5 急転

 誠は処置室の向かいに立つ一彦と薫に気付く様子もなく、慌ただしく処置室に飛び込んだ。

 それを見た二人も慌てて後に続く。

「誠、どうした!? 一体、何があったんだ!?」

 彼女は俺達とは違う。

 常に戦場に身を置き、敵の襲来に対する警戒を怠った事もない。

 にも関わらず、力なくぐったりとした様子で誠に抱えられてきた。

 普通じゃない。

 一彦は点滴のハンガーを引き摺りながら転がるような勢いで誠にしがみついた。

 薫は慌てて一彦を誠から引きはがすとその腕を自分の首に回し、一彦に肩を貸す形で立たせた。

「どうもこうもない! 裏口のとこで寄りかかるようにして一人、倒れてたんだ!」

 誠はそんな様子の一彦にも構わず、慌ただしくリリィを処置台に寝かせながら答えた。

 一彦はその返答に愕然とした。

 そんな! リリィは愛理のガードをしていたはず。

 なら、愛理は一体どこに!?

 誠の説明に混乱していたのは一彦だけではない。

 一彦は自分の二の腕を握る薫の手に力が篭る感触をはっきりと感じていた。

 一彦と薫が更に誠に質問しようとしたが、二人と誠の間を割って入るようにして医師が現れた。

「処置の邪魔だ! 無関係な人間は外に出てくれ!」

 医師が二人を追い払おうとすると、か細い声がそれをやめさせた。

「待ってください…。私への処置は無用です…」

 そう口にするリリィだが、その言葉とは裏腹に顔色は青く、表情は苦し気だ。

「しかし……」

 渋る医師だったが、リリィは首を横に振るとその理由を息も絶え絶えな様子で答えた。

「この麻痺症状は…魔界に生息する…毒蛾の鱗粉を吸った為に起こったものです…。この世界で…効果のある薬を…探すのは…物理的にも時間的にも難しいでしょう…」

 それより、とリリィが一彦に視線を向けた。

 申し訳無さそうな目。

 リリィのその目を見た瞬間、一彦は全てを理解した。――愛理は敵の手に落ちた事を。

 しかし、一彦にそれを直接口にする勇気はない。

 一彦は薫の支えから離れてよろよろとリリィのベッド側に来ると震える唇を開いた。

「そう、なんだな……?」

 曖昧にそう聞き返すのが精一杯だった。

 リリィは一彦の問いに対し、こくりと頷いた。

 そのやり取りに薫は意味を察したのか、いやいやをする様にかぶりを振ると振り返って駆け出した。

「待ちなさい!」

 その声と共に自身の身体を盾にして薫の暴走を止めたのは駆けつけた輝明だった。

 しかし、薫も大人しくは引き下がりはしない。

「離してっ! 離してください、お義父さん!」

 がっしりと掴まれた両肩から輝明の手を引き剥がそうと暴れる薫。

 しかし、いくら暴れても輝明の手が離れる事はなかった。

 輝明はベッドに寝かされたリリィをちらりと見ると状況を察して口を開いた。

「薫さん、あんたをここで行かせる訳にはいかん。彼女が殺されずにここに残されたという事はそれがメッセージという事だ。まずはそれを聞こうじゃないか」

 しかし、落ち着き払った輝明のその提案は冷静さを欠いた薫には逆効果だった。

「今頃、愛理はどんな目にあってるか分からないんですよ!? 悠長にそんな伝言なんて聞いていられません!」

「そうか? だが、彼女には言いたい事があるようだぞ?」

 輝明がくるりと薫の体をリリィの方へ向けた瞬間――

「――〔昏睡コーマ〕」

 リリィの魔法が発動するとがくんと薫の身体が崩れ落ちた。

 すかさず輝明が抱きとめる。

「一彦、薫さんを何処に運ぶ?」

 輝明が一彦の左腕をちらりと見て、そう聞いてきた。

 一彦は輝明の言葉に我に返った。

 こんな時に妻一人、抱き上げる事も出来ないなんて。

 輝明にしてみれば、一彦を気遣っての言葉であったが、一彦にとっては自分の不甲斐なさを突き付けられているようなものだった。

 一彦は憎々し気に負傷した左腕に目を落とすと、自身に対する怒りを押し殺して口を開いた。

「……取り敢えず、俺が使ってたベッドに寝かせよう。話はそれからだ」

 わかった、と輝明が薫を抱え上げると二人は一彦の病室へと向かった。


「…どう、ですか? …薫さんは…?」

 薫を寝かせてから処置室に戻ってくると、処置台に横になったままのリリィが声をかけてきた。

 麻痺毒だけでなく、薫に魔法をかけた事の罪悪感も手伝ってその苦悩の表情はより一層、深刻さを増しているように見えた。

 薫に魔法をかけるなんてどういうつもりだ!と一言文句を言ってやるつもりだったが、その顔を見た途端、そんな気も失せてしまった。

「……取り敢えずはうなされる様子もなく、静かに眠ってるよ。飛び出すのを止めてくれて助かった、と言うべきかは迷ってるけどね」

 少し棘のある一彦の言葉にリリィはその表情を一層曇らせた。

 しばらくすると、リリィはゆっくりではあるが事の顛末を語り出した。


                  *


 よし、今のところは付近に異常はないようですね。

 リリィは魔力の気配を警戒しながら愛理のガードについていた。

 とはいえ、直ぐ傍でべったりと付き添う訳にはいかない。

 それを行うには〔隠密ステルス〕の魔法で姿を隠さなければならないが、効果時間が切れてしまえば無関係な者に姿を見られてたちまち騒ぎになるだろう。

 それは薫の『愛理に普通の生活を送らせる』という望みから離れてしまう。

 そこでリリィは付かず離れずの場所、学校の敷地を出てすぐの雑木林から愛理を見守る事にした。

 そのリリィの視線の先で愛理は級友と笑顔で話していた。

 友達と話すことが楽しいのだろう、その表情はころころと変わって見てて飽きない。

 どの表情もきらきらと輝き、まるできらめく万華鏡のようだ。

 ……? おかしい。

 リリィは指先の感覚が鈍い事に気が付いた。触れているのにその感触は鈍く、代わりにぴりぴりと痺れたような感覚を感じる。

 ――!

 リリィは慌ててマントの端で口元を覆った。

「もはや手遅れですよ」

 リリィの対処を嘲笑うかのような言葉と共に男が物陰から姿を現した。奇妙な形のマスクをしていて表情が分かりづらいが怜悧な目元は間違えようがない。

 ブエルだ。

「っ!? どうしてっ!?」

 愛理には私にだけ感知できる隠蔽魔法の施された護符を渡してある。私以外、彼女を感知できないはずなのに……?

 リリィの驚愕の表情にブエルは何かを察したように頷いた。

「フフッ、成程。あの娘に隠蔽魔法をかけていたようですが、効果が切れた事に気付かなかったようですね」

「効果が切れた……?」

 あの護符には永続魔法を施したはず。効果が切れるなんて身に着けていない時しか――!

 そこでリリィは自分のミスに思い至った。

 確かに護符を身に着けていれば自分だけが愛理を感知できる。

 だが、身に着けていない場合は自分以外の敵も愛理を感知する事ができる。

 つまり、身に着けていてもいなくてもリリィには愛理を感知する事ができる為、敵に感知されている事に気付けない。これは致命的だ。

「なんて事なの……」

「貴女らしからぬ失態ではありますが、それはそれ。こちらも有効に利用させていただきましょう。さて、お身体の具合はいかがですか?」

 ブエルの言葉に自らの状態を顧みる。

 ブエルとの会話の間にも症状は進行し、指先のピリピリとした痺れは薄れ、代わりに感覚自体が鈍くなっている。

「どうやらしっかりと効いているようですね。警戒心が強い貴女の事だ。薬についても備えていると思ったのですが、どうやらそれは杞憂でしたね」

 ブエルはそう言うと右手に持っている小さな布袋を軽く振った。

 するとその袋の細かい網目から煙のように粉が舞ったが、すぐさま周囲の空気に溶け込みその粉は見えなくなった。

リリィはマントで辺りの空気を振り払うと油断なくブエルを見据えて問い返した。

「……薬?」

 もはや全身の感覚が鈍く痺れ、力が入らない。

 これがブエルの薬による効果なのは疑いようがないだろう。

「ええ。私の技術による代物です。能力ギフトでも付与力タレントでもなく、ね」

 リリィの苦し気な表情に気を良くしたのか、ブエルは自身の作り出した薬を誇った。

「私の能力ギフトは《超再生エクスリジェネレーション》。貴女も目にした通り、有機物、無機物の別なく対象を再生させるもの」

 ブエルの言葉にリリィは先日ブエルを追い詰めた時の事を思い出していた。

 降伏を迫った時に隙を突かれ、破壊されたデモン・ブエルを瞬時に復元されて逃げられたのだ。

「ですが、無機物を再生すれば加工前まで再生してしまう事もしばしば、有機物にいたっては再生の為に治癒力を促進する事で寿命自体を縮めてしまう――どうにも使い所が難しい能力でしてね。それ故に私は薬学を身につけたのですよ。どうですか、その薬? 動けないでしょう?」

 リリィはブエルが悠長に長話をしている間、反撃を試みようとしたのだがブエルの言葉通り、痺れて力が入らず動く事ができなかった。

「くっ…!」

 リリィは苦悶の声と共に膝から崩れ落ちた。

 ブエルは倒れたリリィを覗き込むように近寄ると満足げに頷いた。

「魔界に生息する毒蛾の鱗粉を精製して作った痺れ薬です。無味無臭、吸引してもそれに気付かない――それを風に乗せて貴女に振りまいたのです」

 そう言って笑うブエルの目に浮かぶ愉悦の色にリリィは我慢ならなかった。

 全く……癇に障りますっ!

「《高速詠唱ファストチャント》っ!」

 リリィの能力ギフトが発動すると同時にキンと魔法の詠唱音が響くと〔解毒アンチドート〕の魔法が発動した。

 しかし――

「解毒できない!?」

「何の対策もなしに薬の効果を明かす訳がないでしょう?」

 ブエルはくくっとリリィの行動を嘲笑うと丁寧にその理由まで説明してくれた。

「粉末の粒子、一粒一粒に〔抵抗レジスト〕の魔法が施してあります。意味は分かりますね?」

 それを聞いてリリィは絶望的な気分に陥った。

抵抗レジスト〕の魔法――それは強力な攻撃魔法や状態異常魔法に対抗する手段として生み出された魔法。

 抵抗魔法の耐久力と引き換えに、それらの魔法による効果・ダメージを吸収し無効化する魔法だ。

 魔法に抗する手段としては極めて有効ではあるが、回復魔法までも吸収・無効化してしまう為に使い所が難しいとされていた。

 しかし、その魔法にこんな使い方があったなんて……。

 彼の言う通りだとするなら、抵抗魔法が有効な限り魔法での解毒は不可能だ。だとするなら――

 リリィはすぐさま詠唱を開始し、自身に〔解毒アンチドート〕の魔法をかけた。何度も何度も連続で。

 自分自身に強力な魔法攻撃を加える方法もあったが、〔抵抗レジスト〕の耐久力が予想より低ければ無事ではすまない。

 リリィは安全策を取ったのだ。

 それを見たブエルは冷笑を浮かべるとリリィに背を向けた。

「そうです。賢い貴女であれば、自分もろとも攻撃魔法を加えるという博打など打ちますまい。私はこれからあの娘を頂戴いたします。返してほしくば今日深夜二時、私と貴女がこちらで最初に出会ったあの建物の所にあの男を一人で来させなさい」

 そう言い捨てるとブエルはリリィの前から姿を消した。


                  *


「――そうして彼は魔法を使い、私の目の前で愛理さんを攫って行ったのです」

 そこまで話すとリリィは肩を震わせ、顔をぐしゃぐしゃにして泣き始めた。

「ごめんなさい…ごめんなさい、私っ……! あ、愛理さんを守るって、わ、私――!」

「もういいって! もういいから、今は体を回復させる事だけに専念するんだ。いいね?」

 自分自身もぼろぼろになってるくせに、更に自分を責める姿なんて見ていられるかよ。

 一彦はリリィの姿がいたたまれなくてそう言う他なかった。

 でも、と食い下がるリリィだったが、一彦がじっと見つめると不本意ながら、わかりました、とベッドに横になった。

 すると、かなり消耗していたのだろう、リリィは瞬く間に静かな寝息を立て始めた。

 そりゃ、そうか……。今日のこの有様じゃ、肉体的にも精神的にも限界だろう……。

 一彦はリリィを起こさないようにそっと処置室を出た。


 一彦が自分の病室に戻ると輝明が睡眠状態の薫に付き添っていた。

「薫さんはいつ頃目を覚ます?」

「恐らく、丸一日は目を覚ますまい」

 抵抗する間もなく魔法を受け入れたからな、と輝明は付け加えた。

 それを聞いて一彦は安心した。

 そうか、よかった――これからの事を考えると尚更。

 愛理を攫い、リリィにメッセージを残すという事は愛理の命を交渉材料とする事に間違いない。

 その状況自体、薫を半狂乱にさせるには十分な代物だ。

「親父、リリィちゃんから聞いた、奴等のメッセージだが――」

 一彦は気を鎮める為に深呼吸をするとパイプ椅子を輝明の隣に持ってきて座り、内容を頭の中で纏めながら話し始めた。

 一通り、話を聞き終わった輝明が口を開いた。

「分かった。まず、リリィさんに起こっている魔法が効かない神経毒の症状だが、家にある解毒薬で直接毒素を中和すれば問題ない。後に〔抵抗レジスト〕の症状が残るが……まぁ、何とかなるだろう」

「そんな簡単に治るものなのか?」

 リリィちゃんの話では魔界の毒素故にこっちでは治せないと話していたのに。

 さらっと対策を講じる輝明に驚いて、一彦は声を上ずらせて問い返した。

 輝明は一彦の問いかけに、にやっと笑って答えた。

「お前、儂を誰だと思ってるんだ? 魔界出身者であり、今は医者だぞ?」

「……そうだった」

 今のこの状況、魔界の事を知る身内がいる事がこんなに頼もしいと思った事はなかった。

 その時、一彦はふと思い至った。

 頼もしい、か……。

 俺は今、不安なのか……?

 それはその通りだ。

 愛理が攫われて安否不明。攫った相手と対峙するにしても、いざという時の武器さえ無い。

 できるのは相手の要求通りに交渉の場に向かう事だけだ。

 ――交渉?

 妙だ。

 交渉を持ち掛けたいと思っていたのはこちら側で、向こうは知る由もない。

 むしろ、俺と愛理を殺し、魔界の支配権争奪戦から完全に排除したい筈だ。

 それが何故、今になってわざわざ愛理を攫って俺との交渉を望む?

 俺達の側に奴等が望む何かがあるとでもいうのか?

 それさえ判明すれば交渉次第で愛理を無事救い出す事ができるかもしれない――!

「…彦。おい、一彦!」

「うわっ、びっくりした。急に大声出すなよ」

 抗議する一彦に輝明は呆れ顔で答えた。

「何を言ってる。何度も呼び掛けたのに返事もせずに、ぼーっとしてたんじゃないか」

 どうやら、思った以上に物思いに耽っていたらしい。

 一彦は苦笑いしながら謝った。

「……ごめん。ちょっと考え事をね。で、親父の方は何を言おうとしてたんだ?」

「ああ、儂は家に戻って解毒薬を調剤して持ってくる。今が午後八時半、作業時間込みで二時間程で戻ってこられるだろう」

 という事は午後十時半という事か。

 交渉場所までここから車で四十分前後、リリィの回復を待った上で対策を練る時間は十分にある。

「しかし、一彦。お前、顔色が悪いな。交渉の時刻までまだ時間はある。少し休め」

 一彦をちらりと見た輝明が帰り支度をしながらそう言った。

 しかし、内心、不安と焦りが渦巻いている一彦にとって、その言葉は受け入れ難かった。

「冗談だろ? 愛理の事を考えたら一秒だった休んでられない。今から――」

「聞け、一彦」

 輝明の声は静だが、有無を言わせぬ圧力があった。

 一彦が聞く態勢になったのを見計らって輝明は言葉を続ける。

「いいか、一彦。戦にも波がある。悪い時には耐え忍び、良い時には一気呵成で好機をものにする。どちらにしても、体力が必要なのは言うまでもないだろう? 分かったら、今は休め。いいな?」

 経験者と感じさせるその言葉には素人でも感じられる重みがあった。

「……分かった」

 一彦は薫を寝かせている自分のベッドのその隣、未使用の空きベッドに渋々、横になった。

 輝明はそれを確認するとそっと病室を後にした。


「くそっ、やっぱ痛むな……」

 鎮痛薬が切れかけた左腕がずきずきと疼く。

 身体自体は疲労している為か、半ば意識を失うような形で眠りには入るのだが、眠りが浅くなってくると痛みでほぼ完全に目が覚めてしまう。

 そんな事をベッドに入ってから幾度となく繰り返していた。

 これじゃ疲れも取れないな……。

 新しく鎮痛剤が貰えるか看護師さんに聞いてみるか。

 そんな事を思ってナースコールを手に取ったその時、ガラッと勢いよく病室のドアが開かれた。

 いきなりの事に驚いた一彦が振り返るとそこには血相を変えた輝明が立っていた。

「戻って来たのか、親父。でも、ノックもせずにいきなりドアを開けるなよ。深夜にコレじゃ心臓が止まるかと思ったぞ」

 飛び上がるほど驚いた照れ隠しに悪態をつく一彦だったが、輝明はそれにも反応せずじっと立ち尽くしていた。

 不審に思った一彦が問い返す。

「親父、どうした?」

 一彦の問いに対し、輝明は絞り出すような声で答えた。

「……リリィさんの姿がない」

「どこかその辺りにいるんじゃないのか? 第一、まともに動けるような状態じゃないだろう?」

 輝明は一彦の反論に首を振って答えた。

「処置室詰めの看護師にも探してもらってる。少なくともこのフロアには見当たらない」

 一彦は時計に目をやった。

 午後十時四十分。輝明が見積もった時間から考えると十分程、この辺りを捜したのだろう。

 相手の指定時刻までまだ余裕がある。

 こんな時間に姿を消す理由なんて――

「――ある、か」

 リリィのように真面目な人間が今の状況でとる行動は一つ。

 失敗と取り戻そうとする事。

 真面目な人間はその性格から責任感が強い。

 それは本来いい事ではあるのだが、今はその責任感の強さが悪い方に働いている。

 自分のせいで失敗したのだから、自分が取り戻さなければいけない、という風に。

 だがそれは間違いだ。

 チームで動いているならミスによって陥る状況は皆等しい。

 しなければならない事は『チームとしてどう動けば失敗をリカバリーできるか』を考える事だ。

 それ無しに再び個人で動けば同じような失敗、若しくは更なる事態の悪化を招く事も考えられる。

 自分もサッカーを始めて間もない頃、自分のミスから相手に得点を許してしまった事があった。

 その失敗を取り戻そうと自分一人で空回りしていた所を諫め、助けてくれたのが誠だった。

 『サッカーはお前一人でやってるもんじゃねぇんだぞ、ミスはお互いにカバーすればいいんだ!』

 誠のその言葉は俺の肩にのしかかった重荷を取り除いてくれた。

 今度は俺がリリィちゃんの重荷を取り除いてやらなきゃ。

 一彦は溜息を一つ吐くと輝明に自分の思っている事を話した。

「リリィちゃんの行き先に心当たりがある。親父は誠達に『この前の廃ビル前に来い』と伝えてくれ」

 輝明はそう告げて通用口に駆けだそうとする一彦の肩を掴んで引き留めると怒鳴った。

「その怪我で何処に行く!? 場所を教えろ。儂が行く」

 至極真っ当な反応だ。

 誰だって怪我人なら病院に押し留めるだろう。それが自分の息子なら尚更。

 しかし一彦は首を横に振って答えた。

「駄目だ。リリィちゃんの行き先はブエルとの交渉場所だし、奴等が交渉に指名したのは俺だ。だから、俺が行かなきゃ!」

 一彦は輝明の手を振り払うと通用口に通じる非常階段へと駆け出した。


 通用口に向かうまでの間、色々な事が頭を駆け巡った。

 リリィちゃんが向かった先はブエルとの交渉場所。勿論、そこにはあのブエルという魔族がいる。

 一度は命のやり取りをした相手、そんな奴を相手に交渉なんて成り立つのか……?

 もし、成り立たなかった場合、何の力もない俺はなす術もなく殺されてしまうかもしれない。

 死ぬ。

 改めてそれを実感して、ぞくりと背筋に寒気が走った。

 通用口のドアノブに手を伸ばそうとした時、自分の手の平が冷や汗で湿っている事に気づいた。

 怖い。

 本当に恐怖で身が竦むというのはこういう事なのだと実感する。

 このドアを開けるとあのライオンの化け物がいるんじゃないか、という馬鹿げた考えを左腕の傷の疼きが思い出させる。

 くそっ! 弱気になってる場合か!

 一彦は頭を振ってそんな考えを頭の隅に追いやった。

 こうしている間にも愛理がどんな状況に陥ってるか知れない。

 一刻も早く、リリィちゃんと接触して奴等との交渉に備えなければ。

 通用口のドアノブに手をかけようとしたその時――

「一彦」

 自分を呼ぶ声に驚き、思わずそちらを仰ぎ見た。

 そこには自分を追ってきたらしい輝明が階段の上から声をかけてきていた。

「な、何だよ、親父。脅かすなよ」

「仕方なかろう。お前が忘れ物をしてるんだから」

 驚き抗議する一彦に、輝明はそう言って何かの小瓶を放った。

 一彦はそれを慌てて受け止める。

「これは?」

「儂が何の為にここに戻って来たと思ってるんだ? リリィさんの経口解毒薬だ」

 そうか。その為に一度、向こうに戻ったんだもんな。

 一彦は、助かる、と言ってそれをポケットに仕舞い込んだ。

「ベリアルは強敵だ。戦いになればひとたまりもないぞ。それでも本当に一人で行くのか?」

 輝明は無茶をする怪我人かずひこを責めるでも止めるでもなく、静かに問いかけてきた。

 一彦はその問いに対し、大きく頷いて返した。

「親父。俺、『俺は親父みたいにならない。ちゃんと愛理の傍にいてやるんだ』って思って生きてきた。ところが実際はどうだ? 仕事の忙しさで愛理との時間なんてほとんど取れやしない。俺の事はいつもキヨさん頼みだった親父を責められないよ」

 輝明は一彦の言葉に頷くでもなく、黙って話を聞いていた。

 一彦はそれを肯定的に捉えて更に話を進めた。

「そんな不甲斐ない俺を父と慕ってくれる娘が捕らえられてるんだ。たとえ、俺の命と引き換えだったとしても――」

「よせ」

 黙って聞いていた輝明がそれまでになく強い語気で言葉を発した。

 更に輝明は続けて言った。

「いいか、命と引き換えに、なんて安っぽいヒロイズムは捨てろ。お前が生きてこそ、愛理は助け出せるんだ。逆に言えば、お前が死ねば愛理も死ぬ。一連托生の運命共同体なんだ、お前と愛理は!」

 輝明はそこまで一息に言い切ると、階段を駆け降りて一彦の肩を掴んだ。

「必ず生きて愛理を助けろ。いいな?」

 輝明の勢いに一彦は黙って頷くしかなかった。

 しかしその答えに満足したのか、輝明は一彦を解放すると元来た階段の方に戻りはじめた。

「じゃあもう行け。リリィさんが先に交渉を始めてしまったらどうなるか分からんぞ」

「――! そうだな、じゃあ行ってくる!」

 一彦は逡巡してた先程とは打って変わって、迷いなくドアノブに手をかけると勢いよく飛び出して行った。


 一彦は外に出ると辺りを見渡した。

 しかし、リリィの姿は影も形もない。

 身体の自由が利かなさそうだったのに……!

 もう交渉場所に向かったのか!?

 焦る気持ちを押し殺し、もう一度辺りを見渡す。

 その時、ちょうどここに戻って来たらしい一台の車が目に入った。

 数人の隊員が車から離れ、隊舎へと向かっている。

 それを見た一彦は回り込む様にして車に駆け寄ると運転席のドアノブに手をかけた。

 すると、ガチャリと音を立ててドアが開く。

 開いてる!

 一彦は運転席に身体を滑り込ませると車のキーを探った。幸い、キーは差さったままだ。

 一彦は間髪入れずにキーを回すと、静まり返った深夜の駐車場には大きすぎる程のエンジン音が響いた。

「おい、ちょっと!」

 声がした方に振り返ると先程の隊員の一人が慌てた様子でこっちに向かってきていた。

「すまん、少し借りる! 夢島に言っといてくれ!」

 一彦はそう言うと返事も聞かずにドアを閉めて車を走らせた。


 車を交渉場所に向けて走らせて数分、ヘッドライトの光は何の変哲もない路面を照らすばかり。

 リリィの後姿が一向に見えてこない事に一彦は焦りを募らせていた。

 どうなってんだ?

 いくら何でも痺れた身体でそんなに遠くに歩ける訳がない。

 ――待てよ。

 一彦は車を停めると外に出て空を見上げた。

 俺達がここに来た時はクロウに乗せられて空から来た。

 土地勘も無く、身体の自由も利かないリリィちゃんが交渉場所に行くならどういう手段を取る?

 魔法で空から向かうんじゃないか?

 そんな事を思いながら視線を空に巡らすと、月明かりに浮かぶ鳥の影を目の端に捉えた。

 ――鳥? こんな夜に?

 違う! 鳥じゃない!

 一彦は目をよく凝らしてみた。

 翼のように見えたのは旗めくマントだ――落ち着いた赤紫色をした。

 間違いない、リリィちゃんだ。

 と、その時、馴染みの声が車載無線から飛び出した。

「おい、一彦! いるのか!? 今、何処にいる!?」

 焦った誠の声に、一彦は急いで車内に戻ると無線機のレシーバーに手を伸ばした。

「今は一昨日の廃ビルがあった山に行く途中だ」

 一彦がそう応えると誠はぶつくさと文句を言い始めた。

「車盗んで飛び出して一体何だってんだ? こっちはその事で部下からぶーぶー文句言われて――」

 一彦はそれには応じず、用件を端的に言った。

「リリィちゃんを見つけた。どうやら空からあの廃ビルのあった場所を目指してるらしい」

 無線の向こうで誠が息を呑むのが分かった。一彦は続けて言う。

「誠、俺はこのままリリィちゃんを追う。思い詰めたままのあの娘に交渉なんて任せられない」

 数秒の沈黙の後、冷静な隊長としての誠の声が返ってきた。

「分かった。到着先に既にベリアル等がいる事も考えられる。くれぐれも無理はするな」

「分かってる」

 一彦はそう応えて無線を切ると上空のリリィを見失わないように必死に車を走らせた。


「確か、この辺りに下りた筈なんだが……」

 一彦は車を降り、藪を分け入りながらリリィを探していた。

 目的地の廃ビルまでずっと車で行く事はできない為だ。

 麓から少し山に入った所で車道は終わり、歩道しかなくなってしまう。

 自然保護の一環ではあるのだが、そういった不便さがここから人を遠ざける理由の一つだ。

 そういう環境もあって一人飲みの時に時々こっそりと忍び込んでいたのだが――

「今は軽はずみに忍び込んだ過去の俺を殴ってやりたい! ……くっそ、徒歩だとまだ結構あるな!」

 こんな事になるのなら、もっと交通の便がいい所を選んだのに!

 泣きを入れたい気持ちもあるが、今は一刻を争う。

 全力で急ぎ、しかし物音はなるべく立てないようにして廃ビルへと向かった。

 十数分かけて移動してきただろうか。

 ドッドッと自分でも分かる程、心臓が早鐘を打ち、それに伴い左腕の疼きが増す。

 更にその疼きが意識しないようにしていた「死の危険」を思い起こさせる悪循環に陥っていた。

 一彦はごくりと生唾を飲むと右手でズボンのポケットに忍ばせた物を取り出した。

 それは車の中にあったガムテープを使って粘着面が表になるように護符をぐるぐる巻きにした物だった。中で布地にくっついて取れなくなってしまわないように、ポケット内にガムテープを貼り、その表面に粘着護符を貼り付ける形にしてすぐに取り出せるようにしてある。

 魔力隠しの護符。ある程度の魔力までなら他の魔族に魔力を感知させなくする事ができる護符だ。

 事実、これを身につけてから奴等に襲われた事はないが、愛理は外した途端に襲われてしまった。

 皮肉な事だが護符の効果は確かな物と言わざるを得ない。

 リリィによると、この護符は所持者の放つ魔素を吸収し、大気として放出する効果があると言う。

 どれ程の効果があるか分からないが、これを相手に貼り付けられれば相手の魔法を多少なりとも阻害できると思い付き、急いで車の中で作った。

 いざという時はこれと魔法銃で切り抜けるしかないな。

 命がかかっているというのにどこか他人事のように考えてしまう自分に一彦は思わず苦笑した。

 感覚が麻痺する、というのもそう悪い事でもないのかもしれない。

 恐怖で指先が震えるよりも、冷静で正確に銃口を相手に向けられるのなら。

「……! ……!」

 交渉場所の廃ビルまであと少しという所で、一彦の耳に微かな話し声が届いた。

 一彦は注意深く慎重に話し声の方向に歩みを進める。

 どうにか声が聞こえる藪の陰から様子を窺うと、そこにリリィがいた。

 相対しているのはブエルと見慣れない男、それにブエルの傍に立たされている愛理だ。

 後ろ手に縛られた上、猿ぐつわをかまされて声を上げられないようにされている。

 愛理……!

 すぐにでも何とかして助け出したいが、迂闊な行動はできない。

 特に危険と感じるのはリリィと相対している見慣れない赤い長髪の男。

 男は黒い鎧を身に纏い、剣を帯びているが、腰の剣に手をかけるでもなく自然体で立っていた。

 なのに、隙が無い。

 そう感じさせる雰囲気からしてブエルよりも格上だと分かる。

「ベリアル、私が貴方の要求全てに応えます。魔界全土の支配が望みなら私は全ての力を以て、それを支えましょう。ですから、もう彼らには――」

 ベリアルと呼ばれた男は手を挙げてリリィの発言を制すると口を開いた。

「リリィ、魔界全土の統一など今やお前の力を借りるまでもない。私の望みは、そこの藪に隠れているだ」

「えっ?」

 ベリアルの言葉にその場にいる全ての者の視線が一斉にこちらに向く。

 まずい!

 最初からここにいるのがばれていたのか!?

 どうする!?

「どうした? そこから出てこないなら、そのまま魔法で蜂の巣にしても構わんぞ?」

 ベリアルのその言葉に一彦は姿を現さざるを得なくなった。

 一彦の姿を確認すると、リリィは一彦を庇う様に前に立ちベリアルに向き直り尋ねた。

「貴方の望みが一彦さんというのは、どういう意味ですか?」

 ベリアルはリリィの質問を一笑に付した。

「知っているぞ? そやつの身体に施されているのだろう? 誰も成し得なかった先天的魔力の増強である『力の継承』が」

 リリィはベリアルの言葉に表情を曇らせた。その様子を見る限り、自分の身体に『力の継承』とやらが施されているのは間違いないだろう。

 つまり、使える、という事だ――自分自身を交渉の材料に!

「しかし、妙だな」

 ベリアルは顎に手を添え、訝し気に一彦を一瞥した。

「『力の継承』が施されているにも関わらず、お前からは全く魔力を感じられない。失敗作か?」

 人を実験動物モルモットのように言い捨てる物言いにカチンときたが、努めて冷静に受け流す。

「やれやれ、魔界全土を手中に収めようという者が随分と単純な見方しかできないものだな。今の俺の身体には魔法が施されていて魔素を感じられない筈だ。『力の継承』の神髄を知るにはこの魔法を解除する他ない。解除してほしければ娘を、愛理を返せ。愛理と俺の人質交換という形なら文句もないだろう?」

「一彦さん――」

 何か言いかけたリリィを、一彦は手を挙げて黙らせた。

 言いたい事は分かってる。

 何せ、

 よくもまぁ、こんなにスラスラと出鱈目な嘘が出てくるもんだ。

 喋ってる間中、一彦の心臓は早鐘を打ち続けていた。

 この緊張を見破られれば全てが嘘だと露見する。

 一彦は必死に平静を装っていた。

「貴様! 誰に向かって口をきいて――」

 ベリアルは気色ばむブエルを手で制すると、一彦を一瞥すると口を開いた。

「お前、名は何と言ったか?」

 射貫く様な視線に緊張で喉がヒリつく。

 一彦は唾を一度飲み込むと、努めて落ち着いた声を出して答えた。

「一彦。……出雲一彦だ」

 一彦の答えを聞くと、ベリアルは口の端を上げて二ッと笑った。

 精悍な顔から溢れた笑みは肉食獣を思わせる凄みを感じさせた。

「私に交渉を持ち掛けるとは面白い。いいだろう」

「ベリアル様! 御酔狂も程々に――」

 驚いて声を上げたブエルを、ベリアルは冷徹な声で切り捨てた。

「私はいいと言ったぞ、ブエル。私を挑発してまでの交渉だ。この交渉が成らなければ、恐らくその男は自ら命を絶つだろう。『力の継承』の神髄を道連れに、な。そうなれば、貴様が代わりに見せてくれるとでも言うのか? 『力の継承』の神髄を」

「……分かりました」

 ブエルはそう絞り出すのがやっとの様だった。

 恐ろしく冷たい声。異を唱えた瞬間、命を根こそぎ刈り取られるかの様な。

 そんな背筋が凍るような感覚に襲われた。

 ブエルでなくとも、そう答えるしかなかっただろう。

「では、俺がそちらにゆっくりと歩いていく。それと同時に愛理をこちらに向けて歩かせろ。そのままお互いがそれぞれの身柄を確保できれば交換は成立だ」

「いいだろう。だが、決して走るな。走った瞬間に娘を始末する。ブエル、用意しろ」

 ベリアルの命令にブエルは仕方なく愛理を傍に立たせると、猿ぐつわを外した。

「お父さん!」

 一彦を見て声を上げた愛理はまだ縛られたままだが、表情を見る限り怪我の心配はなさそうだ。

「愛理、言ったようにゆっくり歩いてくるんだ! 決して走っちゃいけないよ!」

 愛理は一彦の言葉に分かったというように頷いた。

 その直後、一彦は輝明からの頼まれ物をリリィに握らせる。

「えっ!?」

 驚いて振り返りそうになるリリィに一彦は素早く耳打ちした。

「親父が作った解毒薬だ。隙を見て飲んでくれ」

 一彦の耳打ちにリリィが頷くのを見て、ベリアルは不敵な笑みを浮かべた。

「何を企むか知らんが、準備できたようだな。よし、お互い歩き始めろ」

 ベリアルの言葉に一彦と愛理は向き合って歩き始めた。

 一歩、二歩とお互いが歩みを進め、ちょうど真ん中の距離ですれ違うその時、一彦は愛理に短く意図を伝えた。

「向こうに着いたら二人で逃げろ」

 思わず一彦を見上げた愛理だったが、一彦はちらりと見ただけでそのまま歩みを止めない。

 その様子に愛理は小さく頷くと少し俯いてそのまま一彦と同じように歩き始めた。

 暫くすると、何事もなくお互いの人質交換が終了した。

「さて、人質交換も終わった所で――」

 ベリアルが言い終わるより早く一彦が動いた。

 素早く護符を取り出し、ベリアルの脇をすり抜けざまにベリアルの背中に張り付けた。

 そのままの勢いで身体を翻しながらホルスターに収められた魔法銃に手をかけ――

「それを抜くのか? 私がこの剣を引いてその首を切り落とすより速く抜けるのか?」

 ベリアルの剣は喉元1センチのところに突き付けられていた。

 さっきまで剣は鞘に収められていたのに。それどころか剣に手をかけてすらいなかった。

 それが意味する所、それはベリアルが恐るべき抜剣速度の剣の達人であるという事。

 だが、ここでベリアルを殺せば後顧の憂いはなくなる。俺が死んでも愛理は助かる!

 一彦が意を決して魔法銃に手をかけた瞬間――

「待って!」

 そう言って二人を止めたのはリリィだった。

「お願い…。お願いです…。無茶をしないで……」

 泣いている。

 毒に侵されて苦悶の表情を浮かべていた時でさえ流さなかった涙。

 その涙を流し訴えるリリィを前に、一彦は銃から手を放して両手を上げる他なかった。

 その様子にベリアルはくくっと喉を鳴らすと耐えかねたように吹き出した。

「ははっ! やはり、我が子の首が撥ねられるのは見るに堪えんか、リリィ。……いや、ルシフェルが妃、リリスよ」

「我が子だって!?」

 一彦は驚いてリリィを見ると、目が合ったリリィは何を応えるでもなく、ただ目を伏せて視線を逸らした。

 しかし、それはそれが事実であると雄弁に語っている事に他ならなかった。

 そんな二人に構わず、ベリアルは語り続ける。

「リリス、お前が私の前に現れたのはルシフェル宮殿消失の直後だったか。優秀な魔法の使い手であった為、重宝していたのだがな。しかし、実に泣ける話ではないか。自身の消滅という危険性をはらんだ肉体の再構築魔法を自身に課してまで我が子の暗殺未遂事件の首謀者を追っていたとはな。……お前は私が首謀者と睨んでいたようだが、残念ながら私はあの事件とは無関係だ」

「戯言を! ならば何故、一彦さんの存在を知って物質界へのポータルを開こうとしたのです!? 彼を亡き者とし、自身の魔界支配を盤石にする為でしょう!」

 リリィは視線で射殺すような怒りの形相でヒステリックに叫んだ。

 温厚な普段の様子とはまるで別人のようだ。

 しかし、ベリアルはそんなリリィの様子など歯牙にもかけず、落ち着いた様子で答えた。

「落ち着け、リリス。ルシフェル領を治めた所で支配が盤石になる訳がなかろう。他の上位王子の出方次第で情勢も変わる。さっきから言っているだろう? 私は彼に施された魔術式にこそ価値を見出している。殺してしまっては何にもならん」

 では、一体、誰が一彦さんの暗殺を?

 そもそも、ベリアルは彼の所在を一体何処から聞き及んだのか?

 様々な疑問がリリィの頭の中を駆け巡る中、ベリアルは一彦を見据えて冷徹に語りかけた。

「一彦、お前は『娘と自分の交換』という約束を反故にした。お前は『娘と入れ替わり、私を殺す』という手段に出たのだからな。私の信頼を裏切った故に、代償を支払ってもらう――ブエル」

「ハッ」

 ベリアルが差し出した右手にブエルが投げ槍を持たせた。

 直後、流れる様に投擲姿勢をとると愛理の背に向かって狂いなく投げた。

「やめろぉーーーっ!」

 凶刃が愛理に迫る中、一彦は雄叫びを上げて駆け出した。

 集中力の高まりによる物なのか、周りの景色がスローモーションの様に感じた。

 一彦は構わず走り続けた。

 駆けて、駆けて、駆けて駆けて駆けて!

 投げ槍を追い、、そのままの勢いで愛理を抱え上げると傍にいたリリィに向かって放り投げた。

「愛理を頼む!」

「一彦さん!?」

 一彦の出現に驚くリリィが愛理を受け止めたその直後――

 一彦の右胸から血塗れの槍の穂先が飛び出した!

 目にした瞬間、激痛と共に熱い塊が喉元を駆け上がってくる。

「ぐっ…おあぁぁあぁあああ!」

 一彦は絶叫と共にゴボゴボと血の塊を吐き出した。

 痛い! 痛い! 痛い痛い痛い!!

 それだけじゃない。背中から胸にかけて貫通している傷口が焼ける様に熱い。

 その熱さと痛みでろくに呼吸もできない。

「お父さん!」

 愛理が悲痛な叫びを上げて駆け寄ってくる。

 俺を心配してくれるんだな……。

 一彦はその愛理の行動に安らぎを覚え、自分の事を何処か遠くから眺めている様な感覚に陥った。

 痛みは薄れ、意識が遠のく――と、胸から突き出した槍の穂先が目に映った。

 待て! 俺が倒れれば次は愛理だ! そうは…させないっ!

 その想いが手放しそうになった意識をかろうじて繋ぎ止めた。

 意識のある内に…こ、言葉を…っ!

「に、逃げ……ろ……っ」

 血と一緒にその一言を絞り出すのがやっとだ。

 踏ん張ろうと足に力を籠めるも膝はがくがくと笑い、身体は思い通りに動かない。

 それでも一彦は何とかリリィと愛理を背に庇うように立つとベリアル達を見据えた。

 ……? 何だ?

 様子がおかしい。

 ベリアル達はこちらを追うでもなく、動揺して立ち尽くしているように見えた。

 ブエルはベリアルと俺を交互に見比べ、ベリアルに至っては自分の手をじっと見つめるばかりだ。

 まぁ、何にしてもすぐに追って来ないのは助かる。

 もう、血を流しすぎた…。

 手足の感覚もない…。

 あるのは、冷たい感覚だけ…。

 寒い……。俺は…死ぬ、のか……。

「一彦ぉーーーっ!」

 聞き覚えのある声…親父、か…?

 と、夜空に光球が瞬くと薄緑色のベールが空を覆った。どうやらリリィが魔法を使ったらしい。

 それを目にした直後、一彦の視界はぐらりと回り、そのまま暗転した。

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