2 再会

 大神は一軒の家の門扉の傍にクロウを降ろすと後部座席の二人に声をかけた。

「着いたぜ。アンタの愛しの奥さん宅だ」

「ここに薫さんと愛理が……」

 見ると生垣に囲まれた門扉があり、表札には出雲と書かれていた。

 出雲、確かに自分の苗字だ。

 一彦はそっと生垣の向こう側を窺ってみると、三角屋根の欧風スタイルの家が見えた。

 夜というのもあって、色はよく分からないが下半分は白っぽい色、上半分は濃い色のツートンカラーの外壁、リビングと二階の窓は大きく、自然光をよく取り入れるデザインのようだ。

 今はリビングに明かりがついていて、アースカラーで統一された内装と調度品が薄いカーテンを通して見える。

 と、リビングのソファに誰かが座って本を開いた。――愛理だ。

 その姿を目にして、思わず反射的に生垣から身を離す。

「お嬢さんはいらっしゃるようですね。では、行きましょう」

 一彦と同じように家の様子を窺っていたリリィが門扉に手をかけた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 一彦が慌てた様子でリリィを制止すると、どうしました?と言わんばかりにきょとんと一彦を見つめ返してきた。

 その視線の圧力に耐えられず、一彦は弁明した。

「二人が俺の元を去って約一ヶ月。その間、一切何の連絡も無かったんだ。それって、俺とはもう二度と関わりたくない、って二人の意思表示なんじゃないのか、って……」

 一ヶ月前、二人は手紙を残して姿を消した。

 そして、現在に至るまで何の連絡も無い。

 まるで接点のない一ヶ月という時間は、二人から拒絶されている、という思考に至るには十分だ。

 にも関わらず、ここに家を構えている。

 ……二人の意図がまるで分からない。

「そんな湿っぽい事考えてるから、関わりたくないって思われたんじゃないのか?」

「あなたにそんな事を言われる筋合いはないだろうっ! ……大神さん」

 一彦は大神のあまりの言い方にカッとして、自分でも驚く程の声を張って言い返した。

 それは自分の心の奥底に隠している本心を言い当てられた事による反射的行動に他ならないのは一彦自身が一番よく分かっていた。

 しかし、大神はそんな一彦の心境を慮る事もなく、ずけずけと言葉を続ける。

「そうかい? まぁ、俺が言いたいのは、あんたがここに来たのは、今あんたが口にした安いプライドなんかより大事な物があるからなんじゃないのか、って事だ」

 さっき、自分の本心を言い当てた大神だ。その言葉はぐうの音も出ない程、正論。

 正論だが……!

 頭じゃ分かっていても、感情の面でもう一歩踏み切れない自分の不甲斐なさが悔しい。

 一彦が悔しさから握りしめた拳にそっと触れる物があった。

 リリィの手だ。

 リリィは一彦の拳を自分の両手で包み込むとその包み込んだ手を見つめて語り掛けてきた。

「一彦さん、貴方のご家族に迫る危険を知った時、貴方は何をしたか覚えていますか?」

 何をした? 俺は何かしたのか?

 ……分からない。あの時は必死だった事しか覚えていない。

 言葉を口にしない一彦を覚えていないと判断したリリィは更に言葉を続けた。

「躊躇せずに婚姻の破棄を口にしてなり振り構わずここに来た……。貴方は二人から危険を遠ざけられるなら何でもすると口にして……」

 そうだ。あの時、確かにそう思った。

 今の自分の様な目には遭わせられない。二人を護れるならどんな事でもしよう、と。

 リリィは一彦の拳を包む手に力を込めて言った。

「あの時、貴方の心の中にあったのは、ご家族が貴方をどう思うかなどではなく、『どんな事をしても二人を護りたい』という貴方ご自身の意志だったのではありませんか?」

 リリィの言葉は自分の手を包む暖かさを伴って不安に強張った心に染み込んでくる。

「人は多くの場面で心に迷いが生じます。ある時は決断できなかったり、ある時は踏み止まれなかったり……、ですが、その迷いを振り払う事もまた、人にはできるのです」

 リリィが顔を上げて視線が重なる。

 海を思わせる深い青色の瞳。

「心に大切な物を秘めていれば」

 その瞳がリリィの言葉と笑顔に輝く。

 その瞬間、一彦の脳裏に薫と愛理の姿が浮かんだ。

 全く……、何をやってるんだ! 俺は!!

 一彦はため息を一つ吐くと、リリィの手を離しながら口を開いた。

「ありがとう、リリィちゃん。お陰で気分が落ち着いたよ。――それじゃ、行こうか」

 何を恐れていたんだ、俺は。

 二人から拒絶される事?

 そんな事は命が助かった後に考えればいいじゃないか。

 俺にとって、二人が平和に暮らしていける事以上に望む物なんて何もない!

 一彦がインターホンのボタンを押そうとしたその時、

「あなた……?」

 自分を呼ぶ声に振り返ると、そこには一月振りに目にする妻・かおるの姿があった。

 働くのに邪魔にならないよう長い黒髪をアップにし、インディゴブルーをベースに白のストライプの入ったパンツスーツに身を包んだ姿はまさに仕事のできる女性を思わせる。

 元々、少しツリ目がちな美貌の持ち主である為にそういう恰好をしていると近寄り難い堅さを感じさせるのだが、今日のスーツは女性らしい丸みを帯びたシルエットで堅い雰囲気の中にも柔らかさを感じさせた。

 普段は好奇心旺盛でキラキラと輝いている薫の鳶色の瞳が今は訝し気に一彦を窺っていた。

「薫、さん……!」

 妻の名を呼ぶも、そこから先の言葉が出てこない。

 自身の身に起きた事、これから起こるであろう事、どれをとっても常識の範疇から大きく逸脱している為だ。

 何て言えばいい? どうすれば信じてもらえる?

 ありのままを口にすれば、気が狂ったと思われて話を打ち切られてしまう。

「――とりあえず、ここじゃご近所の目もあるし、中へどうぞ」

 逡巡している一彦と伴っている連れからただならぬ様子を感じ取ったのか、薫は三人を自宅へと招き入れた。

 一彦達が玄関へと入ると、ドアの音を聞きつけて少女がパタパタとスリッパの音を立ててリビングから飛び出してきた。

 年相応の柔らかな髪をリボンで頭の両横で結んだいわゆるツインテールの髪型。

 部屋着なのか、アースカラーのシンプルなカットソーとスカートといった出で立ちだ。

 少女はツインテールを揺らしながら玄関までやって来た。

 一ヶ月振りに目にする愛娘・愛理あいりだ。

「お母さん、おかえりー…って、お父さん!? どうしてここに!?」

 一彦と目が合った途端、愛理はくりくりと大きな瞳を零れんばかりに見開いて驚いた。

 こんな風に鳶色の瞳をキラキラと輝かせるのは薫さんそっくりだな。

 一彦がそんな感傷に浸るのも束の間、今度は一彦の目の前に満面の笑顔で駆け寄ってきた。

「お父さん! お母さんとなかなおりしたの!? 今日はここにとまっていけるの!? うしろのお二人とはどういうカンケイなの!?」

 会えなかった間が寂しかったのか、纏わりついて矢継ぎ早に質問してくる愛理に一彦が戸惑っていると、薫から助け舟が出された。

「愛理、やめなさい。今日はお父さんが話したい事あるみたいだから来てもらっただけ」

 その声色はいたって事務的。

 分かってはいたが、いざ冷たく答えられると精神的にくるものがある。

 夫婦の関係を知ってか知らずか、愛理はあからさまに不満を口にした。

「えー、お父さんなんだし、とまってってもらえばいいでしょー」

 しかし、薫も娘の押しの強さに怯む事なく、さらりと流す。

「大人なんだし、色々と都合があるのよ。それでも夕食くらいは御馳走するわ。……さ、準備するわよ、愛理」

「はぁーい!」

 家族そろっての食事に機嫌を良くした愛理は明るく返事をすると、元気よく台所へと向かった。

 薫はそれを見届け、一彦の後ろの二人に目をやると少し考えてから、「貴方達はリビングのソファにでも座っておいて」と口にした。

 リビングに移動するリリィと大神の二人に倣って一彦も付いていこうとしたが、その直後、がしっと手首を掴まれた。

 びっくりして振り返ると、そこにはにっこりと笑顔を浮かべて一彦の手首を掴んだ薫が立っていた。

 少々、笑顔が怖い気がする。

「な、何ですか? 薫さん……」

「『何ですか』じゃないでしょ。あなたも手伝うのよ。に、ね」

 そう言って薫は愛理が向かったキッチンを指さした。

「ですよねー……」

 一彦も予定調和とばかりにキッチンへと向かう。

 そこでは先に入った愛理が冷蔵庫から挽肉を取り出しながら嬉しそうに一彦を振り返った。

「今日はハンバーグなの。わたしとお母さんでいっしょうけんめい作るからたのしみにしててね!」

 八歳になる愛娘と妻の手料理、楽しみに決まっている。

「そうか。本当に楽しみだよ。包丁で指切らないように気を付けるんだぞ?」

 心配性の父親の言葉に対して、愛理はころころを笑って答えた。

「お母さんもいっしょなんだし、だいじょうぶだよっ」

 両親が揃って家にいるのが嬉しいのだろう。

 嬉しそうにしている愛理を見ていると胸の内が暖かくなる。

 ただ、それと同時にこれが一時のものだと思うと心苦しくもあった。

「そうか……」

 嬉しそうに調理に励む愛理に対して、一彦にはそう答えるのが精一杯だった。

 何とか笑顔で答えたが、ぎこちないものだったに違いない。

 一彦は食器棚を開いた。どうやら食器類の収め方は前の家とあまり変えていないらしい。

 慣れた手つきで人数分のランチョンマットと銀製のナイフ、フォークを取り出すとテーブルへと向かった。

 銀のナイフとフォークは新婚の頃、薫がどうしても欲しいと言って聞かなかった代物だ。

 何でも、ディナーはそれを使って食べるというのが小さい頃からのささやかな夢だったのだとか。

 一緒に暮らしてた時はそんな話をしながら、食事の準備を手伝ったものだった。

 そんな事に思いを馳せながらテーブルに並べ始めたその時、

「一彦さん……」

 リビングのソファへと案内されたはずのリリィが一彦の後ろに立っていた。

 その表情には心なしか緊張が見て取れる。

「分かってる」

 時間がないのは理解しているつもりだ。

 だが、あれだけ消耗したブエルがすぐさまここに襲撃をかけてくるというのは考え難い。

 奴にも回復の時間が必要だろう。

 なら、こちらにもある程度の時間の余裕はあるはずだ。

 というより、食事を摂るくらいゆっくりさせてくれ。

 それくらい、バチはあたらないだろう?

「こっちの話を聞いてもらいたい所だけど、まずは食事だ。落ち着いて席に着いてからじゃないと話なんて聞いてもらえやしないさ」

 一彦がそう言って忙しそうに調理しているキッチンの二人を示すと、リリィは納得したように頷いた。

 

 そうこうしている内に食事の準備が整った。

 ハンバーグにかかったデミグラスソースの香りが鼻孔をくすぐる。

 皆が席に着いたのを見計らって一彦が話を切り出した。

「薫さんと愛理に聞いてもらいたい話があるんだ。それもかなり深刻な……」

 一彦は先程までに自分の身に起こった事、二人の身にも同様の危険が迫っている事、何も包み隠さず、自分の知る限りを洗いざらい話した。

 それまで口を挟まず黙って聞いていた薫が大きなため息をついて口を開いた。

「そんな荒唐無稽な話、どうやったら受け入れられると思うの?」

 普通、そういう反応になるよな。

 至極当然の反応に一彦は納得すると同時に内心頭を抱えた。

 荒唐無稽な話には違いない。

 だが、それが現に目の前で起こっていたら他にどう言えばいいというんだ?

 事実をそのまま話すしかないじゃないか。

 納得しかねる薫にどう説明をしたらいいか考えあぐねていたその時、コロン、と何かが床に転がる音がした。

 音の方を見ると、ソファの背もたれ部分にかけてあった大神のジャケットから転がったらしいモノが目に入る。

 それは、石のようにも見えたが、間違いない。

 デモン・ブエルの体液が乾いて凝固した物。

 大神のジャケットに付着した物が払い落とし切れてなかったようだ。

 そうだ。さっき起こった事が現実だと説得するのに丁度いい。

 一彦は席を立って体液の凝固体を手に取る。

「これがさっき言ってた化け物の――」

 そこまで口にした一彦だが、固まった体液に視線を落とした時、変化が起きている事に気付いた。

 何だ? 中心が青く光って……?

「早く投げ捨てて!」

 リリィが腰の剣を抜き放ちながら叫んだ。

 リリィの言葉に一彦は弾かれたように凝固体を放り出した。

 放り出された凝固体は床に転がると、一層光を増してそれに呼応するように鈍い光の魔法陣を形成した。

 魔法陣は瞬時に床のフローリングに焼け付くと、焦げた匂いが辺りに漂う。

 混乱して一彦はリリィに尋ねる。

「リリィちゃん、何が起こってるんだ!?」

 しかしそれに応える声はなく、リリィは無言で魔法陣に正対して剣を構える。

 魔法陣中心の凝固体を影が覆い、その影が凝固体の光を完全に閉ざすとそこから何かが物凄い速度でこちらに向かって伸びてきた。

 伸びてきたはテーブルを薙ぎ払い、そのままの勢いで迫ってくる。

「うわっ!?」

 一彦は咄嗟に身体を守るように両手を前に構えたが、伸びてきたそれはその両手を避けるようにして一彦の胴に巻き付いた。

 丁度、大型の蛇のように巻き付くと一彦の体を締め付けると同時に魔法陣の中心に引き摺り込もうとずるずると動きはじめる。

 おいおい、嘘だろ……。冗談じゃないっ!

 一彦は身近にあった銀食器のナイフを手に取ると、思い切りよく蛇状の触手(?)に突き立てた。

 ドスッ! ジュウゥー!

 刃が肉に刺さると同時に、刺さった周囲の肉が音を立てて焼け始めた。辺りに何とも言えない悪臭が広がる。

 効いてる!?

 一彦が何度もナイフを突き立てると触手の締め付ける力が弱くなった。

 チャンスとばかりに一彦は触手から抜け出すと愛理の姿を探した。

 その時――

「愛理っ!」

 悲痛な叫びが耳に届く。

 すぐさまそっちを振り返ると、同じ様な触手に巻き付かれて魔法陣に引き込まれようとしている愛理とそうさせまいと必死に愛理の両手を掴んでいる薫、触手を渾身の力で殴りつけている大神の姿が目に入った。

 しかし、大神の行為は触手に対して何ら効果が上がっているようには見えなかった。

 普通の方法では対処できないのか!?

「愛理っ、すぐ行くっ!」

 一彦は慌てて愛理に駆け寄ろうとしたが、その時、脚に触手が巻き付いた。

「この……っ!」

 ナイフを振り上げた一彦がそれを突き立てるより早く、リリィが触手を叩き切った。

「一彦さん、は有効です! 早く娘さんを!!」

 多くの触手を切り伏せてきたであろうリリィは触手の体液に塗れた状態で一彦にそう言うと魔法陣の中心に向かっていった。

 一彦は巻き付いたままになった触手を引き剥がすと愛理に向かって走った。

「愛理を離せぇっ!!」

 一彦が雄叫びを上げて触手にナイフを突き立てた。

 しかし、一度突き刺した程度ではなかなか力が緩まない。

「うおぉおぉっ!」

 一彦はナイフを何度も突き立てた。

 それが功を奏したのか、触手の締める力が緩んだ。

「今だっ、引っ張り出せっ!」

 一彦の声を聞いて、薫と大神の二人がかりで愛理を触手から勢いよく引き摺り出した。

 その直後、悪夢の様な蛇触手はまるで空気に溶け込むように目の前から掻き消えた。

 一彦達はそれを目にすると力尽きてその場にへたり込んでしまった。

「もう大丈夫ですよ」

 リリィの声に振り向くと、その足元にはフローリングに焼き付いた魔法陣、中心には二つに割れた拳大の黒い球体とそれを割る為であったろう、リリィの剣が突き立てられていた。

 リリィは剣を引き抜き鞘に収めると神妙な面持ちで口を開いた。

「なるべく早いうちにここを発ちましょう。ここに留まる事は危険です」

「どういう事だ? まさかブエルはあの消耗した状態でまたここに来るっていうのか? いくら何でもそれは……」

 あり得ない。

 奴は奥の手を出す寸前まで消耗しきっていたんだぞ?

 リリィは、彼が来るのは今すぐという訳ではありませんが、と前置きした上で一彦の懸念に答える形で話し始めた。

「デモンと操縦者には絆ともいえる深い繋がりがあります。おそらくブエルは流れ出たデモン・ブエルの体液に対して、魔力所持者に反応するように魔法をかけたのでしょう。」

 大神は苦々し気に割れた球体を一瞥すると、吐き捨てるように言った。

「クソが。俺はまんまと嵌められたって訳かよ」

 しかし、リリィは首を横に振る。

「いいえ、体液が付着するのを見ていたとしても、魔力所持者がそれに触れるとは限らない。発動すれば儲け物といった程度の事でしょう」

 今、何て言った?

 魔力所持者が触れると反応するだって?

 魔力所持者?

「話、いいかな?」

 一彦が手を挙げて発言を求めるとリリィはそれに応じたので、一彦は続けて発言した。

「今、話を流してしまいそうだったんだが、俺があの塊に触れた事でこんな事が起きたって事は、俺がその、持ってるって訳か? 魔力ってのを」

 一彦の問いにリリィは、はい、と短く答えた。

 その答えに一彦の心は自分の迂闊さに対する自身への怒りに染まった。

「くそっ、じゃあ、俺がこの惨状を招いたも同然じゃないかっ!」

 疑問が多すぎて考えが纏まらないが、俺があの凝固体に触った事でこれが起きたのだけは間違いない。

 苛立ちを隠そうともしない一彦に対し、リリィは申し訳なさそうに話を続けた。

「結果的にそうなってしまったのは事実ですが、それよりも重要なのは先程の〔緊縛従者バインドサーバント〕の魔法は対象者をその場に捉える為のもの。つまり――」

「足止め……? ――っ! ここがバレたって事か!?」

 リリィの言葉にいち早く反応したのは大神だ。

 大神の反応にリリィは頷いて応えた。

「あの魔法は術者に発動地点を知らせる効果も持っています。彼のあの消耗具合から考えて、この場が今すぐ危険という訳ではありませんがゆっくりしていられる程の時間もないのは確かです」

 リリィのその言葉に一彦は大きくため息をついた。

 何やってるんだ、俺は……。

 薫と愛理を守る為にここに来たっていうのに、それどころか危険に晒してしまってるじゃないか……。

「こーらっ」

 うな垂れた頭を軽く小突かれて顔を上げる。薫だ。

「あなたが元気なくしてどうするのよ? あなたは元気付ける側の立場でしょ」

 そう言うと薫は自分の後ろに立つ愛理を一彦の前に押し出した。

 押し出された愛理と視線が重なると、辛うじてあふれ出すのを堪えていた愛理の涙腺は瞬く間に決壊した。

「お、お父、さ……っ!」

 愛理は辛うじてそこまで言葉を絞り出した直後、くしゃくしゃの泣き顔になって一彦の胸に飛び込んできた。

 恐怖による呪縛が解けたのだろう、愛理は一彦の胸の中で火が付いたように泣き出した。

「大丈夫。大丈夫だ。お父さんがついてるから」

 一彦は泣きじゃくる愛理の頭を撫でながら声をかけ続けた。

 愛理が落ち着くまでゆうに五分はあっただろうか、それを見計らって薫がリリィに声をかけた。

「リリィさん、とおっしゃったかしら。ここに留まれないのは理解できたけど、どこか避難先のはあるの?」

 娘を撫でる一彦の姿に見とれていたリリィは薫の言葉に慌てて答えた。

「あっ、はい。それについては恐らく大神さんが手配してくださるかと思います」

 リリィの言葉に大神は手を挙げて返した。

 薫は納得したようで、準備する、と言い残しリビングを出ようとした。

「ちょっと待ってくれ!」

 一彦の突然の大声に愛理は身をすくませた。

 ごめんな、と一彦は愛理を脇に下ろすと薫の前に立った。

「何? 手短にお願い」

「その……」

 先程までの和やかな雰囲気は跡形もない惨状のリビング。

 テーブルごと床にぶち撒けられて、ぐずぐずの肉片と化した手料理のハンバーグ。

 この惨状を引き起こした自身の後ろめたさもあって、なかなか言葉が口から出てこない。

「――謝らせてくれ。済まなかった。二人の平穏な生活を壊すつもりなんて更々無かった。俺はただ――」

 俺はただ、何だというんだ?

 二人を守りたいと思った?

 その結果がこの惨状じゃないか。

 ……よそう。

「ただ、何?」

 言葉の続きを待っている薫に一彦は首を横に振って答えた。

「……何でもない。本当に済まなかった」

 これ以上、何を口にしても言い訳にしか聞こえない。

 落ち込む一彦に対して返ってきた薫の答えは意外なものだった。

「いいわよ。気にしてないし」

 何だって?

 一彦は自身の耳を疑った。

「気にしてないって……、怒ってないのか?」

「怒ってないわよ。まぁ、これを仕出かした張本人には頭にきてるけど」

 薫の言葉に納得いかない一彦は先程の騒ぎでひしゃげてしまった銀食器を手に取ると薫の前に突きつけた。

「見ろ! 薫さんのお気に入りだった銀食器だってこんなになってしまって! それどころか食事だって部屋だって滅茶滅茶だ! それなのにどうして!?」

 薫は突き付けている一彦の手を、落ち着いてよ、と下ろさせるとため息交じりに口を開いた。

「物なんていくらでも代用が効くわ。私が大切にしてるのはその銀食器で家族団欒を過ごした思い出。食器そのものじゃないの。それに……」

 そこまで言うと薫はリリィと大神に向かって言葉を続けた。

「あなた達がいたからこれだけの被害で済んだ。私達親子が狙われているんだったら、二人だけの時にこんな事が起きてもおかしくなかった。命拾いしたと思えばこれくらい安い物よ」

 薫の肝の据わり方に一彦が呆けていると、薫が両手を叩いてぱんぱんと大きな音を出した。

「ほら、時間がないんだから! 全員でこの辺りをざっと片付けたらさっさと避難するわよ! 申し訳ないけど、お客さんの二人にも手伝ってもらうから!」

 緊迫した状況にも関わらず、家の雑用を片付けるような薫の物言いに皆顔を見合わせると一様に綻んだ笑顔を見せた。

 

 薫の適格な指示に加え、無駄のない作業進行もあって驚く程の短時間で片付けは終了した。

 その後、薫が避難用持出袋の準備をしている間に、リリィが一彦と愛理に話かけてきた。

「一彦さん、愛理さん、お二人はこれを身に着けてください」

 差し出されたのは文字の様にも図形の様にも見える、銀色の不思議なデザインのペンダントだ。

「これは?」

 リリィは一彦の問いにちらりと愛理を見ると困ったように笑って、お守りです、と答えた。

 お守り、ね……。

 それは、

「あら、それは何?」

 悪い考えに取り憑かれそうになっていた一彦は薫のその一言で現実に引き戻された。

 見ると、薫が首からペンダントを下げてはしゃいでいる愛理に話しかけていた。

 愛理はペンダントを薫の方に差し出すと目を輝かせて嬉しそうに答えた。

「さっき、リリィお姉ちゃんからもらったの! お守りなんだって。お父さんとおそろい!」

 薫は愛理のその言葉を聞いて訝し気な視線を送ってきた。

 それに対する答えを持ち合わせていなかった一彦は肩をすくめて見せるしかなかった。

 そんな目で俺を見ないでくれ。俺だって分からないんだから。

 ……でも、単なるお守りって訳じゃない事だけは確かだ。

 それはこれを渡された時のリリィの微妙な表情からも明らかだった。

 今は分からなくてもいいだろう。

 分かる時はどうせろくでもない状況に決まってるんだから。

 

 十五分後、一彦達一行の姿は大神の操縦するクロウの中にあった。

 危険と判断した大神が薫と愛理に一彦と同様、A.M.A.P.での保護を提案した為だ。薫達にも反対する理由もなく、その提案をすんなりと受け入れてくれた。

 一彦が助手席、後部座席に愛理、薫、リリィの順に乗り込むと大神の操縦するクロウは音もなくふわりと浮き上がった。一行を乗せたクロウは街の明かりから遠ざかり、先程まで居た廃ビルをも過ぎ去って、どんどん山の方へと向かっていく。

 流石にどこに連れていかれるのか不安になった一彦が口を開いた。

「お、おい、大神さん、本当にこっちでいいのか? どんどん何もない山の中に向かってるが……」

 そんな一彦の様子などどこ吹く風とばかりに大神が返事を返す。

「ああ、大丈夫だって。いいから余計な心配せずにどーんと構えてなよ」

「そうよ。見てみなさいよ、愛理なんて落ち着いたものじゃない」

 薫は大神の尻馬に乗って一彦を諫めた。薫の言う通り、愛理は落ち着きを取り戻していて、首から下げたお守りのペンダントと、物珍しい窓の外の風景を代わる代わる見ていた。

 怯えた様子を見せないあたり、お守り、という言葉が効いたらしい。

「リリィちゃんに感謝だな」

「……そうね」

 愛理に向けて優し気な笑みを浮かべる薫の向こうに一転して暗い表情を浮かべるリリィが見えた。

 難を逃れたにも関わらず浮かない表情が気にかかり、一彦は努めて明るい声で話しかけた。

「どうしたの、リリィちゃん? 随分と浮かない顔だけど?」

「いえ、その……」

 ちらりと大神の方を窺うと一彦に向かって手招きをした。大神に聞かせたくない内容らしい。

 一彦は少し考えて――

「あ、薫さん、そこに俺の携帯電話、落ちてない?」

「ええ? そんなの、向こうに着いてから探してもいいでしょ?」

「いや、どうしても今必要なんだよー」

 一彦は後部座席に向かって身を乗り出した。

 もう、と薫は不機嫌そうにごそごそと座席付近を探し始める。

 一彦はその薫に小声で耳打ちした。

「そのまま探すふりを続けて」

 薫は一瞬、身を固くしたが小さく頷くとそのまま探す振りを続けた。

 それに合わせてリリィが一彦の耳元に口を寄せる。

「先の戦闘での彼の行動から私達に危害を加える事はないでしょうが、彼の所属する組織が私達を保護する意図が分かりません。あまり気を許し過ぎないよう――」

「その心配は杞憂だと思うぜ」

 その発言に驚いて、一彦、薫、リリィの三人は一斉に大神を振り返った。

 一彦は信じられない思いで、つい聞き返してしまった。

「き、聞こえてたのか?」

「ああ、俺は耳がいいんだ」

 耳がいい?

 冗談じゃない。そんなレベルの話ではない。

 耳元で話されていた自分には分かる。あれは普通の人間ならこそこそと内緒話している位にしか聞こえない声だ。到底、その内容を窺い知る事などできない。

 だが、大神はそれに対し、「そんな心配は杞憂だ」とまるで内容を完全に把握しているかのような素振そぶりで会話に割り込んできたのだ。

 戦闘で見せた怪力、そしてこの聴力。

 こいつ、普通じゃない!

「大神さん、あんた、一体何者なんだ……?」

 戦慄する一彦に気付いていないのか、大神は構わず話を続けた。

「色々と思う所あるかもしれんが、とりあえず俺に付いて来てくれよ。あんたらもウチの隊長の顔でも見れば納得すると思うしさ」

 それ以降、大神は会話に入ってくる事もなく、黙って操縦に専念していた。

 しかし、一彦達は大神の能力を垣間見て、お互いに話をする気にはなれなかった。

 沈黙が支配するクロウが夜の空を音もなく飛んでいく――

 

 と、眼下に建物が見えると、その屋上ヘリポートに向かってクロウが降下していく。

 どうやら目的地に着いたらしい。無事、送り届けた安心感から、大神が明るい口調で皆に告げた。

「着いたぜ……って、そんな怖い顔で睨むなよ」

 隣の助手席に座る一彦の射るような視線に対し、大神は気分を和らげようと軽口を叩いた。

「……俺達をどうするつもりだ?」

 一彦は確かに大神に助けられた。大神の介入がなければどうなっていたか知れない。信用したいというのが人情だ。

 とはいえ、先の戦闘での怪力に加え、さっきの尋常ではない聴力、大神の得体の知れなさから、一彦は警戒心を解けずにいた。

 そして、それは薫とリリィにしても同様だった。

 大神は皆を一様に警戒させてしまった事に頭を抱えて溜息をついた。

「俺の仕事はあんたらを危険から保護する事だ。そこに嘘はない。これから引き合わせる隊長が全てを話してくれる筈だ」

 真摯に向き合って話す大神の態度からはその言葉通り、嘘はないように思える、が――

「信用できるかどうかは、自分の目で見極める事にするさ」

 そう言って一彦が助手席から降りると、大神も運転席から降りて後部座席のドアを開けた。

「ほら、足元、気をつけてな」

 大神の言葉に応える事もなく、リリィ、薫はその目に警戒の色を浮かべつつ、大神から目を離さないようにしてクロウから降りた。

 最後の愛理が降りる際、シートに躓いて落ちそうになった所――

「危ないっ!」

 誰よりも速く駆けつけ、咄嗟に抱き止めたのは大神だった。

 愛理は突然の出来事に驚いていたが、すぐに顔を綻ばせた。

「ありがとう、おじさん!」

 自分に向けられた愛理の笑顔に、大神は愛理の無事を確信した。

 大神は笑顔を返しながら口を開く。

「大丈夫ならそれでいい」

 大神が愛理を地面に下ろすと、愛理は薫の元へと駆けて行った。

 薫は愛理を抱き止めると大神に向けて頭を下げた。

「ありがとう。愛理を抱き止めてくれて」

 顔を上げた薫に先程までの刺々しさはない。

 大神は少ししおらしくなった薫に笑顔で応えた。

「気にしないでくれ。『危険からの保護』が仕事だしな。……じゃ、こっちだ」

 一行は警戒を解いて大神の案内に従って建物の中へと入った。


 屋上からの階段を降りると左右に分かれた廊下に出た。どちらの廊下もかなり奥まで続いている。

 大神は迷う事なく、左に曲がりそのまま真っ直ぐに進んだ。反対側の廊下の奥を見ていた一彦も慌てて後を追う。

 上から見た時でもかなり大きな建物だとは思ったが、実際に中に入ると尚更そう感じるな。

 この巨大な建造物を構える組織、そしてその隊長について興味が湧いたのは一彦ならずとも無理からぬ事だろう。

「大神さん、ここにいる隊長ってどういう人なんだ?」

 一彦の言葉に対し、大神は複雑な表情を浮かべた。

「どういう……?、うーん、ちょっと人物像は一言じゃ言いにくいなぁ」

 説明に窮した大神は困った末に、全てを知っている訳ではないが、と前置きした上でこれまでの経緯を話し始めた。

「今から十年程前、彼はやって来た。早々に組織母体のお偉方と交渉し、A.M.A.P.エイマップを創設。彼が率いるその組織は瞬く間に実績を積み上げ、その功績はA.M.A.P.の存在を組織内に示すと共に、彼の隊長としての地位を不動の物とした。……ま、聞きかじりの話だがな。話半分に聞いたとしても彼の印象からして、所謂、やり手の男、とでも言えばいいかね」

 やり手の男、ね。しかし――

「それ、本当の事なのか? 大体、どうやって実績を積み上げる? 今回みたいな突拍子もない事、そうそうある訳じゃないだろう?」

 一彦が話を聞いていて生じた疑問をぶつけると、大神はピタリと足を止めて振り返った。

「突拍子もない事――本当にそう思うか?」

 そう口にした大神の表情は真剣そのものだ。

「そ、そりゃ、そう思うから言った訳で……」

 一彦が大神の真剣な表情に気圧されながらもごもごと反論した。

 それに対し、大神は皆に向き直ると口を開いた。

「少しこの現代日本についての話をしよう――」


 古来より、日本には霊や妖といったこの世ならざる者の類が存在すると考えられてきた。

 しかし近年、そう考える者は少数派だ。その理由は単純。

 その現象の目撃例自体が皆無に等しいからだ。

 だが実際には怪異現象といったものは存在する。にも拘らず目撃例が少ないのは何故か。

 そう、俺達、A.M.A.P.の活動によるものだ。

 異界からの干渉を食い止め、怪異現象の解決に至っているからこそ、実績を積み上げられる――


「ちょっと待ってくれ」

 妙な話になり始めたのに堪らず、一彦が声を上げた。

「この科学技術の発達した日本において幽霊や妖怪だなんて……。未だその存在を掴めていない今、それらは空想上の存在だったって事じゃないのか?」

「未だ存在を感知できない科学技術を信用するとは恐れ入るぜ。今日、お前とお前の家族が目にした物は何だ?」

 ――っ!

 百聞は一見に如かず。

 間髪入れない大神の反論と自身の体験という裏付けに一彦は納得して黙る他なかった。

 話は終わったとばかりにくるりと踵を返して歩き始めた大神を皆が黙って後を追う。

 一彦が重苦しい沈黙に耐えられなくなってきた頃、大神が歩みを止めた。

「ここだ」

 大神が親指で皆にその部屋の扉を指し示すとそのままノックした。

 しばらくすると中から、入れ、と声がかかった。直後、大神が無遠慮に扉を開くと開口一番、

「隊長、連れてきたぜ」

 とても上司に報告する口調ではない。が――

「おー、ご苦労さーん」

 ……意外とざっくばらんな職場なのかもしれない。

 とはいえ、部屋の内装は重厚だ。

 大会社の役員室の様な広い部屋。手前には応接セットがあり、部屋の奥には重厚な机と椅子が備え付けられている。どれも一目で高級品と分かる代物だ。

 しかし、部屋の主はその椅子に座るでもなく、背後の資料棚に向かってファイルを広げて読み耽っていた。

 まずはお礼を言わなければ。

 一彦は前に進み出ると深々と頭を下げると助けてもらった礼を述べた。

「私は出雲一彦と申します。この度は危ない所を助けていただいて感謝しています。ですが、私達を保護する意図は一体、何なのでしょうか?」

 何らかの政治的取引の為か? 俺のような一般人に何の価値が?

「お礼を言いながらも警戒して情報を引き出そうとする……相変わらず心配性だなぁ、一彦。そんな先々の心配ばっかしてたらハゲるぞ?」

 なっ!? 何て言い草だ!

 隊長のあまりの言い草にカッとなった一彦は感謝の情も謙虚な態度も投げ捨てて噛みついた。

「助けてもらったとはいえ、そんな侮辱を受けるいわれは無い! どうして――!?」

 そこで顔を上げた一彦が目にした隊長の顔。その瞬間、後を継ぐ言葉が全て吹っ飛んでしまった。

 短髪を逆立てた髪型こそしているが、野生の獣を思わせる精悍な顔つき。人をくったような態度。

 そして何より、自信に満ちた目と張り付いたような口元の笑み。

 ――間違いない。

「……お、お前、誠、か? 夢島誠ゆめしままことなのか!?」

 信じられないといった表情の一彦とは対照的に、誠と呼ばれた男は落ち着いて笑顔を返す。

「ああ、久しぶりだなぁ。高校卒業以来か?」

 誠は嬉しそうににこにこしているが、逆に一彦はわなわなと震えていた。

「ああ、そうだ。そうだけど……そうじゃないだろ! ガキの頃からの付き合いだった俺に一言もなく姿を消しやがって! あちこちお前の事を聞いて回っても足取り一つ掴めなくて、どれだけ心配したと思ってんだ! ……っ! お前、まさかキヨさんの事を気にして……?」

 キヨさんこと、桜井さくらい清美きよみさん。親父の診療所を手伝ってくれていた看護師の女性だ。

 子供の頃から学生の間ずっと、俺の面倒をみてくれていた。

 部活の試合や学生の通年行事の際には、忙しい親父に代わってよく顔を出してくれていた。

 母親のいない俺にとって、母親代わりといってもいい。

 だが――

「一彦、キヨさんの事は関係ない」

 誠の言葉で現実に引き戻された一彦は更に誠に詰め寄った。

「じゃあ、どうしてだ!」

 熱くなる一彦と対照的に誠は冷静だ。

「分かるだろ、一彦? 今回の件でこの組織がどれ程、秘匿性が高いか。俺の足取りを追えなかったのも、隊員の個人情報保護以外の何物でもない。ただそれだけさ。……それでも、長い間気にかけてくれてて、ありがとな」

 誠は一彦の肩にぽんと手を置くと、その横を通り抜けると薫の前に来て右手を差し出した。

「初めまして、奥さん。夢島です。どうぞ、よろしく」

 二人のやり取りを呆気に取られて見ていた薫は我に返ると慌てて差し出された右手を取った。

「ごめんなさい。びっくりしちゃって。初めまして、出雲の妻です。そう、貴方が……」

「……? 何処かでお会いしましたかね?」

 薫の呟きを聞き洩らさなかった誠が聞き返すと、薫は慌ててかぶりを振った。

「いいえ、主人があれだけ感情を露わにするくらいだし、よほど仲がよかったんだなって思って。それより、どこか休める所に案内して下さらない? 娘を休ませてあげたいの」

 見ると愛理も眠そうに目をこすっている。それを見て誠は慌てて薫に謝ると大神に声をかけた。

「あっと、これは気が利かなくて申し訳ない――大神、皆を宿舎の方に案内してくれ」

 しかし、大神の反応はない。

 いぶかしんだ誠がもう一度声をかける。

「……どうした、大神?」

 その直後だった。

「隊長、案内はちょっと無理らしいぜ」

 言葉が終わるや否や、めりめりと音を立てて大神の右脇が裂けた。

 痛みからか片膝を付くと、裂け目から赤黒い液体がびちゃびちゃと音を立てて床に落ち広がる。

「うっ!?」

「愛理っ、見ちゃ駄目!」

 凄惨な光景に一彦達は目を背け、薫は愛理の目を手で覆い、その光景を見せないようにしていた。

「大神!」

 そんな中で一早く反応したのは誠だ。そんな光景にも怯まず大神の元へと駆け寄る。

 しかし、大神は助け起こしに手を貸そうとする誠の手を左手でやんわりと拒絶した。

。それに――」

 いきなり前触れもなく、バン、と勢いよく扉が開かれ、女性が飛び込んできた。

「志郎! さっきからずっと右肩部シリンダーが損傷エラーを吐き続けているぞ! 何をしている!」

 驚いたのはその女性の姿がパーティーにでも出席するかのような豪華な真紅のドレス姿だった事だ。

 ドレスにかからないようにする為か、髪をアップにし髪飾りを差してドレスアップしていた。

 そのせいで顔がよく見えるのだが、すれ違ったら誰もが振り返る程の美人だったのだ。

 その女性は部屋に入ってすぐ、大神本人を目の前にして察したのか、無言でつかつかと大神の前に来るとオイル汚れをいとう事なく、大神の腕を自らの肩に回すとその身体を引き起こした。

「ああー! お嬢様ぁー! 御召し物が汚れてしまいますー!」

 女性に遅れて部屋に駆け込んできた初老の執事は、女性の汚れるがままにまかせているドレスを見ると悲痛な声を上げながら頭を抱えていた。

「構わん。時田、反対側の肩を支えてくれ。このまま大神をメンテナンスルームへ運ぶ」

 時田と呼ばれた執事は慣れているのか、肩を落とすと観念したように大神の肩を支えた。

「お、おい。そんな事しなくても俺は歩け――」

「皮膚を突き破る程の高負荷圧力を肩部シリンダーにかけて破損させただけでなく、何も知らない一般人の前に自分の正体を晒したお前に発言権があると思うのか?」

 女性の有無を言わせない迫力に流石の大神も気圧され、押し黙る他なかった。

 大神の反論を封殺したのを確認すると女性は誠に振り向き、

「志郎のフレーム及び駆動部のストレスチェックを行いたい。肩部のこの損傷だと他も何らかの異常が出ている可能性がある。構わないか?」

 と尋ねた。

 それに対し、誠はにこやかに答えた。

「彼に関しては貴女の方が専門家だ。彼の報告を読んだ限り、かなり無茶な使い方をしているようだし、是非ともお願いしますよ」

 助かる、と短く応えると女性と執事、二人に連れられた大神の三人は部屋を後にした。

 美女と野獣――一彦の心の内で一瞬、そんな印象がよぎった。

 三人が去った後、シンと静まり返った部屋の中で呆然と顔を見合わせる一彦達だったが、その視線は自然と誠へと集まった。

 状況説明を求めて集まる視線。

 そんな視線に晒された誠は軽く咳払いをすると、薫の手を握ったまま眠りかけている愛理を指差して答えた。

「色々と聞きたい事があるようだが、お子さんはかなりお疲れのようだ。大神に代わって俺が宿泊施設に案内する。付いてきてくれ」

 その言葉に皆、自身の疲労を自覚したようで、誠の言葉に逆らう者もなく、大人しく彼に続いて部屋を後にした。


 夜の隊舎屋内。節約の為か、廊下の所々だけ点灯している照明。どうにも薄暗い。

 大神に案内された道を階段まで戻ると一階下へと降りる。

 そこは多少なりとも夜勤担当がいるようだが、人影はまばら。その上、静かだ。

 前を行く誠も黙ったまま歩き続ける為、余計にその静かさが際立つ。

 その静かさに圧されるように一彦は口を開いた。

「なぁ、誠。さっきの女性は誰なんだ? それに、大神さんの身体は……?」

 正直、何か反応があると期待してなかった。単に静けさに堪えかねて聞いてみただけだ。

 しかし――

「彼女は蘭城グループ総帥、蘭城麗華。ウチと母体組織に設備面で協力してくれている」

 誠はしれっと投げかけた疑問に答えてくれた。

 だが、その内容に目を剥いたのは俺だけではない。

「ちょっと! 蘭城グループって、あのスポーツブランド『RANJO』の? 大企業じゃない!」

 薫が驚いて聞き返した。

 しかし、それも無理もない。

 蘭城グループ。

 先のスポーツブランド『RANJO』は世界的トップブランドで、各国の一流プレイヤーがこぞってその製品を愛用している。

 それらスポーツ製品分野だけでなく、工業、経済、医療、福祉などあらゆる分野に進出し、実績を上げ続けている巨大複合企業体コングロマリットだ。

「……どうしてそんな大企業がここに協力してるんだ?」

 利益を生まず、知名度アップにも関わらない活動に企業が協力するなんてあり得ない。

 会社員としての損得勘定が頭をよぎり、一彦は思わず聞き返していた。

 誠は足を止めると一彦達に振り返って答えた。

「彼女が言うには、の為、だそうだ」

 テスト? 何の?

 頭に浮かんだ疑問とは裏腹に心臓はドクンと跳ね上がった。

 誠はそんな様子の一彦にお構いなしに話を続けた。

「気付いてんだろ? 大神はただの人間じゃない――サイボーグだ」

 サイボーグ。自動制御技術サイバネティクス生命体オーガンの融合。フィクションでしか存在し得ない人造人間。

 そんな馬鹿な、と昨日までの自分なら一笑に付しただろうが、今日の体験がそれを許さない。

 それどころか、その馬鹿な考えに取り憑かれている自分がいる。

「誠、お前は……、なのか?」

 妙な様子の一彦に対し、心境を察した誠は肩を竦めて軽口を叩くように答えた。

「生憎、頭の先からつま先まで、生まれたまんまの綺麗な人間だ。なんなら見てみるか?」

 誠が制服の胸元をはだけて悪戯っぽく笑うと、一彦も自分が言ったことに罪悪感を抱いた。

「……悪い。酷い事、言っちまった。疲れてるんだな、俺」

 気にすんなって、と誠が一彦の肩を叩くと皆を促して再び歩き始めた。

 その道すがら、大神がここに来た経緯と蘭城グループが協力してくれる理由を話してくれた。


 大神は事故で身体の八割を失ったが、蘭城グループの技術を結集した手術を受ける事によりサイボーグとなった。

 稼働テストにおいて、サイボーグの身体は人間の身体能力を遥かに上回る数値を示していた。

 しかし、高い能力の反面、活動可能時間が短いという問題を抱えていた。

 駆動部分からの電力回生機構をいかに駆使しても、大神の生命維持と駆動電力を確保するにはバッテリー容量が余りにも不足していた。

 その上、当時の技術力ではバッテリーの出力向上も電力回生機構の技術向上も見込めなかった。

 そこで目を付けたのがココ、A.M.A.P.という訳だ。

 どこから聞きつけたのか、突然、俺の前に現れるとこう言い放った。

『魔術を使ってこの大神サイボーグの活動時間を飛躍的に伸ばせ。その代わり、ここと関連組織全てにおいて設備面で協力させてもらう』

 技術供与という形で電力問題を解決した所、彼女は約束通り設備面で協力してくれた。

 それどころか、大神を隊員として使ってくれとの申し出まで。

 ここの経験と秘匿性の高さがサイボーグの実用及び耐久試験にもってこいだからだそうだ。

 こっちも当時は組織の規模も小さく、高い身体能力を持つ隊員は一人でも多く欲しかった。

 お互いの利益が一致し、大神をA.M.A.P.の隊員として配属させる事となった。

 

「――で、現在に至る訳だ。納得したか?」

「ああ、そうだな」

 誠の包み隠さない説明に一彦も納得した。しかし、一つだけ気掛かりな点があった。

「こんな内部の事情、俺達に話しても問題ないものなのか? 普通、機密だろう?」

「そうだ。一応、ここの最高機密という事になってる」

 しれっと答える誠に一彦は慌てて聞き返した。

「お、お前っ! 何でそんな内容を俺達に話した!? 機密漏洩とか考えなかったのか!?」

 秘匿組織の最高機密。そんなものを知らされるなんて堪ったものではない。

 これが他に知れるところとなれば、罪状をでっち挙げられて拘束されるに違いない。

 その後の人生は推して知るべしだ。

 慌てる一彦を前にしても、誠はどこ吹く風とばかりに平静だ。

「まぁ、他ならぬお前に聞かれたからなぁ。答えてやらなきゃ、と思うだろ? だから、ここで話した内容は秘密な♪」

 誠はそう言って茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべると人差し指を立てて唇に当てた。

 子供の頃から変わらないその仕草に一彦もがっくりと力が抜けた。

「お前、子供の頃みたいなノリで機密をぽんぽん話すなよ……。分かった、口外しない」

 誠は一彦の呆れた様子にニコニコと頷くと一彦の肩に腕を回して、肩組んで歩き始めた。

 こいつのこういう所は昔から変わらないな。

 一彦は面倒に思う反面、誠の好きにさせてやりたい気もした。

 しばらくその調子で歩いた後、誠は足を止めるとその先を指して言った。

「その先の右手、五つほどドアがあるだろ? そこが来客者向け宿泊施設になってる。それぞれツインの個室だ。通路挟んで向かいが医療施設、宿直のドクターもいるから気分が悪かったらすぐに言ってくれ。あと、食事はできれば食堂で頼む。運ばせる事もできるが、基本的に医療施設で療養中の者だけって事にしてるんだ。食堂の場所はさっき降りてきた階段の向こう側。隊員宿舎との併設だから隊員達と相席での食事になる事もあるかもしれないが、そこは我慢してくれ」

 誠はそこまで一気にまくしたてるとごそごそと上着の内ポケットをまさぐって三枚のカードを取り出した。。

「っと、ほら。これがそこのカードキーだ。そこのお嬢さんで一部屋、お前んとこの家族で二部屋。好きなのを選べよ」

「じゃあ……」

 薫がカードキーを選ぼうとした瞬間だった。

「危ない!」

 がくんと膝からバランスを崩した薫を一彦は咄嗟に受け止めた。

「恐らく疲労が限界に達しているのでしょう。こちらの世界に暮らす方では無理もありません」

 声の方に目をやると、リリィが半分眠っているような愛理を一彦と同じように受け止めていた。

 リリィの言葉に思わず薫に目を落とす。

 気丈に振舞っていたが、明らかに憔悴した表情。

 男性に比べ、只でさえ体力面で不利な女性だ。俺よりもずっと苦しかったはず。

 そんな単純な事にも気付かないなんて……

「……ダメだなぁ、俺は」

「え?」

 きょとんとした表情の薫を助け起こすと、一彦は誠が手にしたカードキーを引き抜いた。

「二部屋でいい。リリィちゃん、愛理の事を頼むよ」

「わかりました」

 リリィが眠ってしまっている愛理を抱え上げると、薫が慌てて食い下がった。

「ちょっと待って!」

 急に立ち上がろうとしてバランスを崩した所をまた一彦に抱き留められた。

「大丈夫だよ、薫さん。リリィちゃんなら何かあっても必ず守ってくれる」

 リリィは一彦の言葉に、にこりと笑顔を返した。

「でも……」

 一彦は尚も不安げな薫を安心させるように優しく語りかけた。

「こんなに疲れてる薫さん、初めて見るよ。今日だけは愛理の事を彼女に任せてゆっくり休もう?」

「……わかった」

 自分がかなり疲れているのを自覚したのだろう。

 薫は不承不承ながら頷いた。

「話はまとまったみたいだな。じゃ、また明日、な」

 皆の様子を壁にもたれかかって黙ってみていた誠がそう纏めると踵を返した。

「誠!」

 一彦が立ち去ろうとしていた誠を呼び止めると、誠は耳だけを向けてそれに応える。

「今日は何から何まで本当に助かった。恩に着るよ」

 誠は一彦のその言葉を聞いて振り返ると口元に笑みを浮かべて軽口を叩いた。

「そーそー、一生分、恩に着ろよ? …なーんてな。お前を助けられる力をたまたま俺が持ってただけだ。気にすんな。とはいえ、俺の独断専行による部分も大きいがなぁ」

 そこまで言って、ハハハと笑う誠。

 その笑顔は昔とちっとも変わってない。そんな誠につられて一彦の口にも笑みがこぼれた。

「……お前がここにいてくれて助かったよ。ありがとう」

 理解できない状況、変わってしまった自身を取り巻く世界の常識。

 不安しかない環境において知人の存在はこれほど安心できるものなのかと思い知った。

 でなければ、つられて笑うなんて事、できはしない。

 誠は一彦の言葉を誤魔化すように笑い飛ばすと、

「奥さんだけじゃねぇ。お前もだ。『ゆっくり休む』のは」

 そう言って手を振り、今度こそ来た道を戻っていった。


「――このカードは部屋の鍵。扉のスリットに差し込めば鍵が開くから。部屋から出る時は忘れないようにね」

「わかりました」

 リリィは一彦から説明を受けてカードキーを受け取ると、廊下脇のベンチに寝かせていた愛理を抱えて、割り当てられた部屋に入っていった。

 一彦はそれを見届けると、薫を抱え上げた。

「ま、待って!」

 薫が大声を上げて止めさせる。

「そ、そんな『お姫様だっこ』なんてしなくても歩けるから。……大丈夫だから」

 心なしか薫の頬が赤い。

 さっき倒れかけたばかりなのに、と心配する一彦だったが、抵抗する薫を抱え上げても仕方ない。

 下に降ろすと薫は、もう、と悪態とも照れ隠しとも取れる一言を発して一彦からカードキーを奪い取った。

 そのままの勢いでさっさと扉を開けて中に入る。

 薫が後ろ手に閉めようとした扉に、一彦は寸での所で身体を滑り込ませた。

「あ、危なかった……。ちょっと薫さん、締め出さないでよ!」

「へー、意外とちゃんとした部屋なのねー」

 薫は一彦の抗議を聞き流し、部屋の中を見て回っていた。

 部屋の内装は誠が言ってた通りの一般的なツインルーム。

 奥にナイトテーブルを挟んでベッドが二つ、入口を入って左側にドアが二つあり、奥側はドアを開けるまでもなく、『TOILET』の表記通り、トイレだ。手前側を開けてみると、脱衣所を兼ねた洗面所、その奥がバスルームになっていた。

 右側の大きな引き戸はどこのホテルでも見かける。おそらくクローゼットになっているのだろう。

 開けるとハンガー掛けにいくつかのハンガーが掛かっており、その上の棚には清潔なタオル・バスタオルの類が収められていた。

 しばらく泊るには不都合なさそうだ。

 一彦はそこからバスタオルを一枚取り出すと薫に手渡した。

「お風呂、準備するから。薫さん、先に入りなよ」

 一彦はそのままバスルームに入るとバスタブの栓をして湯を溜め始めた。その際、バスタブに掛かっていたバスマットをひょいと手に取る。

 それにしても、今時、バス・トイレが別になっている部屋とは恐れ入る。街の住宅事情ではビジネスホテルでもバス・トイレ共用となっているのが大半だ。

 対して、この部屋ではバス・トイレが別々になっていて、そのお陰で洗い場で髪や身体を洗い流した後でゆっくりと湯船に浸かる事ができる。身体を休めるにはもってこいの造りだ。

「全くもって、誠様様さまさま、だな」

 誠の気遣いに感謝しつつバスルームを出て、すぐの所に手に持ったバスマットを敷く。

「薫さん、もうすぐお湯が溜まるよ。この部屋、浴室に洗い場があって……薫さん?」

 顔を上げると、浴室を出たところにいた筈の薫の姿がない。

「こっちよ」

 部屋の奥から聞こえた薫の声に振り向くと、薫が持参したバッグから何か取り出していた。

 それを手にして一彦の前に来ると目の前に差し出した。

「はい、これ」

 それはきれいにパッキングされた真新しい男性用下着類だった。

「タオルだけ渡されてもお風呂に入れる訳ないでしょ? ちゃんと着替えも準備しとかなきゃね。貴方の浴衣はベッドの上に出してるから、忘れずに持って入ってね。じゃ、お先にお風呂、いただくわ」

 伝える事をきっちりと伝えた薫はにこっと微笑むとバスルームへと消えた。

 一彦が自分のベッドに目を落とすと、そこには薫が言った通り、きれいに畳まれた浴衣とバスタオルが置かれていた。

 思わず感嘆の溜息が出る。

「……ホント、押さえる所はきっちりと押さえててすごいな」

 とてもそこまで気が回らない自分とは大違いだ。

 一彦は浴衣を横に避けるとベッドに身体を投げ出した。

 日頃からトレーニングしているとはいえ、今日一日で散々な目に合った身体だ。あちこちから悲鳴が上がっている。それでも気を張り詰めていられたのは薫さんと愛理を守りたい、その一心故だ。

 成り行きでここに来た訳だが、これからどうするか。

 ここにいる事で脅威からは守られるかもしれないが、その脅威が無くなる訳ではない。

 リリィちゃんに何か考えがあるようだが、それも確信は持てない。

 先の事を考えると不安でいっぱいだ。

 思わず、パッキングした袋を持つ手に力が篭る。

 その時、ふと気付いた。

「何で薫さんは俺の新しい下着類を準備してくれてたんだ?」

 あの家には薫さんと愛理の二人で暮らしていたはずだ。

 なのに、どうして……?

「お風呂、ありがとう。助かったわ」

 不意にかけられた声に驚いて跳ね起きる。

 見ると風呂から上がった薫がバスタオルで髪を拭きながら浴衣姿で立っていた。湯上りでほんのり上気した頬が何とも色っぽい。

「ん? どうしたの?」

 思わず見惚れていた一彦は薫の問いかけにしどろもどろになって答えた。

「い、いや、何でもないよ。……下着、ありがとう。俺もお風呂入ってくるよ」

 一彦はその場から逃げるようにして浴室に向かった。

 それ以上、その場にいたら聞いてしまいそうだったから。

 この下着は本当に俺の為の物なのか、と。

 今もこの上着の内ポケットに入っている離婚届。それがそんな考えを思い起こさせる。

 不意に浮かんだ嫌な考え。

 こんな考えは風呂に入ってさっさと洗い流したかった。

 一彦は着ていた服を乱雑に脱いで脱衣籠に放り込むと、浴室に入るや否や身体洗いもそこそこに湯船に身体を沈めた。

 嫌な考えを洗い流す為に入った風呂だが、その考えは一向に頭から離れない。

 離婚届を受け取った時から想定はしていた事態。

 しかし、それを受け入れる覚悟ができていなかった事を思い知らされた。

 愛する妻と娘が他人のものになる。

「……っ! くそっ!」

 バシャァッ!

 カッとして水面に拳を叩きつけてしまった。

 想像するだけではらわたが煮えくり返る思いに駆られる。

 自分はこれ程までに嫉妬深い男だったのか……。

 抱えている不安がこれまで意識する事のなかった自分の嫌な面を増長させているように感じる。

「……もう上がるか」

 今は一人で湯に浸かっていると嫌な事ばかりが頭に浮かんでしまうようだ。

 一彦は気分を切り替える為、早々に風呂から上がる事にした。


「あら、早かったのね」

 見ると薫が自分のベッドに腰掛け、ドライヤーで髪を乾かしていた。

 風に煽られて流れる黒髪。その艶やかさに思わず見入ってしまう。

「どうしたの?」

 その問いかけに自分が薫に見惚れていた事に気付き、平静を装いながらも内心慌てて答えた。

「あ、ああ。ちょっと気分が、ね……」

 風呂での事を思えば嘘という訳ではない。

 が、どう考えても本心を見透かされたくないが為の単なる言い訳だった。

 しかし、薫は一彦の言葉を聞いてドライヤーを置くと、傍に来て顔を覗き込んできた。

「やだ、酷い顔色。ちょっと待ってて。向かいの医務室から薬もらってくるから」

 そう言って出て行こうとする薫の手を一彦は反射的に掴んだ。

 ? 何だ? どうして俺は彼女の手を……

 驚いて振り向いた薫と目が合う。

 それは一瞬のような、もっと長い時間のような。

 薫は何も言わず、一彦の側に寄り添うとそのまま一彦をベッドに連れてきた。

「よっぽど疲れてたのね。今日はもう休んだ方がいいわ」

 一彦は薫に促されてベッドで横になった。

 すると薫はすぐ横に腰掛けて一彦を見下ろす。

「大丈夫。あなたが眠るまでここにいてあげるから安心して」

 そう言われて一彦は思わず苦笑いした。

「俺は子供じゃない」

「そう?」

 意外そうに聞き返されて思わず言葉に詰まる。

 自分が薫を引き留めた理由に思い至ったからだ。

「でも、ありがとう」

 一彦は自分の気持ちを誤魔化してそう言うのが精一杯だった。

「何言ってるの。それはこっちの台詞よ。あなたが来てくれなかったら私も愛理も大変な事になる所だったわ。……本当にありがとう」

 薫の言葉に一彦は首を横に振った。

「そんなことない…。おれが…」

 薫さんの家に行ったからこんな事になったんだ。

 俺が二人を巻き込んだんだ。

 俺が行かなければこんな事には――

 薫に悔いながら一彦の意識は深く沈んでいった。


                  *


 ピピピピピ――

 翌朝、アラーム音に叩き起こされた一彦は思わず音の方向に手を伸ばす。

 手に触れたのはナイトテーブルの上にあった置時計だ。時刻は朝7時。

 ピッ――

 アラームと止めて隣のベッドを見ると既に薫の姿はなく、綺麗に整えられていた。

「この時間じゃ流石にもう起きてるか」

 昨日、甘えた姿を見せた手前、薫に顔を会わせずに済んで少しほっとしている自分がいる。

「……! 何バカな事考えてんだ、俺は」

 身の安全を考えなきゃいけない状況で姿が見えない事は安全確保ができていないのと同じだ。

 一彦は洗面所で顔を洗うと手早く身支度を整えて部屋を出た。

 薫の向かう場所として考えられるのはただ一つ。

 一彦は隣の部屋の前に来るとドアをノックした。

 少しして、はい、と中から声が返ってきた。リリィの声だ。

 一彦は訪問者が自分である事を分からせる為に声をかけた。

「リリィちゃん、おはよう。そこに薫さん、いるかな?」

 少し間を置いて、ドアロックがカチャリと音を立てると向こうからドアが開かれた。

「中へどうぞ。……後ろの誠さんもご一緒に」

「へ?」

 指摘に驚いて振り向くと、自分の背後でにこやかに手を振る誠がいた。

「!? お前、いつの間に!?」

「いいからいいから♪」

 誠は気色ばむ一彦をお構いなしに部屋へと押し込んだ。

 おいやめろ、と怒る一彦に対し、暖簾に腕押し状態の誠。

 一彦は怒る気力も失せた。

 リリィに促されて部屋の中に進むと、ベッドに腰かけた愛理、それに寄り添うように座る薫の姿があった。

 薫と目が合うとこちらが口を開く前に向こうから話しかけてきた。

「おはよう。昨日はよく眠れた?」

 その声の柔らかさに幾分感じていた気恥ずかしさも霧散する。

「おはよう、薫さん。おかげ様でよく眠れたよ。ありがとう」

 直前まで感じていた気恥ずかしさもなく、素直にありがとう、と言えた自分に少し驚いた。

「そう、よかった」

 そう言って向けられる薫の笑顔に安らぎを感じるが、カサリと音を立てる内ポケットの離婚届がそれを切なさへと変えてしまう。

「はいはい、朝からごちそうさまです」

「コラ、茶化さないの」

 薫と愛理、親子二人の微笑ましいやり取りは周囲の笑いを誘った。

 一彦の内心を知らずにからかう愛理だったが、今はむしろその無遠慮さが一彦には救いだった。

 そんな事を思っているなど臆面にも出さずに二人に問いかける。

「薫さんと愛理はどう? 眠れた?」

 二人は顔を見合わせると困ったように笑って答えた。

「少しは眠れたけど、ね」

「やっぱりちょっと……こわかったから」

 少し眠れたと言う薫に恐怖と訴える愛理。

 人知を超える体験をしたのだ。当然だろう。

 一彦自身は薫が与えてくれた安心感もあって、疲労に半ば意識を持っていかれるような形で眠りについたが、一彦ほど疲労していなかった二人はそうはいかなかったのだろう。

 俺が二人を訪ねたばっかりに……。

「ごめんな、二人とも……」

 一彦は幾分疲れた表情を見せる二人に胸が痛んだ。

「そんな顔しないの」

 薫は沈痛な面持ちの一彦の頭をこつんと小突いた。

「起こってしまった事を悔いても仕方ないわ。それより、これからの事を考えましょ」

「そうですね。それについては私から提案があります」

 薫の尻馬に乗る形でリリィが話を切り出した。

「ほう、異界人の提案となりゃ俺も興味あるね。是非、聞かせてくれ」

 それに身を乗り出してきたのは誠だ。

 リリィはどうしたものかと一彦に判断を仰ぐように視線を送る。

 一彦はそれに頷いて返すと、リリィはその提案を口にした。

「提案というのは、一彦さんのお父様に会う事です」

 思考停止とでも言うのだろうか。

 リリィの提案に皆が呆気に取られてしまった。

 困惑に包まれた沈黙を最初に破ったのは誠だった。

「おい、一彦。一体、どういう意味だ? 俺にも分かるように説明してくれよ」

 そう言われても困る。

 何せ一彦自身にもリリィの意図が全く分からないんだから。

「勘弁してくれ。俺も今、この場で聞かされたばかりで訳が分からないんだ」

 困惑しているのは一彦と誠だけではない。薫からも不満が上がった。

「リリィさん、一体、どういうこと? お義父さんはこの地域で暮らす普通の町医者よ? 会って何が変わるというの?」

 薫の指摘はもっともだ。

 今の自分達の置かれた状況に対して、一介の町医者に何ができるというのか。

 しかしリリィは薫の当然の疑問に首を横に振って答えを拒んだ。

「申し訳ありません。今の段階ではこれ以上お答えする事ができません。ですが――」

「会えばに進む、って訳か?」

 リリィの言葉を奪う形で誠が問いかけると、リリィはこくりと頷き、はい、と答えた。

 それを聞くと誠は手をぱんぱんと叩いて話を終わらせると、わざとらしいくらい大きい声で皆に声をかけた。

「よーし、そうと決まれば先ずはメシだ! ……そうだ、一彦」

「なん――わっ、ぷ!」

 呼ばれて誠の方を向いた時には紙袋の包みがすぐ目の前にまで放り投げられていた。

 当然、反応できる訳もなく、包みを顔で受け止める羽目になった。

「いって……何だよ、これ?」

 一彦は悪態をつきながら中身を取り出すと、それはここの制服だった。

 一彦は困惑の視線を誠に送る。

「見ての通り、ここの制服だよ。備品倉庫から余ってるのをかっぱらってきたんだが……とりあえず、今のその恰好じゃ迂闊に外も歩けねぇだろ?」

 誠に言われて改めて自分の恰好を確認してみる。

 スーツは昨日の騒ぎで皺だらけ、付着した体液は蒸発して消えたとはいえ、若干、シミになっているようにも見える。一歩間違えれば浮浪者に見えなくもない。

「……確かにこれじゃ不審者扱いされても文句は言えないな。でも、隊員でもないのにこの制服を着る訳には――」

「い・い・か・ら!」

 一彦の常識的な反論は誠の非常識な強引さでねじ伏せられた。

「どうせ何着も余ってんだ。そんな泥だらけのスーツ着てるよりは幾分見られる」

 強引に急かす誠の様子を見て諦めた一彦はしぶしぶと上着を脱ぎ始めた。

 と、誠は、それに、と言葉を続ける。

「ある程度の防刃機能も持たせてる。これで『もしもの時』も安心だろ?」

「――! わかった。有難く着させてもらう」

 全く……。相変わらず素直じゃないな。

 そんなに持って回った言い方をしなくても、『防刃能力があるから、これを着てれば安全だ』と言って渡してくれればいいじゃないか。

 一彦は誠の不器用で遠回りな気遣いに苦笑いをしながら制服に袖を通した。

 一彦の着替えを待って、全員で食堂にて朝食を摂る事になった。

 食事の間に話し合った結果、一彦の実家に向かうのは一彦とリリィ、それに車を出す誠の三人、薫と愛理は安全の為にここで状況が好転するまで保護してもらう事になった――のだが。


「……薫さん、本気で言ってるの?」

 手早く身支度を整え、誠達が待つ車に向かう一彦に薫は驚くような提案を持ちかけてきた。

「あの子も行きたがってるし、駄目かな? 愛理を学校に行かせるの」

「駄目かな、って……」

 一彦には理解出来なかった。

 何を馬鹿な事を。

 命を狙われてるのに学校に行く?

 わざわざ命を危険に晒す必要がどこにある?

 一彦は苛立ちを抑え、できるだけ平静を装って薫の説得を試みた。

「あのね、薫さん。今、愛理は命を狙われてるんだよ?」

「分かってる」

 分かってないっ!

 俺は昨夜、デモンなんていう巨大な化け物を目にしたんだ!

 あれが愛理の前に姿を現したら――!

 一彦は苛立ちを抑えきれなくなって、つい声を荒げた。

「だったら何で!」

「だからこそなの!」

 一彦は思ってもみない薫の強い口調に驚いた。

「あの子、昨日の事は夢か何かだと思い込もうとしてるみたいなの。だから一見、平気そうに見えるけど……。そんな事を考えてしまう心は深く傷ついている証拠よ。今のあの子には日常の平穏が必要なの」

 一彦は先程までの愛理の様子を思い浮かべる。

「確かにぱっと見はいつも通りに見えたけど……そんなに違う?」

 一彦の問いかけに薫はこくんと頷いた。

「私が部屋を訪ねた時の顔、すごく不安そうだったもの。あんな顔、子供にさせるものじゃないわ」

 薫にそう言われて、一彦は自分の鈍感さに内心頭を抱えた。

 そんな一彦の心情など知る由もなく、薫は話を続ける。

「愛理の大切な日常を昨日みたいなふざけた非日常に壊されたくないの。お願い……」

 不安なのか、薫は自分の腕を抱きしめるようにして一彦に懇願した。

 デモンを目撃してないにしても、薫は危険性を理解していない訳じゃない。

 家で触手に襲われた時は薫も愛理も命の危険を感じたはずだ。

 それでも、愛理を学校に通わせたいというのは、愛理の心を守る為。

 ここに閉じ込めれば確かに命の保証はされるかもしれない。

 しかし、それはいつまで続く?

 先の見えない状況で、閉鎖的環境での隔離に8歳の少女の心が耐えられるのか?

 命か、心か――答えの出ない難問に頭を悩ませていると戸口から声がかかった。

「行かせればいいじゃねぇか」

 振り向くとそこには、大神が昨日の負傷など無かったかのように元気な姿で立っていた。

 昨日、目の前で起こった惨状から考えると信じられない思いだ。

「大神さん、あんた、身体は大丈夫なのか?」

 大神は一彦の問いかけに右腕をぐるぐる回して答えた。

「ああ、麗華が頑張ってくれたお陰でご覧の通りだ」

 と、大神は真剣な表情をして一彦に向き直る。

「出雲さん、俺がお嬢ちゃんのガードに付く。有事に対処できる装備一式を持ってな。それなら奥さんの希望を聞いてやれるんじゃねぇか?」

「それは……」

 正直、願ったり叶ったりだ。

 しかし、警護対象を外に出すなんて、警護する側からすればリスクでしかない。

 何故――

「何故、そこまでして下さるんですか?」

 一彦の抱いた疑問を口にしたのは薫だ。

 大神は堅い表情を崩して笑顔で答えた。

「奥さん、貴女が言った通りだからですよ」

「私?」

 薫の問いかけに大神はこくりと頷いた。

「こういった非日常に身を置いていると、それを知らなかった頃には戻れなくなるんです。日常生活を送っていても、その陰に潜む非日常を意識してしまうようになる。……普通じゃないでしょ、こんなの」

 同じ笑顔の大神だが、その笑顔はどこか寂し気に見えた。

 薫が返答に困っていると、大神が慌てて取り繕った。

「ああ、すみません! 別に俺の身の上話を聞かせるつもりじゃなかったんです。ただ、お嬢ちゃんにそんな風になってほしくない、それだけなんです」

 どんな事でも、一度知ってしまえば知らなかった頃には戻れない。

 知らないに越したことはない。

 大神の行為はそう思っての事なのだろう。

 薫もそれを感じ取ったのか、大神に深々と頭を下げた。

 一彦もそれに倣って頭を下げる。

「……愛理の事、よろしくお願いします」

「お任せ下さい」

 大神は二人に力強く応えた。

 準備があるので、とその場を後にした大神と入れ替わる形で誠がやって来た。

「一彦、ここにいたのか。表に車を回した。リリィちゃんは車で待たせてるからお前も来い」

 誠は言いたい事だけ言うとすぐさま取って返した。

 一彦もすぐに誠の後を追う事にした。

「――っと!?」

 走りだそうとしていた所に左手を引っ張られた。

 危うく転びそうになって思わずそっちを振り返ると、薫が何か言いたげな様子で一彦の左手を両手で掴んでいた。

「な、何? どうしたの?」

 一彦は急に引き留められた事に驚いて薫に問いかけた。

 しかし、薫は手を握ったまま、俯いて中々話そうとしない。

「薫さん?」

 もう一度、問いかけると薫は顔を上げて口を開いた。

「……気を付けて、ね?」

 その瞳は不安に揺れ、握った手からは震えが伝わって来た。

 ――何てバカなんだ、俺は!

 薫も昨夜の出来事の当事者、恐怖を感じずにいられる訳がない。

 その恐怖に耐え、平静を装い、あまつさえ昨夜は不安になった自分を安心させてくれた。

 今の今まで気丈に振舞っていただけなのだと気付き、一彦は己の鈍感さを呪った。

 胸に熱いものがこみ上げてきた一彦は掴まれていた左手をぐいと引き寄せた。

「あっ!?」

 一彦はバランスを崩した薫を胸で受け止めるとそのまま抱きしめた。

「薫さんの不安に気付けなくてごめんね」

「……」

 薫は抱き止められたまま、何も答えない。

 一彦は構わず、努めて明るい声で続けた。

「理屈はどうあれ、俺が親父に会う事で道が開けるんだ。大丈夫、すぐに元の生活に戻れるよ」

 薫はその姿勢のまま、フフッと笑ったような気がした。

「嘘つくの、下手ね」

「上手に嘘つけるなら、それは詐欺師だよ」

 一彦が悔し紛れにそう返すと、あははっと笑って薫が身体を離した。

「……少しは元気でたみたいだね」

 一彦の言葉に薫は照れたように微笑んで頷いた。

「じゃ、行ってくる。なるべく早く帰ってくるよ」

 うん、と頷く薫に背を向け、一彦は誠達の待つ表の車へと急いだ。

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