第2話 気を取り直して
「はぁはぁはぁ……っっ……き、きっつ!」
俺は息を荒げて倒れ込んでいた。
さすがに走りすぎた。気合を入れていつもよりきついトレーニングをしたからせいだ。
「……でも、心が楽になった気がする」
母さんの慰めと日課のトレーニングのおかげで、かなりメンタルはリラックスしていた。
頭の中に美香がチラつくことはあるが、「好き」という気持ちは徐々に薄れていっている。
「よし、今日もいい仕上がりだな」
俺は鏡の前で自分の肉体を眺めた。
別にゴリマッチョなわけではない。趣味でトレーニングをしているだけだから、服を着たらわからないくらいには細い。平均よりは筋肉がついていて、モデル体型寄りの細マッチョだと思う。
だが、そんな肉体よりも気になるのは、伸び切って顔を覆い隠す長い髪の毛と、目が悪すぎるが故の分厚いメガネだろう。
「……美香も言ってたし、前髪とメガネはどうにかしたほうがいいのかな」
イメチェンをするにせよ勇気が出なかったが、この機会にガラッと一新してもいいかもしれない。
前髪を切り揃え、今風のおしゃれヘアにして、メガネはもう少し度を弱くするかコンタクトにしてしまうか。
ちょうど土日を挟むから、その間に美容室と眼科に行ってみるか。
よし、そうしよう。
「リクトーーーー! 夕飯できたわよー?」
と、ぶつぶつ考え事をしていると、夕飯の呼び出しがあった。
俺はそそくさと服を着て部屋を出る。二階から一階のリビングへ向かう。
リビングの食卓には母さんしかいない。
「お父さんは飲み会だって」
ご飯をよそいながら母さんが教えてくれた。
父さんは帰りが遅いから、平日は一緒に過ごせない。
「ソラは?」
「ソラは友達と遊んでから帰るって言ってたし、そろそろ帰ってくると思うけど」
「ふーん。いただきます」
俺はそれだけ確認すると、箸を片手に食事を始めた。
ちなみにソラは俺の妹だ。二個下の高校一年生になる。まだ高校生になったばかりなのに友達がいるらしい。
羨ましいが、ソラは俺とは真逆の性格だから当然だな。
「ところで、母さん」
「なぁに?」
「良さげな美容室とか知らない? あと、コンタクトにするから眼科にも行きたいんだけど……」
気恥ずかしい気持ちもあったが、俺は素直に母さんに聞くことにした。
「え! ついに、その長い髪を切るの!? それだけでもすごいことなのに、瓶底眼鏡をやめてコンタクトにするの!?」
母さんは驚きつつも喜びつつも、満面の笑みで拍手した。
「大袈裟だなぁ」
「母さんは嬉しいわ。恥ずかしがり屋で気の小さいリクトが、ついに一皮剥ける時がきたのね。やっぱり失恋したおかげかしら?」
「……それで、良いとこ知ってる?」
おかげと言われるともやっとするが、まああながち間違いではない。
「もちろん。あとでLINEで住所とか色々送っておくから、明日にでも行きなさいな。それとこれはお金ね。どうせならかっこよくしてもらいなさい」
「いいの? バイト代あるから自分で出せるけど」
「子供はそんなの気にしないの。でも、母さんのへそくりだからお父さんには内緒よ?」
「ふふ……わかったよ。ごちそうさま」
お金を受け取り、同時に食事を終えて立ち上がった。
「いやー、リクトがイメチェンしたらソラもびっくりするわねぇ」
母さんはずっとニコニコだ。
「……ソラは変わらないと思うけど」
「そうかしら?」
「うん。だって——」
「——ただいま」
ソラが帰ってきた。相変わらず静かで落ち着きのある声だ。
俺はなるべく鉢合わせないようにしていたのだが、この分なら避けることはできなさそうだ。
「お母さん、ご飯食べてきちゃった」
ソラはリビングのドアの隙間から顔を出した。
綺麗な黒髪のボブカットに小さな身長、スリムな体型、綺麗な日本人形のような出立ちだ。
「あらそう? じゃあラップしとくから明日の朝にでも摘みなさい」
「うん」
「……おかえり」
俺は機を見ておもむろに言葉をかけた。
しかし、ソラは途端に不愉快を顔に滲ませると、鋭い眼光で睨みつけてきた。
「……」
ソラは何も言わなかった。走って階段を上る音だけ聞こえてくる。
ただ、それはいつものことだ。
俺とは口をきいてくれない。
慣れたもんだった。
「もう、仲良くしなさいよ」
母さんが呆れていた。
「俺は仲良くしたいんだけど……」
「二人がこんな感じになったのはソラが中学校に入ってからだから、もう三年も経つのね。何か嫌がることをした覚えはないの?」
「ない。あったらとっくに謝ってるよ」
何がきっかけかは全くわからないし、心当たりもない。ある日突然嫌われた。
「もう二人とも高校生なんだから話し合ってみたら? 手を出さなきゃ喧嘩してもいいし、母さんが間に入ってもいいわよ?」
「いや、大丈夫。近いうちに俺の方から声かけてみるから」
「そう。困ったことがあったら言ってちょうだいね」
「うん、ありがとう」
俺はそれだけ言ってリビングを後にして部屋に戻った。
トレーニングをしていたら嫌なことを忘れられたが、夕飯を食べて体が落ち着き、静かな部屋に一人で取り残されると、やはりえも言えぬ悲しい気持ちになってしまう。
「……くそ、なんなんだよ」
俺はベッドに倒れ込み枕に顔を埋めた。
母さんが洗ってくれたから良い匂いがする。でも、それで気を紛らわすことはできない。
自然と涙が溢れてきた。
その夜、俺は泥のように眠りについたが、失恋のショックの悲しい気持ちが晴れることはなかった。
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