第3話

小学校高学年になると二度目の父親を見ることも減ってきた気がする。

ただイヤだったから記憶から消えているだけか?


覚えているのは祖父母が近くに引っ越して来ていたのだが、

大好きだった祖父がガンになり闘病の末亡くなったこと。

中2か中3だったと思う。


これで大人の男性が家庭内に不在になった。

…という感覚が残っているので母の2番目の配偶者もその頃には家に帰ってこなくなってたってことだろうな。


勝手に横浜に引っ越しさせておいて帰らなくなるのは腹立つけれども。


それは置いておいても祖父が亡くなった。

とてと優しく唯一私の安らげる場所だった。


彼の死後、私が大人になってから母から聞いた話だが、

祖父は早稲田大に入ったけれど遊びまくる学生を見て「こんなの勉強する所じゃない。」と腹が立ったのか、辞めて北海道の小樽商大という所に入り直したそうだ。

そこを卒業後どちらかの会社で経理部長などされたそうなので、

母が離婚しても我が家がそこまで困窮しなかったのは祖父のお陰で。。


少し長く生きていて欲しかったな。



祖父が亡くなった頃には母も離婚にまっしぐらだったのか、バリバリと働き始めていた。


学生時代に宅建というものを取得していたらしく、不動産屋に勤務して朝から晩まで働いていた。


弟が追加されてたのだが、そこは祖母が母親代わりになって食事など作るようになった。

そのうち、弟たちは祖母の家に寝泊まりすることが多くなり

我が家はほぼ姉と二人。


食事を作られることもなく放置されるようになった。

小学校高学年から運動会も親の参観日も誰も来ないだけでなく、自分でお弁当を作って持って行かされていた記憶もある。


親の手作り弁当は食べたことがない。

弁当どころでなく、おやつもなし、朝ごはんも無し。夕飯もあってもお好み焼き。

他は何を食べさせられてたのか記憶が無い。



祖父が他界してからは祖母が一緒に暮らすようになり、

ここからは彼女が食事を作ってくれるようになった。

そして、少ししてから母の二度目の離婚も成立したのではと思う。


私は当時高校生。

入学時には新しい制服を買って貰えると思っていたのに、どこからか知り合いで通っていた卒業生を探しておフルを探してきていた…

姉は全て新品なのに…

わざわざ違う高校にしたのに。


どうやら母は、姉と私の扱いは大分違うということに薄々と感じてはいたが。

姉にはお金を沢山かけるが、私にはかけない。

言ってしまうと高校も受験をしたのだが、滑り止めとして受けた私立の学校の入学金すらも、公立に受かれ、で納めて貰えず。

公立に受からなかったら私は一体どうしていたのか、と

大事にされず面倒なことは全てやらせていたと。

中学3年の担任にも怒られた。滑り止めにお金を入れてなかったことを伝えたら。


お前、公立落ちてたらどうしたんだ、と。


そうだろう。

普通そうだろう。

滑り止めの意味が無い。


お金が無いならお金が無いと最初から言え。

いや、姉にその下に必要な回すお金まで散財するな。



危うく中卒になるところだった。



こうしてやっと、やっと私の父親との対面が行われる。


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