第3話 春霞

「……今日は、来てくれるかな」



 翌日、同じような昼下がりのこと。

 希望的観測に近いそんな呟きを洩らしつつ、長い石造りの階段を上がり鳥居の前へと到着する。そんな僕は今日、一つ心に決めていることがあった。


 それは、もし今日会えなければ――もう、彼女に会うことを諦めるということ。高々数日会えないだけで大袈裟だと思われるかもしれないし、自分でもそう思う。それでも――


 ……今日会えなければ、きっともう二度と会えることはない――どうしてか、そんな悲観的な推測を確信に近い形で抱いていたから。



 ……怖い。この聖域に足を踏み入れるのが……震えるほど怖い。……それでも――


 どうにか足のすくみを抑え、鳥居の中へと一歩を踏み出す。そして、高鳴る鼓動をどうにか抑えつつ一歩、また一歩と歩を進めていき、桜の樹のもとへと――



「…………え?」


 刹那、視界に映った光景に目を疑った。何故なら――



「……なんで、かすみなんてかかって……」



 どうしてか、目の前の桜の樹がぼんやり霞んで見えるから。こんなこと、今まで一度もなくて――



(――ごめんね、湖春こはる


「…………え?」



 不意に、霞の向こうから声が届く。聞き覚えのない、暖かく優しい声。だけど、声の主が誰かなんて疑う余地は微塵もなかった。



「……久しぶりだね。……いや、そうでもないかな」



 ……うん、久しぶりでもないよね。実際はたったの数日だし。すると、クスリと少し可笑しそうな笑い声が届く。そして――



(……ほんとは会ってたんだけどね。昨日も、一昨日も――その前の日も。でも、ごめんね? あの姿は見せられなかったの。もうほとんど消えかかってたから)

「……消え、かかってた……? それは、いったいどういう――」



(……今まで、ありがとね湖春。何年もずっと私に逢いに来てくれて――愛してくれて、ほんとにありがとね)

「――っ!!」



 突如告げられた、少女からの衝撃の言葉。僕が彼女と初めて会ったのは、ほんの二週間前。他の誰かと間違えているのでないか――本来なら、そんなふうに考えるべきところだろう。


 だけど、驚きはしたものの彼女の言葉は何ら僕を困惑させるものじゃなかった。むしろ、これ以上ないくらい心当たりしかなくて。震える唇をどうにか開き、言葉を紡ぐ。



「……君は――桜の樹だったんだね」



 少女の正体は、桜の樹――荒唐無稽にもほどがある発言だと自分でも思う。それでも、彼女の言葉からもこれ以外の可能性は脳裏に浮かんでこないし――何より、現実味の欠片もないこんな推測に、どうしてか僕自身、深く納得を抱いてしまっているんだ。すると、少し間があった後――



(――うん、正解。流石だね湖春。それから……今日は、お別れを言わなきゃ駄目なの)


「………………え」



 刹那、心が硬直する。その間にも、霞の向こうからは悲愁を帯びた声で言葉が続く。


 彼女の話によると、近々神社ここが取り壊されることになるという。その際、この桜の樹も処分されてしまう予定だという。


 と言うのも、ここは十年ほど前から経営難により廃社となっていたのだ。だからこそ、わざわざ数百段もある階段を上がって参拝するような人なんていない――とまでは断言しかねるけど、少なくとも僕は会ったことがない。そういった事情もあり、今までずっと一人で感慨に耽ることが出来たわけでして。


 ――だけど、そんな荒れ果てた聖域も遂に無くなってしまう。……もちろん、分かっていなかったわけじゃない。いつか、こんな日が来ることを。……だけど、まだ心の準備なんて出来て……いや、きっといつであっても出来るはずなんてない――



(――だから……だからね、湖春。一つだけ……たった一つだけ、約束してほしいの)

「…………やく、そく……?」



 鬱々とした僕の思考を遮るように、そっと耳に届く少女の声。そして、返答とも言えないような微かな僕の呟きが届いたのか、少し間があった後――



(――うん。どうか……どうか、私を忘れないで。私も君のこと、決して忘れないから)



 そう、言葉を紡ぐ。そんな彼女の声は、僕のよく知る穏やかな声音もので……それでいて、こちらの胸が痛むほど悲哀に満ちていた。そんな彼女に対し、僕は――



「…………分かった」



 ……そう、応えるしかなかった。そうとしか、応えられなかった。他に……他にもっと伝えるべきことがあるはずなのに。


 それでも、そんな情けない僕の返事に少女は笑ってくれた気がした。そして――



(……ありがと、湖春。最期にこうして貴方と話せて、ほんとに良かった。私を見つけてくれて――愛してくれて、ほんとにありがとう。どうか、幸せになってね)

「――っ!! 待って、僕はまだ君に言わなきゃいけないことが――――あ」



 必死に叫ぶも言葉は途切れる。卒然、目の前の霞が嘘のように消えていたから。そして視界には、もうすっかり桜の散り終えた小さな樹だけが映っていた。





 暫く呆然としていると、はらりと僕の右肩へ何かが舞い降りる。見ると、それは一片ひとひらの桜の花弁――きっと最期の、桜の花弁だった。そっと掌に乗せじっと見つめ、届かないと知りつつもそっと口を開く。



「……絶対に、忘れないから」



 ゆっくりと顔を上げ、今一度じっと見つめる。……だけど、どうしてだろう。もうそこに君はいないはずなのに……まだ、僕の視界には霞がかかったままなんだ。



 









 













 

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春霞 暦海 @koyomi-a

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