第8話 越えてしまった夜
同じ夜が、さらに深まっている。時計を見ても、もう日付が変わるか変わらないかというころ。布団に潜り込んだはずなのに、まったく眠れなくて、彼も時折身じろぎしている様子が伝わってくる。暗闇の中、私たちはたぶん同じことを考えてる――「このまま朝になるのか、それとも……?」
私は横になったまま、そっと目を開いてみた。隣の布団では、彼が布団から少しだけ顔を覗かせていて、暗闇に慣れた目でも、その表情までは読み取れない。ただ、浅い呼吸音や落ち着かない動作から、眠れていないんだろうなってことだけはわかる。彼も、私と同じように眠れないでいるんだ、と思った。
「……眠れない、ね」
私が息を殺すように言うと、彼もわずかに首を動かして返事をした。
「うん。やっぱり緊張してるんだと思う、こんな状況だし……」
それだけで、胸が高鳴るのを感じる。私たちは数時間前、離れに二人きりで泊まることになって、なんとなく「おやすみ」を言い合った。けれど、布団に入ってみたらドキドキは収まるどころか強まるばかり。いったん意識してしまうと、もう寝つくどころじゃない。彼と二人きり、という状況が、私の心をざわつかせた。
(さっきの私、絶対顔が赤かったよね……。彼もきっと同じくらい緊張してるんじゃないかな)
思い切って身体を少し起こしてみると、虫の声と風の音がかすかに聞こえてきた。さらに夜が深まったせいか、宿の方もすっかり静まり返っている。まるで、この離れだけが世界から切り離されているみたい。こんなにも二人きりなのは、生まれて初めてかもしれない。彼と二人きり、という状況が、なんだか少し夢みたいに感じた。
「……ごめん、なんか落ち着かなくて」
彼が少し上体を起こして、こちらに顔を向けた。浴衣の襟元から見える肌が、わずかなランプの明かりに照らされて、私は思わず視線をそらしかける。でも、そらした先にいるのも彼なんだから、逃げ場なんてない。彼の顔が、いつもより少しだけ大人っぽく見えた。
「私こそ…変だよね、これ」
何が変なのかもうまく言えない。ただ、胸のうちは汗ばむような熱で満たされていて、身体中の神経が尖っているみたい。距離はほんのわずかなのに、どうしてこんなに遠く感じたり、逆に一瞬で近づきたくなったりするんだろう。
しばらく黙り込んだあと、私はごくりと唾を飲み込み、小さく彼の名を呼んだ。
「…ねえ、ちょっとだけ、手……繋いでもいいかな」
言葉を口にした瞬間、顔が熱くなるのが自分でもわかる。こんなお願い、初めてかもしれない。彼も一瞬ハッとしたように息をのんだけど、静かに「うん」と頷いて、こちらへ手を伸ばしてくれた。彼の言葉に、私の心臓は大きく跳ねた。
指先が重なった瞬間、彼の手からさっきとは比較にならないくらい“緊張の熱”が伝わってきて、思わず涙が出そうになるくらい胸が押し潰される感じがした。
「…ごめん、こんなこと、ね」
「ううん、いいよ。俺も、そうしたかったし…」
言葉を交わすだけで胸が詰まる。暗闇に溶けた布団の中で、手のひらをじわりと重ね合わせるだけで、理性が飛んでいきそうなほどの高揚感を覚える。
ここから先、私たちはどうなってしまうんだろう。頭が真っ白になりかけたそのとき、彼が身体をずらし、私のほうへ少し近づいてきた。彼の存在が、すぐそばにある。そのことが、わたしの理性を奪っていく。
「…苦しかったら言ってね」
そっと囁くような声が耳もとに届くと、もう逃げることなんてできないと思った。心のどこかで「まだ高校生だよ」「早いんじゃない?」って声がするけれど、それを打ち消すくらい彼を求めている自分がいる。
この夜だけは、この離れの中で二人だけの世界を作り上げる――そんな衝動に飲み込まれていく。
そっと顔を近づけたとき、唇と唇がふわりと触れ合った。その瞬間、頭が完全に真っ白になる。キスって、こんなに相手の熱を感じるものだったんだ……そして、彼とわたしの舌が絡み合っていった。
戸惑いや恥ずかしさを上書きしていくように、私たちは畳の上で身体の距離を縮めていく。彼がわたしの身体を引き寄せ、彼の指先が私の肌に触れた。その感触が、私を限界まで熱くした。
「…ごめん、強すぎない?痛くない?」
彼のそんな優しさが、かろうじて現実をつなぎ止めてくれる。私は彼の優しさにふと安心感を覚え、一線を越える――そんな言葉が脳裏をよぎり、私は彼に身を任せた。
夜の静寂が二人を包むほどに、呼吸が乱れ、汗ばむ肌が擦れあう。もう二つの布団にあった境界線なんて存在しない。外の虫の声はいつのまにか遠のいて、耳には私たちの荒い呼吸音だけが響いている。
それからどれほどの時間が経ったのか、気づいたときには身体の力が抜け、息を整えるのに精一杯だった。互いに服が乱れていて、畳の上には散らばった小物が転がっている。私は、今、何が起きたのか、理解できなかった。
彼も同じように肩で息をしながら、そっと私の髪を撫でる。ぎこちなく見つめ合って、少しだけ笑いあった。彼と見つめ合うと、心が温かくなった。
「…ごめん、なんて言えばいいのか」
「私も……、頭が真っ白」
それでも、後悔の気持ちはまったく湧いてこなかった。むしろ、同じ布団の上で手をつないだまま、心の奥からこみ上げてくる安心感に満たされていた。彼の温もりが、私を安心させた。
そして次の瞬間、ふと彼の瞳と視線が合う。真っ暗な中でも、私の姿をしっかり見つめてくれているのがわかる。そのまま言葉もなく、軽く触れるようなキスをもう一度交わした。彼のキスが、私を優しく包んだ。
きっと朝になっても、この夜のことは夢じゃなかったって思い知らされるだろう――そんな不思議な確信が私の胸を満たす。彼との時間が、私にとって特別なものになりつつある、そんな気がした。
「……おやすみ」
ぎこちない声でそう言いながら、私は彼の腕に身を預ける。彼も小さく「おやすみ」と返しながら、そっと肩を抱き寄せてくれる。部屋のランプを消すと、さらに濃い闇が二人を包み込んだ。月明かりも届かない畳の上で、私たちは初めて二人だけの夜を共有してしまったのだ。私たちは、二人だけの秘密を共有した。
大きな胸の鼓動がいつまでも収まらないまま、薄い布団にくるまって目を閉じる。でも、きっとしばらくは眠れそうもない。私は、まだドキドキしていた。
本当に一線を越えてしまった。
そんな声が頭の奥でこだまするのに、どこか心の底から湧き上がる安心感と幸福感が止まらない。彼と一緒なら何も怖くない――私はそう信じながら、静かにゆっくりと瞳を閉じる。彼と一緒なら、どんなことでも乗り越えられる、そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます