第10話 廊下に届ける想い

夏休みが明け、私は久しぶりに制服を着て学校へ向かった。昇降口には夏の終わりを惜しむかのような雰囲気が漂っていて、クラスメイトたちは休み中の思い出をわいわいと交換し合っている。花火大会の写真や海で遊んだ話など、あちこちで盛り上がっているけれど、私はその輪に入りきれない気分だった。


というのも、心がまだ旅館の離れに置いてきたみたいに落ち着かないのだ。あの夜に越えた一線と、その後も続いたドキドキが、私の胸を占領し続けている。仲良しの友達から「夏休みどうだった?」と聞かれても、あの出来事が頭をちらついてうまくはぐらかしてしまう。恥ずかしいというか、何かとても大切な秘密を抱えているような気持ちになっているからだ。私は、まだ誰にも言えない秘密を抱えている、そんな気がした。


チャイムが鳴り、ホームルームが始まろうとしたとき、ふと教室の前から「彼」の姿が見えた。軽く視線が合うと、彼は照れくさそうに目を伏せながら、でも微笑みを浮かべる。私は急に胸が詰まってしまい、うまく笑い返せずに下を向いた。彼の笑顔が、私をドキドキさせた。


(どうしよう、ドキドキしてるの丸わかりじゃないかな……)


自意識がうずまく中、担任の先生が新学期の予定を淡々と説明していく。文化祭の話題が挙がるたびに、クラスのみんなは「やっとこの季節が来たー!」と盛り上がるけれど、私の耳にはうわの空でしか響いてこない。実際、彼のほうも似たような状態なのか、そわそわと落ち着かない様子だった。彼も、私と同じようにドキドキしているのかもしれない、と思った。


昼休みになり、私は彼の姿を探して校舎の廊下へ出る。朝方はまだ少し暑かったから、制服のシャツの袖をひと折りしているけど、秋が近づいてきたせいか涼しさが増してきてちょっと肌寒い。夏と秋の境目を感じさせる空気が肺に染み込む。私は、彼に会えることを、少しだけ楽しみにしていた。


すると、曲がり角の先で彼が一人で立っているのが見えた。ちょっと暑いのか、彼も学ランの上着を脱いで腕にかけている。「…こっち、来て」と人目の少ない踊り場に私を手招きし、私たちはひっそり移動する――。窓から差し込む陽射しはまだ夏の名残りを感じるけれど、時折吹き抜ける風はやけに心地いい。二人で腰を下ろすと、なんとなく気まずい沈黙が流れてしまう。彼と二人きり、という状況が、少しだけ緊張した。


「旅館以来、あんまり話せてなかったから…」


彼が少しうつむいたまま口を開く。私はその瞬間、あの離れで彼と触れ合った夜を思い出してしまい、胸が熱くなるのを感じた。どう言葉を返せばいいのか迷っていると、彼はためらいがちに続ける。


「正直、夏休み明けてから、どう接したらいいか分かんなかった。俺も、あの夜がずっと頭から離れなくて……」


私は思わず顔を伏せ、浅い息をつきながら「私もだよ」と力なく笑う。お互い、旅館での出来事が大きな転機になったのは間違いない。でも後悔や不安よりも、「本当にこうして好きなんだ」という実感が強くて、どう振る舞ったらいいか分からないのだ。彼も、私と同じように悩んでいたんだ、と思った。


しばらくすると、廊下を駆け抜けるクラスメイトたちの声が遠くから聞こえてくる。「文化祭の準備、今日から始まるって!」なんて明るい声に、私たちはふと現実に引き戻される。私たちは、少しだけ現実に戻された気がした。


「…ごめん、変な空気にしちゃって。なんか、言いたいことがうまく言えなくてさ」


彼は苦笑いを浮かべ、私の視線を探るように少し首をかしげる。その仕草がかわいくて、思わず胸がときめいてしまう。私は小さく息を吐いてから、決心したように言葉を探す。


「ううん、私も同じ。……だから、少しずつ、また普通に話そう? せっかく一緒に過ごせるのに、ぎこちないままじゃもったいないし」


そう言いながら、そっと彼の袖を引っ張ってみる。彼は一瞬驚いた顔をして、すぐに優しい笑顔を取り戻してくれた。彼の笑顔が、私を安心させた。


「うん、ありがとう。…じゃあ、また放課後にでも、ゆっくり話そう」


チャイムが近づいてきたので、私たちは足早に教室へ戻ることにした。廊下を歩くあいだ、誰かに見つかったら冷やかされるんじゃないかとドキドキしたけれど、不思議と嫌な感じはしない。むしろ、彼と同じ空気を吸っているだけで、夏休みの出来事を思い出して胸が暖かくなる。彼と同じ空間にいるだけで、なんだか心が満たされた。


振り向いて「じゃあ、また後で」と小声で言い合うと、さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに解けていく気がした。クラスメイトたちがざわざわとする教室の扉を開けた瞬間、彼はわずかに手を振ってくれた。彼の優しさが、私の心を温かく包んだ。


あの旅館の夜から、私たちの関係は一歩進んだはず。それは変わらない。だけど、学校という日常に戻ってみると、その一歩が意外なくらい大きかったと感じてしまう。私は、私たちの関係が、少しだけ変わったことを感じた。


まだ二人で越えた秘密の一線を、どう扱っていいか分からない。でも、こうやって少しずつ日常の中で手を伸ばし合えば、きっと先が見えてくるんじゃないか。私はそんな期待を胸に、教室の机に腰を下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る