は抱きしめていた腕を離して、今度は愛理の肩を掴む。

 そのままの姿勢で真っ直ぐに愛理の目を見て言った。

「愛理は自分が好きな事を考えていいの。昨日の事はそれが原因じゃないんだから。……これから話す事は全て本当の事。よく聞いてね」

 薫はそう前置きすると、一つ深呼吸して一彦から聞いた事を全て包み隠さず話した。

 愛理は全てが理解できる訳ではないながらも、薫の口から話される内容を理解しようと一生懸命に耳を傾けていた。

 薫が全てを話し終えた後、愛理はぽつりと自分の疑問を口にした。

「……わたしがだからいけないの?」

 ――っ!

 その言葉に一彦の心臓は跳ね上がり、締め付けられる様な思いがした。

 俺が魔族でなかったなら、こんな事に二人を巻き込む事も、愛理が出自で思い悩む事もなかった。

 俺が魔族でなかったら。

 そう思えば思うほどに、二人に対して申し訳なく思う気持ちが募る。

 それ故、答えられずにすまないと詫びるしかないその問いを突き付けられるのが怖かったのだ。

「いけない事なんて、何一つない!」

 迷いなく発せられた薫の言葉に一彦は顔を上げた。

「どういう生まれかなんて関係ないの。昨日の事も愛理は勿論、お父さんだって何も悪くない。愛理もお父さんも家族の幸せを願って普通に、でも一生懸命に生きてる。そうでしょう?」

 優しく問いかける薫の言葉に愛理は小さく頷く。

「悪いのは愛理達を狙ってるヤツに決まってる。大丈夫! 私とお父さんが必ず愛理を守ってあげるからね!」

「~~っ! お母さぁ~~ん! うわぁ~~ん!」

 薫が愛理を抱きしめると愛理は声を上げた泣いた。

「……っ!」

 一彦も廊下の陰で同様に声を押し殺して泣いていた。

 その心は千々に乱れていた。

 愛理に今まで寂しい思いをさせていた事、愛理が狙われる原因が自分の血筋である事、愛理と薫を巻き込んだが故に半ば否定的に思っていた魔族であるという自身の存在を「何も悪くない」と肯定してもらえた事、何よりその言葉を無意識的に望んでいた事を、その言葉を聞いた時に自覚した。

 その瞬間、立て続けに起こった自身を取り巻く出来事に凍り付いていた一彦の心は、一気に氷解し、涙となってあふれ出た。

 今すぐにここから出て行って二人を抱きしめてやりたい。

 しかしそこは情けない泣き顔を二人に見せたくないという薄っぺらでちっぽけな、だが男としては大切なプライドというものが邪魔をする。

「流石に鼻水まみれのその顔は二人に見せられねぇよな」

 小声の言葉と共にポケットティッシュが後ろから肩越しに差し出された。

 慌てて振り返るとそこには口に人差し指を当てた格好の誠が立っていた。

 誠は無言で親指を背後にある食堂のスタッフルームに向ける。二人にしてやろうぜ、と言いたいらしい。

 一彦はティッシュを受け取るとうなずいて二人に気付かれないようにそっとその場を後にした。


 スタッフルームに入ると、目の前に仕切り壁で区切られた着替えスペースがあり、右手には飲み物の自動販売機と小さなテーブルセットが置かれ、休憩ができるようになっていた。

 今日は食堂を借り切ったせいか、人の気配はない。

 誠が右手の休憩スペースを指差すので、そっちの手近な椅子に座った。

 ティッシュを取り出し、盛大にはなをかむ。一度では取り切れず、もう一度。

 と、無言で目の前のテーブル上にことり、と缶コーヒーが無言で置かれた。

 大の男が泣き顔を見られて恥ずかしいのを察しているのだろう。

 誠はティッシュを差し出して以降、ここまでずっと無言で通していた。

 そう気を遣われると却って恥ずかしさが増すというものだ。

 一彦は照れくささを誤魔化すようにもう一度、洟をかむと誠に尋ねた。

「それで、お前の方は大丈夫なのか?」

「何の事だ?」

 誠は自分の缶コーヒーを開けて一口飲むと、とぼけてそう答えた。

 しれっと答えるその態度にこそ、嘘がある。

「とぼけるな。さっき、車の中でお前の携帯に入った連絡の事だ」

 あの時の青ざめた表情はただ事じゃない。

 誠は一彦の真剣な表情を向けられ、誤魔化しきれないと察して口を割った。

「……古い知り合いからの頼まれ事だ。大した事じゃねぇ」

 軽口とは裏腹にその表情は深刻だ。

 しかし、それ以上を語ろうとしない相手に、かけてやれる言葉はたかが知れている。

「……助けが必要なら言ってくれ。いつでも力を貸すぞ」

 何て月並みな言葉だ。自分の語彙力の無さに我ながら情けなくなってくる。

 しかし、だ。

 俺も誠も子供じゃない。今まで生きてきた中で色々なもあるだろう。

 今は『大した事はない』という誠の言葉を信じるしかないが、本当に苦しいなら力になってやりたい、というのは紛れもない俺の本心だ。

 そんな一彦の内心を知ってか知らずか、誠はハッと笑うと軽口を叩いた。

「バカヤロ、力を貸すのは今、俺が、お前に、じゃねぇか。寝ぼけんなよ」

 そううそぶいた誠の表情はいつもと同じに戻っていた。

 いつもと同じ。何でもない。そう見せたいならそれに乗るだけだ。

「違いない」

 一彦はそう言って苦笑するとテーブルの上の缶コーヒーを開けて一気に飲み干した。

 思いの他に苦味が強く、少しナーバスだった気分を奮い立たせるに十分だった。

 目を白黒させる一彦に誠は悪戯っぽく笑う。

「たまにはブラックもいいだろ?」

「……たまには、な」

 一彦はやられたとばかりに肩を竦め、どちらからとなく二人で笑った。

「そろそろ戻るか。二人も戻ってる頃だろ」

 誠はそう言ってテーブルの上の空き缶を空き缶入れに放り投げると二つとも見事に入った。

「そうだな。そろそろ戻ろう」

 一彦は驚きもせずに席を立つ。

「一彦、お前、もう少し何か反応してもいいんじゃねぇの?」

 誠は一彦の反応の無さに不満げだ。

 が、一彦も負けずに言い返す。

「今更だろ。それ、何度見せられたと思ってんだ?」

 学生の頃にさんざん見せられた一彦にとっては当たり前の事過ぎて反応しようもない。

 むしろ、そのコントロールの良さに『バスケ部の方がいいんじゃないか?』と言ったくらいだ。

「そういやそうだったわ。んじゃ、戻るか」

 あっけらかんと笑う誠に一彦も思わずつられる。

 一彦達は入った時とは全く違う表情でスタッフルームを後にした。


 一彦と誠が食堂に戻ってくると、リリィ、大神、麗華の三人が片付けをしていた。

 リリィが二人を見つけると食堂カウンターの上に置いてあった紙製の容器を二つ持って駆け寄ってきた。

「愛理ちゃんが疲れたようなので食事会は早めに切り上げる事になりました。お二人にはこれを」

 そう言って手に持った容器を二人に差し出す。

 見ると名前を書かれているので、自分の名前が書かれた容器を受け取った。

「今日の夕食をお弁当にしてあります。後で召し上がってください」

 開けると、温め直されたのか、食欲をそそる香りがふわっと漂い、ご飯とハンバーグ、それに加えてサラダ類が彩りよく納められている光景が目に飛び込んできた。

 ハンバーグは一彦が食べた一口分が欠けていたが、その部分に人参のグラッセとスイートコーンがカップに入れて配され、とても食べかけの料理だったとは思えない盛り付けだ。

「これはすごい。部屋に戻ったらすぐにいただくよ。……薫さん達は?」

 一彦が容器の蓋を閉じながら尋ねる。

「昨夜、私が泊まっていた部屋におられると思います。愛理さんを休ませたいとの事でしたので鍵をお渡ししました」

「まぁ、そうだろうな」

 誠が手近なテーブルに付くと弁当を開けて食べ始めた。

 そんな誠を見ながら、一彦は愛理の事を考えていた。

 自分でさえ未だ受け入れ難い、自身が魔族という事実。

 それを何の心構えもなく、幼い身で受け入れるというのは度台、無理のある話だ。

 体調を崩すのも当たり前といえよう。

 ……今日の所はそっとしておいた方がいいのかもしれない。

 一彦はリリィに礼を言うと弁当をテーブルに置きながら「手伝う」と炊事場に回ろうとしたが、片付けをしていた大神と麗華にあしらわれた。

「ここはいい。せっかくの弁当が冷めない内に部屋に戻れ」

 麗華の言い分に奥で片付けをしていた大神も頷く。

 何かを察して気を回してくれたのかもしれない。

「……ありがとう。そうさせてもらうよ」

 皆の申し出に一彦は弁当を手に取ると、礼を言いながら部屋へと戻った。


 部屋に戻ったが、中には誰もいない。

「あれ? 薫さんは――」

 一瞬、疑問に思ったが、すぐに行き場所に思い至った。

 愛理が体調を崩しているなら、そこに付き添っているのだろう。

 自分も向かおうかとも考えたが、思い留まった。

 先の話を聞いて体調を崩した娘に、魔族である父親本人がどんな顔して会えばいいというのか。

「愛理……」

 愛理が作ってくれたハンバーグが入っている弁当に目を落とす。

 と、腹の虫がぐぅ、と鳴った。

 どんな時にでも腹は減る。

 とりあえず、さっきの事は頭の片隅に置いておいて食事にする事にした。

 一彦はベッドに腰掛けると弁当を開けて、ハンバーグを一口食べる。

 やはり、美味しい。薫さんの手伝いがあったにせよ、とても子供が作ったとは思えない味だ。

「……子供って知らない内に育つんだな」

 思わずぽつりと独り言がこぼれた。

 知らない内に?

 違う。俺はずっと見落としていたんだ。

 一彦は弁当を食べながら昔の事に思いを馳せていた。

 親は無くとも子は育つ。

 その言葉を鵜呑みにする訳ではないが、一彦は家を空けがちな生活を送っていた。

 その理由は勿論、仕事――と言いたいが、実際の所、仕事が忙しくない場合は自身のトレーニングにその時間を割いていた。

 自分の夢だったプロサッカー選手になる為に。

 朝四時からランニング。じっくり二時間かけて行い、持久力と呼吸器系の能力強化。

 クールダウン後、一旦帰宅して汗を流し、会社へ。

 退社後、時間がある場合はスポーツジムに向かい、マシントレーニングによる瞬発力強化を一時間半かけて行なった後、身体のメンテナンスを兼ねてマッサージを三十分受ける。

 それから帰宅すると午後九時か十時といった所で夕食時に皆と顔を会わせるというのは難しい。

 一彦はそんな生活を四年前から送っていた。

 きっかけはテレビのサッカー中継を観ていた愛理の些細な一言だった。

「お父さんもここでできるの?」

 普通なら『できない』と流せばいいだけの言葉。

 しかし、一彦には出来なかった――高校時代、本気でプロサッカー選手を夢見た一彦には。

 夢を諦めきれなかったからこそ、就職先もスポーツに関わる会社だったのだ。

 そんな一彦の行動に薫は一切口を出してこない。

 それを暗黙の了解と受け取っていたし、そのお陰で迷いなくトレーニングに打ち込む事ができた。

 このままでいい、そう思っていた。

 愛理の成長を目の当たりにする今日までは。

 昨日と同じ今日、今日と同じ明日。

 そんな変わらない日々を送る事に退屈ささえ感じていた。

 自分は何と鈍い男だったのだろう。

 『変わらない日々』などというものはどこにもありはしない。

 日々、小さな変化が起き、それが積み重なって大きな変化として見えてくるのだ。

「これ、作れるくらいに成長してたんだもんな……」

 一彦は弁当を食べ終わると容器を片付け、ベッドに寝転がった。

 頭に浮かぶのは廊下での愛理の言葉。

『ここの人たちをきのうみたいなこわい目にあわせちゃうと思ってこわくなったの』

 まだまだ幼いと思っていたのに、周りを慮っての行動を起こした事に頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。

 俺は一体、今まで何を見ていたんだ……。

 自分の事ばかりに囚われ、家族の事を蔑ろにした結果、愛理の成長を見落とす事となってしまった。

 家族と過ごす日々は『同じ日』なんて一日として存在しない貴重な時間の筈だ。

 それを犠牲にしてまで叶えなければならない夢って何だ?

 そもそも、それが本当に俺がやりたい事なのか?

 愛理に言われるまで放っておいた朽ちかけの夢。

 本当にやりたい事だったらもっと以前から、言うなれば高校卒業時点からずっと追い続けていたんじゃないのか?

 何でそれが今になって!?

 そこまで考え続けた時、まるで天啓のように衝撃を伴って思い当たった。

 ――愛理だ。

 ははっ……俺は愛理に認めてもらいたかったのか。

 いや、愛理というより家族に、だな。

 一彦は自分自身、無意識的に家族からの承認欲求に飢えていた事を悟った。

 一人親で育ち、口数の少ない父、輝明から褒められる経験も少なかった事もそれに影響しているのかもしれない。

「情けない話だ。大切な家族に認められたいと願いながら、その家族を蔑ろにするような日々を送ってちゃ駄目だろ」

 自身でさえ気付いていなかった心理の事実、その衝撃のあまり、つい自虐的に口走ってしまった。

 だが、却ってその内容が自身を落ち着かせる効果となった。

 シンプルだ。

 ただひたすらにゴールを目指していた昔のようにもっとシンプルに考えればいい。

 自分の一番大切なものに向かって突き進む。

 他には目もくれない。

 それが夢だろうとそうでなかろうと、他人から見て価値があろうとなかろうと関係ない。

 俺にとってそれが一番ならそれでいい。

 ただそれだけだ。

 そんな事を思いながら一彦は微睡み、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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