第9話 夏の終わり、余韻に揺れて

朝になり、私と彼は急いで母屋へ向かった。旅館では早朝からチェックアウトの嵐が待ち受けていて、二人して眠気を振り払うようにして仕事に取りかかる。祖父母には「朝早くからありがとうねぇ」といつものように声をかけられ、私たちは照れを隠すように笑顔で応じるしかなかった。


実際、昨晩ほとんど眠れなかった。布団の中で何度も目が合って、ようやく浅い眠りに落ちたころには外がうっすら明るくなりかけていたのだ。正直、身体はまだふわふわしているし、どう接していいのか自分でも分からない。でも、私たちの間にはもう決定的に「昨日とは違う」空気が流れていた。私は、昨夜の出来事を思い出し、少しだけ恥ずかしかった。


仕事の合間にちらっと彼と目が合うと、彼も同じように意識しているのか、視線をそらしたあと小さく微笑んでくれる。そのわずかな瞬間に胸がギュッと締まるような甘酸っぱさを覚えた。誰かに気づかれないように、わざとさりげなく距離を取りながら布団を片付けたり、お客さんの荷物を運んだりしている自分が、なんだか少し可笑しくなる。彼の笑顔が、私をドキドキさせた。


「ちょっと休憩しなさいな。無理すると倒れちゃうよ」


朝のピークを乗り切ったところで、祖母が冷たいお茶とお饅頭を用意してくれる。私たちは縁側の端っこに腰を下ろして、ほんのひとときの休息をとった。外はもうすぐ秋が近いとはいえ、夏の残暑がまだ残っていて、木々の青々しさが目にしみる。私は、昨夜の出来事を思い出し、少しだけ心が温かくなった。


「昨日は、本当にありがとう」


彼がぽつりと呟いた。その言葉の裏に、昨夜のあれこれがはっきり浮かび上がる気がして、私は思わずうつむいてしまう。でも、心臓が早鐘を打ちながらも、じんわりと幸せを感じる自分がいた。彼の言葉は、私を少しだけドキドキさせた。


「私も、ありがとう。……今朝、ちゃんと顔を合わせるの、ちょっと緊張した」


情けないくらい素直な言葉が出てしまって、顔が熱くなる。彼は少し笑いながら、「俺もだよ」と返すだけで、余計なことは言わない。その穏やかな声を聞くだけで、私の胸がじわっと温かくなっていく。彼の声は、いつもより少しだけ優しく聞こえた。


やがてお昼過ぎにはチェックアウトも落ち着き、祖父母が「二人ともありがとね。気をつけて帰ってね」と笑顔で送り出してくれた。大きな荷物を抱え、バス停までの道を歩く。石畳が照り返す夏の日差しに、少しだけ秋の気配が混じっているような気がした。私は、彼と二人で歩く道が、なんだか少し特別に感じた。


バスのエンジン音と小さな揺れが、昨日までとは違う私たちの関係をさらに際立たせているようだった。私は恥ずかしさで目をそらしつつも、窓に映る二人のシルエットに妙な特別感を覚えてしまう。彼と二人きり、という状況が、なんだか少し夢みたいに感じた。


「……疲れてたら寝てもいいよ? 着いたら起こしてあげるから」


彼が優しく言ってくれるけれど、私はとても眠るどころじゃない。窓の外には青々とした山々が流れていくし、車内には静かな空気が漂っている。だけど、私の頭の中は昨夜の一瞬一瞬がリピート再生されていて、恥ずかしさと幸福感で落ち着かない。ときどき彼がこっそりこちらを気にするように見てくるのが分かるたび、胸がキュッとなる。彼の視線が、私をドキドキさせた。


駅に着くころには午後も遅い時間になっていた。改札の前で、私たちは自然と「また明日」と言って小さく手を振り合う。でも、その一言だけで胸がきゅっと締まるのは、やっぱり昨夜の余韻が色濃く残っているからだと思う。彼と別れるのが、少しだけ名残惜しかった。


「また連絡する。……ありがとう、ほんと」


彼が少し照れたように頬をかく姿を見つめているだけで、胸が苦しくなるほど愛おしい。私も「うん、待ってるね」と微笑み返してから、彼の後ろ姿を見送った。まるで、ここで別れるのがもったいないような、そんな気持ちを抱えながら。彼の姿が見えなくなっても、胸の高揚感は、まだ止まらなかった。


家路につく途中、私は何度もあの夜の熱を思い出しては、ひとりで顔が熱くなる。「もう戻れないな」と思いつつ、後悔や嫌悪感は不思議と湧いてこない。むしろ「これからどうなるんだろう」っていう、未来への期待だけが大きく膨らんでいた。


こうして夏の終わりは、私の心に新たな記憶を刻みながら、静かに過ぎていこうとしていた。昨日までと同じようで、まるで違う。あの離れの夜が、私と彼の世界を一歩深いところへ連れていった――そんな余韻が、胸の奥でゆらゆらと揺れ続けている。彼との時間が、私にとって特別なものになりつつある、そんな気がした。

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